ハンス・ホルバインとわたしの四十年(二)

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 近代というものは、物を見つめる前に、物に関する観念を教えこまれる時代である。まず人間である前に、人間に関するさまざまな解釈に取り巻かれる時代である。

 私は物が見える(傍点)ということに対して懐疑的にならざるにはいられない。不安をごまかす観念のはびこる時代に物は見えない。私はバーゼルで見た一枚のホルバインの強烈な印象が忘れられない。

 それは高さ30センチ、長さ2メートルの細長い棺のなかに、等身大のキリストの屍体を長々と仰向けに横たえている横断図である。ほかにはなにもない。

 キリストを取り巻く群像もいなければ、十字架もない。だが、そのためもあろうか、私はこの絵の懸けてある部屋に入ったときに竦然とした。等身大の屍体は絵の枠をとび出して、あたかも立体的に、私の目の前に実際に置かれてあると思われるほど凄絶にリアルである。

 なかば開かれた目の中で眼球がひっくりかえり、白眼が剥き出している。顔は一面に青黒く鬱血し、骨ばった右腕は胴のわきにそって台架の上に無造作に置かれ、手首から先は異様に腐襴している。痩せ細った足首も黒ずみ、釘あとももう血の固まった跡らしく、どす黒い。

 これはたんなる屍体、たんなる物体である。ここにはキリストの苦悶をたたえる神話もなければ、秘蹟もない。そう言えば、これに似たものとして思い出されるのは、ダハウの強制収用所跡でみた大型の写真の中の、痩せさらばえたナチスの犠牲者の無残な屍体なのである。

 私は現代に比ぶべくもなく信仰心の篤い時代を生きたホルバインが、かかる「物」としてのイエス・キリストを描くことに成功した、その逆説に魅かれたのである。

つづく

「ハンス・ホルバインとわたしの四十年(二)」への7件のフィードバック

  1. 「どうなんだろう」

     キリストの「復活」を信じるからこそ、ここまでリアルにキリストの死体を描けたのではないか?

     ここまで完全に死体になって身動き1つしない、それこそ「物」のようになってしまったはずのイエス・キリスト。

     しかし、次の瞬間には「復活」して甦るという大いなる奇跡!

     その奇跡の前には、例え死体になったイエスであったとしても、篤い「信仰」を持った人間ならば全く動揺することはないのです。

     イエスを「神の子」であると信じられる人間なら、イエスの死もしっかりと受け入れることが出来るのでしょう。

     余談ですが。

     キリスト教の信仰を少しでも理解していない人が、この絵を見ても何ら有益な感想を抱くことも出来ないと思います。

     信仰心がないのなら、あまりキリスト教については触れない方が宜しいのではないでしょうか?

    (大した考えが浮かぶわけでもないし、考えるだけ時間の無駄のような気がする)←そんなことをするよりは、イエスの偉大な心を少しでも理解する努力をした方が、よっぽど有益ではないかと思います、キリスト教の信者である人間から言わせてもらうならば…

  2. ドストエフスキーがショックを受けたという絵ですね。本物を見たらすごいのでしょうね。

    先日あるエンジニアさんから、芸術も単なる01データの塊に過ぎないから感動できない、湯気の立つ香ばしい料理も死んだ細胞の塊に過ぎない。自分はニヒリストでしょう、と言われてびっくりしました。

    >近代というものは、ものを見つめる前に、ものに関する概念を教え込まれる時代である。まず人間である前に人間に関する様々な解釈に取り巻かれる時代である。

    感動しました。

  3. Re.「どうなんだろう」

    >そんなことをするよりは、イエスの偉大な心を少しでも理解する努力をした方が、よっぽど有益ではないかと思います、キリスト教の信者である人間から言わせてもらうならば…

    これを読んだとき、急に思い出したことがある。
    それは、創価学会のオバサンに勧誘を受けた時、同様のことを言われた。

    「そんなこと考えるよりは、池田大作先生の偉大な心を少しでも理解する努力をした方が、よっぽど有益ではないかと思います、創価学会の信者である人間から言わせてもらうならば…」

  4. 「失礼なヤツだな」

    > TA生さん

     俺は別に、西尾先生をキリスト教に勧誘するつもりは全くない!

     ただの方便でしゃべっているだけ!

     創価学会のようなカルトとキリスト教を同列に並べないでくれるかな?

     両方とも同じだと思えるなら、あなたの感性の方が異常だと思うけどね。。。

     同じ言葉を使っていても、カルト教の信者と、普通の宗教の信者とは、文脈の意味が違うでしょ?

     ちゃんと国語を勉強してから書き込みしてねw

  5. >ジョーイ君
    キリスト信者だからといって悦に入り過ぎるのは逆効果だと思うのだが。
    確かに自分の気持ちは自分だけにしか解らないという論はある。
    でもそれは口に出した時点で品位を無くしてしまう恐さをご存知なのだろうか。私はキリスト信者ではない。しかし、信者達がこの絵を見て、信仰心を篤くしながらも、死体を物体として見る冷めた心も同時に持つ心の内部も理解できるわけですよ。
    いや、勿論完全には解らないかもしれない。
    でも、そうした心の内部に少しでも触れることが出来たとき、初めてキリスト教の偉大さが解るのかもしれない。
    その事をこの絵は語っているのではないか、
    果たして仏教の涅槃像とこの絵を比較出来るかどうかは解らないが、私のような仏教徒にとっては、キリスト教の持つリアリティへの挑戦心が、少なからず伝わる思いであることは間違いないわけです。

  6. あきんどさんの投稿を、こちらにも転載します。

    ======================
    本当は最新のエントリーに投稿すべきなんでしょうが、やはり賑わっている場所に書くことにします。

    キリストの横たわる姿はあまりにも凄い。凄いの他に思い当たる言葉が見つからない私の感性はたぶんかなり品がなく貧しい限りなんだろう。
    「物体」という音に物凄い意味合いがあるのは確かだ。近親者の死体を前にした初めての体験を越えるインパクトがある。
    どんなに冷静に親や子供の死体を見ても、やはりここまで死体を物体化して表現することは不可能だ。ましてや信仰という魔力の基、果たしてそれが可能だろうかと、疑問を持つのが当たり前な現代だ。本当に怖いのは、出来もしないそれを無理して取り入れようとしているように写る現実なのかもしれない。
    現代人の真の姿から推察すれば、到底この絵が描かれた時代の冷淡かつ計り知れない心の迷いを、簡単に理解できる可能性は薄い。
    「死体」を「死」の現実と見ることは今も可能だが、「死んだ物体」とまで扱う「余裕」と「真の信仰の深さ」の存在は疑わしい。
    現代は「死」という一つのインパクトを、自分以外の認識に頼って受け入れないと、感情が冷静に働かない魔病に襲われている。
    つまり、その死んだ物体が自分一人では「死んだ」と認識できない弱さがある。誰か他人が「死んだ」と発さねば「死んだ」と理解できないわけだ。
    現代は個人の主張が強まり過ぎたと周りは表現するが、私はそう思わない。
    結論は常に逆で、どんなに形だけ強がっても、最後はしっかり他人に頼る。

    因みにキリストは急所を突かれて死んだのではなく、出血死という生殺しであった。それを知れば更に「物体」という表現が重苦しくのしかかってくるのだが、いずれにせよあの眼は死にながら生きているようにさえ見えて仕方がない。
    この辺に私の現代人らしさが隠し切れないでいるのは確かである。

    PS:普段の私に似合わず、生意気口調の文章表現を使わせていただいたことをお許しください。

  7. Re.「失礼なヤツだな」

    日本のキリスト教信者は、あなたのような人が多い。
    新刊の、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(上下二巻、成甲書房)が参考になります。

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