「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(三)

 

 9月10日発売『Voice』10月号「安倍総理の日本」の中で、私が「まずは九条問題の解決から」を担当しています。6枚の短文ですが、『正論』の拙論「安倍晋三氏よ、〈小泉〉にならないで欲しい」の補説になっていると思いますので、ご一読賜り度。   西尾 

 7月2日に「新しい歴史教科書をつくる会」第9回定期総会が行われた。私は勿論出向いていないが、後に報告を受けている。

 「つくる会」執行部はその日ある文書を参加者全員に配布する用意をしていた。それは会の内外に波紋を呼んだ紛争の経緯を、会が責任をもって説明するための「総括文書」である。

 私も後で読んだが、冷静によくまとめられていた。勿論「つくる会」の立場から書かれたもので、会をそろって「辞任」した八木秀次氏以下六人の元理事たちの立場を反映したものではなかったかもしれない。だが、それがもし必要なら、六人が別個の「総括文書」を他の機会に出せば済むことであろう。

 双方言い分があって対立し、主張し合い、袂を別ったのであるから、立場の異なる二つの「総括文書」が作成され、世間の便に供されればそれでよいであろう。お互いの立場を理論的に明確にすることは大切なことである。

 私はそう考えるし、良識ある者はそう考えるのが普通であると思う。話に聞けば文書を用意した「つくる会」サイドの理事諸氏は新しいステップを踏んで、会を再建するためにも過去の足取りを再確認し、広く会員に理解を求めて、流布している誤解や勘違いの類を一日も早く取り除きたいと願っていたそうである。

 というわけで、件の「総括文書」は参集した約200人の会員に受付で他の資料と共に配られた。パラパラと中をめくって読みかける人もいたそうだ。

 総会が終わりにさしかかった頃タイミングを見計って、元官僚の小田村四郎氏が起ち上がった。そして言った。仲間割れしている場合ではない。左翼を喜ばせるだけである。二つの勢力が仲良くするためにはこの「総括文書」は邪魔になる。もうこんなことはやらないで欲しい。いま配られたものを回収してもらいたいと強い調子で主張したのだった。

 会場は騒然となったそうである。小田村氏は人も知る「日本会議」の最高幹部の一人である。執行部はうろたえた。ひきつづき西東京支部のある女性会員が起ち上がって、涙声で小田村氏支持のスピーチをした。

 その女性は、この資料が一人歩きをしてしまうので「総括文書」は抹殺して欲しい、もうこれからは先生方全員、週刊誌など一切の報道機関に内紛の経緯を書いて欲しくないなどと言ったらしい。この女性の発言にその場の空気は一遍に「総括文書」を否定的にとらえるものとなり、日本会議の重鎮である小田村氏の意見を尊重することこそ全員の意見であるかのようになってしまったという。

 後日判明したが、この女性会員は元「生長の家」活動家で、日本青年協議会のメンバーであり、つまりは全部組織的につながっているのであったが、そのときは誰も知る由がない。

 もはや会場は収拾がつかなくなった。執行部は大急ぎで鳩首会談を開いた。小田村氏の権威(?)と女性の涙の訴えに気押され、いったん配布していた「総括文書」を回収する決定に追いこまれたのだった。

 私の知るのは以上のような事実である。鳩首会談の内容は知らない。ただ、小田村氏に賛同した人々の声は私の耳にも届いている。「『つくる会』の内紛はもうやめてくれ。徒らに左翼を喜ばせるだけではないか。仲間割れしている場合ではないのだ。」

 私は内紛をきちんとやめるためにも、「総括文書」の配布は必要であったと考える。会員の多くが過去の「事実」を正確に知ることから再建が始まる。「歴史」を知ることから未来が拓ける。

 すべてをうやむやにしてしまえば皆が再び仲良く一つになれると思う小田村氏の考えは甘いし、紛争の実体を彼は余りにも知らない。(今ここでその実体を再説することはもうしない。)

 加えて、仲間割れは利敵行為になるから、保守勢力の「全体」のパワーの結集のために「小異を捨てて大同につけ」といわんばかりの小田村氏の号令は、日本会議を中心に据えたいわば軍令部司団長の発想である。政治主義的な発想である。教科書作成の会になじまない。

 私は半世紀前の、60年安保の日の大学のキャンパスを思い出していた。大学院生も学部の学生も区別はないと私は言った。大学院生である自分が国会デモに参加するかしないかだけが問われているのであって、自分以外の、学部の学生のデモ参加を声明文で支持するか否かが問われているのではない、と。

 すると柴田翔君は「君の考え方は〈政治的思考〉に欠けている」と言った。誰かが「西尾、お前の考え方は〈敗北主義〉だ」と叫んだ。

 小田村四郎氏は私には柴田翔に見える。保守のありとあらゆる種類の会合に熱心に顔を出すこの老運動家は、60年安保の左翼革命インテリの顔に重なって見える。

 小田村氏は号令を発した。柴田翔君も号令を発していた。私は政治的な内容のどんな号令にも従う気はない。

 私だけではない。こと教科書作成に携わるような人は、内発の声にのみ従い、どんな号令にも従うべきではない。

つづく

「「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(三)」への20件のフィードバック

  1.  私はつくる会の賛助会員や日本会議の維持会員です。それは運動には金がかかると承知しているので多少とも役に立つと思うから会費を人より多く納める方を選んだのです。でも、総会での執行部の体たらくや日本会議の謀略を見聞きするに及んで考え込んでしまいます。こんなことにお金が使われているとは。私は中川八洋西尾幹二両氏を私淑するものですが今後は組織運動からは距離をおきたいと考える次第です。

  2. 西尾先生の随筆には考えさせられることが多いです。
    保守の中には転向左翼が多く、知らず知らずのうちに左翼の行動原理で動いてしまっている人がいるということだと思います。

    保守だ革新だとい括りではなく、言っている人間ベースで考えないと失敗する、と思っております。

    私は西尾先生とは政治的な考えは少し違いますが、先生の文章を読んでいつも勉強しております。

  3.  「つくる会」総会における「総括文書」回収の経過には、吃驚し、また、呆れもしました。文書の配布と回収があったことは「つくる会」のホームページで知っていましたが、回収を前提に配布され、総会で十分な討議が行われたもの、と思っていました。
     今回の文書回収は、「小異を捨て大同につく」という問題ですらなく、「臭いものに蓋」ということに過ぎません。
     左翼は限りなく分裂と離合集散を繰り返してきましたが、それなりに生き残った集団・組織ならば、自らの構成員に対して、分裂・統合の原因・経過を明らかにしています。(それを隠していたら、組織・集団としての活動・存続が不可能になってしまいます。)
     自らの依って立つ基盤を公然と論じられない「保守」が、左翼に勝てるはずがありません。但し、ここで「左翼に勝つ」という意味は、行動・組織において左翼を凌駕できるかどうかといった次元の問題ではなく、国民多数の間に、その知的道徳的優位を明示できない、ということです。
     少し、憂鬱な情勢が続くことを覚悟せざるを得ないでしょう。

  4.  「小異と大同」ということでいえば、自民党では、昨年の郵政選挙での「造反組」の復帰が問題になっている。
     今日の産経新聞によれば、城内実氏が「安倍さんとは考え方が近いから様子を見守りたい」という趣旨のことを語ったということです。
     確かに、国家戦略的な大綱において、城内氏は安倍氏に近いことは周知のことである。昨年の郵政民営化の賛否などは小さなことのように見える。しかし、城内氏が安倍氏の説得を振り切って反対票を投じたこと、この相違は決定的な意味を持つ。
     安倍氏は、その城内氏に「刺客」片山さつきを送ることに反対しなかった。この違いは、表面的な政策上の「一致」を越えた政治的対立である。
     もし、安倍氏と城内氏との「一致」を政治的・組織的に実現しようとするならば、相応の政治的経緯(安倍氏の小泉路線――特に経済政策・構造改革からの離反、郵政選挙に対する自己批判等)を踏まなければならないだろう。
     城内氏の行動に注目したい。

  5. 西尾幹二先生

    日々ご苦労さまです。
    さて、林房雄氏が日経新聞の「私の履歴書」を担当したのは昭和40年3月。
    ちょっと調べ物があり、その部分が載っている「私の履歴書 第24集」を手に取りましたら、西尾先生の名前が登場する次の条りがありました。 以下引用致します。

    ・・・・・ あの(陛下の敗戦の)詔勅を私(林房雄氏)とは全く逆の気持ち(大詔は、死ねと仰せられるより生きよと仰せられる大御心の中に結晶した我が民族の理性と英知の発露、哲学にまさる哲学があり、洞察と諦観があるという林氏の気持ちと真逆な気持ち)で聞いた日本作家もいたことを、つい最近「自由」二月号で、若い評論家西尾幹二氏によって知らされた。
    その作家は堀田善衛氏で、氏は当時上海にいたが、戦争中日本側に協力してくれた中国人の運命を心配しており、ただ、天皇がそのことについて、「なにを言うか、なんと挨拶するか、ひたすらにそればかり注意して聞いていた」という。 そして天皇が中国人の協力者に対して、ただ、遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ、という「嫌味な二重否定」をしたきりで、ほかに何も言わなかったことを、氏は、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」と非常に憤慨している。
    「放送がおわると、私はあらわに、なんという奴だ、何という挨拶だ。 お前の言うことは、それっきりか、それで事がすむと思っているのか、という怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。」(堀田氏「上海にて」昭和三十四年)
    これに対して西尾氏は言っている。
    「一体本気なのだろうか。 ふざけているのか、 ・・・ 堀田氏という人はよほど特異な感情の持ち主に相違ない。 私ははっきりと言っておく, 堀田氏はけっして怒ってなどいない、ただ酔っぱらっているだけである。・・・ 大向こうの進歩主義者の喝采を期待する自分自身に甘えている。 天皇への怒りが正義であるという戦後流行の観念はあっても怒りそのものはない。 ・・・ こうした正義派のうぬぼれは、私には、死者への冒涜であるとしか思えない。」
    幸い鎌倉文士の中には堀田氏のような「特異人」はいなかった。・・・・・

    「つくる会」での西尾先生の真直な御姿勢に接し、ディニソス的デモーニッシュなマグマを感じるとともに、ぶれない先生の御思想に観じ入りました。
    天皇や戦時の日本の指導層の誰それに”戦争責任”があるといまだに問い糺している方々も、何がしかの正義感に甘え、それをうぬぼれているのでしょうか。 多くはただの酔っ払いなのかも知れません。

    国際法と国内法に則り、遂行された大東亜戦争の法的な責任は問えないのです。問うべき性質のものではないのです。 負けた戦の道義的な責めを負う者がいるなら、その者自身が自分の心に問えばよろしいのです。

    先の大戦時ヨーロッパでドイツ人がユダヤ民族に収容所でしたことはナショナリズムからではなくピューリタニズムからの所為です(福田和也「保田與重郎と昭和の御世」)。たまたま戦争中に行なわれた、戦争行為と関連のない人類の歴史が続く限り問い糺されるべき所業であり罪過なのです。

    しかし日本に於いて問い糺されるべきは甘えた正義感からの”戦争責任”ではなく、”戦後責任”です。 戦後、連合国軍最高司令官マッカーサー指揮下の占領軍に協力して、孜孜と禁書目録の作成に協力したり、密かに検閲を生業としてその作業に携わっていたインテリ、知識人、学者、政治家と自らを規制したマスコミ、ジャーナリストたちです。

    西尾先生の取り組まれているGHQ禁書図書に纏わるこの深い闇を剔抉するご探究に期待を寄せる以上に、その成果を身と心をふるえさせながら待っております。

  6. 60年安保。とりあえず西尾先生はポリティカルムーブメントを体感したわけですね。

    私の父親も60年安保世代、西部邁氏と同じ歳であり京都大学工学部出身の知的エリートです。ところがオーラルヒストリーの一環として彼から60年安保の風潮を聴き取ろうとしても何も出てこないのです。彼はどうやら大学時代は登山やスキーを楽しんでデモ隊とかそういう経験は無いし見ても他人事のように思っていたそうです。

    私の知り合いのやめ検の弁護士は60年安保世代(詳しい歳は知らない)の大阪大学法学部出身の知的エリートです。彼から60年安保の風潮を聴いてみると大学の授業が成り立たないのでやることが無く仕方なく大阪府立中之島図書館で司法試験の勉強をして1年間で合格したようです。もし60年安保が無かったら彼は法曹人にならず普通のサラリーマンになったかもしれません。

    政治的思考なり敗北主義といった言葉に反応するのもやはりポリティカルヒューマンである点においては同類でありそうでなければ淡々とその場を離れ自分のために資格試験の勉強や趣味を楽しんでいたでしょう。

  7. 私の知る限り、日本会議サイドは、つくる会の内紛にはどちら側にも関与しないというスタンスですよ。

    小田村氏の発言にしろ、東京の女性の発言にしろ、日本会議の意向を受けた作戦ではないはずです。

    本人が、「自分は日本会議の役員で」などと前置きして発言したのなら別ですが、二人とも、つくる会の構成員として発言しているわけでしょう。

    西尾氏にしろ、田中氏にしろ、八木氏にしろ、小林氏にしろ、外部で発言する際に、つくる会の会長職として発言することが全てではなかったはずです。聞いている方も、これらの人々の講演や発言がつくる会の公式見解として見聞きしてきたわけではないでしょう。(「国民の歴史」は西尾先生の執筆ですが、つくる会の公式見解とは違いますよね)

    それとも過去に日本会議なり、生長の家なりに関ったことを前科としてあげつらうのならば、それこそユダヤ人狩りと変りませんね。今現在の政治スタンスではなく、過去の宗教・政治遍歴を問題視するわけですから。

    7月4日の総会を問題にするなら、(私は女性の発言の内容は知りませんが)、小田村氏の発言が、それを聞いたつくる会現執行部に「これは日本会議からのメッセージだ」と受け取られたのか否かが焦点ではないですか。

    私は、これまで数々の国民運動の前線にいましたが、「小異を捨てて大同につく」というのは、役員にしろ会員にしろ、運動に参加する側の判断に待つものであって、運営サイドからそんなことを相手に要望したことはありませんね。

    まあこれも個人的体験ですが。戦略・戦術といった方法論だけでなく、基本的な思想哲学が異なる人とは単発的イベントでは共闘できても、長期的に運動を共にしていくことは出来ませんから。そこは大人の付き合いで、恨みっこなしというのが私の立場です。

    私に言わせれば、今回の内紛の一つの要因、しかもかなりの部分を占めているのが、つくる会結成の精神や、今日の存在意義が理事にしろ、会員にしろ薄れてしまったことがあるのでは。
    設立の原点に戻れない、それを実感できないような理事で構成されてしまったのなら、さっさと解散して、再度やり直すという方法が取れなかったのでしょうかね。

  8. しかし西尾先生の東京大学文学部ドイツ文学大学院の60年安保の時のスタンスと私の父親のスタンスを比較してみると面白いですね。
    私の父親の出身の京都大学工学部の方が理系ですからおそらく東京大学文学部ドイツ文学大学院より「お勉強」はできたと思います。今風に言えば偏差値が高い。

    私は彼のノンポリシー振りを見て思うのです。岸信介首相は「安保反対といっているが後楽園球場は満員だ」と。この発言は安保反対デモ参加者=知識人、後楽園球場に行く人=大衆と読み解かれていますが、実は知識人のカテゴリーに入る人達のかなりも後楽園球場に行っていたのではないか。

    私は60年安保も全共闘運動も元運動参加者が自己劇化しているだけで実はそれほどたいしたものではなかったのではないのかと思います。もしたいしたものであれば、世の中の数パーセントの人がある政治課題なり思想実践に全力で力を注げば社会は完全に変わります。

    西部邁氏は「学者この喜劇的なるもの」という著作で理系学者に対して憎悪と軽蔑の念のこもった文章を書いていましたが、活動家にとってはオルグを完全に無視する興味を持たない人こそが最大の敵なのかもしれません。当時の西尾先生も活動家にとっては広義の意味で仲間だったのはないでしょうか。ちなみに私は三下活動家です。

  9. 西尾先生、今、日本会議は隆盛を極めています。日本会議の最大の強みは神事に関連する祭りをとりおこなえる組織力があることです。

    やはり我われ日本人には親王殿下ご生誕提灯行列に参加してみたいといった欲求があります。この手のもよおしものは昔は神社を中心とした地域コミュニティーが自発的に自然に執り行っていたのですがそれが戦後の強引な経済発展によって破壊されてしまった。だからそれを代わりにやってくれる日本会議は極めて有り難い存在なのです。
    人々のニーズがあるからこそ日本会議は隆盛を極めているのであり、ニーズに反することをすればそっぽを向かれます。日本会議は神社右翼であればいいのであり経済政策など高度な専門的知識を要する問題にはあまり関わらない方がいいと思います。

    西尾先生の日本会議の体質で最も嫌っているところこそが日本会議の最大の強みなのです。

  10. 紀子さま男子ご出産で、男系皇位が繋がれる担保がなされたこと、男系継承の伝統が護られたことは喜ばしいことです。

    しかしこれから女系天皇派の巻き返しが始まることでしょう。
    女系派は、愛子内親王を押し立て宮家の男子を婿取らすなどの画策と、その間の子が女性でも儲けの君になれるような法改正に動くことでしょう。

    男系天皇派は、紀子さま男子ご出産で安心し、ふんどしを緩めてはなりません。
    典範改正の必要は皇位の終身制や宮家創設の部分であります。
    攻撃は最大の防御。 女系派が蠢動し始めないうちに、改めるべき典範部分を改めてしまい、女系天皇を擁立しようとする策動の芽を摘むべく、先手を打つべきです。 男系派と女系派の鬩ぎ合いは数十年の長丁場になるかもしれません。

    女系派の市民、学者・有識者、社民・共産・公明、民主・自民の一部政治家より恐れなければならないのは霞が関に巣食う日本一の謀略プロ集団です。
    邪な知力と歪な国家観と、省益というより親から子や一族へとその地位の禅譲が行われてもいる同族的特権意識集団です。

    これら女系派が動くまで典範改正を放置すると、日本溶解の危機を招く怖れがあります。
    とにかく先手必勝。男系天皇派は更なる深慮慎謀を巡らせることが肝要と愚考致します。

    それにしても皇太子(一家)から皇位継承第三子ご誕生へのお祝いのお言葉がマスコミを通じて伝わってこないのはなぜなのでしょう・・・。

  11. 【西尾先生が「内省の声のみに従い、どんな号令にも従うべきではない」といっても説得力は残念ながらありません。つい前まで新しい歴史教科書を作る会の会長で号令を出す立場だったわけですから。もしもそのようなものが嫌であれば、はなからずっと名誉理事とか賛同人とかあくまでも個人の独自性を維持できる立場から新しい歴史教科書を作る会運動に携わればよかったのです。】( 総合学としての文学氏 2006年09月07日 19:09 )

     ちょっと考え方が違うな、と思っている内に、総合学としての文学氏の投稿が続いています。「内省の声」か「号令」か。できるだけ難しくならないよう心掛けながら、少し論じてみたい。

     樺美智子が亡くなった翌日、東大独文科大学院の集会、柴田翔君が、学部学生諸君の行動を支持する「声明」を発したい、という提案がされたところである。
     もし、学部学生の行動を支持するものと反対するものとが拮抗している情勢ならば、西尾幹二青年も正面から反対することもできたであろう。(仮に、そのような状況ならば、柴田翔君も、せいぜい学部学生の行動を支持すべきかどうか議論しよう、といった提案で止めたかも知れない。)ところが、保守的と思われた手塚富雄教授さえも学生のデモを讃美するような状況だった。
     このような状況において、
     ① 柴田翔君の提案は、各人の安保改定と学生デモについての「内省の声」を問うことなく、もっぱら状況に依存した政治的発言=「号令」だった。
     ② 西尾青年の「われわれ自身がデモに参加するかどうか、あるいはできるかどうかをひとりびとりが心に問う問題ではないのか。」という発言は、圧倒的な状況の中で、直接反対を控えた精一杯の抵抗である。
     そもそも、柴田提案自体、大学院生は、学部学生と同一行動を取りにくい、という条件を考慮した、行動面では一歩引けたものである。本当に自己の政治的立場を表明したければ、同調するものを誘って学部学生の組織するデモに参加すればよいのだ。しかし、それでは大学院生の行動が学部学生多数の行動に埋没するだけのことでもある。
     そこで「大学院クラスの一致した支持」という、より大きな「政治的効果」を期待して「声明」を提案する。ところが、少数でも反対者がいて多数決による「声明」発表となっては、その政治的効果は半減する。だからこそ、反対者には余計に嵩に懸かった攻撃を加えるのである。
     しかし、西尾青年のように「反対」を表明する者はごく少数で、大抵は黙り込むか、会議を欠席するかであったろう。かくて、数多くの大学院クラスの「声明」が発表されていたのである。

     「内省の声」を聞く、ということは、決して「内的衝動」に従うことではない。上述の場合ならば、安保改定や学生デモに対する正当な認識と価値判断、それに基づいた行動の選択、それを個々人がキチンと行う、そういうことであったろう。しかるに、「60年安保闘争」とは、多くの学生・知識人が「内省の声」と「内的衝動」とを混同して繰り広げたものであった。

     こう考えている内に、もう本当に半世紀前になるが(50年代後半)、我々左翼学生の間で初代全学連委員長・武井昭夫と吉本隆明の共著、題名は忘れたが、内心の論理と外的行動の論理は一致していなければならないといった趣旨の、新書版大の本が読まれていたことを思い出す。埴谷雄高に対する批判などが含まれていたと記憶するが、全体の内容が正当かどうかは分からないが、一部とはいえ左翼でも、論じられるべきことは論じられていた、とは言えるであろう。

     今日、西尾先生の回想と総合学としての文学氏の論評を読んで、真正の保守運動は、「内心の声」と「集団・組織」の関係といった根本問題にに立ち返った再出発が必要になっていると感じた次第である。(この問題は、決して日本人の「個・自我」の弱さの克服といった抽象的な問題に還元すべきものではない。)

     「内省の声」に従うためには組織に参加しない、という総合学としての文学氏の態度を、否定したり批判するつもりもなく、それは一つの生き方として肯定されるべきであろう。ただ、以上の論述で意が尽くせたとは思わないが、「内省の声」に従い「号令」に従うことを拒否するということは、ただ「組織に参加せず」「行動的なポストには就かない」ということだけでは尽きない、ということを述べたかったのである。その点で西尾先生の言動に矛盾があるわけではない、と言いたいわけであるが、そこまでのご理解を頂くのは無理というものであろうか。

  12.  フジの木村太郎は、スーパーニュースで「(新しい皇室典範制定によって)この親王の天皇即位の可能性を奪うことは、法的に不可能となった」と解説していました。法的に不可能かどうかは兎も角、既に皇位継承順位3位となられた新宮は将来の天皇としての資格が(法的にも)立派にあるわけで、それを奪い去るなどあってはならないことだと考えます。愛子内親王シンパも多数いるのでしょうが、新宮が成長された暁には非常に国民的人気が出るだろうと希望を込めて見守っています。

  13.  7月2日の「つくる会」の総会における小田村四郎先生の発言(緊急動議)と「つくる会」執行部・理事会の対応について、私は、偶然、小田村先生の斜め後ろに座っており、また、こまめにメモをとっていたので、問題のその場面を私なりに再現し、若干の所感を申し述べたい。

     問題の経過報告は、第2号議案(前年度事業報告及び決算報告)に関連し、藤岡副会長の事業報告に続き、高池副会長によって行われ、同副会長は「詳細な経過報告を同封した。読み上げることはしないが、実名も入っており、取り扱いには注意願いたい。六理事は辞任されたが、正会員に留まっておられる元理事もおられ、是非ともまた御一緒にやって行きたい。今日の報告でこういう内紛は「撃ち方止め」にし、新しい出発として行きたい」と締め括られた。(私は、誠に穏当な文句のつけようのない姿勢であると納得した。)
     続いて、鈴木事務局長から決算報告、平野監事から監査報告があり、質疑応答に入り、新潟の○○氏、大阪の○○評議員、郷友連の○○氏から質問があり、応答があり、而して本議案は拍手をもって承認されている。

     一般の会員席におられた小田村先生が発言を求められたのは第3号議案(今年度事業計画及び予算)が拍手によって承認された後で、議長から許可されると小田村先生は「今日は一会員として出席したので発言する用意はなかったが、これは問題であると思われるので発言させていただく。つくる会の内紛は実に残念であり、教科書の内容と全く関係のない無用な争いは早く止めてほしいと思っている。(中略) 然るに、今日配られた「六理事辞任に至る経過報告」は、パラパラとしか目を通していないが、今までの場外乱闘は西尾さん、藤岡さん、八木さん、勝岡さん、種子島さんとかの個人としての主張であるが、これは「つくる会」の名前になっている。八木さんたちは7月27日に新しい組織を発足させる。私もその案内をいただいている。(中略) 八木さんたちが発足させる組織とも提携したやっていただきたい。ところが、この報告が「作る会」の正式なものとして出された場合、八木さんたち六理事は「つくる会」と協力できると思うか。この経過報告は、この場で回収するか、さもなくば「つくる会」という名前のところを消していただきたい」と強い口調で提案された。

     続いて西東京(支部)の女性会員が「小田村先生の仰るとおりである。今日も「SAPIO」を見て大変悲しく思った。この個人の名前を出した分厚い資料を見て本当にがっかりした。総会の総意として抹消してほしい(後略)」と涙ながらに訴え、壇上からは高森理事も「私も理事の一人として「つくる会」という名前は外した方が適当ではないかと思う」と発言し、会場のあちこちから拍手や回収を求める声が挙がって騒然となった。而して、議長は暫時の休憩を宣言し、壇上の理事達が俄に鳩首協議をし、十五分ほどを経て議事は再会され、議長から「理事会として、この経過報告は回収する」旨が表明され、担当の高池副会長から「色々と意見があり、右往左往することとなり申し訳ない。小田村先生から御提案があり、協議の上、理事会として回収することとさせていただくこととした」旨釈明があり、拍手により了承された。

     以上が、その場面であったと、私は記憶する。
     確かに小田村先生は「一会員として」と前置きして発言されはしたが、小堀桂一郎先生と双璧をなす「日本会議の副議長」であることの重みは歴然たるものであり、当の高池副会長も日本会議の理事でもあり、理事達の狼狽振りもまた歴然たるものであった。(小田村先生は、その後の懇親会においては来賓を代表し乾杯の音頭をとられた。)
     また、同様に来賓として総会や懇親会に出席された渡部昇一先生も岡崎久彦氏も桜井よし子女史も、皆異口同音に「喧嘩の言い訳など聴く耳は持たぬ。白紙に戻して仲良くせよ」の大合唱で、確かに外部の心ある方々の御心配であり老婆心であることは重々承知してはいるものの、その高飛車な心の向け方と物言いは、内部に居る会員の端くれである私としては、甚だ癇に触る障るところでもあった。

     確かに外部から一瞥すれば、地方(支部)の真摯な一般の会員達を甚く心配させ続けての本部の中の泥仕合にも似た内紛は愚の骨頂にしか見えないであろうが、名誉会長が去り、会長が解任され、新会長も辞任し、幾人もの副会長や過半を超える理事達が辞めて入れ替わり、あわや本部が全壊し消滅し去る危殆に瀕した大騒動だったのである。そして、私は地方の微々たる一会員に過ぎないが、この教科書運動と「つくる会」の存在に大きな期待をかけてきたし、自分の人生の意義をも見いだしてきたのである。都合良く頬被りされて、ハイ新たな気持ちで一から遣り直しましょう、では済まないのである。到底得心できるものではなく、決して承知できるものではないのである。

     現に「つくる会」の執行部や理事会の要職にある方々には、創立以来の指導者であれ、就任したばかりの幹部であれ、吾々一人一人の会員に事件の経緯と反省と再建のための方策を責任をもって報告し説明する責務があるのである。
     私は、経過報告を配布しようとした執行部・理事会の当初の姿勢を当然のことと支持するものであり、俄に腰砕けとなり真摯に纏め上げた報告書をソソクサと引っ込めてしまった粗忽と醜態に心底憤慨するものである。

     国を想う信念と信念がぶつかり合って袂を分かったものであるなら、双方とも心底に互敬の念があるはずであり、お互いに自らの長短・功罪を見極めた上で、更に高い次元で「大同団結」できるはずである。他方、いずれかに、或いは双方ともに倫理的・道義的に指弾されるべき問題があって袂を分かったものであるなら、それに頬被りしたまま利害打算で手を結ぶことは、欺瞞以外のなにものでもなく、理念と志操を重んずる組織が為すべきところではないはずである。
     それを内外に明々白々にするためにも、この内紛に関する「経過報告」は、本部(執行部・理事会)の責務であり、同時に真摯な会員一人一人にとっても越えなければならない関門である、と信じるところである。

  14. >布袋和尚さま
    私は和尚さまのそのずずずっとうしろあたりにおりました。

    (これ)が私のその日の感想です。(これ)と書いた部分をクリックしてください。

    実はもっともっと過激に書いておりましたが、修正しました。
    私は帰りの新幹線のプラットホームで、総括資料の回収などがふがいなくて涙がこぼれそうでした。

    でも、つくる会が日本会議に恩を売ったことになったんだなと後になって思いました。

  15. 総合学としての文学氏の投稿コメントを読んで。
    【 政治的な思考なり敗北主義といった言葉に反応するのもやはりポリティカルヒューマンである点においては同類であり、そうでなければ淡々とその場を離れ、自分のために資格試験の勉強や趣味を楽しんでいたでしょう 】

    ポリティカルヒューマンは政治的人間と訳すればいいのでしょうか?
    「政治的人間=国を心配し国のことを考える人」 と学のない私なりに定義しましたが・・・。

    政治的人間においては 柴田翔氏と西尾先生は同類かもしれないけれど、同質ではないと思います。
    西尾先生は、60年安保において、どちらの行動もとらなかったけれど、『冷笑派』だったと。
    大学のキャンパスで「公論」のかたちで口にすることなどとうていあり得ない情勢だった。が先生は密かに個人的に深めていた時流への批判と疑問は持っていた青年だったのです。

    【 さて、西尾先生。西尾先生が「内省(内発)の声のみに従い、どんな号令にも従うべきではない」といっても説得力は残念ながらありません。つい前まで新しい歴史教科書を作る会の会長で号令を出す立場だったわけですから。もしもそのようなものが嫌であれば、はなからずっと名誉理事とか賛同人とかあくまでも個人の独自性を維持できる立場から新しい歴史教科書を作る会運動に携わればよかったのです 】

    ここは、 小田村氏はやはりあくまで「日本会議」の重鎮としての存在はないといえません。皆さん十分に知っておられるのですから。柴田翔氏は大学院生の代表として、の弁でしょう。二人とも政治的な存在でしょう。だから西尾先生は号令には従う気はないと。

    「作る会」の会長職は あくまでも歴史の事実を追究する会の長であり、そこに集まる人たちは政治的な運動を目的としては集まっていないものと思います。

    また政治的な号令に従った教科書にしてはいけないのです。
    絶対に・・・。

    そして、西尾先生は 名誉理事とか賛同人とか、「そうでなければ淡々とその場を離れ、自分のために資格試験の勉強や趣味を楽しんでいたでしょう」という、立場にご自分を置いてはいられない「知的エリート」だったのだと思います。

    西尾先生は
    『自分の心の声のみに従って仕事をするのは、具体的な目標が明確でないために、不安がつきまとう。ただ「男の仕事」とは、その不安と闘うことではないか。たしかにこれは孤独な作業である。ただ、孤独ではあっても、自分の主題というものを持っていれば、それで自己充足ができるのだ』と書いておられます。

    またこうも、
    『保守の論壇について、こんな嘆きを言う編集者がいた。「サヨクの人間は大同団結をしているのに、なぜ保守の人間はささいな違いでお互いに叩き合うのですか」 多分、私の態度に、最近の一連の保守内論争に対する皮肉をこめて言ったのだろう。私はそれは心配には及ばないと答えた。私以外にも一般に保守は離合集散する。

    今、左翼は受け身だから内部で論争するパワーもないのである。 他方、保守は生きいきしており、日本の世論はこの勢力が動かしている。 というのも、これからの日本の進むほうこうには、自国を地球の中で衰退させてはいけないという考えがどうしても中心になるからだ。 
     となると、半ば必然的に反中、反韓、反米となる。違いは戦略の差である。したがって、その方法論にはさまざまあるがゆえに、お互いに論争をする。
     
    保守に勢いがあるから、路線の少しの違いについて論争をするのは当たり前のことなのだ。その様子を見て、「左翼に乗せられて内輪もめをしている」と見るのは誤りである。論争は保守のパワーの現れなのだ。私は、そう説明した。
    左翼はパワーもないから内輪の論争ももうしない。そういう面があると言ったのだが、もう一つ、保守との違いがあることをつけ加えておきたい。

    むかしから体質的に左翼は党派的で、保守はメダカのように群れるのを好まない。左翼は代表学者の周りに党派を組んで、大学でも言論界でも一種のギルドを形づくる。
    たとえば、丸山眞男を神様にすると、その一の子分、二の子分が大学の人事や出版界まで牛耳って、新聞まで動かし、異端を排除し、すべてが神様を拍手する形で組織めいた党派で一団となって動いていく。その背後で代々木(共産党)が指令する場合もある。

    しかし、保守は神様をつくらない。優れた人の業績を評価することまではしても、だからといって、その評価の仕方は多様で、お互いに見方が異なれば相互に排斥し合い、ひと塊にならない。
    おそらく仲間と対決できる人、つまり保守には、「真贋」という自分ひとりにのみ関わる最重要の価値観があるからであろう。
    保守は原則的に「個」を尊重するのである。自分一人で、自分一人の旗を揚げて闘うということが大切なのである。世の中で左翼をだんだん認める人がいなくなってきたのはそのためである。

    ・・・歴史教科書改善運動に行き着いたのは思えば必然的だが、これは一人でできる評論のしごとではない。これも、「見る前に飛べ」とばかりに私が行動した結果である。行動は虚無から逃げることではない。

    真っすぐに虚無に向かっていくことが行動なのである。それが、時間に追われることなく、時間を追うとにつながる。
    実在しているものに向かっていくならば、これは安心である。しかし、虚無に向かっていくのは不安である。しかし、その虚無から逃げるのではなく、真っすぐに向かっていくのが行動なのだ。そのような行動だけが現実を動かす。結果は問わない。
    もちろん、無惨な結果に終わることもあり得る。
    私にしても、すべてうまくいったわけではなく、失敗した例はいくらでもある。』
    ・・・以上「男子、一生の問題」より抜粋・・・・

    西尾先生は、「恐れることを恐れず、行動の男、なのである」
    なんて、私が生意気なことを言ってしまいました。
    失礼しました。

    いま投稿しようとして、布袋和尚さんと長谷川さんのコメントを読みました。 
    そうだ!そうだ!パチパチパチ!!! と、
    思わず拍手しました。

  16. 東埼玉人さん。それほど難しい問題ではないですよ。西尾先生は新しい歴史教科書を作る会ではもともと号令をかける立場だったわけです。それができなくなったから内発の声にのみ従えばいいというのはおかしいということです。

    東埼玉人さんのおっしゃっていることは政治組織活動に参加するなり接する機会のあった一般の若い青年達の葛藤についてであり、60年安保時代の西尾先生はそれにあてはまります。しかし、新しい歴史教科書を作る会の話と混同してはならないでしょう。

    東埼玉人さん。今の保守系の若い衆はインターネットブログで世の中に対して自分の意見を自由に発言できるようになりましたから昔の左翼学生に比べてよく言えばフリーに動ける、悪く言えば自我肥大症になっています。

    昔の左翼学生と違って組織を利用してやろうといった側面が強いですね。西尾先生も利用してやろうといった目で見ている人も多いでしょうね。

    私が大学生の頃は正直、西尾先生を崇拝しているようなことはありませんが、やはり第一線で活躍されている知識人でありなかなか接触できないなあという厚い壁がありました。今から思えばもっと気軽にコンタクトをとればよかったような気がしますが。それが今やインターネットを通じて自由にそしてほぼ対等にディスカッションを出来るようになったわけです。

    知識人や有力組織すらも今や若い衆にとっては自分と対等な立場になってしまったのです。

    昔と比べて良くも悪くも個人と組織・知識人との関係というのは大きく変わっています。

  17. 長谷川 様

     御感想、拝読致しました。
     「日録」への実に様々な来訪者に、しなやかに見事に対応される長谷川様の涼やかで視座のずれない頭脳と眼差し、温かく直く広いお心にいつも感じ入っておりましたが、この御感想に述べられた御見識と御洞察にも心から敬意を表し上げるものでございます。
     微塵も悪意のない小田村先生の御提案を真っ向から突っぱねて、保守陣営の名士であり日本会議の重鎮である同先生のお顔を潰すような対応は、穏当なものでないことは確かです。しかし、あのような対応は何とも不甲斐無いものでした。
     聞くところによれば、議長をお勤めになられた福地副会長は、「小田村先生の御提案に沿い回収はしたが、つくる会の執行部・理事会の見解としての報告内容そのものを白紙撤回したわけではない。更に内容を精査した上で、適切な時期に適切な方法で「つくる会」再建の資とする所存であることを、あの場で明確に宣言しておくべきであった。議長として大失態をした」と自責され、辞表を提出されたと伺います。(慰留され辞意は撤回された。)それが最善の対応ではなかったにしても、次善の対応ではあったでしょう。
     向後、本部がそのようなスタンスでこの問題に取り組まれることを願ってやまないところです。

     その女 ソルべ 様

     直きお心の貴女に御共鳴いただき、大層嬉しく存じます。
    有難うございました。

  18. 総合学としての文学様

    【こと教科書作成に携わるような人は、内発の声にのみ従い、どんな号令にも従うべきではない。】

     西尾先生のここで言われていることは、先ず問題ないでしょう。「つくる会」の人間ということではなく、教科書作成に携わる人、なのですから。
     ところが、「つくる会」の人となると、採択を目指す行動が必要となるため、「内省の声」と「号令」との葛藤が生まれます。一般に、社会的、政治的もしくは集団的・組織的行動に参加する場合、必ずこの葛藤は起こります。(最初から「号令」にのみ反応する特殊な人間は別ですが。)
     「内省の声」と「号令」とが一致しない場合、「号令」が審議の過程にあるならば、当然「内心の声」に従って発言し、修正を求めることが可能ですが、いよいよ最終決定の「号令」に対しては、「内省」の回路を通じて「号令」を再評価し、従うかどうかを選択する。決定された「号令」には必ず従う義務が課せられた組織ならば、そのことも再評価の要因に加えられる。従って、時には「号令」を巡って組織・運動等から離脱することもある。「号令」を発する立場から見ても同じといってよいだろう。

     西尾先生は、以上のことは承知の上で「つくる会」の会長・名誉会長を続けられていたと思う。教科書の「作成者」と「つくる会」との違いはあるが、後者の場合も上述した意味の「内省の声」には、必ず従っておられただろう。
     総合学としての文学さんは、「内省の声」と「号令」の葛藤を避けるため、「組織」に対するス独自のタンスをとられているのですから、西尾先生の言っていることを了解できなくても止む得ないのかも知れません。ただ西尾先生の「説得力」の問題ではないでしょう。

     「内省の声」と「号令」の葛藤などと気安くいいましたが、実際は真に難しい問題であると思います。

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