続・つくる会顛末記 (七)の1

続・つくる会顛末記

 

(七)の1

 「つくる会」の出来事を振り返って全体を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれませんが、なにか外からの力が働いたという印象は私だけでなく多くの人が抱いているでしょう。一つには旧「生長の家」系の圧力の介入があった、という推論を先に述べたわけですが、それは今までの仲間との癒着の油断であって、分り易いので目立っただけで、本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません。

 フジサンケイグループの影響力ということを言う人もいますが、これは影響を与えているというより、外から大きな影響をたえず受けている点で、「つくる会」と同じ位置にあるのであって、現代の世界の政治的謀略の対象としてつねに狙われている側にあります。

 「怪メール事件」の「怪文書2」は内容からみて間違いなく八木氏の手になるもの、もしくは宮崎氏・新田氏・渡辺氏との合作であって、それ以外には考えられませんが、「怪文書1」(党歴メール)は出所不明です。誰かが言っていましたが、公安なら「日本共産党」と正式に書くはずで、「日共」という単純化して書かれた点が中国人の手になるものらしい、という推論もあながち否定できません。勿論「怪文書1」も直接八木筋の手になるものとの可能性も否定できない侭です。

 要するに現代は何処からどんな力が働きかけてくるか予想がつかず、自民党総裁選を前にして靖国に並ぶ教科書問題のタームが政治的に小さいはずはないのです。「つくる会」は間違いなく、何の力かはまだ分りませんが、外からの幾つかの力の大きな作用をもろに浴びたのでした。こんなときに自分達が個人として、人間としてよほどしっかりしていなければ、本当にこなごなに打ち砕かれてしまいます。

 不用意に中国に出掛けて行って、若い事務員に会代表の立場で南京事件について現地の用意十分の学者と対話させた八木氏一行の軽率は、「つくる会」とは無関係であることを理事会で決し、「特別報告」が出されましたが、総会の名においてこれを世界に向けて宣言すべきです。ことに中国社会科学院に対話内容は会とは無関係である旨公文書で通報すべきです。何年か後に、どんなことで(内容では必ずしもなくその折の挨拶の表現のひとつで)中国側から利用されないとも限りません。

 今一番恐ろしいのは、政治家の力量不足を目の前にして、日本の内外で予想もつかない激変が起こることです。軍事紛争か金融問題か、それは分りませんが、あっという間に集団思考が先行し、ものを考えない大衆が主導権を握り、指導者なき羊の群が国際社会という狼虎の世界へほうり出され、国家的に二度と回復できない致命傷を負うことです。

 昨夏の小泉選挙を見て下さい。あの興奮のまゝで、もし日本が地域紛争にまきこまれたらどういうことになったでしょう。小泉は愚かな独裁者でした。任期が来て辞めるからみなホッとしていますが、紀子妃殿下ご懐妊がなければ、確実に「狂気の首相」は異常事態を出現させたはずです。

 そして、この国はいつでも、同じように違った条件で、同じような恐ろしい悲劇を惹き起こす可能性を常態として抱え、明日本当にとんでもないことが起こる不安を一日一日先延ばして誤魔化し、払い戻すべき借証文を質屋に入れて、高金利を払いつづけて生きているのです。

 これは70歳を過ぎた私が見ていて、死ぬに死ねない状況です。「新しい歴史教科書をつくる会」は理想を掲げて走りましたが、間に合わなかったのかもしれません。人間が育っていないのです。しかも、会の内部がそれをさらけ出しました。嗤うに嗤えない状況です。

つづく

「続・つくる会顛末記 (七)の1」への15件のフィードバック

  1. 「悲観論には断固ノー!」

     日本には前途ある有望な若者が多く育っておりますので、将来を憂うような要因は見あたりません。。。(最近では、ギャルでも一念奮起して社長になる時代ですよ?)

     堀江・村上の両氏が「たまたま」目立っただけで、また「若者は駄目だ論」を謳いますか?
     世の中には、リーマン生活を最初から拒否して、起業家を目指している若者は多いし、実際に有望な若手の企業家だって(テレビに出ないだけで)たくさんいますよ?

     少なくとも、大学という「楽園」で生活していた人間に、実社会で激しい競争をしている起業家をそんな簡単に批判できるような立場にないでしょう。。。(立派な起業家の本だって出ていますから、勉強になると思って読んでみてはいかがでしょうか?)←いつまでも松下幸之助の時代じゃないですよ?

    P.S.
     「ものを考えない大衆」と批判する割には、大衆文化の象徴であるテレビからの情報以上のソースがないのはなぜだろう?

    (ネットからもっと確実で重要な情報ソースをゲットしている「大衆」だって現れている現実に気が付かないのかな?)

  2. 日本という国は追い込まれるとどうしても打開できない弱さを露呈します。積み上げて来た過去から学び自分で奮起する事に、何故か萎縮してしまう弱さが現代の魔病のように存在します。昨日のサッカーもそれを象徴し、何か仕事が手に着かない心境に陥っているわけですが、つくる会にもそんな空気があり、あまりにこの点における心の弱さが強いです。逆境に耐える「個」の在り方を再三論議してきても、いざとなると総じて背を向けてしまう。

    つまり最悪の状況を描けない甘さがあるのでしょう。確かにこの事は日本人に限ったものでは無いかもしれませんが、私達はあまりにその事に無防備で、このような弱さを簡単に他国に見抜かれる現実は、日本がこれから一番の課題とするべき点かと思います。

    逆境をバネにできる強さをどうやって見つけ出すか・・・この一点に集中し、時代を乗り越えなければならない。これを国民全体が口にしなければ打開は望めないと思います。

  3. 1.国民として、自分の生まれた国を誇りに思い、ご先祖様に感謝し、自分自身を律し、家族を大切に守り、少しは(できる範囲で)世間のお役にたてれば、という気持ちで生きています。
    実際は、その時その場の考えで、働き、食べ、遊んで暮らしているのですが、時折、新聞等の報道で、世の中の動きを見聞きし、偶に、自分の価値観・感覚から、事物の状況をじっくりと考えることもあります。
    そのような市井の私には、この日録で、誠に率直に、お考えを披瀝される、西尾先生の考え方・姿勢に共感し、同意することが多いのです。
    小泉氏の奇矯な政治姿勢とそれに追従してるテレビ・新聞へのお怒り等。
    2.先生が、会の名誉会長を辞された報道を読み、音頭取りをされた方が何故、と奇異に感じていました。
    この日録で、会の動静に耐えられなくなられた状況が、一部理解できました。
    米国に阿るような価値観で書かれ(改竄?)改訂したり、見識に欠ける八木氏のシナ詣で(サンケイグループが主導?)等、会の執行部に対し、信頼を持てない状況に至ったようです。
    コンピュータの件は、不信感を持つに至った要素の一つなのでしょう。
    個々人に対する、先生の容赦のない評価には、正直、驚きました。そこまで断定してしまっては、後で、引き返せないのでは、と危惧を持ってしまう程の筆調です。
    コメントを寄せる方の中には、揶揄する向きもおられますが、
    この日録を拝読させて頂いて来た私には、あの西尾先生が、そこまで書かれるのであれば、と思わざるを得ません。
    これまで、真摯に取り組まれて来られた先生を、信頼することを厭いません。(西尾信者と言われるのでしょうね)
    3.会のマイナス面を、白日の下に曝す結果になりましたが、先生が不信感を抱かれた要素を洗い出した後は、再び、会をご指導される立場に戻られることを、切望しております。

  4. 人間が育っていないというのは、まさにその通りだと思います。

    実名を挙げて犯人扱いするのは、お控えになったほうがいいと思います。
    法的な問題になってしまいますので。

  5. なぜ怪文書作成に渡辺記者の名前が出てくるのでしょう。
    記事を批判するならともかく、ここまで来ると
    救いがたい妄想ですね。
    高池先生たちにとっても迷惑な話だと思います。

    つくる会は、SAPIOの西尾先生の記事をを批判する
    FAX通信を準備して、いったん発表を見合わせているようです。
    これから西尾先生への苦言が噴出してくるのではないでしょうか。

  6. 間に合います。ご安心ください。
    私は次世代(幼いわが子ら)に、確実に、先生のお考え(及び藤岡先生のそれの一部)を伝える自信があります。
    先生の著作やこのブログにより、さまざまなことを学ぶことができ、本当にGlueckに感じております。
    今後のますますのご活躍に期待しております。
    (愚劣なコメントや、それ以前に幼稚さ丸出しのハンドルネーム等に不快を禁じ得ませんが…。)

  7. コンピューター問題というのは、単純すぎて逆に私にはいままで理解できませんでした。たかだか会員管理システムに1000万が、問題でないはずがなく、問題になっているのはそんなばかげた浪費の責任をとるべきなのは誰か、なのかと思っていました。
    現在動いているかどうかも、当然問題ではないと思ってました。本当に必要であるコストに比較して、それを大幅かつ不当に上回っていれば、動いていようがいまいが問題ですよね。
    なんかすごく不毛なんですが、もしこの問題が今後も論じられていくならば、その「不当な浪費の責任は誰にあるのか」に絞って論争していただけないでしょうか。または、あまりあり得ないですが「当時の技術水準からして」または「つくる会の会員管理システムは特別すぐれたもので」1700万でもおかしくはない、という論でもいいです。

    リライト問題以外にはあまり興味がなかったのですが、これには少し驚きました。

  8. 「後進の指導は先人の責任」

     若者が育っていないといいますが、上手く育てられない方にも責任はないのだろうか?

     論壇で特に強く感じることは、自分の立身出世や自己主張ばかりが目立って、後進を育てようという意識がほとんど見られないことです。。。

     私なんか、西尾先生の文章に感想文が採用されるくらいに、読者の中では「着眼点」の良さを持っているはず(?)なのに、西尾先生から直接に何か褒められたとかの経験はありませんね。。。
     論文についても何度か紹介しているのに、目を通してもらうこともないみたいだし。。。。(あれだけ反フェミニズムで頑張っているのに、特に気にも止めてもらっていないらしい)

     高橋史朗先生には、親身になって色々と世話を焼いていただきましたが。。。(--)

  9. 若者が育っていないのは、当たり前である。
    育つとは、教育がどうだったかによる。戦後、左翼教育一辺倒になり、今でも払拭できない。戦前教育の良い所まで否定した戦後教育を受けた者は、戦前教育を受けた者から見れば、「育ってない」と言われてもしょうがない。
    若者は、親世代ではなく、祖父母世代から学ぶべきである。

  10. 『集団思考』の話

    >あっという間に集団思考が先行し、ものを考えない大衆が主導権を握り、指導者なき羊の群が国際社会という狼虎の世界へほうり出され、国家的に二度と回復できない致命傷を負うことです。

    とか
    >この国はいつでも、同じように違った条件で、同じような恐ろしい悲劇を惹き起こす可能性を常態として抱え、

    の部分はそうなんだろうなと私のような牧歌的世界を是として生きてきた日本人でもわかります。とめ猫さんが投稿した部分が言い尽くしていると思いますが、それは「羊の群が国際社会という狼虎の世界へほうり出され」と「牧歌的世界に生きる日本人」という言葉と等価なんでしょう。

    >あっという間に集団思考が先行し、ものを考えない大衆が主導権を握り、指導者なき羊の群が国際社会という狼虎の世界へほうり出され、国家的に二度と回復できない致命傷を負うことです。

    この部分に共感したのは私が次のようなモデルをもともと頭の中で描いているからです。牧歌的世界で生きている背景は人間の関係がある意味で深いからでしょう。これと勤勉の精神で争いのない豊かな世界を現実に作ってきたからです。

    「空気の研究」
    随分前から山本七平の「空気の研究」を読んでいてなんとなくモヤモヤしていることがありました。それは「どうしてあんな判断をしたのだと思うような判断が行われてしまう。それは一種の空気としかいえない雰囲気が会議の参加者に影響を及ぼし妙な結論になって、ところがその空気が消滅するとどうしてあんな判断をしたのか当人でさえわからなくなったり、そういう場の空気を知らん人間に理解なんか出来ないと発言するケースがしばしばある」という論説です。そんなことが起きるにはどっかに日本文化的なメカニズムがあるのじゃないかというのが私の疑問だったわけです。

    さて私の友人からこんなことを教えて貰いました。
    =============================
    ■高コンテキスト文化と低コンテクスト文化(Hall, E.T., 1976 Ferraro, G.P., 1990)
    人が伝えるメッセージの内容は、言語化された情報とそれがどのような場面で誰に対して発せられたかというコンテキストによって決まる。あまりコンテキストに頼らず、メッセージの大部分が実際の言語表現によって伝達される文化を「低コンテキスト文化」、逆に明確な表現を避け、話されることばよりもコンテキストに重点を置いてお互いに相手の意図を読み取る文化を「高コンテクスト文化」という(Hall, E.T., 1976)。
    日本社会は一般に高コンテキスト文化であるといわれている。誰かが何かを言ったときには、その人の立場や隠された意図を読んで対応しなければならない。言葉をそのまま鵜呑みにすると恥をかくことになる。
    =============================
    私は日本の場合はもう少し派手で複雑だと思っています。

    日本文化は関係性を大事にします。関係性はまず人間同士の関係性ですが、自分が作り上げた商品や日常使っている機械にまで感情移入して関係性を作ってしまいます。商売では欧米の経営学者からユーザーオリエンッテドなんて教えてもらわなくても江戸時代から顧客の声を聞くどころか顧客の身になって顧客に違ったものを推奨することまでやっています。これが実は日本の商社や製造業の強さのなんでしょうけど。

    一方で人間との関係性で考えると相手との関係で成立することですから、会議の参加者の構成が違うだけでも参加者の言い方が変化することはありえます。実際にはもっと複雑で相手と自分の主観的距離感やテーマの内容や問題意識や社会的地位や年齢や性別によっても言い方が変化するのは日常茶飯事でしょう。

    そして一度空気が出来あがるととてもじゃないがそれを壊すのは苦労します。というのは私も含めて近代的な個人主義というのでしょうか、西洋型個人主義に対する嫌悪感もあって、また幾ら考えても人間は社会から受ける文化の影響から抜き出せない、一番いい例は日本語を使うという習慣なんかも文化的影響でしょうけど、そこから抜け得ないのに個人主義ってどうよ?と思ってしまうわけです。

    日本でそんなことがあるかという方もいるでしょうが、敬語や丁寧語や女言葉男言葉の違い、幼児に対する話し方を考えてみれば納得しやすいでしょう。知人の母親が子供が生まれて、自分をおかあさん(子供の目で見るとおかさん、夫の目で見ると女房なんですが、夫もおかさんと呼んでいます)と呼び、子供が結婚して孫が出来ると、自分たち夫婦をおじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶのも一番弱い家族に対する関係性を明確にしているようにも見えます。

    参加者が振りまく空気を察してそれが判断に影響を与えるのだったら、それは合理的判断の埒外でしょう。10名のメンバーがいてそれぞれの関係性を考えれば膨大な組み合わせになります。あの人は私が世話になった人だから、あの人は支援団体の支持を得ている人だから、あの人は仲間だから・・・・という関係性が重要視されて判断が狂うことはありえます。勿論これだけじゃない。経済合理性や戦争の目的合理性以外の判断をして狂う場合もあるでしょう。

    コンピュータはこういう判断はプログラミングしない限り出来ませんし、おそらくデジタル論理でこれを厳密にプログラミングすることは不可能でしょう。というのは感情や情念によってその場の空気は変化するからです。ということはこの部分は言葉で実証しようとしても出来ない部分なんでしょ。だって自分の判断は本来の議論の目的以外の部分(すなわち他者との関係性)によって変化していると発言する参加者はまずいないからです。これは幾らテープを聴いてもわかりません。だって空気はテープには録音できないからです。すると想像するしかないのじゃないですか。そして誰もどうしてそうなったかわからないまま決断がなされるのでしょう。

    これは日本人がほぼ共通の目的意識や価値観や倫理観や行動様式を持っていれば何も言わないでも相互に理解できますから問題にはなりませんけど。

    (余談)
    日本は高コンテクスト文化だとしてそれを上記のように理解したら「空気の研究」の意味は納得できます。またこんなアナログ的感覚的な情報を学校で生徒に教えられるわけがないです。

    おそらくインターネットの掲示板は本来は低コンテキスト文化でしょうけどそれでもその場の空気をわきませない奴という言葉が時々2チャネルでも出ていますから、一概にそうともいえません。

    私は西尾幹二は場や空気をわきまえない奴だという非難が出てもおかしくはないと思っていましたが流石にそういう批判はありませんでした。だって西尾先生は場や空気関係なくある意味で頑固に同じことを書いているのですからそういう意味では場や空気を結果的に読まないのと同じに見えるからです。

    そこまで考えてみると西尾先生は保守主義者というより近代主義者なんでしょ。孤独になるの怖がらないし、「和して同ぜず」でなく「和して同調する」のを嫌い、思想家としての言論の自由を標榜し、倫理感のある個人主義的な方なんでしょう。先生の論説はやはり低コンテキスト的なんであって、わかりやすく逆に状況によっては劇薬にもなりうるのでしょう。

    私自身は高コンテキスト文化で生きていますから60歳近くになっていまさら近代人になれそうもないなと思いながら参加しています。

    こういう文化では重要性は自分の精神の軸になるものを確保することではないでしょうか。確固たる善悪の判断といっていいかもしれません。考えてみれば明治以降に教育は大幅に変化しました。精神修養型文化対応から知識的唯物論的文化対応に変化しました。私はそうでもないと思いますが、高度の精神文化を武士が持っていたらそれを破壊したのは明治維新を行った武士でもあるわけです。勿論すべての日本人がそうなったわけじゃないでしょうけど。

    そして精神文化拒否は敗戦後にますます強くなって現在に至っていると私には見えます。西尾先生は教育をどういう方向へもってゆくつもりなんだろう。これも自分自身で考えることなんでしょうけど。

    私がまったくわからないのは新田先生です。
    新田先生が伝統保守の立場でいるのなら配慮が十分すぎるくらいの関係性の高い高コンテキスト文化で生きているはずです。そしてその文化を疑うこともなくそれに従って自分を律し、相手を律するのでしょう。伝統的な日本文化には先輩に対するそういう失礼な書き方はなかったはずですが。ご自分で書いていて矛盾を感じないのでしょうか。まあ私の個人的主観ですが。

  11. 「『逃げ』じゃないのかなぁ?」

     何でもかんでも「戦後教育の問題」にして、「自分自身の問題」から目をそらしているということはないのか?

     もっとも、人材が育っていないのは論壇の「ホシュ村」という小さくて「特異な」集団での話ですね、あくまでも。。。
     一般人の若者には将来有望な人材が多数育っているので、全く心配なんかしてないッスよ?(^皿^)

     「ホシュ村」があってもなくても、若くて優秀な一般の人間が未来の日本を立派に築いてくれるので、私も安心二重丸です。。。ですぅ♪ですぅ♪

  12. 小泉総理はじめ閣僚、国会議員の多数が世襲議員です。いわば政治が家業で、蛙の子は蛙、一般人に比べればはるかに優秀な方々のはずです。
    しかし例外も多い気もします。普通の仕事がこなせる能力があれば選挙活動も国会活動もできるでしょうし、こういった人に常人以上の飛びぬけた能力があるわけでもありません。小泉首相は好んで「よく理解できない。」「なぜか解りません。」と言いますが、思考能力がなくてよくわからないんじゃないかと思うことがあります。靖国神社参拝の中韓の反応に対してなど、「もう少ししっかりとした説明をすればいいのに」とその度に思います。イラクの大量破壊兵器の件など論理のすりかえもやりますが、それがおかしいと思わないから平気なようにも見えます。「解っているが、策として」の発言だと思いたい。
    田中真紀子氏の外務大臣には本当にがっかりしたものです。自分が解っていないこと自体が解らないという全くの不適任だったからです。

    (世襲議員思いつくまま・・安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、谷垣禎一、平沼赳夫、鳩山兄弟、石原兄弟、小沢一郎、羽田孜、河野父子、加藤紘一、中山太郎、田中真紀子、竹下亘、中川昭一、町村信孝、小坂憲次、園田博之、西村真悟、保利耕輔、世耕弘成、細田博之、中曽根弘文、浜田靖一、野田聖子、小渕優子、船田元、渡辺喜美、鹿野道彦、横路孝弘、赤松広隆、小平忠正、楢崎欣弥、松野頼久、山花郁夫、奥田健、大出彰、大石正光、・・他多数。http://www.kyudan.com/data/seshu.htm参照)

    それはさておき
    敗戦直後、占領政策のもとで国家指導者層の敗戦責任に対し国民の不信感が募っていた事も加勢し、反政府的に方向付けられた日教組路線の学校教育と左翼的マスコミの席巻があれから60年余も続いてきました。その中では平等が優先されエリート教育は行ないにくい状況でした。素質があってもも子供のころからふさわしい育ち方をし、適切な指導者、よき師に出会わなければ、大成は難しい。これまで教育の悪平等で多くの素質ある人材が伸び悩みふさわしい道に進んでいなかったのではと考えています。その上必要以上の贖罪意識を刷り込まれ、是々非々の気概に欠ける小市民的日本人ばかりになって今日に至っていると感じるのです。頭の固い世代はやがて去ります。年長者の責務も大きいと思いますが、これからは、特に若い人たちが中心になって真実を明らかにし広め、それを子や孫に引継ぎ、敗戦の呪縛を解いていくことを期待します。悪い癖の修正にたとえれば、60年かけてできたものを正すにはその2倍、3倍それ以上の年数を要するのかもしれません。

    つくる会の内紛はとても残念です。素人が申し上げるのも恐れ多いことですが、なんといっても国つくりの基本は教育です。関係者の方々も国の将来を握っていることに思いを致し、雨降って地固まるのたとえもありますし、体制を整え次の採択に向けてまた力を合わせて頑張って頂きたいと思います。西尾先生も苦言を早々に収め、会にエールを送っていただくことを願っています。

  13. 尊野ジョーイさま

    失礼ながら、ここ数日の尊野さまのコメントにはいささか西尾先生や管理人さんへの甘えの色が感じられます。

    自律神経失調症の回復途中で頭がうまく働かないとのことですが、そんな状態でよそ様のブログにコメントしまくるのは失礼には当たらないでしょうか。
    すくなくとも、知識人たらんという人が言動を注意されて「鬱で頭が回らなかった」と言い訳するのは格好いいとはいえません。
    頭の働きが不安定で、何を書くのか自分でも分からないというなら、ご自分のブログに文章を掲載し、トラックバックするという方法もあるでしょう。

    >私なんか、西尾先生の文章に感想文が採用されるくらいに、読者の中では「着眼点」の良さを持っているはず(?)なのに、西尾先生から直接に何か褒められたとかの経験はありませんね。。。
    >論文についても何度か紹介しているのに、目を通してもらうこともないみたいだし。。。。(あれだけ反フェミニズムで頑張っているのに、特に気にも止めてもらっていないらしい)

    文章に感想文が採用されるだなんて、十分評価されていると思うのですが…。
    そもそも、「あなた方に心配されなくても、若手は十分育ってますから!」と啖呵をきった当の相手に誉めてもらえなかったからといって、別段嘆くことはないではないですか。

    >高橋史朗先生には、親身になって色々と世話を焼いていただきましたが。。。(--)

    こんな比較をしてはいけません。
    親戚からお年玉をもらった子供が別の親戚のところに行って「どこそこのおばちゃんはこんなにお年玉くれたよ!」と言っているのと同じようなものです。
    欲張りで礼儀知らずな子だ、と影で笑われるのが落ちです。相手が西尾先生では、「近頃の若いもん」のサンプルとして、エッセイのネタにされてしまうかもしれません。

    普段は尊野さまのコメントに首肯させられることも多いのですが、最近の乱発されるコメントの中には首を傾げるものもあります。
    どうかここでもう一度緊張感を取り戻していただきたいと思います。ご無礼をお許しください。

  14. 優秀な人材と思えるのは、若いうち。
    はっきり覚えていないが、子供のころ神童と呼ばれていたものが、成人すればただの人になるというようなことわざがあったと思う。
    将来に可能性があるうちは、優秀な人材に見える。わたしのように、40過ぎて、将来もない者は、ど田舎の小学校、中学校で、毎回試験で一番をとり、神童と呼ばれた過去を持ってしても、いまや窓際の部長である。また、この九月にはサラリーマンをやめ、独立自営する予定であるが、将来不安定である。

    そのわたしでさえ、20代、30代前半は、前途洋々に思えたものである。若者が、自分たちが優秀な人材だと思い込むのは、昔から代々続いてきたもので、何にも珍しくないのである。

    自信満々、傍若無人な若者の世代は、団塊世代のジュニアのように思う。彼らの上の世代、わたしの世代を含めて、ネクラ、シラケ、オタクという暗い、マイナスの特徴があったと思う。団塊ジュニアは、暗い、お宅などと馬鹿にし、夢を追い続ければ、必ず叶うなどという左翼の世迷言を信じて、30過ぎても、フリーターで、バンドや演劇をしているというような人間を多く作り出してきた。そういう団塊ジュニア世代が、ホリエモンやその取り巻きとして、世の中に出てきた。団塊ジュニアは、自分の仲間として、応援した。その底の浅さを見て、団塊ジュニア世代に任せられないと思った。団塊ジュニア世代が席巻する前に、その前の世代が立ちはだかって邪魔をしなければならない。本来その役目は、親世代である団塊世代がすべきだが、彼らは友達親子を信奉してきたやつらだ。任せられない。ネクラ世代、オタク世代、新人類世代の奮起を待ちたい。

  15.      奸臣は司直の手に

     私はコンピューター問題に関しては、すぐに警察に被害届けを出すべきだと思います。
     相手方は、西尾先生のわがままで折角成功しかけていた保守運動がつぶされたと触れ回っています。あろうことか、これからの新保守運動はわれわれの手にあると。しかし、司直の手によって四人組を含めた不良分子の取調べが行なわれ、逮捕者の5、6人も出せば、正邪の区別はおのずから明らかになりましょう。思想上の路線対立とみえたのはたかが1000万円の横領事件だったと世間に知らしめるべきでありましょう。

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