集団思考は右にも左にもあり、運動の形態をとり、ひょっとすると徐々に重なり合い、合体する可能性もあります。つまり、今、保守的右翼的勢力と考えられているひとびとが、いつの間にかはっきり自己確認をしない侭に、中共の謀略にあって、知らぬうちに中国との他者意識を失い、中国の国家利益に奉仕することを知らずにせっせとやりつづけるというような可能性です。アメリカの出方いかんで日本人は頭に血がのぼりすぐそうなります。
右と左は別だと皆さんは思っていますが、戦後永い間左が強く、左への反発と反感をバネにして、いまの雑誌や新聞がつくられ、ワンパターンで推移していますので、左右のどちらの側にもある同じ質の集団思考、同じ型の固定観念の形成に気がつかないのです。
右も左も、自分が自由に考えなくなる点で、思考の形態が同じタイプということです。なぜ毎月、オピニオン誌は反中国、反韓国、靖国、愛国を飽きもせずにくりかえすのでしょうか。いくら叫んでも、現実が動かないからです。疲れて倒れるまで言いつづけるしかないのでしょう。
それではダメだ、基本を正さなければ現実は変わらない、たしかそういう思いから教科書運動が始まりました。ところが、その教科書運動が採択の壁にぶつかって無力をさらしました。今回の紛争は無力感と絶望感と無関係ではありません。
ですが、分裂ができるということは路線闘争があるということであり、力とエネルギーがまだあるということなのです。左の勢力は結集する力すらありません。ですから、左を叩くことはもうほとんど意味を失っているのです。
いつまでもオピニオン誌が左と右の対立思考にこだわっている不毛を克服すべきです。それは冷戦の後遺症にすぎません。思想闘争における本物と贋物との対立思考に取り替えられるべきです。
愚かな左はまだ確かに残っている。しかし、それを標的にしている限り、自分も愚かになるだけです。オピニオン誌の編集者に申し上げたい。愚かな左を相手にせず、右の中の真贋闘争に集中することが、大衆の意識を向上させることにも役立つはずです。
愚かな左を叩いている文章にはもう飽きた、という人は多いと思います。ほとんど同じ論調のくりかえしで、敵がまだいるからこの方が売れるというかもしれませんが、いつか必ず売れなくなります。その時期は近い。
教科書問題はいま新しい路線闘争を求められているという意味です。採択の壁は左との戦いではなく、右の中の真贋闘争によって乗り越えられることでしょう。採択の目に見える成果が上らぬうちに、そういう新しい時代が近づいて来たのでした。
他の政治思想のあらゆる部門において同じことが言えるように思います。黙して逆らわずでは駄目です。自分を危うくすることのない言論人は世界を動かすこともできません。世界を動かすことはまず世界を危うくすることから始まるのですから。
真贋の問題こそは、日本絶体絶命の危機を乗り切る最大の問題である。そのように思ふていたら、上記先生が論文。やっぱり、偉いもんやなー と。
先生、長い手記をご発表いただき、本当にお疲れさまでした。末尾のところがいかにも本来の先生らしい文章になっており、少し安心いたしました。これで先生も会員としてのつくる会に対する義務をお果たしになられたと存じます。
特に、社会科学院へ「八木訪問」がつくる会とは無関係に行われたということを徹底通知すべきだという御提言には全面的に賛同いたします。このことについては追って申し上げるつもりなのですが、すでにあちらでは「つくる会の投降」という形での報道が出回っている状態なのですから、むしろ今からでは遅きに失している位です。
ただ、個々の細かな点については、やや異論がない訳ではありません。例えば、怪メールの発信者ですが、「八木氏がすべてのメールの発信者では必ずしもなく、その内関わっていると確定できるのは一通乃至二通のみだ」とのご推論には同意できるのですが、新田氏やその他の人物が怪メールに直接関与したとされているのは如何なものでしょうか。小生は「鈴木主犯、八木共犯」で、少なくともこの件については新田氏その他は直接にはあまり関係がないのではないかと考えております。また、新田氏等「四人幇」の行為の原因についても、先生の下されたご結論(事実、非常に濃厚にその疑いは強いのですが)の他にも、色々な可能性が考えられるのではないのでしょうか。
いずれ、この「顛末記」を書籍として上梓されることと推察しておりますが、今はまだ当事者の方々の頭が熱くなっていることもあるので(何だか執拗に「訂正と謝罪と」を要求している人もいるようですが、先生には少なくともプログ上ではそれに対して応える必要はないと存じます)、すぐには出版せず、ある程度情勢が落ち着いて数ヶ月か半年「寝かせて」からの方がよいかと存じます。
以上、勝手なことを申し上げてしまいましたが、ご無礼の段は何卒ご容赦賜りたく存じ上げます。最後になりましたが、これからは、先生におかれましては「運動」のことは何卒御放念なされ、本来のお仕事に専念されて益々の御健筆を揮われることを願い奉ります。
再々度 出でよ 時の氏神
私は、西尾氏、藤岡氏、新田氏のブログに「出でよ 時の氏神」、「再度 出でよ 時の氏神」のコメントをした。必死に論争(?)や書き込みをしている方々から見れば、仲裁者を望むような書き込みは邪魔者にしか映らないらしい。元の鞘に納まれといっているのではなく、貶し合いを止め、新たな道に進む方法を探るために、状況を俯瞰して見ようという提案なのだ。
観念的な話ばかりでも失礼なので、新田氏ブログ6月14日の『もう一つの「つくる会」顛末記・資料編(14)ー執行部内での八木氏追及関係資料ー』を長文だったが、虫の目で分析して見た。
新田氏の意図は、西尾、藤岡氏らが八木氏を追い詰める状況を事実に基づいて証明したいということだと思う。どちら側を支持するといった立場で見れば、こんな言い方はひどい、冷血、残酷と言いたくなるかもしれない。
しかし、冷静に見てみると、登場する方々の思想や立場は色々なので、ひとくくりには出来ないが、性格的に峻厳なタイプと柔和なタイプの差が際立っており、どちらかと言えば八木氏の会長としての対応の未熟さが浮き彫りにされている。と共に、八木氏が何らかの理由で板ばさみ状態になって、一貫性を保てずに苦しんでいる姿が読み取れる。
新田氏の気持ちとは裏腹に、必ずしも八木氏擁護の資料にはなっていないのではないのか。好き嫌いで見れば、圧倒的に八木氏タイプが好感を持たれるような気がする。しかし、この際の、組織でのありようは八木氏に非があると言えば、読解力が足りないと八方から攻撃されるだろうか。
これまでも三氏のブログ全体が、「教科書をつくる」ことに関わる論争の場とも思えない、1かゼロか、敵か味方か、正か邪か、といった次元の口撃合戦に見えて仕方がない。そのことを悲しんでいる方の声も散見されが少数だ。
言い分はどちらもあると思う。どなたも部分々々で、説得力のある主張を展開している。が、正か邪ではないだろう。犯罪者と被害者ではないだろう。思想や考え方の違いはあり、性格的に馴染めないこともある。小さなことから亀裂が出来る事もある。「知に働けば角が立ち、情に棹差せば流される」のが世の常だ。
レベルの高い論争に切り替え、それぞれが得意とする場で能力を発揮してほしい。少しの思想的差異を絶対のものとして、相譲れないことも、ある事はある。しかし、何もかもそれで押し通したら、家庭も、地域も、国も、それこそ教育の場も成り立たないではないか。
一日も早く、第三の道を探ってほしい、智慧ある道を選択してほしい。
(失礼ですが、上記三者のブログに同文を投稿します。)
敗戦の反動で占領軍による公職追放や様々な洗脳、改革によって、この
国は共産主義、社会主義、つまり左翼的なものがもてはやされ、それに
よって大学教授の職や政治家の地位また朝日新聞をはじめ書籍出版会社
などと共に小説家、映画人、進歩的文化人など生活の糧と地位を築いて
きたのでしょう。
自由経済資本主義?共産主義?社会主義?人々は、なんでもいいから我
が豊かな生活を保証してくれればいい。米ソ冷戦の下、幸運にもひたす
ら経済優先が出来た、国の成長期は誰がやってもうまくいく。
やがて豊かにはなった。しかし根本の国家だとか国益、日本人としての
誇り歴史など自覚することなく、それぞれの欲だけで生きて来た。
そんな人々をそれぞれが時流のイデオロギーを振りかざし翻弄し、我が
世を謳歌した。我が身保身の官僚役人、政治家、教師そして新聞、雑誌、
テレビといったメディアに関わる人々の傲慢な思い上がりと狭量な視点、
なまじ欧米の文化思想を持ち込んで模倣して得意満面の文化知識人。
なんたる偽善・・・というより自覚も無く、ただ生きてきた・・・
農協(いまはJA)へ水稲の苗をもらいに行った折、高齢化する農業の現
状をどうすれば良いか40代の営農指導員に問うたら、いわく上が動か
ないからダメだ。さもありなん、経済成長期の恩恵にどっぷり漬かり、
言いつなぎ程度の仕事で金満になれば、さしたる気概もなく現状維持の
保身のみ。同じく元校長達の教育委員会の情けない口舌の徒と化した懇
親会での醜態。
「教育長^^(給与57万)新しい歴史教科書、どう思います?」
「アタらしいレキシ教科書?賛否両論あるから・・まあ一杯^^」
せめて、若者達に道を開き指し示す度量と雅量はないのか・・・
共産、社会主義の矛盾が露呈し左に振れていた振り子が右に振れ始めた
・・・それに気付いた左系の人々は、ことを摺り替えわめく者、もしく
は修正する者、これでは喰えないと転向する者。
『振り子は左から右へ右から左へ、振れながらスパイラルのよう回転し
ながら歴史はつくられる・・・』
いみじくも、これを吐いたのが毛沢東だという。
うまく世渡りをするなら、振り子につかまってブレているのがいいのか
も知れない?しかし自己を騙した生き方は決して心休まることは無い。
そして尊敬もされない信頼もない。金とセックス、虚飾に塗れた人々の
醜悪な姿。勇気と正義の無い虚栄だけの闇のような国家社会は溶けてゆく。
西尾先生、ご苦労様です、まだまだ頑張ってください。
・・・・・・・・禍いをもって福と成す。この国はこれからだ^^
「『真贋』でいえば」
私から見たら、本物の「思想家」は福田恒在先生ただ1人だけです。。。
その他は、福田先生のエキスをサラっとすくった文章を書いている人という印象しかありません、率直すぎるかもしれませんが。。。
早稲田の松原正(だっけ?)みたいに、頭から否定するつもりはありませんが、なんか福田先生と比べると、物足りなさすぎますね。。。(もっとできるだろ?特に直接に福田先生を知っている人間だったら?と思ってしまう。。。(--ゞ)
もっと自己研磨して欲しいですね。。。(--)
『羊を狼に出来るのだろうか』
西尾先生の最後の暴論に部分的に賛成します。それと疑問を最後に。また私の投稿も最後にします。
>集団思考は右にも左にもあり、運動の形態をとり、ひょっとすると徐々に重なり合い、合体する可能性もあります。
この部分です、まず考えたいのは。
二つほど思い立ったことを事例であげると、日本の絶対平和主義者とマルクス主義者の類似点です。というか革新と保守との違いは国家の主権に関する意見の相違だけかもしれないのです。
私は前にとめ猫さんの論説の尻馬に乗って八木先生を牧歌的世界で生きている。作る会の会長としてはそれは困るという論説に同意しました。
牧歌的な構造とは構造的にはおそらく日本語の特徴や精神構造からくるもので家庭教育、学校教育、社会教育だけでなく社会の中での交流を通して無意識に体得したものなのでしょう。いわば日本文化の反映でもあるわけです。自分の実感として体得したものだからそんな簡単に是正できません。
そして私は誇り高き習合文化とも書きました。日本文化には習合しやすい部分があるのでしょう。それは一方で見ると、先生がお書きの「運動の形態をとり、ひょっとすると徐々に重なり合い、合体する可能性もあります」につながる話になります。
その日本文化の反映の構造の一つを人間やモノとの関係で前回投稿しました。
日本文化の存在する他者への同情が強くなりすぎるのは、背景に日本人社会が人間との関係性を重要視しているから自分のことのようにシンパシーを感じてしまうために相手が嘘をいっているのに気づかないまま同調してしまうのでしょう。
日本社会が平和で安定していてかつ豊かになったのは一方でこういう相手との関係性があるからで、その社会を普遍的真理と思い込みどこの社会も正義と倫理とシンパシーで出来上がっていると見ているのが日本の絶対平和主義者であり、それに西洋思想の皮をかぶって自分は近代人だと勘違いしているのが日本のマルクス主義者ではないでしょうか。
西尾先生が求めているのは自分と同じ個人主義者なんでしょうか。
もしもそうだとしたら日本人を西洋人にでもしたいのでしょうか。
私はそれなら勘弁してもらいたいです。
むしろ大事なのは自分がどういう精神構造で動いているかを自覚することではないでしょうか。日本型牧歌的世界は弱肉強食の世界ではまずいですが、羊を狼になれといわれてもそれは無理です。現実に八木先生を引き上げたのは西尾先生ではないかと思いますが、長い付き合いで八木先生は個人主義者になったでしょうか。
無責任なことをいうようですが、むしろ私はライオンに率いられた羊でありたい。そういう意味ではエリートだけはせめて西洋型の思想を身につけてほしいと思いますが。そのエリートに従う羊はライオンの行動を理解していないといけませんから自己の精神構造とライオンの精神構造の両者を理解していないとまずいとは思いますが。
理解不足ゆえの暴論は失礼しますと先に謝っておきます。
お盆の懐メロ番組よろしく左右紅白歌合戦をやっていたら、
現実のほうがものすごいスピードで進んでしまって、
サヨク叩きは全く意味を持たなくなってしまった。
20年前には、(中身の良し悪しは別として)国民投票法案や、
防衛省昇格が登場するなんて思いもよらなかった。
こんな状況で、サヨク叩きに時間を費やす暇はないだろう。
敬老会のような社・共両党を云々しても意味はない。
対中国だって、思想云々ではなく、日本国民の脅威になってしまい、
ただの「現実的」問題になってしまった。
そうすると、今度は自称保守やらが一斉に出てきたが、
性懲りもなく打ちゲバを繰り返したり(あの世代はだめだな)、
われこそが本物と主張しあっている。
先生の昔のご著書で各人がわれこそが本物!と主張しあっている、
現代の寒々しい光景が今ここに広がっているということなんでしょうか。
真贋を見分ける、と言って「基準」がどこかに残っているのでしょうか???
国柄?伝統?何が手がかりなんだろうと、考え込んでしまいました。
若輩者の私はここに書き込まれている諸兄のように難しいことはわかりませんし、
現実的な職業のある身です。
先生の言うようにもう手遅れなのかもしれません(ペシミストです)。
しかし、さりとてこのままこの国が溶解してしまうのを傍観するつもりもありません。
日々の仕事や生活のなかで、できることから、一つ一つ潰していくしかできませんが、
最後まであきらめないつもりではおります。
企業の人事で人材育成を担当していますが、
今は、出来上がってしまった年寄りの研修はあきらめ、
若手の育成に自分なりに職員生命をかけて取り組んでおるところです。
それにしても、先生のご心労をお察し申し上げます。
>キルドンムさま
中国では「つくる会の投降」という報道が出回っているって、本当ですか?
それはどこを調べれば分かるのでしょうか?
中国関係が専門でいらっしゃるからこそ、得られた情報なのでしょうか?
「と学会」というグループがあります。
デタラメな科学知識に基づいて書かれた本や商品(例えばタキオングッズとか)、あるいはデタラメな思想・ベクトルで書かれた本をみんなで笑おう、という思想で書かれた「トンデモ本の世界」を出版したグループである、というとご存じのかたもいらっしゃるかもしれません。
思想的な立場としては徹底的にノンポリで、右でも左でもこっけいなものはとにかく笑おう、というスタンスです。
保守のゾーンに近いものでは、たとえば「日本人とユダヤ人」や、東中野先生の論、小林よしのり氏などが、徹底的に笑われています。もちろん実証的検証がなされた上で。
もちろん彼らは思想界にポジションを持っているわけではなく、その意味では素人。ただ、説得力はかなりあり、「日本人とユダヤ人」においては「山本氏がいかに原文をデタラメに改竄・引用しているか」を正しい原文の訳とともに解説していました。
なんでこんなことを書いているかですが、西尾先生が以前書かれていた「保守論壇の人材不足」は、実は左を笑うよりはるかに深刻で、根の深い問題ではないかと思えて仕方がないのです。
もちろん、雑誌などで表に出てくる人だけが保守論壇に所属する方とは思いません。しかし、某保守系の月刊誌のアンケートで、もっとも人気のある論者が渡部昇一先生である、と知った時には愕然としました。この人などは、それこそ「トンデモ」先生の代表格。客観的にみたら、むしろ「あなたが保守論壇にいるのは迷惑である」の方です。その方がご高名を馳せていらっしゃる保守論壇って、いったいなんなんでしょう。
大塚英志という若手の、決して保守的なポジションにいるとは言えない評論家が、某保守系の月刊誌で正直に「自分がこの雑誌で書くのは正直不思議感がある」という意味合いのことを書いていました。言外に、保守論壇の人材不足を示唆しているのではないか、と捉えるのは決してうがち過ぎとは思いません。
小生が一番懸念しているのは、あるべき保守論壇の不在は、右傾化した人々を単に狂的な、もしくは宗教的なナショナリズムへ導くことになるのではないかと言う懸念です。そしてその前触れかつ象徴が、小泉劇場ではないかと(ごめんなさい、ここは本当はちゃんと書くべきな
んですが、はしょってます)。
いでよ、孤立を恐れない有望な論客、ですね。
ひきつづき西尾先生のブログは楽しみにさせていただきます。
西尾先生の顛末記。
最後を締めくくる文章にふさわしい内容だったと思います。
私はもともと小林よしのり氏のマンガから保守というか教科書運動に入り込んで、今では左でも右でもどっちでも良い言論はいいという立場になっていますが、今回の文章の内容、我が意を得たりという内容でした。
以前、稲垣武氏が、「悪魔払いの戦後史」で、「革命は自己運動的に続いて敵を攻撃し続ける」と書いています。保守を名乗る人たちの今の左翼の残党叩きはその好例ではないかと思います。産経正論、諸君などの「保守派」とされる雑誌に愛想がつきたのも、壊れたレコードのように続く南京事件特集や東京裁判特集に嫌気が差したからです。
嫌韓流などのブームについても、「確かに韓国の夜郎自大は行き過ぎな面もあるが、それに反応してはネット世代の保守言論もレベルの低い争いをするだけだ」と思い、無視してきました。
バカをバカと言えば、自分がそのバカと同レベルになるということです。それに韓国のネット右翼は日本の2ちゃんねるのようなもので、少数派ではないかと思います。
ノムヒョンがあんまりに親北朝鮮になるのも違和感を感じますし、その反動で韓国に親アメリカのネオコンのような世代が生まれるような動きがあるのも気がかりです。日本にしろ、韓国にしろ、グレートパワー同士のゲームの中で、リム(縁)の位置を占める存在に過ぎない(核を持っていない)わけですから、そのようなアイデンティティの2極化が起きるのは仕方ないことかもしれません。
元々つくる会や自由主義史観の運動は、左翼に傾きすぎた教科書を少しでも右(中道、あるいは常識的)内容に直すという限定つきの運動であったはずで、その目的は達成されたのではないかと思います。これ以上、右側に動かすとこれが逆に問題になってきます。
右も左も人工的なイデオロギーの産物です。そのことに気がついたら、諸君や正論系の言論はばかばかしいものに見えてきました。長文失礼しました。
●真贋のリトマス紙●
「小泉政権は左翼政権である」と西尾先生は仰った。
これが理解できるかどうか、ここがポイントだ。
戦後、左翼とたたかい、偉大なるの功績あった保守陣営といわれたおぢそんたち、この方たちが、小泉改革とやらに声援を送ったのだ。驚天動地のことである。
小泉改革の本質は日本社会のアメリカ化のことである。アメリカからの帰国子女らが、シカゴ学派かなにか知らないけれども、アメリカの大学で叩き込まれた経済学でもって日本革命(アメリカ化)をやらかす、これが構造改革の本質である。
井筒俊彦が「普遍語」とゆぅことをゆっている。世界が狭くなり、りろんな文化が融合する。その過程で、特有の文化に起源を持つ言葉たちが消えて、だれにも理解できる、たとぃば科学用語などが氾濫する。数学なのどの純粋理性の言葉が人を支配するのだ。この普遍語の発信源がアメリカであって、数式に絡め取られた主流経済学がその見本であろう。個々の文化文明はオツムの中から消えてしまう。普遍語に絡め取られた人々が日本の改造を企てたのだ。
言葉の衰弱、それがローマ帝国を滅亡の原因だったとゆったのがオルテガだったか?
悲しいことに、保守とゆわれた人々がアメリカ小泉に拍手を送ってきた。
最後はやはり思想の話に戻りました。批判者から見れば「問題を逸らしている」と言われるでしょうが,元々批判者の側が「問題を逸らしている」と思っていた者からすれば,戻るべき所に戻ったと言えると思います。
今回書かれたことは,少なくともこれまで日録で書かれてきたこと,それも「内紛」の最中に書かれてきたことと一貫しています。例えば3月23日付では「今の保守派はほんとうにダメです。戦後の進歩的知識人がダメだったのとよく似た意味でダメなのです。つまり、みんな正しいことを言いすぎるのです。正しいことは犬に食われろです。正しいことの範囲が言論誌ごとに定まっていて、みんなその枠のなかで優等生です。」とあります。また4月1日付の最後の方では,心を試されることに耐えられない「性格障害者」に論及しています。それから第二弾の「つくる会顛末記」と言うべき4月19日付では,「余りに彼らは孤独に耐える力がない」,「すでにしてすべてが末期症状である。至る処に蟠踞するのは小人の群れ、末人の戯れ、畸人の気の触れ。」と書かれている。
これらの部分は,いずれも私が日録を読んできて強く印象に残った部分でした。そしてこれらはすべて,今回の分も合わせて,同じことを言っていると思います。何回も繰り返しておられるので,恐らくこれが一番重要ということでしょう。やや前に戻れば,そもそも昨年の総選挙が「心を試す」一つの試練だったと言えると思います。
私は保守思想というものを詳しく研究したことは無いので,以下はあくまでおぼろげな印象ですが,以上のような発想は,「保守」の極めて重要な要素であると言えるのではないでしょうか。簡単に言えば,
1 勢いに流されない
2 付和雷同しない
ということです。いわゆる「革命家」も,社会への反発という点でこの二点を共有するように一見思えますが,決定的に異なるのは,「革命家」は自分が世界の潮流を先に嗅ぎ取った者であり,世の中はやがて自分達についてくるはず,と思い込んでいることです。保守思想家ならば,正に今回の西尾先生のように,世の中の流れ,「多数者」の「勢い」というものは往々にして危険な方向,堕落に向かうものであると考え,「勢い」に大きな疑問を向け,自分の頭で考えて,警鐘を鳴らすはずです(なので「文化大革命」など起こすはずがない)。その点で,「保守思想」というものは本質的に悲観的な所があり,「多数派」の支持は得られないものであろうという気がします。むしろ,多数に支持されてしまったなら,自分の考えはおかしいのではないか,と戸惑い再考を始めるのが「保守思想家」というものではないか,とさえ思われるのです。喜んで当たり前と思われる所に危機を見出す,一見ひねくれた,しかしまさに自由な懐疑精神を持つのが「保守」なのではないでしょうか。
その意味では,「保守」というのは「伝統」をいつでも支持する訳ではないでしょう。所謂「伝統」社会(「伝統」が「正統」である社会)においてなら,「保守思想家」の素質を持っていた者はその中にうまくとけ込めなかったかも知れません。近代において,「伝統」が崩れ去っていく時にこそ,「保守思想家」は180度逆転して反時代的なものと化した「伝統」に目を向けることになるのでしょう。「保守」は近代において初めて誕生したのではないでしょうか。
戦後日本においては,それまでの「伝統」と異なるものが「正統」となり,現在ではそれらがすでに「伝統」と化しました(要するに左派です)。しかしそこでその「伝統」を批判する側が,近年急速に勢いを得て,「正統」となりつつある。しかしその中身は本物なのか。単に水増ししているだけではないのか(無内容な小泉チルドレンを見よ)。そういう疑問が,出て来ているのだと思います。まさに,喜んで当たり前のところに危機を見出しておられるわけです。大きな文脈で見れば,近現代以来の「正統」の移り変わりの速さ,多数者の勢いというものの移ろいやすさを前にして,思想がてんてこ舞いさせられていると言えるのかも知れません。
先生、長文ご苦労様でした。
今回の件がどのようなタイトルで作品化されるのか、読み手の立場として少し迷うところがありますが、いずれにしましてもこのこじれた問題がどのように整理され世に発せられるのか、楽しみ半分不安も同時に若干ございます。
今、私の気持ちの中は色んな思いが廻っております。どの切り口から感想を述べるべきか迷いもございます。そんな中一番強く心を突き上げる感情は、「自分が発した言葉がいざ自分に突き刺さった時、人はいかに弱さを露呈してしまうものか・・・」であります。
先生は以前から「本当の敵は保守と自称する集団の中に潜んでいる・・・既に左は息絶えているのだ」と語られていました。
私はこの真意が最初附に落ちず、具体的にどのようなケースを言うのか、頭の中で想像しても考えが纏まらない時期がありました(3年程前でしたでしょうか)。
そのうち先生は政治家の名前を具体的に上げ、福田氏などを名指しして保守層の油断に警鐘を鳴らしました。この時点では誰もが理解可能な段階で、尤もだと頷いた訳ですが、おそらく先生にとってはほんの入口に差し掛かった事例であり、真意はもっと深部に存在するんだと叫びたかったに違いありません。
それからは徐々に世間での保守の中の色分けが目立ち始め、いかに保守というものが宙ぶらりんで不安定なものかが露呈し始めます。この時期から個人の差が見え始めたわけですが、実はとても重要な時期でもあったと今から思えば思えるわけです。
それと並行して先生の身近な所では、様々な問題が噴出し、当初はそうした問題に皆で対応する意識が働きましたが、徐々に綻びが顕れ、結果的に取り返しのつかない事件へと発展したと言えるのでしょう。つくる会という一つの接点がなんとか色んな部分で支えとなっていましたが、最後はやはり痛みを伴う運命にあったと言うべきなのでしょうか。
ではどうしてこのような現実に至ってしまったのか?それは「自分が発した言葉がいざ自分に突き刺さった時、人はいかに弱さを露呈してしまうものか・・・」に関わってくるのではないかと思うわけです。
例えば八木氏らが普段の言動にどれほどの責任を感じ、また社会に対しどれだけの厳しさをもって臨んでおられるか、そうした根本的な問題点が欠如していた結果が、自分の射た矢をも跳ね返せない現実となって顕れたのだろうと思うわけです。常日頃射る方向が安全な的ばかりだったと’やゆ’されても仕方がない現実を産んだと言えるでしょう。
私は藤岡・新田両氏のblogは拝見しておりませんので、お二人の真意を忠実に分析できませんが、ここに記されている情報から推察しますと、なんとなく枝葉末節な問題にこだわり過ぎているのではないかと想像します。真の問題点が触れられていないのではないだろうか・・・そう思えてなりません。少なくとも私は今回の問題は短期間で発生したものだとは思えません。おそらく、関わる重要な問題点はまさにつくる会に関わる以前から発生していて、各個人の生き様そのものに関係する重大なものだと思ってます。そもそもこの会を立ち上げることの厳しさ・辛さ・危険さ・・・また同時に感じられる喜び・励み・和の重要性など、安直な意識では臨めない研ぎ澄まされた神経でしか味わえない何かを訴えざるを得ません。
こうした厳しい環境に携わる者として、「自分が発した言葉がいざ自分に突き刺さった時、人はいかに弱さを露呈してしまうものか・・・」をどう意識すべきか、その答えはまさに普段の自分の生き様に存在していると言えるのでしょう。
先生はそうした意識と常に向き合う覚悟があります。人間は弱い心もあります。いや、人間は考えている以上に弱い動物だと思うべきかもしれません。
だからこそ立ち向かう気持ちが大事であり、自分の射た矢の責任を常に持ち合わせねばならないと思うわけです。
「小泉首相批判には賛同できません」
先のいわゆる「郵政解散」に対する認識が、西尾先生と私とでは全く異なっています。。。
私の見解は以下の通り。。。
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題、衆議院解散の真意はなんだろう?
郵政民営化は、小泉首相の個人的信念でもありますが、ここで重要なのは、総裁選挙の「公約」として掲げていたことです。。。
そして、総裁選で公約として掲げていたからには、小泉首相を総裁として指名した自民党議員は、当然のことながら、郵政民営化に賛成していなければおかしいですよね?
もし郵政民営化に反対ならば、総裁に指名しなければよいのです。。。
小泉首相が、あくまでも郵政民営化にこだわったのは、個人的な信念でもあったのはもちろんですが、総裁選の意義が形骸化していることを正そうとした意味もあったのでしょう。。。
総裁選での公約がないがしろにされては、総裁選挙は「人気」か「派閥の勢力」で決まるものであり、政治家本来の役割である「政策」がないがしろにされてしまいますからね。。。
その意味もあって、衆議院を解散までして、総裁選挙の公約である郵政民営化の正否を国民に問う行動を取ったわけです。。。
総裁というものは、党の代表でありますが、同時に与党では総理大臣になるわけなので、党内の勝手なルールによって決定するのではなく、民意を反映して決定したいという強い思いがあったのではないでしょうか?
私のブログ「僕らの世代が『政治』を創る!」より、http://mijikanaseiji.jugem.jp/?eid=9)
========================
たとえ郵政民営化法案が不完全であったとしても、これを「公約」としてかかげて総裁選に出馬したのですから、「抵抗」にあって断念したりしたら、結局は公約なんて守らないいい加減な首相であると思われて、国民の信頼を失ってしまうでしょう。。。
民営化を断行することは、「国民との約束」を絶対に守るという国会議員の本分を果たすためには必要不可欠な事柄でした。。。
また、民営化法案ですが、過疎地の郵便局は国が責任を持ってちゃんと公費で運営するので、なくなったりすることはないのです。。。
これも小泉首相が首相になる前から発言していたし、また、それがちゃんと保証されるような文言が法案にも組み入れられています。。。
そして、外資の浸食についても、これも国会の答弁で竹中大臣が、そんなことにならないようにちゃんと対処しますと断言した発言がありますね。。。
私としては、小泉首相批判は、ほとんど「因縁」をつけるような批判の仕方ではないかと思いました。。。(少なくとも、法律上も、また大臣の答弁からも、心配する要素は存在しない。。。)←まあ、運営上、色々な支障が出るかもしれませんが、それは適宜に対処すれば良い話で、何かとんでもない大失態が起こることはあり得ないと思いますね。。。
しばらくの間電話線のないところで過ごすので、西尾先生の本を沢山持って出かけました。勿論サピオと諸君7月号も。日録を覗けないから・・・。
「諸君」の中の八木氏の話は実に情けない。一人の男として、会のトップとして、「足を引っ張れた、いじめられた・・・」ということは口が腐ってもいわないものです。
男が外に出れば7人の敵がいるといわれています。自分の弱みはベットの中で奥さんには見せてもいいけれど、他の人には絶対に見せてはいけません。一度見せれば蟻が甘いものに集るように、これからは八木氏に優しい言葉、美味しい言葉がそれとは分からずかかるでしょう。トップに立ってはいけない男のようです。西尾先生が日録にお書きになって、何故すぐに反論をされなかったのでしょうか? 言論は生きています。生ものです。その意味では八木氏は言論人足り得なかったのでしょう。
大分前のイタリアでのサミットの時だったでしょうか。ミッテラン大統領が田舎者の村山総理大臣に特別に親切にしてくれたそうです。そのことをわが総理は喜々として書いておられました。よっぽど心細かったのでしょう。仏人は政治家でなくとも立ち回りが上手。素人も権謀術数を使いますよ。自分を有利に導くすべを知る天才です。政治家となればなおの事。杉村大蔵議員などは半ひねりで終わりでしょう。お母さんから貰った貞操帯が取れるようになってから立候補すべきだったのでしょう。話が横へそれましたが、神戸の地震の時、すばやい判断ができなかったことに対して「何しろ初めてのことだったから・・・」この人もトップに立ってはいけない人だったのです。
トップに立つ人は、堂々としていなくてはいけません。いるだけで存在感のある人でなくてはいけません。有能であるということです。
オリンピックの視察にロンドンを訪れた石原慎太郎東京都知事は、存在感がありました。周りのイギリス人が一回りも小さく見えます。こればかりは取り繕おうとしてもむりですね。生まれながらの資質、品性、経験からくる自信、によるからです。
西尾先生には「今を生きている男」の存在感があります。役職を去られてもトップの存在感がおありです。
新田氏。誰からも呼ばれていないのに、サロンに出たがる人。慇懃無礼という言葉の意味を知る知性はあっても、行動でどうすればいいか分からない悲しい人間。ああいったこういったと迫まる女(ヒステリーさを上手く隠している)のようで、一緒には仕事をしたくない人間。録音されているようで心が休まりません。
八木氏にも新田氏にも応援してくれる人がいないと一人では立ち上がれないという弱弱しいものを感じます。「僕には応援してくれる人がいます」というセリフを原稿の締めくくりの言葉として吐くことに稚気を感じました。
新しいことをしたかったのであれば、黙って一人で去り(何人か連れてでもいい)、一人で立ち上がる。こういう行動が取れて初めて、人は認めてくれるものです。
コメント参加の尊野さん、何をたわけたことを仰るのですか? 認めてくれない? 優しい声をかけてくれない? 貴方はお幾つなのですか? 若者を育ててちょうだいだって? 若者は自分の周りの素的な人を真似すればいい。そこから始まるのですよ。お父さんでもいいお母さんでもいい。映画の中の主人公でもいい。貴方の尊敬する福田恒存氏を真似てごらんなさい。そこから始まるのですよ。わが息子は22歳ですが、貴方のような甘ちゃんではないよ。「母ちゃんが何もしてくれん!」などと言おうものなら「隣のうちの子になりなさい!」と放り出されるのがおちだから、欲しいものは「自分の力で取る」と思っていますよ。自律神経失調症というご病気をお持ちとか。調子の悪い時はなるべく控えて、人様の前に見苦しい言葉や態度を出さないでおこうという心の配慮はお持ちではないのですか? まだお若いのでしょう? パソコンの前にばかりいないで、外に出てガールフレンドやお友達と楽しみ、夜になったらバタンキューとなるくらい身体を充分疲れさせ休む。そんな生活をなさったらいかがですか? ご自分を知らなさすぎます。はっきり言いましょう。貴方はこのコメント欄に参加している皆さんに軽蔑されているのですよ。それが分からないのですか? 嫌われることを承知で敢えて言う私はあなたにとって親切なのですよ。明日から福田恒存氏を真似てごらんなさい。行動してください。人間が大きくなれるのは、行動あるのみです。
西尾先生の「私の昭和史 少年編」中学一年生の時、担任の遠田(おんだ)先生と幹二少年のやり取り。「偉人とは何か」幹二少年は秀吉と答え、先生は「秀吉は何人もの女性を自分のものにした人物だぞ。お前はそんな人物を偉人にしてしまってよいのか。先生は秀吉がきらいだ。人間として勝手なことをした独裁者的な男なんか偉人でもなんでもない」 幹二少年は「僕は秀吉の持つある精神が立派だと思うからいいといったのです。民主主義だからどうとか、封建主義だからどうとかいうのではなく、そういう〈主義〉は関係ないと思います。先生はすぐ主義を言うけれど、それは僕から言わせると少し変です。封建時代の人間は封建時代が正しいと思い込んでいたのですから、その時代の偉人だったらずっと偉人としておいてよいのだと思います。民主主義だって現代は最上主義とされていても、後にはどうなるか分かりません。今の時代に偉人と思う人もいつか偉人でなくなるのかもしれません」
また映画好きな幹二少年の感想文「〈ムクの木の話〉は動物を日本人に例え、氷魔を日本の今までの支配者に例え、女神をアメリカに例えたものだと思う。自由の光がさすと今まで眠ってゐた日本人達が目をさましたという意味だらう。そんなに迄日本の元の支配者が悪いとはいえないだらう。敗戰國とは、こういったみぢめな姿である。日本が勝てば東條さんは大英雄、マッカーサーは大戰爭犯罪者である」
13才になろうとしている幹二少年の言葉である。(昭和23年)
既に13歳にして、「国民の歴史」の大元があったのです。
終戦の日「日本は無条件降伏をするとラジオがいっていた。」を聞いた幹二少年は「うそうそそんな事がなんで信じられませうか、負けたということが。ラジオがにくらしくてにくらしくてたまりませんでした。」
お父さんのこと。「家族を守ることにかけては人一倍強い熱意と果断な行動力を持っていたと思う。「疎開者のくせに!」という教師の捨台詞に怒り、直にわたしの転校を考え、実行した。」その時のお父さんの言葉と行動が幹二少年の心を救ってくれ、何よりも安心をくれた。」
お母さんのこと。「気質と性格をわたしは父からよりも、母からより受け継いでいる。何事でもとことんやらないと気がすまない。母から当時の文学世界の空気を聞かされて育った」詩の世界に陶酔する感性をもつ少年の誕生です。先生の感覚の世界です。先生の素晴らしい直感力の元はお母さん。
ご両親に愛されたという思いの強い少年が国を愛して止まない人間になるのは自然のなりゆきです。日本の社会の中で、一人物申す人物、が先生でした。先生のお言葉には正義や公憤はありませんでした。恐れず一人物申す男でした。
この度の「怪メール事件・つくる会顛末記」をお書きになられたことは、ぬるま湯の中でどう進めばよいかが見えてない保守の世の中への問題提起でありましょう。日本国を身体で例えれば「心身の強さ」を保つ上で、先生の爆発はわたしたち日本人が感謝すべき爆発だったのだと思います。
先生、どうぞいつまでもお元気で、わたしたちぼんくらに刺激をお与えてください。
微力な私ですが「新しい歴史教科書をつくる会」を応援します。
「キツイお言葉ありがとう御座います。。。(^^ゝ」
>ソルベ様
まったくおっしゃるとおりだと思います。。。
ただ、私は「全部」判った上で行動しています。。。
ここにいる人たちから(全てではないと思うが)、そして西尾先生からも軽く見られていることは先刻承知だし、むしろそれを自ら望んでいるのです。。。
「世の中の 誰が何かを 言わばいえ 我がすることは 我のみぞ知る」
私の大好きな坂本龍馬の句です。。。(ちょっと違うかもしれないけど)
私は私で、福田恒在先生を手本としつつ、私なりの生き方を確立しようと奮闘努力している真っ最中なのであり、私の行動にはすべて意味があるのです。。。
福田先生になることは出来ないかもしれませんが、福田先生に認められるような人間にはなれるように頑張りたいと思います。。。(^へ^)
(軟弱で甘えたところがあるのは、現代青年の特性なので、多少は目をつぶって頂ければ幸いであります。。。(`へ´))
「小泉首相は政治に『革命』を起こした」
そう私は認識しています。。。
理由は以下の通り。。。
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題名、「革命を起こした小泉首相」
この間の総選挙で、自民党は大勝しましたよね?
実は、過去にも今回と同じくらい大勝したことがありました。。。
でも、今回の大勝ちはちょっと意味が違う。。。
これまでの日本の選挙は、ぶっちゃけ、地元に利益を誘導してくれる、地域開発のための予算を持ってきてくれる人間が選ばれていたのね←(かなり乱暴な断定か?)
それが、今回の場合は、ちゃんと「政策」で候補者が吟味された、おそらくは最初の選挙だったのだと思う。
だって「政治家」でしょ? どんな政策を考えているのか、そしてそれをどれだけ実行する能力があるのか、そういうことで選ばれるのが本来の在るべき姿なんじゃないのかな?
それで、今回は「郵政法案」に賛成するかどうか、つまり、日本の古い体質を本気で変えることに国民が賛成してくれるかどうか?それを小泉首相は選挙で明らかにしようとしたわけです。(「刺客」とか言われてたけど、「郵政法案に賛成する候補者」と「反対する候補者」がいないと、国民は選択することが出来ないじゃない?)
大勝したから、上手く国民を誘導したとか揶揄する人がいるけどね、たまたま賛同してくれただけであって、もしかしたら反対されて選挙は大敗する可能性だってあったわけだし(どちらを選ぶかは国民の自由でしょ?)、かなり大胆な賭けだったと思いますよ?
それで、国民も賛成してくれた、あるいは国民に「許可」をもらって、郵政改革を進めるんだから、これは筋が通っているし、とても「民主的」なことじゃないのかな?
そして、「小泉人気」とか言われているけど、日本の選挙がワケのワカラナイ古いやり方で行われていたのを、本来あるべき「政策で選ぶ選挙」へ大きく方向転換したのが、小泉首相の功績であると思います。。。(「人気」じゃなくて「政策」で支持されとるのよ)
(おかげで、この候補者はどんな政策を掲げているのかな?とか、少し気にする人が増えたんじゃないのかな?)
私のブログ「僕らの世代が『政治』を創る!」より、http://mijikanaseiji.jugem.jp/?eid=4
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あの小泉首相の「郵政解散」は、派閥の力学ではなく、「政策」によって国政が運営されるという本来あるべき姿に変えたという、戦後政治史における大きなターニングポイントであったのですね。。。
「刺客」なんて俗称がついた落下傘的な「対立候補」にしても、これは国民に政策で候補者を選択出来るという状況を提供するためにとった措置です。。。
「政策本位」という原理原則を貫いたのですね。。。
私はむしろ、あそこまで徹底的に「政策本位」という原理原則を貫く姿勢をとった小泉首相の胆力を大いに評価すべきとさえ思っています。。。
ただし、女系天皇容認の皇室典範改定では、政治革命どころか日本の伝統を根本から破壊する革命を起こそうとしたので、これは完全に失策であるのは間違いないですけどね。。。(苦笑)
(私は某掲示板で、皇室を断絶しようとした総理大臣とロボット工学の座長は、本来は「大逆罪」で死刑に処されるべきだとまで主張しました。。。(^へ^ゝ)←評価するべき点はちゃんと評価するが、その代わり、批判すべき点があれば、しっかりと痛烈に批判するのが私のスタイルです。。。(--)b
長谷川様へ
八木氏のことについては、例えばYAHOO CHINAとか、捜弧とかいったあちらの検索サイトを使えば、大量に出てきます。
例えば、『環球時報』3月9日(http://health.beelink.com.cn/20060309/2041367.shtml)の解任に関する記事(立場はともかくとして、事実関係については比較的正確――まあ西尾先生のことが「日本で著名な親米保守派右翼学者で、元電気通信大学教授、かつ〈つくる会〉の創始者であり、著書30餘冊、老世代日本右翼の代表的人物」とあるのはまだよいとして、八木氏のプロフィールが「〈万世一系〉を提唱する保皇派に属し、日本の法学界でとても声望があり、著書20餘冊」となっているのは意味不明ですが)の中に、氏が社科院での討論の際、「ことのほか慎重(原文では「小心」)であった」とか、「(氏が)思いがけぬことに、何人かの中国側学者の発言と双方の弁論摘要の発刊が、客観的に中国側主張宣伝の作用をもたらした」などと書きたてられています。
大新聞の記事ではこの程度で収まっているのですが、掲示板等でははっきり「投降」と書いているのもありました。自宅においているので、また持ってまいります。
他に、社会科学院日本研究所のHP(日本語版もあります)からは討論に参加したあちらの学者の報告も見ることができます(日本語のはまだ載っていません)。それらを見ると、『正論』では述べられていない様々なことが沢山あることがわかりました(日側参加者の名前も、はっきり載っています)。また順を追って、双方を比較検討してみようと思います。
(追記)同所のHPによれば、新田氏や松浦氏の勤務校と同所とが昨年の三月に学術交流協定の締結をしているようですが(それはそれで大変結構なことですが)、一聯のこととは多分無関係でしょう。
>キルドンムさま
ありがとうございました。
双方の比較、よろしくお願いします。
新たな局面へ
つくる会騒動に絡んで、西尾、藤岡、新田三氏のブログに、禁じ手の多重投稿と非難されつつ、同文の「出でよ 時の氏神」シリーズのコメントを投じて来た。徹底抗戦に水差す意図もあり、あえて三方から反発されるような、お三方に対する失礼な人物評も書き込んだが、意に反して(勝ち?を確信しているということなのか)新田氏支持の方々からだけ手厳しく反発された。
どうやら、調和型の八木氏を中核に新たな組織が立ち上がる情勢のようなので、今までのような趣旨のコメントは無用になりそうで、それはそれで結構である。日本にとって、事態が良い方向に転化できればそれに越したことはない。
しかし、一家言を持つ論者の論争や組織活動とは厄介なものである。身内の大学教授から聞いていた「大学での派閥や勢力争いの熾烈さ」の話を改めて思い出す。勿論、一概に悪い事とは思っていない。
ただ、思想、主義、政治問題、日常問題、人柄、相性などのすべてで、些少の差異が生じたからと言って、離合集散を繰り返していたらどうなるかとため息も出る。せめて、意見の違いは論争に留め、小異のグループ同士、論争仲間としてひとくくりに出来ないのだろうか。世界にとは言わないが、せめて青少年へのお手本として。ここまでは、建前論といったほうがいいかな。
より個人的な気持ちで述べると、「その女 ソルベ」氏のコメントには敬服。的外れの表現かもしれないが、「柔な男たちを前にした小股の切れ上がった女の啖呵」と言った趣で、いまどきの若い世代では展開できない台詞。こうした言い回しが普通の文化だった時代も失われていくのかと慨嘆したくなる。小生意気を装っている「尊野ジョーイ」くんが、一瞬素直になったのはその啖呵に気圧されたからだろうか。
同じ「その女 ソルベ」氏のコメントで紹介されている、若き日の西尾少年のエピソードには震える。その年代でその見識は、「栴檀は双葉より香ばし」とだけでは言い尽くせないものがある。こうした人間の透徹した目で現在日本の状況を見れば、すべてが余りに嘆かわしく思うだろう。しかし、いくら真理の月を指し示しても我々凡夫の群れはなかなか仰ぎ見ない。俗事で苦労される西尾先生の姿は、求める人と応える人とのギャップの大きさを示している。
せいぜい「国民の歴史」程度しか、まともに西尾先生の著書を読んだことのない人間が言うのは僭越だが、先生の主張は時代を超越した視点を持った厳しいもの。作家ならともかく、宗教家も思想家も政治家もあるいはマスコミだって、ある程度答えの出た後世にしか正しくは評価されない。たとえ時代の巨人といえども凡人には見抜けないのが普通である。そんな宿命めいた雰囲気のある西尾先生の今後を、ひそかに見つめて行きたい。
7月2日つくる会総会に期待する。
西尾ブログでは「つくる会顛末記」(七)の1と2をもって総括がなされ、つくる会騒動に関する記述が終了したようだ。西尾ブログのおかげで、我々末端の会員も去年8月からの騒動の大筋を知り、理解することが出来た。その後、新田ブログや藤岡ブログが西尾ブログに対抗して、自己主張や真相と称して内部文書などで暴露しあっているが、我々部外者から見ると、八木氏や新田氏ら4人組、種子島氏が会を退いた時点で既に勝負は着いたのであり、今の状況は単なる泥仕合としか思えない。
組織に主導権争いや路線闘争が起こるのは、人間の性から言えばやむを得ない面もあるが、つくる会のようなボランティア組織にあっては、会の目的や大義に対して理がどちらにあるかという部外者からの客観的な批判に耐えられるかどうかが大事である。
結論から言えば、会を退いた者たちは、理や大義を堂々と主張し得ないが故に退会せざるを得なかったのであり、そうであればもともと主導権争いや路線闘争のレベルではなく、彼らが求めたのは理や大義には無関係な単なる権力闘争に過ぎなかったと考えられる。
本部の内部事情や人的関係に疎い部外者の会員として今回の騒動を総括するならば、会を退いた者たちの理や大義に悖る行動と思われる以下の点については、会員への許し難い裏切りとして、かなり早い時期から認識していた。
①文科省の求める「静謐な環境」を理由にして、杉並採択現場での反対派の横暴に対応しようとしなかった宮崎事務局長の怠慢と怯懦。
②1万人弱の会員管理ソフトに、浄財である我々会員の会費を無駄遣いして恥じない宮崎事務局長の傲慢と会運営に対する無責任。
③事務局長を辞めるに際し、日本会議など他の組織の介入を示唆するような発言をし、つくる会の独立性と自分の立場を天秤に掛けた卑怯な宮崎事務局長。
④会に私的旅行と偽り訪中し、中国社会科学院と対話した八木元会長と事務局員は中国のしたたかな謀略外交を感知できず、自らの浅はかな功名心や虚栄心を満足させるためにつくる会を中国の影響下に置いてしまった。つくる会を窮地に陥れた彼らは万死に値する罪を犯した。
⑤ライバルを陥れるために公安情報と称する偽文書を発信或いは利用したり、私信を使って相手を脅迫するなどの犯罪行為を平気で行える倫理観のない八木氏。
⑥実業界の著名人として会の運営にその才能を発揮してくれると期待していたにもかかわらず、大義を見失い、八木氏の解任と再就任の間で無様に揺れ動き、会員に大きな失望と疑念を与えた種子島氏。
以上は、多くの会員が認めざるを得ない、当事者の理を失した行動であると思うのだが、一方では上記の理に反した問題行動を是として、八木氏や四人組を擁護して恥じない会員も多い。価値観が違うとしか言いようがない。価値観が異なる者たちと共に行動は出来ない。こうなれば分裂も致し方ないだろう。理は残った者にあるのだ。
今回の騒動でつくる会は多くのものを失った。
つくる会に対する会員の信頼と結束。脱退する会員も多いと聞く。
友好的な協力団体や宗教団体の離反。
最も大きな失点は、八木元会長の訪中によってつくる会の正当性を失ったことである。
「つくる会」と「救う会」と「靖国参拝」が国民に与えた危機感は国民を覚醒させ、歴史認識で日本を骨抜きにしようとする中国に焦燥感を与えた。その中国にすり寄って歴史会話を求めた行為は、中国が歴史会話を通して中国の宣伝をするパイプが出来たのであり、中国から見れば彼らの軍門に下ったのである。少なくとも中国にそのように解釈する機会を与えてしまったのだ。
中国のネットではすでに「つくる会の投降」と流布されている。
7月2日のつくる会総会で新しい執行部が誕生する。
会員と世間に向けてどの様なメッセージを発するのか注目しよう。
メッセージによっては多くの失ったものも回復できるかもしれない。
理と大義は我に在りと確信を持って言葉を発するならば、疑心暗鬼の会員も新しい執行部を支持するだろう。会員が再結束できるかどうか正念場である。
西尾氏の言うとおり、中国社会科学院に向けて会話内容とつくる会は無関係である旨公文書で通報し、更に八木氏を改めて除名処分にしなければならない。
会の独立を宣言し、同時に諸団体に向けて会の新しい方針について理解と協力を求めるべきだ。
誰がどう言ったとか、言わなかったとかそんな不毛な論議にエネルギーを注ぐのは馬鹿馬鹿しい限りだ。理と大義に背を向けた者たちには、つくる会に携わる正当性は無いのだから「つくる会の体質を正す会」や「第2つくる会」などは茶番に過ぎない。
彼らを相手にするよりも、新しい希望と目標を会員に指し示し、会員を鼓舞し、八木一派との決別の宣言をする総会であって欲しい。
(多重投降乞許可)
西尾先生は
> 愚かな左を相手にせず、右の中の真贋闘争に集中することが、大衆の意識
> を向上させることにも役立つはずです。
と仰いますが、
「白い猫も黒い猫も鼠をとる猫はよい猫だ」—トウ小平
という言葉があります。これをもじって
西尾でも藤岡でも八木でもあるいは渡部でも岡崎
でも自虐を退治する論客はよい論客だ
と言えませんか。
それとも西尾先生以外は、皆、鼠に食われてしまうようなひ弱な猫なんですか。あるいは猫の仮面をかぶった鼠なんですか。いくらなんでもそこまでひどいとは思えません。真贋論争をしたところで大多数の大衆には猫(保守)のちがいはわからないでしょう。むしろ猫どうし争っているうちに鼠(愚かな左)が増えることを危惧しています。
トウ小平の言葉を出すだけでなく、先生方を猫に喩えたりして、不愉快な思いをされたかもしれません。また、書いている内容からして西尾ブログに棲息する論客からは叩かれること必至だと思いますが、それを覚悟で書き込みします。
—
エントリ違いのため移動
以降、同様の場合には同じ処理を継続。
エントリを選んで投稿してください。
管理人
<続き①-3> Posted by 東埼玉人
八木氏の「訪中批判」から思わず長引いてしまった。
長くなった序でに『諸君』7月号の八木氏の文章について。
今更論ずるに値しない文章なのかも知れないが、2点だけ述べておきたい。
第一、八木氏に疑惑が掛けられている「怪文書」の件。
自らへの疑惑に関しては、僅かに「四月一日深夜にファックスで送られてきた怪文書も、私のあずかり知らないこと」、と記しているに過ぎない。これでは、①自分が手を下して送っているから具体的に触れられないのではないか、という疑問を払拭できないだろう。この文章全体の無気力さから見て、八木氏に「怪文書」を送るほどの「気力・バイタリティー」が果たしてあるのか、と逆の考えも浮かんでくるのだが。
しかし、もっと驚くべきことは、②「『怪文書と言われるものを誰が送ったかは知らないが、私を支持する人たちが送ったといわれるのであれば、それでもいい。…』――」と述べたということである。自分の支持者に疑惑を転嫁して、あるいはその疑惑を放置して恥じないのであろうか、全く理解に苦しむところである。(これも、自ら行ったことを隠蔽する言い訳ではないか、と言う疑惑にもなりうる。)
第二、藤岡氏の党歴疑惑問題に関して。
「『H・13 日共離党』という記述については少々噂になっていた。……念のためと思って知り合いの公安関係者に問い合わせたみた。しばらくして『確かにうちのデータではそうなっていますね』との返事があった。それを親しい人数人に『公安関係者はそう言っていますね』と語っただけだった。」
ここで、どうして直接藤岡氏に尋ねなかったのか、とは問うまい。しかし公安関係者(公安調査庁勤務者ということであろう。)に聞くとはどういうことか。
「この度の皇室典範改定の動きは宮内庁の先導です。それは宮内庁内部からの情報で間違いありません」、というのは分かる。八木氏の人脈によって得た特別情報だからである。
しかし公安調査庁ともなれば、国家の公的な情報機関である。八木氏は如何なる権利をもってその国家情報にアクセスできるのか。それを親しい人に漏らすとは、どういう感覚なのだろう。(公私のけじめが完全に欠落している。)
八木氏に情報を渡す方も可笑しいではないか。機密漏洩ではないのか。少なくとも個人情報の漏洩には相当する。公安調査庁は内部調査をすべきであろう。
さらに驚くことに(八木氏の言うことが事実とすれば)、公安調査庁とはガセネタを収拾しているのか、ということにもなってしまう。
反対に、八木氏の述べていることは全くの出鱈目で、公安調査庁は何の関係もないのだとしたら、一体八木氏とは何のエージェントなのか、ということになる。
かくもいかがわしい八木氏に、フジサンケイグループは、産経新風賞の名誉を与えたたままでよいのであろうか。
以上で、「つくる会」に関わる第一点を終わり、次に、稿を改め、『諸君』5月号の「『つくる会』――内紛の一部始終」(西岡治秀)について述べたい。<続く>
<続き②> Posted by 東埼玉人
既に旧聞に属することかも知れないが、西尾先生も取り上げている、『諸君』5月号・西岡治秀「『つくる会』――内紛の一部始終」の記述の一部を見逃すことができない。
西尾先生も言われる通り、この記事自体、客観的記述を装っているが決して中立公正なものではないが、それにしても、「教科書問題」に直接関係しない問題を何気なく挿入して、実は重要な問題について一方的批判をする、という卑劣な書き方を許せないのである。
「ある識者」の言うところとして、次のように書かれている。(P172中~下段)
「西尾氏郵政民営化反対の議論に一理はある。しかしその議論は、詰めていくと関岡英之氏や吉川元忠氏(故人)などの『鎖国経済論』と同じになってしまう。アメリカの年次改革要望書を悪玉に仕立て、アメリカの陰謀を強調したとしても何の意味ももたない。日本の金融は、これまで護送船団に守られ国際競争力がなかったのであり、これから競争力をつけていけばよい話だ。そして郵政民営化は、第二の予算といわれる財政投融資というカネの入口をぶち壊し、官僚と政治家の利権構造を打破することであり、道路公団というカネの出口をいじるよりも、何倍も効果がある。その意味で郵政民営化は小泉総理が言うように構造改革の本丸であり、それを国民は支持した」
この冒頭、「西尾氏郵政民営化反対の議論に一理はある。」というのは慇懃無礼な表現である。何故なら、後半部分「そして郵政民営化は、第二の予算といわれる財政投融資というカネの入口をぶち壊し……小泉総理が言うように構造改革の本丸であり」云々、を認めるならば、とても「西尾氏の議論に一理はある」ことにならないからである。「ある識者」が本当に存在するなら、このような言い方をする筈がない。冒頭の表現は、西尾先生の立場を、一見尊重しているかのように装うために、西岡氏が付け加えたか、または書き換えたものとみる外はない。
この郵政改革は「カネの入口をぶち壊す」もので「構造改革の本丸」であるといった議論は、反対者によって散々に論破されている鉄面皮なものだが、それはここでは追及しない。
問題は、関岡氏や吉川(きっかわ)氏の議論を「鎖国経済論」と決めつけ、「アメリカの年次改革要望書を悪玉に仕立て、アメリカの陰謀を強調」することに意味がないと、グローバリズムや市場原理至上主義、小泉構造改革等に対する批判を恰も陳腐な議論であるかのように見せかけていることである。「保守派」が経済に弱いのを良いことに、経済の「素人」の議論はこの程度で貶められるものと見ているのであろう。しかし、このような「裏口攻撃」を仕掛けること自体、第一に、正面から議論しては勝ち目がないことの告白であり、第二に、しかし西尾先生のこの間の言論が、単に教科書問題を超えて、攻撃された側にとっては本質的で無視できない、「痛いところを突かれた」ものであることを反証とも言えるであろう。
以下、記述すると長くなるので、この件に付、批判の意図だけを印し、ここで中止します。
長谷川様
お手数を掛けますが、適当なところに移してください。