「『昭和の戦争』について」(七)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第三章 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

第一節 「満洲某重大事件」=張作霖爆殺事件(一九二八=昭和三年)

 先に見たように、田中義一内閣は、東三省に満洲人自身の努力による安定政権が樹立されることを期待し、満洲(奉天)軍閥の頭領張作霖を支援しようとしていた。しかし、現地関東軍将校には、張作霖は信頼できない、満洲支配を委ねるのは危ないと判断する者が多かった。その様な時期に、蒋介石の「北伐」攻勢に押されて奉天に退却する途次の張作霖を爆殺する事件が一九二八=昭和三年六月四日起きた(満洲某重大事件)。

 関東軍参謀河本大作大佐の策謀であった。河本らは、蒋介石が満洲を制圧するならば、日露戦争以来の日本の満洲権益に障害が生じることを恐れた。そこで、支那南北対立が生み出した事件に偽装して張作霖を葬り、東三省(満洲)を混乱させ、混乱鎮定に関東軍が出動して満洲・南蒙古をより安定した日本の影響下に置こうと構想した。これは明らかに日本政府=田中外交の構想を超えていた。外地での不祥事を昭和天皇から厳しく叱責され、田中は恐懼の極、頓死するに至った。田中の満蒙政策はこれで頓挫した。

 だが、関東軍の目論見も別な意味で大きく外れる。若造だから操縦し易いだろうと予想して張作霖の後釜に息子の張学良を据えたのが大誤算になる。張学良の背後には支那共産党、そしてその背後に鎮座するコミンテルンの影がヒタヒタト迫っていた。(注・コミンテルンの策謀説)

 蒋介石は六月八日、北京に無血入城を果たして、北京を北平と改称した。後は東三省(満洲)を残すのみとなった。蒋は、奉天(東三省)軍閥の新首領張学良を七月三日、安国軍総指揮官に任命した。間もなく張学良は蒋介石に服従を表明して、日本政府および関東軍を困惑させた。十二月二十九日、張学良は、蒋介石に完全服従した(東三省易幟=青天白日旗)。蒋介石の支那統一は略々ここに完了した。
当時の諸情報を勘案すると、蒋介石の常備軍は約二二五万(内、張学良の満洲軍は二六万)数的には世界最大の陸軍を擁していた。また、満洲方面を狙うソ連の常備軍は約一三五万、極東地区=蒙古・ソ満国境に約六〇満配備と言われる。ソ連は既に「モンゴル共和国」なる完全な傀儡国家を作っている。ソ連の次の標的は南蒙古・満洲・華北だが、大戦略家で慎重なスターリンは、満洲には日本の軍事力と支配権が安定していると判断、直接満洲問題に介入せず、支那本土に日本の落とし穴を構えるのである。

 他方、我が国の兵数はおよそ二五万七千、その内、関東軍はたったの六万五千だったのである。どちらの国が軍国主義国家だったか、一目瞭然ではないか。(ラルフ・タウンゼント『介入するな』一一三、二三六頁、藤原彰『軍事史』一六五頁) 

 尚、王国を再興しようと好機の到来を待ち望む清王朝残党の動向も見落とせない。亡びた清国皇帝愛新覚羅氏の出身の地=故郷は満洲である。支那本部の地を失った今、故郷満洲に帰還して国家を再建する動きも当然あった。

第二節 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

 さて、張学良の「易幟」は、我国の満洲政策に大転換を強いた。満洲における外国利権の回収を目標にする蒋介石が有利になったからである。そして、勢い付いた蒋介石は「革命外交」なる条約・協約を自分の都合で平気で裏切る外交に転ずる。この困難な時期に、内閣首班は政友会の田中義一から民政党の浜口雄幸に交代し(一九二九=昭和四年七月)、幣原喜重郎が外相に返り咲いた。これまた歴史の皮肉だ。幣原の「善隣友好・対支宥和」の外交信念は固かった。大幅に譲歩することで日支関係の円滑化を図ろうとした。切り札は、不平等条約改訂=関税問題で大幅に譲歩するから支那には日本の満洲権益を認め欲しいと言うのだった。

 さて、支那統一を略々成し遂げて、自信を深めた蒋介石の態度は強硬だった。日支外交好転のために支那公使に任命された幣原の腹心佐分利貞夫は、着任後間も無く帰国して、(箱根で)理由不明の謎の自殺を遂げた。本国政府=外務省と幣原融和外交を良いことに有る事無い事言い募る支那政府との板挟みの心労からと推測される。後釜に小幡酉吉が任命されたが、支那政府は小幡の公使就任を拒絶した(アグレマン拒否)。理由は、小幡が彼の「二十一か条要求」の作成作業と「日華条約」締結交渉に携わっていたからと言うのだった。

 カール・カワカミはその著書『シナ大陸の真相』で「幣原外交の問題点は支那人の物の考え方、取り分け彼が外相をしていたあの数年間における支那人の発想法を全く理解出来なかったことである」と指摘し、当時支那の外交姿勢は「如何なる支那に対する宥和政策も支那人の自惚れを助長させることにしか役立たない」と米国の支那研究家ロドニー・ギルバートの著書を引いて断案している。そして「実際支那は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしている正にその時に日本と結んだ条約を全面的に侵害する手段に訴えてきたのである」として、その条約・協定侵害事件のリストを掲げている(一一五頁)。

 なお、一九二九=昭和四年七月には、中東鉄道利権問題を巡り満洲軍閥張作霖と対立したソ連は、支那政府と国交断絶し、北満洲に進撃して、小戦争を演じている。ソ連の北満洲侵略と幣原外交の失策に危機感を深めた関東軍作戦主任参謀石原莞爾らが、一九三一=昭和六年九月十八日、柳条湖(満鉄線路爆破)事件を起こして満洲制圧に決起した訳である。これが満洲事変である。そして騎虎の勢、翌三二=昭和七年三月一日、満洲国建国に突き進んだ。確かに、政府の公式政策ではなく、出先関東軍の独走だったが、これはわが国内の問題であり、日支関係においてはやや強行策ではあったとしても、ソ連は関東軍との激突を不利と判断して兵を引いているし、当時の支那=蒋介石の対日強硬論に対する機先を制することによる、既得権益は防御されたのである。なお、満洲族の独立意欲に応えた側面も重要だった。

 さて、翌三三=昭和八年五月三一日、塘沽停戦協定が成立した。長城以南に非武装地帯を設定し、支那軍の撤退確認後、日本軍も撤兵すること、その治安維持には支那警察が当たること等が協定された。この時、蒋介石政府は、満洲国政府側と郵便・電信・電話、陸上交通、関税業務に関する協定も結んでいるのだ。協定調印は事実上の満洲国承認である。義和団事変から日露戦争そしてポーツマス条約で国際的承認の基に獲得した権益の防衛であり、その既得権益保護をより安全・確固たるものにしようとした正当防衛的な国策の推進であった。満洲事変はここで決着したのである。

 だが、蒋介石の国民党と支那共産党とは、日支停戦協定後も口裏を揃えて「日本帝国主義の侵略・略奪」は大問題だと内外に大々的に吹聴した。支那の巧みな国際プロパガンダ=情報戦術で日本は圧倒的に押し捲くられていた。条理を弁えない支那民族の性格から発する反日・侮日運動は益々猛り狂い、調子に乗った支那政府は、国際連盟に日本の「満洲侵略」を断罪してくれと提訴するのである。だが、共産ロシアの傀儡国家=モンゴル共和国に対しては口を噤んでいるのは不可解であるが、それは共産ロシアが支那を支援していたこと、国連には共産ロシアの回し者が潜入していたで、謎は半分以上解けるのである。

 なお、コミンテルンは一九三二=昭和七年にも日本共産党に革命指令(所謂「三二年テーゼ」)を発して天皇制打倒と指示しているが、日本官憲の共産主義者対策は当然強化されてきている。

 さて、国連はリットン調査団を満洲に派遣した。同調査団は、日本の満洲に対する特殊な事情や支那政府の数々の不信行為も認めたが、結論としては日本の軍事行動は支那への侵略であるとし、日支間に新条約の対決を勧告する報告書を纏めた。米国のジャーナリズムも盛んに日本軍国主義の支那大陸侵略非難を書き立て始めた。因みに一九三三=昭和八年三月、米国第三二代大統領に民主党のF・D・ルーズベルトが就任した。ルーズベルトは大の日本嫌・支那好きだったし、共産主義思想に共感を覚える人物だったことは、十分に注意深く確認しておく必要がある。

 我邦は国際連盟の決議に強く反発し、一九三三=昭和八年三月、国際連盟を脱退した。我が国政府は、「支那は完全な統一国家ではない。それ故、一般的国際関係の規範である国際法の諸原則を直ちに適用することは困難である。それにも拘らず、連盟諸国は、架空の理論を弄んで現実を直視していない」、と強く国連の姿勢を非難した。これは正論だったと言えよう。正に当時の政府が言ったとおり、国連は「架空の理論を弄んで現実を直視していない」。満洲事変・満洲建国は「侵略」と言う概念に合致しない。日清・日露両戦争以来、多くの尊い犠牲と労力と資金を投入して、国際社会の諒解を生真面目に獲得して、「生命線」の育成を図ってきた我国の立場は、英国などは実は理解を示すところだった。

つづく

「「『昭和の戦争』について」(七)」への11件のフィードバック

  1. 「当時は満州事変は、ある意味『正義』である」

     国際法上、つまり、当時の国際的な約束事としては、植民地の権益を守るために起こした武力紛争である満州事変は、特に咎められもせず公認されるということですね。。。

     それはそれとして、しかし、やっぱり満州の土地に侵攻したのは事実であるので、その行為自体は「侵略的要素」が含まれているのではないか?

     国際法上は許されても、人道上は許されることであったのか?

     まあ、やむを得ない措置であったとは思いますが、100%正しい行為であったとも思えないので、この満州事変をどのように総括するかは、まだまだ議論の余地がありそうです。。。

    (100%悪かったとするサヨクの論理は、歴史的に無知であり、全く問題外だけど。。。)
     

  2. 福地淳の「歴史観」  満州における権益について

    福地さんの「論理」は次の点に尽きる。

    ① 日本が満州を占領、植民地化することは当然の権利で
    ある。(植民地という言葉の適不適はともかく)これが大前提になる。
    この権利を守るために、中国大陸で戦争した、ということ
    になる。

    ② 清国政府は(日露協商によってロシアの圧力が減った
    とたん)日本に対し、満州を返せといってきた。

    ③ 辛亥革命(1911年)で「中華民国」が成立(1912)
    したものの、およそ近代国家とはいえなかった。にもかか
    わらず、いわゆる「対華21か条要求」に関して日本に
    「対等の」権利を要求してきた。これは主として「山東
    半島」の利権にかかわる問題である。

    なお、これにコミンテルン、共産党の「陰謀」が加わる。

    問題点は、要するに「満州問題」をどう考えるかである。
    福地さんはたぶん、日本が日露戦争で「血」で勝ち取った
    場所であり、領土にするのは当然という前提があるようだ
    が、まさに争点はこの点にある。

    1905年、日露戦争後満州国に展開する日本軍をどうするか
    で政府の意見は割れた。
    ちなみにポーツマス条約の追加約款によれば、
    日露両軍は18ヶ月以内に満州から撤兵すること
    になっていた。
    しかし日本軍は撤兵どころか居座りの姿勢を見せていた。

    伊藤博文は、「アメリカが戦費調達のための国債を引き
    受けたのは日本が勝利したら、満州で利権を得るという
    条件があったからだ。したがって、軍隊は引き上げ門戸を
    開放すべきだ」と主張した。
    アメリカからは「約束(門戸開放)が違う」と猛抗議が
    寄せられていた。
    一方児玉源太郎などは(言葉は違うが)占領を主張した。
    (猪木正道『軍国日本の興亡』中公新書 p73-)

    ここで、
    イ:居座ったとしても、日本の主導で「門戸開放」すべき
    だったか、
    ロ:独占すべきだったか、で見方が分かれる。
    私はイ:門戸を開放し共存すべきだったと考える。しかし
    実際は独占的な居座りに決まった。
    ここに「ボタンの掛け違い」がある。

    福地さんは掛け間違えたボタンを前提に議論しており、
    エッセイとはいえ一方的な見解には(「つくる会」の
    副会長としての発言としては)承服しかねる。

  3. Posted by 松田

    >第二節 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

     何度も言いますが、このテーゼがもともとおかしいと思いますね。当時の日本国家や関東軍がなにかを考えて、大陸に積極的に出て行ったのは事実だし、それを侵略といいたい人にとっては侵略でしょう。
     しかし、それを単純に受けて、いや侵略ではない自衛戦争だというのはあまりに無理があるし、それを細かい事実の羅列だけで説明しようとするのも不適当です。やはり思想や理念の解釈といったものがいる。
     侵略−自衛ではなく、この大陸への進出にはどういった意図があり、思想があったのかを説明しないと意味がないと思います。単なる事実羅列や年表では歴史とはいえないと思います。また、当時の世界は静止した状態にあったのではなく、激烈に動いていたこと、流動的だったこと、その流れの中では、ただじっと静止して守りに徹していればいいのではなくて、積極的に前に出ていって、「攻撃は最大の防御」的に対応しなければならなかったこと、これらの大局的な俯瞰と説明が不充分だと思います。
     こういう視点があれば、そもそも侵略−自衛という状況に合わないタームは出てこないはずです。当時の人達も内外を問わず、そういうタームでは動いていなかったと思います。

     また石原らの行動が不問に付されたこと、ここはその後の流れにとって決定的だったと思うし、それへの合理的説明がまったくないのはどうかと思います。天皇がそれらの行動をその後容認したというなら、統帥権の侵犯にはなりませんが、それ以外では説明がつかない。そして、そうなると軍隊は自分の意志で行動しても、あとから天皇の聖断をあおげば、これを正当化できるということになったのだと思います。もともと明治政府はクーデターで誕生した軍事政権ですし、元老・山県有朋の陸軍がこれをついでいたわけですから、国の出来方からすれば、必ずしも不適当なシステムではなく、意図した形であったとも言えますが。のちに陸軍大臣を陸軍が出さないと内閣を不成立にできたというのもありましたしね。

  4. Poste by 松田

     ですから、もっと極端な言い方をしますと、日本には政府がふたつあり、むしろ本当の政府は陸軍・海軍であり、文官の政権はお飾り的なものだったといえるのかもしれません。ちょうど江戸時代に将軍の下に政権があると同時に、京都にも朝廷があり、諸国にも公家の長官が任命されていましたが、これはお飾り的な官職にすぎませんでした。明治以後の政府では、そこまで極端ではなくとも、内政問題は政府に、国際、対外問題は陸海軍に所轄権限があったと考えられます。だから、当時の歴史を、政治家や大臣の文言からだけ解釈するのはお角違いだとも言えます。陸軍や海軍内部にどのような考えがあったのかをもっと研究すべきだと思います。そういう意味では、太平洋戦争直前に陸軍大臣であった東条英機が総理大臣をも兼務したのは、大変正直な形だったのかもしれません。将軍が関白や太政大臣を兼務したようなもんであります。

  5. vagabond さんの「ボタンのかけ違え」論ですが、
    そもそも二つの論のうち、どうして片方が正しくて
    片方が間違っているのか説明がありません。
    それぞれの論には背景があります。
    簡単に片方の論を正しいように論ずるのは、
    福田さんを攻撃する結論が先にありきの印象があって、
    おだやかではありません。

  6.  「つくる会」の顛末記が終わり、「昭和の戦争」も7回目ともなっているが、「つくる会」に関連して二点ほど述べておきたい。

     第一点、八木氏の中国訪問の件。
     てっく氏・とめ猫氏等の述べられたことに、本質的な問題は尽きていると思われるが、「つくる会」の立場から見た場合、中国が日本の教科書問題に対する内政干渉の論拠を認め、内政干渉の既成事実を受け入れる結果になっていることを指摘しておきたい。
     中国側研究者が、「新しい歴史教科書」に対して、「神国史観」だの、「加害者の視点がない」だの、「戦場は中国だ」など様々な非難をしていることは措くとして、金煕徳(日本研究所対外関係研究室長)は、次のように述べる。

    <以下、引用>
    「教科書問題は、皆さんが日本の国内に向けてだけ書くなら、我々にはなんの関係もないと思います。日本という国が外交をしないで、ただ日本国内の若者のプライドを植え付けるというだけなら、まったくどう書いてもいいんです。歴史事実と関係ありません。……中国と関係ある部分は、中国人も関心を持ち、議論します。そのことを念頭に置かなければならないでしょう。
     中国人の反論に耳を貸さなくてよいとは言えません。ぜなら、日本政府が内容を審査しているからです。…日本の教科書が、政府のまったく関与しない、一〇〇%フリーなものであれば外交問題にはなりません。……
     では中国はなぜ反論するのか。日本の文科省の検定を経るからです。我々は皆さんに反論していません。皆さんに反論する価値はないですよ。……
     また皆さんが外交はどうあってもよいというのであれば、その部分に皆さんは関係しなくてもいい。国内にいてここに来る必要もありません。日本政府と中国政府が対抗すればいい。中国人が見て、近代史の面で明らかに受け容れられないものは外交問題になるんですよ。中国人が反論しないというのは無理です。なぜなら日本政府が賛成したからです。」(『正論』三月号P116)

    「日本の検定制度もまったくなくなれば、私はそんなに問題にしない。なぜならそもそもこの教科書の採択率は〇・四%ですから。前は〇・〇四%でした。本当は無視してもいいくらいです。しかし中国が見るのは日本政府の姿勢です。それを批判している。」(同上P118)
    <引用、終わり。>

     ここまで言われれば、議論の対象ではなく、席を蹴って立つべきところであったろうに。 これでは「つくる会」にとって、「近隣諸国条項」の廃止どころか、検定合格の根拠さえ否定されかねないことである。ともあれ、八木氏の会長を否認し、会から出ていってもらったことは真に正解であった。
     それにしても、八木氏が次期総会で会長に復帰する含みで副会長に指名されていたというのは、如何に危険な時期であったことか。八木氏を指名した前会長の不見識さについては、コンピュータ問題の経過によって明らかにされたように、言うほどの経営者ではなかったことが白日の下に晒され、納得した次第である。
     西尾先生も言われるように、八木訪中と「つくる会」とはまったく無関係であることを内外に明らかにすることは、喫緊の課題である。
                                      <長くなったので、続きは改めて投稿します。>

  7. 「『侵略』なら侵略でもかまわない」

     ただ、松田さんが指摘しているように、「動機」が正しかったかどうかということも問われるでしょう。。。

     「満州侵略」が、日本の自存自衛のためにやむを得ない措置であったというのなら、別にそれほど罪悪感を持つ必要はないでしょう。。。

     私が普段から強く感じていることは、日本が過去に過ちを犯したかどうかばかりが争点になっているが、過ちだったら過ちで良いではないかと思うのですね。。。
     ただ、なぜそのような過ちを犯したのか、その動機・原因を徹底的に解明する必要があります。。。

     もし、心理的に「自衛80% 侵略20%」だったら、「情状酌量」の余地があるのではないですか?
    同じ犯罪を行ったとしても、動機によって求刑は違ってくるでしょう?

     何も、完全な無罪であると主張する必要もないのです。。。

     同情出来るに十分な動機があったならば、たとえ「侵略」だったとしても、それほど非難されることはないでしょう。。。

     ここに、自虐教科書問題を一気に解決出来るカギがあるかもしれません。。。

     それは、自虐的な記述の最後に一言、「ただし、このような侵略行為を行った背景には、やむを得ず侵略をしなければならない十分な理由があったのである」と付け加えればいいのですから。。。
     そうすれば、子供たちは、「日本は過去に悪いことばかりやっていたが、悪いことをしなければならない十分な理由があったからなのか、それなら仕方ないよね?」と、いわゆる「贖罪意識」から解放されることが可能かもしれません。。。

     支那中共政府や韓国政府から、「日本は過去に我々にひどいことをした」と因縁を付けられても、「それはそれで申し訳なかったが、こちらにだってこちらの事情があり、そうしなければならない十分な理由があったのだ」と反論することも出来るでしょう。。。

     こういう発想で、自虐教科書の効果を薄めるという方法もあるのではないでしょうか。。。

    (色々と、柔軟に考えていきましょうw)

  8. <続き①> Posted by 東埼玉人

     さて、中国の内政干渉と闘う根拠は、「歴史認識」ではなく、戦争終結に関する国際法規に基づくべきであることを確認することが必要である。
     
     言うまでもなく、第二次世界大戦(大東亜戦争)の終結は、サンフランシスコ平和条約による。
     このサンフランシスコ条約は、ポツダム宣言の降伏条件に基づく、基本的に「公正」な講和である。これにより日本は完全に主権を回復し、この講和条約に参加した連合国に対する戦争に伴う日本の一切の責任問題は解消した。(この講和条約に過去の戦争責任に関する規定・文言は含まれていない。)
     ポツダム宣言自体に「カイロ宣言」のような不当な要求も含まれていたが、日本はそれを降伏条件として受け容れていたのであり、それは、領土問題の一部として解決された。
     憲法改定(押しつけ憲法)、検閲、皇族の臣籍降下の強制、「東京裁判」等々の不当な占領政策も、それらは講和条約の発効と同時に、日本政府・日本国内の問題に転化した。
     安全保障条約の不平等性も、主として日本政府の選択の問題であった。(吉田内閣がダレスの要望を容れて自主的再軍備に踏み切っていたならば、より対等な安保条約も可能だったろう。)
     沖縄の施政権が米軍支配下に置かれたのは、当時の情勢ではやむを得なかったであろう。(後に沖縄の施政権返還が実現したことは、サンフランシスコ条約の「公正さ」の証とも言えよう。)
     国内では、「全面講和」か「単独講和」か、といった誤った宣伝が為されたこともあって、サンフランシスコ条約の意義が過小評価されてきた。

     当時、既に「中華人民共和国」(以下、「中共政府」。)が成立し、蒋介石の「中華民国」は台湾に逃れている状態だったから、両国ともサンフランシスコ条約には参加しなかったが、同条約が発効する日に、日本は「中華民国」との間に日華平和条約を締結した。
     日本が「少数派」の台湾と講和条約を結んだのは、「中共政府」がサンフランシスコ条約に反対する「ソ連圏」の一員であり、また、朝鮮戦争における国連の敵対国であったからでもある。そして、日本は、当然に「西側」の台湾を支持する立場にあった。
     しかし、より重要なことは、戦争の直接当事者が、蒋介石の中華民国であったことであろう。(中共軍は、「後方攪乱」に従事していたのであり、日本との正式な戦争当事者ではなかった。)
     蒋介石政府は、基本的にサンフランシスコ条約の条件を受け容れ(つまり将来にわたり日本の過去の戦争責任は問わない。)、さらに賠償請求権を放棄した。
     ここで、日本の対中国戦争責任問題は、基本的に解決したのである。

     とは言っても、台湾政府が全中国を代表する、という「虚構」を続けることは出来ない。いずれ、中共政府との国交回復と「戦争終結」の取り決めは必要であった。それが実現したのが、一九七二年、田中内閣による「日中共同宣言」である。
     ここで、「戦争終結」問題は、本来ならば、日華平和条約の内容を中共政府が承認することが基本的内容であるべきであった。が、実際には、いくつかの妥協と譲歩が行われ、それが後に禍根を残すことになった。
     しかし、この共同声明自体の問題は、日本の「戦争責任」を中国が問題にし続ける直接の根拠にはなり得ない。その後の様々な媚中外交が問題なのである。            <続く>

  9. 八木さんは好青年ですが、オツムの回転が少し遅い様に感じました。若いから左翼右翼との八方破れの喧嘩論議をした事が無い人か?保守派にとっては、三潴先生とこの人だから、惜しい失敗をしたもんだと思うですな。若い者の中ので、慎太郎とか、竹村健一とかそういう集まりが在りませんわね。左翼は多いですが。

    有名人には枯渇してるとすれば、一般人である程度の学識のある者がやる他ないですね。学者に人が居ないという事が分かった。

  10. 高木さんの質問、「ボタンの掛け違い」について。

    日戦争後日本が満州に兵を引き続き駐留させたのはポーツマス条約違反です。
    もう一度書きますが、同条約の追加約款によれば、日露両軍は18ヶ月以内に満州から撤兵すること
    になっていました。
    これをしなかったことは重大な違反です。

    もう一つはアメリカとの関係です。
    日露戦争に要した戦費は17億円でした。
    そのうち、7億円を外債でまかなっています。
    この外債はいうまでもなくロンドンとニュー・ヨークで調達されたもので、
    特に後者では金子堅太郎の必死の努力の賜物でした。
    金子は金の工面だけでなく、戦争終結時にはアメリカに調停して欲しいと依頼したのです。

    一方アメリカが只(ただ)で協力するわけはなく、見返りとは
    いうまでもなく満州における「門戸開放」すなわち、満州での利権です。

    日本はポーツマス条約と、アメリカとの「約束」に違反して軍を駐留させたの
    です。
    これによってアメリカとの関係が急速に悪化します。
    福地さんもこれから「アメリカが中国人に反日を煽った」などと書くでしょうが、
    その根源はここにあります。

    —-
    ところで、撤兵ということは、日露以外の国=中国に返すことです。
    日本(軍)が(自己の「軍益」意外に)これに不安を感じたことはいうまでも
    ありません。

    だから、日本も兵を減らし、アメリカと協力して満州開発を進めるべきでした。
    アメリカと協調せず日本の独占権に拘ったこと、つまり「欲を出し
    すぎた」ことがその後の「失敗」の根源です。

    なお、その後も「協調」の機会があったにもかかわらず、ひたすら
    欲を追求したことが真珠湾攻撃と、惨めな敗戦に繋がったことはいうまでも
    ありません。

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