「『昭和の戦争』について」 (二)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第一章 「昭和の戦争」前史

第二節 明治政府の国家戦略

 元寇以来未曾有の国難到来、それは十九世紀当初から高まった西欧列国の脅威だった。それは寛政年間(一八世紀末葉)から始まっていたが、大きな山は一八五三=嘉永六年(凡そ百五十年前)、米国ペリー艦隊の来襲だ。米国政府は徳川幕府に『開国要求』を突きつけた。その目的は欧米列強の世界支配の論理を日本に飲み込ませることであり、それが拒絶されれば、軍事力に物を言わせて植民地支配への道を切り開くことであった。「開国要求」の方法が所謂『砲艦外交(ガンボート・ポリシー)』であったのは、そのことを如実に物語る。同じ年に、プチャーチン座上のロシア艦隊が長崎に襲来して『開国』を要求した。この時点から日本の近代史は本格的に始まる。わが国は欧米列強の侵略の脅威に直面したのであって、それにどのように対応していくかが幕末政治史の核心的課題になったのである。

 徳川幕府は、欧米列強の支配圏に参入することで、侵略の脅威を避ける道を選択した。一八五八=安政五年、日米通商条約締結である。この時点で我が国は不平等条約と言う重い足枷を嵌められて西洋列強の国際関係の枠組みの中に引きずり込まれたのである。この巨大な衝撃に耐え切れず徳川幕府は崩壊して一八六八=慶応四年に明治政府が登場する。欧米列強の東アジア侵略攻勢がなければ、近代日本の擡頭はありえなかった。つまり、内発的な動機から日本が近代世界に参入したのではない。徳川三百年の「泰平」は、我々が思っている以上に安定していて、対外政策は「鎖国」だったからである。
 
 さて、欧米列強の東アジア侵略への防衛的対応という課題を背負って誕生した明治政府の国家戦略を端的に言えば、二点ある。

 第一は、当然のことながら、日本民族の独立と安全の確保=「国権の確立」であった。「国権の確立」とは、先進西欧列強と対等並立できる強国に成ることで、「万国対峙」「万国並立」と表現された。当面の最大の懸案は「西欧的国民国家」の建設と「富国強兵」政策の推進と不平等条約改正事業だった。西洋列強が我が国を独立主権国家に相応しいと認知してくれない限り、「国権確立」は達成困難だったからである。そこで、「開国進取」の理念を基に近代西洋的国家・市民社会・産業社会の建設に全力を投入したのである。

 第二は、「東洋世界の平和と安定の確立」(「東亜〔支那〕の保全・東亜〔支那〕の覚醒」)であった。昭和時代には「東亜(アジア)の解放」と言われたが、要するに西洋列強=白人覇権勢力の圧迫から植民地支配の悲哀に陥り恐怖に慄く被抑圧諸民族=有色諸民族を解放することである。幕末に幕臣勝海舟は、その目的を目指す手段として「日支鮮三国同盟論」なる東アジア連合を提案していた。この構想は、明治政府の要人たちにも受け継がれ、日本外交の一潮流としなっていく。だが、外交は、我が国の意向や思惑だけでは動いてくれない。二十世紀前半の我が国を取り巻く国際関係は、正にその典型だったと言えよう。

 なお、明治政府は、凡そ二十有余年間、「西欧的国民国家」建設と「富国強兵」政策推進に涙ぐましい努力を重ねて、一八八九=明治二十二年には「大日本帝国憲法」を発布して、翌年からの帝国議会開設へと漕ぎ着けた。同時に産業社会の仕組・国民教育の機構・国民軍隊=陸海両軍もこの頃までにはその基礎構築を進展させていたのである。

第三節 日清戦争の歴史的意義

 日清戦争の歴史的意義は何か。欧米列強の東亜侵略に対抗するための国際環境の整備という側面が重要だ。当時清帝国は、ロシア帝国の南下行動に有効な対抗策を打ち出せないでいた。他方で、朝鮮半島に対しては旧来の中華体制的宗属関係を維持していた。清国は朝鮮国の宗主国である。朝鮮半島は支那のいわば植民地的存在だった。宗主国支那がロシア帝国に侵略されれば、属国朝鮮も一網打尽の餌食となろう。そうなっては、我が日本の安全保障は重大な危機に直面する。「中華思想」「中華体制」で東アジアから西欧列強の侵略を撃退するのは不可能である。余りにも独善的で全体を冷静・客観的に見る能力を欠いている。朝鮮王朝を清帝国の支配から離脱させて独立主権国家に育成し、日鮮提携して極東の安全保障を強化する、これが我が国の朝鮮政策であった。日清戦争は、朝鮮半島から清帝国を追い払って朝鮮王国を独立させると言う文脈の中で起きたのである。(注・大韓帝国、皇帝、独立門)。

 一八九五=明治二八年四月に下関講和条約で清国から遼東半島を割譲した。しかるに、露独仏の三国が、「東洋平和の為に」なら無いから清国に返還せよと強要して来た(三国干渉)。力関係を熟慮して我が国政府は、干渉を受け容れた(同年五月「遼東還付・臥薪嘗胆」)。ところが、お説教したロシアは、舌の根も乾かぬ内に清国から遼東半島(三一年六月、旅順・大連)を租借して強固な要塞を建設、また南満洲鉄道の敷設権を獲得して、満洲・蒙古と朝鮮半島への侵略政策に力を入れるに至った。シベリア鉄道の建設は間もなく完工を向かえる段階だった。朝鮮王朝の近代化改革を支援しようと日本が動いたその時、三国干渉で情勢急変、李朝は忽ち強いのは日本よりもロシア帝国だと擦り寄ったのである(朝鮮の「事大主義」)。日清戦争の成果は失われ、急転直下、朝鮮半島は更に危うい情勢に陥った。日露戦争の種は、こうしてロシアと朝鮮によって撒かれたといってよい。

第四節 日露戦争の世界史的意義

 日清戦争後、清国に対する西洋列強の侵略運動が加速した。そこで義和団の過激な攘夷運動が燃え盛り、義和団事変となる。清国皇帝は義和団の攘夷運動を公認した。義和団は北京の列国外交団や居留民殲滅戦を展開し、清王朝は日本を含む欧米列強に宣戦布告した。日本軍を主力とした連合国軍はこれを撃退し、「北京議定書」が成立した。この情勢の中でロシア帝国は満洲を略完全に占領して南下政策強行の姿勢を示した。ロシアの朝鮮・満洲・支那・蒙古への侵略の阻止こそが我が国が対露戦争に立ち上がった動機である。兵員大量輸送のためのシベリア鉄道も略完成していた。

 国力、軍事力の比で見れば日本の勝利はとても無理だと列国の軍事専門家筋は予想したが、わが陸海軍の勇猛果敢な奮闘で、一応の勝利となった。ポーツマス講和条約締結の際の苦労は日本の「善戦の末の辛勝」を如実に示している。英国と米国の支援を得た結果であった。いずれにせよ我が国は日露戦勝でロシアを満洲北部へ押し戻し、朝鮮を我が国の勢力圏に編入せしめた。明治政府の国家戦略の大きな前進だったのである。(注・日露兵力比)

 さて、日露戦勝の歴史的意義は、第一に、新興小強国として西欧列強の認知を獲得できたこと、第二に、ロシア帝国の露骨な支那・朝鮮・蒙古への南下を阻止したこと、第三に他の列強の形振り構わぬ支那分割に歯止めをかけたこと、第四に、白人覇権勢力に頭を抑えられ呻吟している有色諸民族に『民族解放』『国家独立』への大きな希望を与え、大いに激励することになったこと等であった。

 なお、不平等条約改正問題は「国権確立」問題の象徴だが、実に困難な外交課題だった。治外法権の解消は日清戦争直前の明治二十六年七月、関税自主権完全回復は、何と明治四十四年二月であった。欧米列強との対等・平等への道が如何に長く困難だったかを如実に物語っている。尚、明治三五年一月に日英同盟が成立し、英国が有色人種の国家と対等な同盟条約を結んだ最初である。

 一九一〇=明治四三年の「日韓併合」は、既に指摘しておいたように、外交交渉による日本への併合であって、侵略戦争で奪い取った植民地ではない。我が国が力関係で上だったから交渉を主導したのは当然であった。今でも、国際関係は力関係で大きく左右されているので不思議とするには当たらない。竹島を不法占領して恬として恥じない姿勢と比べれば、日韓併合条約締結過程は遥かに紳士的だったと言ってよい。歴史を直視しない現在の韓国政府は、勝手に決め込んだ歪曲史観から発する理不尽な怒りと不満で、「日帝三十六年の植民地支配」の清算などと国際法を眼中におかない妄言を吐いているが、当時の半島人の多くは日韓併合を大歓迎したのだ。李氏朝鮮王朝は、極端な独裁政治で民生の安定も図れず、況や自助努力で「独立主権国家」を形成する意欲も能力もなかった。朝鮮半島が「力の空白地帯」になることを日本は容認できなかった。ロシア帝国の朝鮮侵略意欲が目に見えていたからだ。

 なお、日韓併合以後は、日本は国家財政を朝鮮半島経営に割いた。また、近代化の基礎構築、教育水準の向上、社会基盤や環境の改善等に融資と助力を惜しまなかった。朝鮮半島から搾取するものは殆ど無く、逆に本土からの資金の持ち出しであり、朝鮮人の社会環境や生活向上に多大の成果を挙げたというのが歴史の事実であった。大東亜戦争敗北後の我が国の経済復興、高度成長の原因は、財政上の重荷だった朝鮮や台湾を切り離されたお蔭である。戦前、我が国は朝鮮・台湾・満洲に対し一視同仁、「内外(鮮)一体」の気持から外地の発展に大きな資金を回していた、その分が無くなったためである。「東亜=アジアの解放」の努力として日本と朝鮮・台湾・満洲問題は見るべきものなのである。

 若しこれをどうしても植民地支配と言いたいのであれば、実に立派な植民地支配である。英国のインド、アラブ地域支配、仏国のアルジェリア、モロッコ支配、スペインの中南米やオランダのインドネシア植民地支配、何れも実に虐殺も厭わす残虐で無慈悲な搾取と差別の支配であったが、それとは似て非なるものであった。然るに、韓国や北朝鮮は、『苛酷な植民地支配』だったと執拗に反省と謝罪を求める。また我が国のボケナスの保守政治家や左翼諸君は悪辣な植民地支配をしたと、謝罪と反省に余念が無い。その者たちは、先祖の偉業を侮蔑することに快感を覚える愚か者だ。また、朝鮮=韓国の人々は、日本をただ感情的に非難・攻撃する前に、右の事実や自分たちの先達の不見識と不甲斐なさに思いを致して反省すべきであろう。日本政府は事実を直視して毅然と対応すべきだ。

つづく

「「『昭和の戦争』について」 (二)」への14件のフィードバック

  1. トラックバックをかけたのですが反映されなかったので・・・。
    長くてすいません。

    第二次大戦はなぜ起こったのか。

     最近刊行された本のうちで興味深い書物がありました。
    それはPeter B. NibloのINFLUENCEという本です。
    作者のNiblo氏に関する詳細は詳しくはわかりません。
    米国のインテリジェンスコミュニティーに属する人だということぐらいしかわかりません。おそらく年齢は70歳以上でしょう。
    1950年から情報活動に参加したようなので、もう相当年配の人です。

    で、このほんのどこが面白いかというと、その章立てです。
    ここの部分だけ紹介しましょう。

    プロローグ
    1章 ほこりまみれの満州鉄道
    A 日本帝国
    B 日清戦争
    C モスクワの対応
    D 日露戦争
    E 中国という焦点:21箇条要求
    F ワシントン会議
    2章 将来最も敵国になる可能性のある国
    A リヒャルト・ゾルゲの物語
    3章 鉄の男
    4章 我々の将軍が亡命した
    インタールード スパイの技法
    5章 ソビエトによるアメリカ政府への浸透
    A 情報工作
    B ナータン・シルバーマスター
    C ハリー・デクスター・ホワイト
    D ロークリン・カリー
    E マイケル・グリーンバーグ
    F ウィリアム・ウルマン
    G アルジャー・ヒス
    6章 ルーズベルトの身内の集まり
    7章 ルーズベルト:スターリンの影響力を持つ個人エージェント
    A 奇妙な武器貸与法
    B パールハーバー
    8章 結論:新たなグレートゲームが始まる
    A アルゼンチン湾会議
    B カサブランカ会議
    C ワシントン会議
    D 第一回ケベック会議
    E カイロ会議
    F テヘラン会議
    G ブレトンウッズ会議
    H ダンバートンオークス会議
    I 第二回ケベック会議
    J ヤルタ会議
    K 歴史再考
    L 新たなる任務

    この章立てをみて私はこの本を買ってしまったのですが、意外に薄い本でした。資料も最近公開された資料をふんだんに使っているわけでもありません。しかし、この章立ては実に感慨深いものです。
     個々の論点はもうすでにおなじみのものばかりですが、改めて並べてみると多くのことがわかります。それはまず第一にロシアの影響力の強さでしょう。特に、スターリン時代になってから外交情報能力が格段に上昇していることでしょう。日露戦争がロシアの最低の状態だったとすれば、第二次大戦は反対にその絶頂にあったといっても良さそうです。実際2年代半ばから、ソビエトのコミンテルンなどを通じた情報工作は本格化するわけですが、それが29年から始まる世界大恐慌という追い風を受けて、日本、ドイツはもとより米国や英国にも広がっていくという構図がまずあります。国家としてのファンダメンタルズという点からみれば、決して良好とはいえなかったソビエトが第二次大戦を生き延びることができたのは、卓越した外交能力とそれを支えたスターリン個人の力量であったといえるでしょう。政治目的の内容はともかく、政治的意志を実現するという力量においては、スターリン、それと少し遅れてくる毛沢東の再評価が必要であるように思います。
     第二に、米英の陰に隠れた覇権争いがあります。チャーチルはそれを「衛兵の交代」と呼びましたが、表面的には「米英の特殊な関係」というものがありました。この関係を構想したのが、アメリカサイドでは実はセオドア・ルーズベルトで、同時に彼はアメリカ拡大論者の一員でもありました。第二次大戦のアメリカ側の潜在的動機は、オレンジ計画などですでに知られていますが、このセオドア・ルーズベルトの時代からアメリカの野心もしくは嫉妬を考慮しておくことが肝要であろうと思えます。興味深いのはセオドア・ルーズベルトとフランクリン・ルーズベルトは名前が同じなだけでなく、公務としてどちらも海軍次官補を務めていることです。二人が考えていたのは、海洋国家としてのアメリカ、そしてフランクリンの方は特にイギリスの覇権を崩した上でのアメリカの覇権の確立でした。しかし、そのアメリカの覇権の確立が、実はソビエトの影響力の元においてだったというのが、ブレトンウッズ、ダンバートンオークス会議における歴史の皮肉であったといえるでしょう。
     最後に、この章立てで気がつくことは、近代ヨーロッパ国家システムにおいていかに日本の存在感が大きかったかと言うことでしょう。日露戦争の勝利が、英露の二局構造で均衡をとっていたヨーロッパの勢力均衡を突き崩し、ドイツの台頭を招きます。それが、第一次大戦につながり、文明の中心としてのヨーロッパは崩壊します。それと同時にロシアに共産主義政権が生まれたことが、それまでの国家システムにきしみを生じさせます。第一次大戦後に、ドイツが台頭すれば、それまでのルールであれば、英はロシアと手を組んでドイツを封じ込めれば良かったのです。しかし、共産主義国家と手を結んでドイツを封じ込めるというのは、土壇場まで不可能でした。それが、戦間期のヨーロッパの政治混乱と第二次大戦の勃発を生んだと考えることができます。
     ですから日露戦争以降の日本の転落も、日本人自身が自分の持つ力のあり方にあまりに無自覚であったことにも一因があるように思えます。もう一つ要因を挙げるとすれば、日本人の外交史の知識が十分ではなかったことも挙げられるでしょう。

     ですから、第二次大戦の原因並びにその責任は、100%日本の側にあったとはとてもいえないのは確かでしょう。特に、FDRの周辺には未だに十分明らかにされていない闇があります。その闇を表に出すことから、第二次大戦の検証は始まるのだと思います。

    (最後になりましたが、福地先生の続きを楽しみにしています。無頼教師)

  2. 「南方飢餓戦線」より

    ヌイの集落の中央の屋根だけ掛けた小屋に、立派に製材された木材が
    山積されているのを発見して驚いた。製材所一つないセラムの山中に、
    どこで、どのようにして入手、運搬したのか驚異だった。教会の建材
    として先代の牧師の時代からの収集品であると言っていたが、キリス
    ト教の隠然たる勢力、イスラム教の民衆への浸透、仏教に欠ける何物
    かを異国でこれほど鮮明に味わうとは思いもよらないことだった。

    「南方飢餓戦線」を書いた、この方は大正10年生まれで昭和17年現役
    兵として入営、20年インドネシア、セラム島で終戦、21年復員。
    つまり20代前半で体験し得たことを平成15年、80代に書き綴り
    以下のように締めくくっている・・・

    終戦後すでに五十八年の歳月が流れた。敗戦という建国以未曾有の出
    来事により戦後の歴史は大きく書き替えられ、特に軍隊に関するもの
    は歪められ、あるいは誇張されて、悪かったことばかりが興味本位に
    伝えられ、その当時の本当の姿を伝えていないと思う。
    もちろん為政者の過ちもあるだろうが、歴史の大きな歯車は後世の人
    が考えるほどに、その軌道を変えられるものではない。そしてまた、
    その真相はその渦中に生きた者でないと容易に理解できないと思う。
    軍部の非を唱え、軍を誹謗する人は多くいる。そしてまた、それを書
    き立てるマスコミは戦時中一体何をしていただろうか。

    私は別に軍国主義者でもなければ国粋主義者でもないが、彼ら及びマ
    スコミは卑怯であると思う。この荒廃、堕落した祖国日本の姿を見る
    時、戦後の彼ら及びマスコミの行動に対し憤りを感ずる者の一人であ
    る。真の勇者は黙々として祖国の難に殉じていった還らざる英霊であ
    ることに、日本人は思いをいたさねばならない。

    今次大戦の原因もまた十五世紀に始まる英、米、独、露、オランダ、
    その他ヨーロッパ諸国の植民地政策に基づく東亜侵略、阿片戦争まで
    遡らなければ解明できない。大平洋戦争は大東亜戦争でなければ、今
    次大戦に戦没された英霊は永久に浮かぶ瀬はない。そしてまた今次大
    戦に、その青春をすり減らして戦った我々にとっても、たまったもの
    ではない。したがって、私にとっても大平洋戦争は大東亜戦争なので
    ある。

  3. 「南方飢餓戦線」あとがき/より抜粋
    ・・・・・・・・・・・・前略・・・・・・・・・・・・・・・・
    戦後アメリカは日本をして再びアメリカと戦い得ない国となすべく
    「平和憲法」と「教育基本法」を定め、その他あらゆる手段を講じ
    て日本の弱体化を計ったが、これに便乗するいわゆる進歩的と称す
    る反日的日本人の跋扈と反日マスメディアの活動に牛耳られ、日本
    は完全に第三流国家に転落してしまった。

    戦後不法占拠された北方四島しかり、韓国に竹島を実行支配され尖
    閣諸島も中国に占領され、度重なる領海侵犯にも何の手立てもでき
    ず、毎日、抗日で首相の靖国神社参拝にまで口をはさむ中国に莫大
    なODA援助を垂れ流し、自国領内で外国人に拉致された国民を二十年
    以上もその対策さえ満足にできない国に一体誰がしたのだろうか。

    軍隊のない国、相手にとってこんな組みやすい国はない。横車を押
    しても、喧嘩をしても少しも恐くないからだ。武力は不要だ、すべ
    て話し合いで解決できると説く左翼思想の持ち主。国際社会はそん
    な甘っちょろいものではない。

    自国の正しい歴史を教わらず、祖国に対し少しの誇りも愛着すら持
    てない国民に育て上げた巧妙な左翼思想。この二つの打破なくして
    祖国日本の再建は永久に不可能である。戦後は戦争のことを語るこ
    とをタブーとするがごとき風潮に、私も子供にも孫にも自分達の学
    生時代のこと、大東亜戦争に従軍したことも一度も語ることはなか
    ったが、男性の平均寿命をはるかに超え、八十歳の大台に達した今
    日、大正に生れ動乱の昭和前半にその青春を投じた者の一員として
    往時を回顧し、いささか所信を記すも無益ではないと思い記したの
    がこの拙文である。国民のすべてが祖国復興に真摯に反省し、高々
    と日の丸の国旗を掲揚し、声高らかに国歌を斉唱する日の一日も早
    からんことを祈りながら。

    平成十五年十一月三日
                    ● 隆行
    …………………………………………………….

    拝啓 ● 隆行様 
     お元気でしょうか、初めてお便りさせていただきます。失礼の段、
    お許し下さい。私は■■■■市在の▼▼▼▼、昭和二十四年生まれ
    五十七才です。去る十月一日、地元の元県会議員をお勤めになった
    △△△△氏が満州開拓団の悲劇を綴った「赤い大地」の出版記念式
    に参加した際会場で販売されていた書籍の中に●氏著作の「南方飢
    餓戦線」をみとめ拝読させて頂きました。
    日頃、●氏と同年代の関西在の伯父貴から戦争体験者の回顧録や自
    身の従軍日記を送って頂いたり、村内の戦中派である、やはり大正
    十年生れの方の満州での戦争体験した自伝をワープロ変換のお手伝
    いをしながら戦後教育で先の大戦に対する不明を取り戻そうとして
    おります。陸軍幹部候補生」を書いた☆氏は伯父貴の戦友で戦友会
    などでの彼らの交友する姿を見ては拝金に囚われ国家意識も薄い自
    身を含めた今日の日本男児の不甲斐を反省する次第です。

    ●氏の「南方飢餓戦線」を読了し感銘を受けたのは単に回想録にと
    どまらず極限の地にあって、その洞察力と祖国に対する深い思いと
    現状に対する義憤です。また、その青年期に於ける悲惨な体験を八
    十路の身をもって克明に活写し我々に伝えようとする、その御心で
    す。同じ男として敬意を表すとともに深く感謝申し上げます。戦後
    六十年、●氏も喝破されてるように「今次大戦の原因もまた十五世
    紀に始まる英、米、独、露、オランダ、その他ヨーロッパ諸国の植
    民地政策に基づく東亜侵略、阿片戦争まで遡らなければ解明できな
    い。」正しく目からウロコが落ちる思いです。
    支那共産党独裁、北朝鮮の拉致、靖国問題等々問題は山積していま
    すが昨今、インターネットといったパソコンによる通信手段が登場
    し真っ当な言論人を中心に若い人々も戦前戦後の不明を明らかにす
    る時代となりました。
    そうした時代にあって●氏をはじめ伯父貴達の祖国日本の未来へ託
    す遺言ともいえる書籍は永遠に伝え申し送る国の財産だと思います。
    「せめて国の為に戦った青年達がいたことを心に刻んで忘れないで
    欲しい・・」と先般も伯父貴が「全陸軍甲種幹部候補生制度史」と
    いう貴重な本を送ってくれました。戦後生まれで団塊の世代などと
    いわれ、この国の経済成長とともに生きてきましたが、我々の責務
    として、このことを胆に命じ生きてゆきたいと思います。
    「南方飢餓戦線」著作、誠に有難うございました。
    あらためて深く感謝申し上げます。
    どうぞ御壮健でお過ごし下さることを祈っております。
                                敬具
    …………………………………………………….

    福地先生 我々に自信と勇気を持たせて下さい。

  4. Posted by 松田

           黒船の本当の意味

     全体として福地先生のお考えは昭和期、とくに大戦中にプロバガンダとして唱えられた歴史教育の影響が濃いと思います。国家の行なう戦争をすべて侵略だというのも偏見ならば、すべて自衛だというのも同様に偏見であり、プロパガンダであります。もうちょっと冷静に歴史の捉え直しができないかなと思います。

     ペリー恫喝外交や黒船神話——泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜もねられず——は、太平洋戦争中に行なわれた皇民教育の影響が強いと言われております。いわく、大平の夢をむさぼっていた神国日本は野蛮人ペリーの砲艦外交によって無理矢理に開国され、いわば強姦されたも同然なのだ。この反米プロパガンダには、おどろおどろしく巨大に描かれた黒船の錦絵が必ず添えられていました。
     しかし、実際にやってきた黒船はこんなもんであります。
    Black Ships & Samurai (MIT)

     しかも、ペリーの『日本遠征日記』などを読んでみますと、日本人は非常に狡猾で外交上手なしたたかな国民だとあります。確かに、彼はそれまでのオランダ商人のように将軍の前にはいつくばったり、ダンスを踊ってみせたりということはありませんでした。ことさらに武力を誇示したパフォーマンスを繰り返しているわけですが、これには彼が商人ではなく軍人だということを忘れてはなりません。

     また、この時期鎖国を解いて、各国と通商関係をもつというのは歴史の必然だったかと思います。ペリー以前にも30年ほど前から盛んに沿岸に出没する各国艦船との実力行使を伴った紛争は頻発しておりましたし、なによりも蒸気船の発明という技術革新が第一の理由だろうと思います。ペリーも、それに先立つオランダ国書も繰り返しておりますが、蒸気船を使えば、アメリカ西岸から19日で日本に到達することができる、もう隣国なのだという合理的説得であります。

     当時の幕府はもちろん黒船の威容にも驚いたかもしれませんが、それよりもっと驚いたのは、そうした西洋世界で進行している技術革命全体だったのだろうと思います。ペリーが大統領からの贈り物として持参した数々の品物には、小型の機関車、電信設備まであったといいます。彼らはこれらの発明品を実演してみせ技術的優位性を大いにパフォーマンスしています。サムライたちはこれらの品々に夢中になったといいます。幕府側としても「これに乗り遅れたらやられる」そう直感したことだろうと思います。

     むしろ砲艦外交といいますなら、これらのことをまだ聞き分けなかった薩摩・長州に対して、イギリス艦隊が砲撃した薩英戦争・長英戦争が相当するでしょう。しかし、不思議なことに、この英国本国の許可もえないで行なわれた野蛮行為は、その後の明治政府による教育では長く非難されることがありませんでした。もちろん日英同盟があったからです。薩長も交戦後は手の平を返したように英国に接近しています。そして、イギリス側の記録を見ればわかるとおり、明治維新の成就にもこれら外国駐留軍の動静が非常な影響を与えていたのです。明治政府からしてすでに外国の干渉を無視しては誕生しえない政権だったのです。

     また「つくる会」の歴史教科書では、この薩英、長英戦争に際して、イギリス側が炸裂弾、日本側が球形弾を用いていたのが敗因のように書かれていますが、アーネスト・サトウの日記などを見ますと、炸裂弾・球形弾・榴弾はどちらも用いていたようであります。むしろ下関で押収した日本側の大砲が青銅砲であったことが驚きをもって書かれています。つまり青銅砲なので飛距離が短いわけですね。さらに応援に参加したアメリカ艦船がアームストロング砲を一門積んでいたことも大きかったようです。佐賀藩はすぐにこのアームストロング砲の、宇和島藩は蒸気機関の自作にも取りかかっています。

  5.  つけ加えますが、近代日本が最初に採用した西洋型高等教育はアメリカ式だったのです。大陸式ではありませんでした。ほんとうにアメリカの砲艦外交を憎んでいたなら、その憎むべき国の教育を採用するなどということはありえかったと思います。アーネスト・サトウは日本の高等教育にイギリスが影響力を行使しえなかったことを大変残念がっています。

  6. 「つくる会に入ったきっかけ」

     私が教科書問題で最も衝撃を受けたのは、大東亜戦争はおろか、日露戦争までが歴史教科書では否定的に書かれているという話を聞いた時でした。。。

     当時は、まだサヨク気分が抜けていなかったので(元は赤旗を愛読する極左少年でした)、大東亜戦争の評価については何ともいえなかったのですが、あの国難をかろうじて切り抜けた日露戦争まで否定するのはいくらなんでもやりすぎだと、怒りがこみ上げてきました。。。

     これは、教科書改善運動に是非とも参加しなければならないと思いましたね。。。

  7. 「顧客管理ソフトが大丈夫なんて大嘘」

     八木氏や新田氏が主張する、「顧客ソフトに不具合なく稼働している」という主張が全く出鱈目であることがつくる会によって明らかにされています。。。

    ========================
     今回のK氏の報告書によって、昨年11月12日付けの「会員管理システム問題にかかわる調査報告」の正しさが改めて確認されました。この報告書は、八木会長(当時)の提案で設置された「事務局再建委員会」(八木会長、遠藤・藤岡副会長)の調査に基づき、同日の執行部会で確定した文書です。

     その報告書では、第三者であるコアサイエンス社の技術者によるシステムの不安定性の指摘と、システム開発にあたったコンピュートロニクス社自身が新たなシステム構築を勧めていた事実に基づき、

    1.不明朗な発注によって、
    2.1千万円もの投資をし、
    3.それがきわめて不安定な状況にある、

    という問題を指摘しました。この問題は依然として解決されていないのであり、会として今後どういうシステムが適切であるかを検討します。

    つくる会Webニュースより、http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_060614_1.html
    ========================

     どう考えても、宮崎氏に責任問題があるのは明かですね。。。

     西尾先生が宮崎氏の更迭を考えたのも無理がない話です。。。(--)

  8. 『孤独な文明 日本』

    松田さんあの絵を見て反米プロパガンダとは言いすぎでしょう。

    当時の日本の千石船(米にして150トン積載)は徳川幕府の禁令により水をかぶったら終わりになる構造を持っていましたから、沿岸航海で風を見ながら、すこしおかしくなるとすぐ近くの港に退避するしか安全を守れなかったのです。するとご紹介の左側の嵐の中を行動する絵を仮に当時の航海を知っている日本人が見たら脅威を感じてもおかしくはないでしょう。

    右側の錦絵でもそうです。

    私は錦絵の作者が実物を見て書いたとは思えませんが、というか錦絵で西洋絵画の遠近法などの西洋画の技法を学んだ日本人は確かにおりますが、絵や漫画というのは見た印象に従って描くのは当然の話です。

    これは16世紀の西洋の海外紹介の書物なんかの絵を見ると何と後代で欧州の祖先という認識になったギリシャ人は木の根っこから生えている様子で書かれているし、それ以外は半獣半人、なかには半分人間どころか全部妖怪のような描き方をしています。欧州による東洋やアフリカ征服時代ではその地にいてキリスト教に改宗した現地人を人間と認めるかどうかでさえキリスト教会では問題になっていたのです。秀吉がキリシタン弾圧をした理由の一つは宣教師が日本人を奴隷にして売買していることをとがめていないことをあげています。

    絵や文字でさえイメージ先行なんですから、それは現代でもそうだろうと思いますよ。
    小林よしのりが描いた漫画なんかもそうでしょう。

    余談ながらイメージ先行は絵だけじゃない。日本語だったそうでしょう。初めにイメージありきですから、それがしばしばレッテル付のように見えるのは必然だと思いますよ。
    俳句にしろ和歌にしろ短い文章でイメージを強烈に印象付け、かといって野暮にならないように表現しているわけです。そしてこの錦絵は当時の少なくとも庶民には共感するものがあったのでしょ。日本語はロゴス(論理)でなくてパトス(感情・印象)だという言葉をどこかで読んだことがありますが、そういう伝統は小泉劇場まで続いていると私なんか思っていますけど。

    私なんか福地先生の論説を読んでいて反米なんか思いません。おそらく現代でもそうだと思いますが、欧米も中国も自国国益中心で動いていますから、米国だけ批判するという気にはなれません。

    経済上で当時の一番の問題なのは当時の列強が押し付けた治外法権や関税の自治権の自由の排除です。これは列強の間では通用しない法ですが、強姦されてその制度を受け入れたか、または素直にそれが国際基準だと疑わずに従ったのかは知りませんか、これにより国内の金と銀の差額に目に付けた列強は当時南米大陸で始まった巨大金脈でえられた金を使って濡れ手で粟の銭儲けをしたのです。関税の自治権を奪われた日本にはどうしようもありませんでした。日本は朝鮮と違って江戸初期でさえ朝鮮の使節が「日本の乞食が食べ物より銭をほしがる」と驚くほど貨幣経済が進み、米相場の取引なんかおそらく世界で最初だったのでしょう。従って経済への関心は今に始まったことじゃないから関税の自治権問題は政府の重要問題だったわけです。

    当時の記録に面白いものがあります。ある欧米の領事が「誰が日本人に国際法なんか教えたんだ」と非難している言葉の記録です。当時の外交官が国益のためには平気で嘘をいうのは当然でしょう。なお知らせないでおくというのも嘘の一種です。

    日本の不思議は敗戦後もそうですが、負けると負けた国の精神を学ばず、制度だけを採るような習慣があります。福地先生の「内発的な動機から日本が近代社会に参入したのじゃない」という論説は実にもっともだと思います。内発的な動機からでない場合は日本人は精神の骨組みをそのままにして型からまねを始めます。その典型が鹿鳴館であり、現代に至る知識人に見られる西洋文明で生じた思想を換骨奪還して日本化する動きなんでしょ。

    換骨奪還と書きましたが、実際には精神をそのままにして表面層だけ変化しますからかならずどっかに不具合を生じます。そしてこれは技術の詳細化に進み、原理の改革には進みません。もともと動機が内的でなくたって工芸が技術の原理変革より詳細化に進みやすい文化なんですから(これは違った原理の文明との衝突が少なかったという側面もありますが)、動機が内的でないならますますその方向へ進むでしょう。

    江戸という時代を私は大きく評価しますが、それは現代日本人の庶民の骨格を西洋思想が作ったのでなく、内的に江戸時代が作ったという認識を持っているからです。しかし一方で戦国時代の戦国大名の思想がそのまま継承されたら日本は西洋よりもっと先に西洋型より「もう少し野蛮さのない」近代化を出来ていたかもしれません。

  9. 近代日本の歩みに関する福地先生の講義が教えるところは、
    西洋列強がアジア大陸を呑吐せんとする侵略的行為に対し、
    日本が必至に臥薪嘗胆し、不安を覚えながらも近代化に努
    め、何とか生き延びようとする先人たちの耐えざる苦難の
    歩みでした。この過酷な歴史に翻弄されながらも必至の思
    いで国の安全を護持せんとしてきた当時の為政者、国民の
    想いを共有することが歴史教育の原点でなければなりません。

    先日、A系のジャーナリストを含む仲間と会食する機会が
    ありました。彼が言わんとしたことは終始、「日本人は中国
    人、朝鮮人をいじめてきたし、今も変わっていない・・」
    というものでした。小生も(精神的)武士を自認している
    関係上、その超フライジャルな物言いに我慢ができず、福地
    先生的な所論を述べ反撃したところ、相手も抵抗しましたが、
    他の仲間たちは正直小生に「理」ありとして判定してくれま
    した。

    ある中国人経済人と会食する機会もありました。日本の水域
    に中国の潜水艦が侵入したその日です。彼はやおら「あれは
    台湾の潜水艦です」と小生に言ったのです。小生は即座に
    「台湾の潜水艦はあんなに錆が出るほど手入れしない筈はな
    い!」と説明し、続けて南京虐殺30万人の話を持ち出した
    ため、小生は過去200年の歴史を紐解いて、日本も中国も
    お互い「歴史に翻弄されてきた国同士じゃないか」「支那の
    歴史的安住がアジアの危機を招いた」・・こんな話を(かなり)
    ていねいにしたところ、相手は何も言いませんでした。
    もちろん虐殺問題は国民党政府の宣伝顧問ベイツが捏造した
    情報が基になっている、とも説明しました。相手は論理的な
    説明はできませんから、根拠のない話で防戦してきましたが、
    きちんと小生の話を聞いていました。仕事の関係もあって訪問
    したのですが、小生は仕事よりも、日本の主張を正しく伝える
    ことが第一と即座に判断しました。

    「歴史の翻弄と宿命」、これを抜きにして近代日本の苦難の歴史
    は語れないことを実感しました。
    歴史講義も、よく読めば、文中にその人の「物事の真贋を見極める」
    人間としての素養を感じることができます。福地先生の文章にそれ
    を感じた次第です。

  10. 友人夫婦の会話。和の女:「仏人はお金を払わなくていいことには、パルドン、パルドンってすぐ謝るわね」 仏の男:「う~ん、そうかな? う~ん、そうかも・・」
    謝るという行為(言葉)には払いが付く。車を自分でぶつけたのに「あんたが悪い、あんたが前にいたからだ!」理屈にならない理屈をわめく。とにかく払うのはいや。だから謝らない。相手が謝ると、これで幾らになるかな?とすぐ計算が始まる。日本以外の国ではこれがまかり通っている。世界の常識。だから、欧米の植民地を持った国が謝ったのを聞かない。政治家は謝罪の言葉を吐くときは相手国より、自国民をどう説得するか、夜も寝ないで原稿を練るのだろう。政治と道徳は同じではないことを国民が知っているからか。「あぁ、呆れて物も言えんわ!」というような外国人を相手に対等にやりあうには、日本人は地べたに足の裏をビタッとつけ、下腹に力を入れ、顎を引き胸を張り、嘘でもいい、ノン、ノン、を言ってみたらいい。相手はひょっとしてこいつは大物?と思ってくれる瞬間がある。時を逃さずこちらのいい所をずらーと並べる。相手は一歩下がってお付き合いさせて欲しいという。世界には悪意があることを認めたがらない日本人には「ノン ノン」は難しいかも。

     「自国の歴史を語るのに教科書に悪口を書く国がどこにあるか」夏彦少年が夢想庵に連れられて仏国にきたのが16歳の時。無口だったがちゃんと世の中の見ていたのだろう。

    福地先生素的です。「・・・立派な植民地支配である。 欧米の植民地支配は実に残虐、無慈悲、搾取と差別、それとは似て非なるもの・・・」
    「良いものは良い」と書いてどこがおかしいのですかと。
    良くぞ仰ってくださいました。何に遠慮がいりましょう。愛しいわが日本国の歴史です。
    先生は堂々となさっておられます。

    「個人としての思想はいいが【つくる会】副会長としては発言を謹め」とは、此は如何に。大阪書籍教育出版日本書籍東京書籍 と【新しい歴史教科書を作る会】は違います。
    【新しい歴史教科書を作る会】の教科書は、誇り高き民族の国民からは逆に立派であると尊敬されるでしょう。祖父母・父母の悪口を書きたて、自国の英雄を知らない子供達を作る教科書は、誇り高き民族の国民からは軽蔑されるでしょう。

    福地先生の堂々の筆致は「銀一様のコメントを読んで、込みあがってくるものを感じ涙した私・・・この日本国のために戦争で死んだ男達・・・。馬鹿な戦争で、犬死だと戦後言われ続けた男達に」栄光と感謝を捧げておられます。

    明治生まれの私の父は「風呂入って、屁こいている様な人間に何がわかる」と。
    「戦争に行ってないくせに」この一言で充分です。

    私は時々想像の世界で遊びます。悪者が追いかけてきたら・・・道路の右に表札、西尾があり、左側に表札、大江がある。また石原と美濃部の家があったらどの家に私は飛び込むか? 私は男の「真贋」は分かります。

    田舎のダンディさん、私のコメントに嬉しい感想文を頂き有難うございました。喜んで繰り返し読みました。戦争中に思春期を送っていたなら私は間違いなく「愛国少女」だったでしょう。明治生まれの父の8番目の末生りです。

  11. お断り
    バンドルネームを「bagabond」から「vagabond」に変更します。bagabond というフランス語(英語)はありません。私のミスでした。

    さて・・・
    高木さん(15日)、その女 ソルベさん(17日)から「個人としての思想はいいが【つくる会】副会長としては発言を謹め」とは、此は如何に」という趣旨のご批判をいただきましたので、返信します。(遅くなって申し訳ありません)

    『つくる会』の目標は何だったのでしょうか。
    いうまでもなく「自虐的」な教科書を駆逐することにありました。
    残念ながらこの目標は達成されておりません。

    自虐史観の連中はつくる会の教科書(ごく常識的だと思われるのにもかかわらず)に対し「戦争に繋がる」などと攻撃を加えてきています。

    この状況下で『つくる会』の副会長という肩書きで(例えば)「大東亜戦争肯定論」を主張すれば、彼らはなんと言うでしょうか。
    「それご覧!やはり彼らは戦争肯定の教科書をつくろうとしています」
    こういう声が聞こえてきそうです。
    副会長が教科書の中味に自分の見解を盛り込もうとしないとは考えにくいのです。

    「大東亜戦争肯定論」が国民的合意を得ているとは到底思えないし、政府も考え方は違います。

    私は「肯定論は正しいが、今は遠慮せよ」というのではありません。
    理論的にも納得できる見解ではありません。

    大東亜戦争を肯定しなければ日本人の「誇り」が保てないなどということはありえません。

    要するに「自虐史観との対決のためには、余計なことを言わないで欲しい」ということです。
    もちろん福地さんが個人の立場で発言され、教科書に反映させない、といわれることはご自由です。

  12. 大東亜戦争を進める以外に道はなかったと思います。
    真珠湾の攻撃も、天皇陛下や指導者は、ぎりぎりまで和平を模索していましたが、アメリカは和平ではなく戦争を望んでいたのです。
    誰もが平和を望んでいる、というのはいささか欺瞞で、「自分にとって都合のよい平和を望んでいる」と言ったほうがいいでしょうね。そのために、時には戦争は避けられない。
    パレスチナの人々は、「自分たちにとって不都合で不名誉な平和よりも、名誉ある戦争を望んでいる」のだと思います。
    戦争はないに越したことはないが、火の粉は払わなければ亡国です。
    あの戦争を肯定するとか否定するとかは個人の判断でしょうが、史実を冷静に、当時の国際状況を踏まえながら検証していくと、戦争につきすすむより他に道がなかったとしか思えません。これが「大東亜戦争を肯定」することになるというのなら、「そうだ」という以外に言葉はありません。

  13. ドドンパさん

    【大東亜戦争を進める以外に道はなかった】というのは
    日本国内の論理ではありませんか。
    つまり日本国内の「戦うべし」という流れを止めることが
    出来なかった、止める力のある人がいなかった・・という
    意味ではその通りで、外国から見れば「お前の国で解決し
    てくれ」ということにはなりませんか。

    【アメリカは和平ではなく戦争を望んでいたのです。】
    というのはその通りだと思います。
    なぜなら、日本の「戦うべし」という勢力(軍国主義者)
    が肥大化し、これをつぶすには戦争しかない、とアメリカ
    が判断したことは確かでしょう。

    【時の国際状況を踏まえながら検証していくと、戦争につ
    きすすむより他に道がなかった】のでしょうか。
    【戦争はないに越したことはないが、火の粉は払わなけれ
    ば亡国です。】
    じっさいは逆でしたね。

    戦ったために、亡国にはならなかったにせよ、亡国の淵に
    立たされたのです。

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