「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(一)

 昭和35年(1960年)私は大学院の修士二年に在学中であった。本郷のキャンパスは興奮に包まれた。樺美智子さんという一学生が「虐殺」されたというのである。実際には国会正門になだれこもうとしたデモ隊に踏みにじられて圧死したのである。

 しかしそんなことが聴き入れられる雰囲気ではなかった。酩酊していたのは学生たちだけではない。ほとんどの教室は休講だった。教授たちもこういう日には授業なんかしていられない、一緒に国会デモに参加するという人が多かった。

 手塚富雄教授(ドイツ文学)は保守的学者だと思われていたが、翌月の文芸誌『群像』に「学生たちのニヒリズムは終った」とかいう題のデモ讃美の評論を書いていた。

 私はおかしいと思っていた。安保改訂はそれまでの「不平等条約」の日本からみての一歩前進なのである。今でこそこれは通り相場になっているが、そういう常識が評論の世界でさえ言えるようになるのにもそれから20年はかかっている。

 私とて確信があったわけではない。大学の内も外も、新聞も雑誌(当時の代表誌は『中央公論』)も、私の考え方に相反する内容に満たされていた。私はまだ若い。「おかしい、変だな」と思うだけで、それ以上言葉にならない。

 大学で私は黙っていた。デモには一度も行かなかった。気になるから本郷の構内にまでは行くが、私と同じ少し斜にかまえているごく少数の友人とひそひそ語り合い、「冷笑派」に徹していた。

 その少数の友人たちとも政治的議論を詰めて語り合ったのではない。デモの旗を振っている同級生のリーダーを「あいつはアナウンサーみたいにペラペラ喋る奴だな」と嘲りの言葉を口走って、憂さ晴らしをしていただけだった。

 私が秘かに個人的に深めていた時流への批判と疑問を、大学のキャンパスで「公論」のかたちで口にすることなどとうていあり得ない情勢だった。

 樺美智子さんが死亡した翌日、構内は「今日のデモは葬い合戦だ」と騒然としていた。法文大教室では社会党の議員が演説をしていた。「虐殺抗議大集会」と張り出されていた。

 私は「虐殺じゃないではないか。自分たちで踏み殺したんではないか」と少し大きな声で言ったら、友人の柏原兵三君――後に芥川賞作家になり38歳で亡くなった――が私の口をぱっと塞ぎ、手を引いて人混みをかき分け、会場の外へ連れ出した。

 私の身に危害が加えられるのを彼は恐れたのである。友情から出た思慮深い行動だった。

 われわれは少し間を置いてドイツ文学科の研究室に行くと、大学院生がほゞ全員集っていた。そして何やら熱心に座の中央で演説をしている同級生がいる。その人の名は柴田翔といい、彼もまた『されどわれらが日々』という学生運動を扱った小説で芥川賞を後日受賞している人物である。その頃のドイツ文学科には多彩な人材が多く、古井由吉君もこの同じ場にいたはずである。

 柴田翔君が次のような提言をした。「今日は午後、大きなデモが計画されている。学部の学生諸君は国会正門を突破すると言っている。警官隊も今日は手強いと思う。何が起こるか分らない。大学院生のわれわれは学部の学生諸君に頑張れ、とエールを送りたい。独文科大学院生の名において独文科の学部の学生諸君の行動を全面支援する声明を出したいが、全員賛成してもらえるか」

 「賛成、賛成」という声があがる。黙っている人もいる。私は変だなと思った。ちょっとおかしいもの言いだと思った。手を挙げて次のように言った。

 「本日の危険なデモに際し学部の学生諸君の行動をわれわれ大学院生が支援するかどうかという問題ではなく、われわれ自身がデモに参加するかどうか、あるいはできるかどうかをひとりびとりが心に問う問題ではないのか」

 「大学院生の声明は学部の諸君を勇気づけることになる」と柴田君は言った。

 「それはおかしい、大学院生の特権意識ではないか。」

 すると柴田君はすかさず次ように言った。
 「西尾君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている。」

 そうだ、そうだという声があがり、ある人が大きな声で「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と言うと、興奮した一団の声は一気に高まり、私の言葉をかき消した。

 今まで黙っていた、平生温和しいM君――後にドイツ中世語の研究家となった――が「西尾君の言う通りだと自分は思う。自分がデモに参加するのかしないのか、参加できるのかできないのか、それが問われるべき問題なのだ。」

つづく

「「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(一)」への8件のフィードバック

  1. 60年前後の東大独文科の雰囲気がうかがわれて興味深い文章ですね。時代が変わってしまうと、昔のことは(特にその時代を体験していない若い人にとっては)分からなくなってしまうものです。その意味でも、西尾先生には『わたしの昭和史』の続きを早く書いていただきたい。
    なお、「手塚富男」は「手塚富雄」かと思います。

  2. 管理人さん「正論」の論文への意見はここでいいのでしょうか。駄目なら消去してください。

    西尾先生の正論の投稿記事の中には目が覚めるような言葉や大きく私と意見が違うなと思う部分がありますが、今回は意図的にそういう言葉を私はほとんど述べていません。

    日本人が変わったかどうかは意見保留。
    今回の衆議院選挙の結果は小泉首相の選挙戦略勝ち。負けた人間は小泉首相を見込み違いをしていた。これは小泉首相が正しいといっているわけじゃありません。日本が負けたからといって米国が正義ではないのと同じです。

    原因は三つあって、
    ①小選挙区制になって首相の権限が強大になった。逆に派閥の支配力が落ちた。これはもともと首相の公約でもあった。

    ②小選挙区制の効果が出た。投票率全体で郵政民営化賛成と反対派を党派で別けるとあのような圧倒的勝利になるわけがない。おそらく50%対40%程度の比率ではないか。

    ③小泉首相の劇場政治効果。三名の参加した小選挙区制では40%獲得と39%と25%の獲得した人間は40%のものが選ばれ残り60%は死票になる。したがってこういう状況で過去に支援組織の支援を受けてぎりぎり当選を果たしていた議員の選挙区に注目対抗馬をあててマスコミにわっしょわっしょい騒がせれば、過去に投票しなかったわずかな浮動票も投票に参加して小選挙区制では議員選出に強い影響を及ぼす。こういう場合過去に参加しなかった人間はイメージで判断するか、わかりやすいプロパガンダを選ぶ。言葉を多言を使わなかったのはおそらく宣伝会社の意見を聞いてわかりやすい繰り返しに徹したのだろう。そういう意味では民主主義は独裁制になりうるがその独裁制を招くのは選挙民であるというワイマール共和国の歴史を繰り返しているようにも見える。電通あたりがナチス独逸のゲッペルスや宣伝省の役割を発揮したのだろう。

    小泉首相の党首選挙の公約に郵政民営化があり、これで選ばれた首相であるからその公約を実行させないのはイメージが悪い。結果的に郵政民営化反対自民党員は抵抗勢力の汚名を着るようになった。これもイメージでありその中には郵便局関係団体を資金源にする政治家もいただろう。そうじゃない人もいただろう。また本来保守政権党での首相になってもおかしくない人間もいた。しかし結局そういう人間はまとめてレッテルを貼られ排除された。そういう意味では小泉首相が排除した議員は善戦したとも言える。

    保守系の知識人が発言しなくなったのは単純。空気を読んだだけの話。空気を読んで仲間はずれにされるのが怖いから。議員も同じ。時代の空気や空気に従う国民感情に反対できないのはいまに始まったことじゃないと思います。

    日本語を考えてみればわかりやすいかもしれない。
    私は言語学者じゃないから素人の空想です。
    言語は基本的に相手とのコミュニケーション道具であり、思想の道具でもあり、娯楽の道具でもあります。思想の道具であったら日本語はもう少し変化していたと思います。日本語の場合は相手ととの関係性を重視した言葉であるという作業仮説はそんなおかしくはないでしょう。その特性は正確なコミュニケーションではなく相手の感情に配慮したコミュニケーション型ではないでしょうか。ここで作業仮説を置きます。

    すなわち日本語は論理より日本文化内で生活する日本人どうしの感情を主軸にした関係性をスムーズにするために作られている。

    日本語の私に相当する語彙は非常に沢山あります。私、あたくし、あたい、わし、わい、我輩、自分、俺、おいら、己・・・・おそらく20近くありゃしないですか。これだけ語彙があるのならそれが存在している理由があるはずです。もう一つは敬語や丁寧語の存在です。副詞の問題もありますが今は書きません。敬語や丁寧語は相手の社会的位置づけや自分との関係性を瞬間に判断して使います。敬語や丁寧語はそういう意味では非常に難しくかつ相手によって関係性が変化しますから日本語の特徴になっています。主語の数の多さも理由があるはずです。
    主語の種類が多いというのは自分と相手との関係性のパターンの多さと考えていいかもしれません。英語のアイ、マイ、ミーの三種類、複数を入れてウイ、アワー、アスの六種類に比べれば方言といってしまえばそれだけですが誰でも常時一つの代名詞を使っているわけじゃない。
    それとこういう言語学で用語があるかどうか知りませんが、日本語は高度文脈言語でしょう。相手との関係性が深いと言葉を少なくして省略します。ほとんど言葉を発しなくて相手が察することを期待します。

    もしもこの作業仮説(日本語は論理より日本文化内で生活する日本人どうしの感情を主軸にした関係性をスムーズにするために作られている)が正しいなら、現代日本語が完成した時期には日本人は関係性を重視した文化があったことになります。

    そうだとしたら集団の合意≒正しい判断であり正義であるという妙な判断だって働きますし、これはおそらく現代だけじゃないでしょう。おそらく戦後にあった日本人に対する大きな批判はその集団主義の行動パターンでしたから、昨今の話ではないはずです。
    西尾先生のお書きになった国民が自分だけははずされるのを怖がっているというのは名言。でもこれは過去の多くの時代でもそうだった。勇気を持って時代の空気に反抗した日本人はいるがそれは少数ではなかったか。日本社会は国民の感情が世論を作り、その国民感情に政府が抵抗できないのはおそらく江戸時代からもそうだったのではないでしょうか。ただ過去では世間の目といわれ、世間からつまはじきにされることに恐怖がありましたが現代は世間の目の怖さの自覚はあんまりないようです。むしろ母親の胎内で抱かれているような心地よさに惰眠を貪っているのかもしれません。

    安部官房長官が首相になって小泉手法を取らないという可能性はないとはいえないと思います。それは安部長官が負けた人間を復活させる社会にしたいという言明があるからです。ただ目の前でその成果を見ていれば小泉首相の虚無思想に躊躇するより国民の支持を得るというその誘惑に負ける可能性はないとはいえない。憲法の全面改正をするためには手段を選ばないくらいの覚悟と国民の支持が必要だろうからです。

    ただここで小泉首相が作り上げた思想を点検するのはいいだろうと思う。思いつくまま彼が作り上げた思想を列挙すると

    ①勝ちか負けかのどちらかしかない。結果より努力を重視してきた国民思想は崩壊を迎える可能性がある。
    ②いまだに空気に効果があることが再確認された。
    ③政治は政策や志でなく宣伝戦争であるという認識を植えつけた。
    ④劇場型でないと選挙民の意識は向上しないという意識を植え付けた。
    ⑤倫理を背景に持つ経済活動でなく経済合理性のみの経済活動化。

    こんなところじゃないだろうか。

  3. レッテルつけを行えば西尾先生は勇気ある近代化論者であり、私は軟弱な近代化=欧米化は日本人にとって幸福なんだろうかという懐疑主義者だから意見がかみあうわけがないのです。それを了解した上で『正論』のご高察について続けてちょっと違った意見を書いてみます。別に日本人は第二の敗戦を迎えているというご高説を否定するものじゃありません。

    それはまず日本人が独自に作った血肉化した文化はなんだろうかは近代では日本的資本主義の精神といわれているものしかないのじゃないかと私は考えています。別に日本人は戦後に進駐軍に規制されたからエコノミックアニマルになったわけじゃない。規制されようとされまいともともとエコノミックアニマルなんだから経済に関心がむくのだと考えているのです。ただその思想は江戸時代中期から続く思想の変形である儒教倫理を背骨に持った資本主義とでもいう考え方であり、経済合理性一辺倒ではないのが特徴です。それを米国思想を絶対とする小泉首相が破壊しようとしているという認識は前回書いたとおりです。

    経済でも戦時中の形態をそのまま受けついだという論考も近代学校制度は確かにその通りで江戸時代の私学のほうがよほど多くの人材を析出したように思えるし、生徒への対応の仕方も明治20年以降に成立した近代教育制度とは違っていたでしょう。しかし考えてみると明治以降の営利会社のほうが国策会社が多く、かつ身分制度があり、かつ後代で日本の会社の特色といわれた終身雇用制度も存在していませんし、給料格差も大きかったのです。むしろ現代より明治時代のほうが欧米型経済制度であったのです。それでも日本人の職業人の背景には働くのは皆のため、当時は国家のためだ、自己の利益のためじゃない、働くことによって宗教的解脱を得るのだという思想が存在していることを否定するものではありません。

    敗戦後の時代は石炭でさえ傾斜生産をせざるを得なかったのですからこれは国策会社は仕方がないでしょう。しかしやっと世の中が落ち着いた後では多くの民間会社が成長を続けました。

    経済成長の数字の推移を江戸時代から昭和40年ぐらいまで推測した資料を見たことがあります。それによると江戸時代中期はむしろ低成長安定成長の時代で、それが明治以降昭和の初期に至るまで実に強度な経済成長を示しています。経済に関心があった国民性から考えても、また当時は植民地化は否定される概念ではありませんから、新たな経済利益をもとめて後代で侵略と否定される行為をするのはある意味で仕方がないことでしょう。そして戦後のバブル期以降にあったような、また江戸時代にあったような低成長を前提にした時期を迎えました。面白いのはすでに大東亜戦争開戦前にすでに日本は再び経済成長の波に乗っていたことです。そして成長は再び始まり戦争時期に停止し、そして敗戦後の復興時期から戦争時期の停滞を取り戻すように再び直線近似で成長を続けています。

    こういう事実をどう解釈するかですが、一概に戦時中の体制が温存されたとは言い切れないし、私のようなエコノミックアニマルに言わせれば経済面で日本人の思想家が江戸時代の商人が作った思想を超えて、世界で第二位の優秀な思想的業績であるという評価を得られた現代日本人の知肉化した思想を作り上げたのかと考えるでしょう。

    知肉化した思想が大事なのは幾ら過去を否定してもそれは日本人の中に生き続けているからです。ただ過去をないことにしても思想は生き残りますが、その起源がますますわからなくなりますから自分自身で自己をわからないものが規制してしまうという思想の自由を規制することになりかねません。

    私はGHQの洗脳を否定するものでなく、ましてや肯定するものでもありません。しかし一方で日本人がしばしば前の時代は全て間違いだったをやったのも事実です。明治でもやっと40年頃になって江戸時代はそんな真っ暗じゃなかったという意見が出始めました。敗戦後も同じです。敗戦前の時代は真っ黒であったという真っ黒史観なわけです。これも長い時間を掛けて認識が変化しています。

    この真っ黒史観メカニズムは戦後の場合は背景にマルクス主義、米国に対する敗戦、明治の場合は中国思想の影響があったのではないかという説を支持するものです。ごく一般的な書き方をすると<日本人は強烈な外来思想を受けると外来思想を正しいとしてその比喩で日本を考えるようになる。その結果はすべての日本人が間違えていたという真っ黒史観にならざるを得ない>です。

    さらに説明を繰り返すと外来思想という思想を普遍的思想だと受け取った場合にこれは起こりやすいのでしょう。今では想像できないけど中華文明を受容していた時期にはその中華思想を普遍的なものだと受け取って本質的に真理がそこに存在すると勘違いしている可能性があります。それは現在でもそうでマルクス主義を普遍的思想だと受け取ればそれが真理だと思うだろうし、西欧の文化を普遍的文化だと思えばそれが真理だと思うのはおかしくはありません。

    従って真っ黒史観は庶民からは発生しません。外来思想を強く受ける頭のかまっていない、しかし素直な(または抵抗力のない)若い知識人に始めは発生しているはずです。

    (明治の場合)
    明治の場合を考えて見ましょう。尊皇攘夷思想の泉源は朱子学者の朱舜水によります。まず大日本史を作った水戸の光圀が歴史書編纂を志した背景の幾つかには、「明の遺臣である朱舜水らの亡命を受け入れて、彼らより満州族の清に中国大陸が征服された過程を知って、易姓革命や異民族による征服を経験せずに天皇による普遍的な統治が続いた日本こそが中華思想に基づく正統な国家であると認識した事」という評価があります。結論を見ると朝鮮であった小中華主義に近い印象がするが、日本の独自性は天皇という歴史的存在があるからこそ普遍思想である中華思想に基づく正統な国家であるという点。朱子学そのものが滅亡に瀕する漢民族国家の正統性を論じる側面が強いからその影響を受ければ「正統論」が出てくるのはおかしくはないですけど。

    そして時代が経るに従って朱子学にある中華と夷の対立という構図から類推して、中華の位置に天皇を置いて夷の位置に英国や米国や東夷である徳川幕府を置けば、容易に尊皇攘夷や尊王倒幕になりうるわけです。思想の骨格は中華思想なんですね。これも一種の創造性なんでしょうけど。

    しかしよく考えてみると日本こそが中華であるというのは何ともなさけないが日本が中国の周辺国家であるのも歴史的事実です。間違いは日本と中国は違った文明なんだという意識がないことでしょう。そして違った文化で出来上がった思想(中華思想)で日本を裁けばすべての日本人は間違えていたにならざるを得ませんし、一方で中華思想そのものは日本の文化とは違いますから常にどっか違和感が庶民にはあったはずです。

    どう書いたらいいだろう。中国文明を大量生産のつるしの背広だとしましょう。日本文明は特注の日本人にあったあつらえの背広だとしましょう。つるしの背広を仮に日本人の体形を考えないで供給されたらそれを着た人は違和感があるはずです。そこで背広を時間を掛けて日本人が着易いように一種のオーダーメードの背広に変換していったのが日本文化の一面なのでしょ。
    この背広のデザインは別にメイドイン中国でもかまわないし、メイドイン欧米でもかまわないわけです。仮に思想は服であると考えたら暑くなったら背広を脱ぎ、ネクタイをはずし、寒くなったらズボンの下にラクダの下着をはくのは合理的なんでしょ。中華文明から見たら彼らの思想は血肉化したものでしょうからとんでもない奴等だと思うでしょうし、どうせ中華文明は借り物なのだから脱ぎ捨てたって悪いことはないと考えるのが日本人なんでしょ。

    開き直って日本は周辺文化であるからそれに徹すればいいじゃないか、それも文化の形態の一つだろうと考えるのも悪くないし、それでは日本文明は永遠の周辺文化でしかないかというとやはり縄文文化の情念を見ていると弥生文化と違う独自のものがあるのじゃないかと私は思います。これはおそらく脱ぎ捨てることは自分の肌を切り取ることですから不可能でしょう。その不可能なものは何かを日本人はまだ掴んでいません。

    (敗戦後の場合)
    戦後の場合のマルクス主義の影響ですが、これも同じでしょう。進駐軍や米国文化の強い影響も併せて考えていますが、文化的に日本はマルクス主義国家であるべきだと考えたら、日本人は全員が間違えていると考えてもおかしくはありません。また文化的に日本は米国化すべきだと考えていたら、米国化に反対する日本人は全員間違えていると批判されても仕方がないでしょう。

  4. 長谷川さん迷惑をかけます。
    今回で正論投稿の話を最後にします。

    私はおそらく西尾先生の論旨を理解していないわけじゃないと思います。君たちは単に勇気のないだけだといわれれば私も含めてその通り。私自身は会社ではお山の大将をしていますから、職務に関することで役員に抵抗するケースは少ないですがそれでも何度か役員に食い下がってその都度最後の結果は私が正しかったことが実証されています。そういう意味では別に私は勇気がないわけじゃないし、柔らかにいっても理解できる人にしかこういう食い下がりはしませんが。

    また商人は江戸時代で8%、ほぼ武士も8%程度ですから伝統的な商人でなく別の伝統を持った日本人が商売に関係してきた可能性を私は否定しません。おそらくホリエモンや村上ファンドの創始者はそうなのでしょう。明治以降に日本は全階級の天皇の前の平等化を図りましたが、これは実際には江戸時代の武士階級に農工商を押し上げることだったでしょう。だからといって全員が義や仁の武士の伝統で生きているわけじゃない。

    商人自身は相手がお客なら相手と喧嘩をするのはばかげた行為であって、相手の話を聞いた振りをしながら下げた頭をさげながら、口からペロリと舌をだすぐらいのことをやります。これを商人に否定させるのは実に難しい。

    国家があるから商売が出来るというのは真実だと思いますが、小泉首相のグローバリズム嗜好によって日本的資本主義の精神どころか日本国の存在そのものも危機にあるという疑いを私は否定できません。米国大統領は単純ですから小泉首相に感動したかもしれませんが、米国首脳は米国の国益のために日本を利用してやれとぺロリと舌を出していないとはいえないわけです。

    まあ先生のご高説を読んでいて正直な感想は以上のことです。

  5. 「正論」誌を拝読し、八月十五日に受けた大きな感銘が改めて甦る思いです。
    ただし「小異を捨てて」に関する部分は収録されていないようで、
    この日録にて改めて述べていただけるのかなと期待しております。
    なお自衛隊による電波傍受について、「軍事研究」誌の別冊インテリジェント特集号に
    情報本部などに関する記述がありますので、ご興味の向きはご一読をお勧めします。

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