エラスムスとルターの論争は西洋精神史における最も深刻、かつ最も影響の大きい思想のドラマの一つである。追及するのを忘れてしまった私がいけない。まだ人生に時間は残っているので追いかけるかもしれないが、私の関心はご承知の通りその後ニーチェに向かった。
ニーチェは24歳でバーゼル大学の教授になり、ブルクハルトに出会い、ワーグナー夫妻と交流し――バーゼルから夫妻の住む同じスイスのルツェルン近郊トリプシェンへ行くのは難しくない――、そして『悲劇の誕生』をバーゼルで書いた。
私は29-30歳で『悲劇の誕生』を翻訳した。以来、この天才に呪縛されたのは紛れもない。ある人から「先生の『国民の歴史』は『悲劇の誕生』の影響を受けていますね。」と言われて、考えてもいないことだったのでハッと驚いた。「そうだったのか。ウーン、そうなのかもしれない」と思った。表立ってニーチェの名はほとんど出てこない本なのだが・・・・・・。
ニーチェは文献学者だった。しかし文献学を破壊する文献学者だった。すべての歴史は文献学に行き着く。しかし文献学にとどまる限り、歴史たり得ない。
仏陀にせよ、イエスにせよ、孔子にせよ、いくら文献を追求してもその実像は把えられない。仏陀のことばなどはごく一部の経典に記されたのは仏滅から500年も経った後である。すべては口から口へ伝承されたにすぎない。
『論語』が孔子の実像を伝えているという保証はない。あれは聖人のばらばらの発言集である。門人たちの覚え書きである。『聖書』も使徒たちの編集と改修の手を免れていない。
歴史とは何か?
歴史とは神話である。歴史と神話との境界線は定かではない。
近い歴史を考えるわれわれでさえ「神話的」思考をしている。イラク戦争の原因について、われわれはすでに薄明の中にあり、トロイ戦争の時代の人よりもっと神話的かもしれない。
それでも人は言葉を求める。言葉による説明や解釈なしでは人間は生きていけないからだ。たちまち不安になる。歴史の成立は矛盾を孕んでいる。
ハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前に私は、恐らくネットの読者の皆さまも、言葉を失った。言葉の無力を感じた。それでも言葉を求めたであろう。私の言葉を大急ぎで読んで、納得したり、納得しなかったりしたであろう。あるいは自分の言葉をまさぐり、唱えては、心の奥深くにしまいこんだであろう。
歴史とはそういうものではないか。言葉は無力でもやはり必要なのである。文献学がなくてはどんな学芸も、どんな哲学も、どんな叡智も成り立たない。文献学は自覚のやり直しの場といってもいい。それを別のことばでいえば「歴史意識」ということになる。
この地球上で歴史意識が存在した場所は地中海域と中国と日本列島の三個所しかない。文献学が誕生し、展開したのもこの三個所である。
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