前回の足立誠之氏の所論からいえるのは、米中両国が一つの方向に向かって動きだし、安倍首相の訪中訪韓はそのシナリオに沿って行われたということである。私もそう考えていた。
中国の経済はいま瀬戸ぎわぎりぎりの資金欠乏に悩み、米国は中国の経済破産を望まず、さりとて中国に核兵器輸送の自由な活動などを決して認めない。
米国は中国を生かさず殺さず、中国経済を破産に追いこまない代りに、北朝鮮の処理を米国の望む方向で中国に解決させようとしている。核実験という北の暴走は、これを実現するうえでいわば絶好の好機であったのかもしれない。だから暴走ではなく、核実験を含めて米国のシナリオだったという説があるが、そういう奇説を私は採らない。
中国を生かさず殺さずにするには今の中国には資金の輸血が必要であり、米国にその余裕も、意志もない。米国はむしろ資金引き揚げに少しづつ向かっているときである。
日本にまたしても期待される役割が何であるかは明らかである。安倍首相が小泉氏とは違って、北京で異例の歓迎を受けた理由は明々白々である。
安倍氏が首相になって「真正保守」の化の皮が剥がれる変身をとげたのは、それ自体は驚くに当らない。私は前稿「小さな意見の違いは決定的違いということ」(二)で、「権力は現実に触れると大きく変貌するのが常だ」と書いたが、その通りになっただけである。
ただそれにしても、歴史問題で彼が次から次へ無抵抗に妥協したのは、日米中の三国で「靖国参拝を言外にする」以外のすべてを事前に取りきめていたのではないかと疑われるほどの無定見ぶりだが、恐らくそうではないだろう。妥協なのではなく、あの政治家の案外のホンネなのかもしれない。
政治家は思想家と違って行動で自分を表現すると前に書いたが、いったん口外した政治家の言葉は政治家の行動であって、もう後へは戻れない。村山談話、河野談話、祖父の戦争責任等の容認発言は、「戦後っ子」の正体暴露であって、恐らくこういうことになるだろうと私が『正論』10月号でこれまた予言した通りの結果になった。
しかし解せないのは、中国は日本の資金を必要としているかもしれないが、日本はいま緊急に中国を必要としていない。国家の精神を売り渡すようなリップサービスをするまでの苦しい事情は日本にはない。
とすれば、足立氏も書いている通り、また私が「小さな意見の違いは決定的違いということ」(六)(七)で示した通り、「中国とうまくやれ」という米国のサインに過剰に応じたのであろう。遊就館展示問題から従軍慰安婦問題まで米議会が介入して来た要請にひたすら応じ、中国にではなく、米国に顔を向けて、言わずもがなの発言を繰り返したと解するべきだろう。
米国に対するこの種の精神の弱さは次に何を引き起こすであろうか。
近づく2007年に郵政法案は実施される。そうなれば340兆円を擁する郵政公社は民営化され、民間会社になる。前にも私がさんざん言って来た通り、資産と運用は区別されることになっている。運用を外資に委ねることは民間会社の自由である。
郵貯の金を外資に自由にさせないために法的歯止めをかけようとした議員たちは、「小泉劇場選挙」でみな落選させられたか、無所属に追いやられてしまった。竹中平蔵氏は一見退いたかに見えて、経済閣僚はみな彼の流れに属している。政策執行の上の直接の官僚組織に彼の手兵がずらりと配置されている。
安倍内閣は竹中氏のいわば監督下にある。竹中氏がアメリカのエージェントであることはつとに知られている。そして、米政府の内部も最近陣容が変わり、金融政策家たちはゴールドマンサックス系で占められるようになってきた。
ここから先は半ば私の推理だが、安倍首相の北京での歓迎は次の方向を示している。民営化された郵便貯金銀行の運用権がゴールドマンサックスなどの手に委ねられ、日本の国民のあの虎の子の巨額が中国に投資される可能性がきわめて高いと考えられる。穴のあいたザルのようなあの国にわれわれの大切な預金が投資されるのである。
投資は経済行為であって、援助でも供与でもない。委託を受けた外国企業が何処で何をしようと日本国民に対し気兼ねする必要はないし、日本政府の関与の外である。
日本の資本家もこれに参加し、利を求めて群がるだろう。景気はさらに上昇するだろう。良かった良かったと手を叩いて喜ぶ人もいるだろう。しかしいつバブルがはじけてご破算にならないとも限らない。
靖国参拝を止めさせようと昭和天皇のご発語という禁じ手を使ったのは他のどの新聞でもない、『日本経済新聞』であった。
この国の資本家たちには愛国心も、国境意識もない。彼らの意を受けている自由民主党は、日本の伝統や歴史を尊重する、言葉の真の意味における保守政党ではもはやない。
私は安倍内閣の発足時に「教育改革」と聞いて課題を逃げているとすぐに思った。「教育改革」はたゞの掛け声に終るのが常である。お巫山戯めいたメンバーの名を見るまでもなく、内閣の政治宣伝効果の狙いを満たすことさえも覚束ないことは最初から分っていた。
いつの時代でも、政治家が「教育改革」を言い出したときには、本気で何かをしないための時間稼ぎであり、見映えの良い前向きの大見栄を切ってみせたいポーズであり、パフォーマンスの一種であると思ったほうがいい。
中国経済のバブル崩壊は近いと噂されているこの時期に、日本国民の永年の勤勉の結晶が、米国投資家の手をぐるりと回って中国に投資される可能性を、私はまず第一に心配している。安倍内閣がやりそうなことだからである。われわれの汗と血の結晶はあの大陸の荒野に吸いこまれて空しくなるのである。
第二の心配は、米国が日本にMD(ミサイル防衛網)を押しつけ、大金をまき上げ、しかるうえに軍事情報の中枢をいっそうしっかり握って、日本を押さえこみ、中国にその分だけ恩を着せるという構造が固定化されることである。
朝鮮半島の非核化よりも日本の非核化のほうがはるかに彼らにとって重大な関心事のはずである。
北の核実験の宣言以来、一番気になるのは米国がどう最終政策を立てているのか、本当の腹が読めないことである。その点では悲しいことに金正日とわれわれはある種の仲間である。
軍事制裁はしないと端(はな)から言っている米国は、中国と組んで金正日排除をほんとうにやる気なのか、それとも北に核保有国の地位を与えるつもりなのか、目的地は見えない。
金正日を排除した後に、中国の勢力圏としての北の位置づけ(韓国中心の半島統一はしないこと)を米国がどう保証するかが、中国にとり問題の中心なのではないか。唐家璇前外相の緊急の訪米訪露はそこまで話合っているかどうか気になるが、これまたまったくわれわれには見えない。
いずれにせよわれわれは袋の鼠である。国内が無責任になり、無気力になり、投げ槍になるのは当然であるのかもしれない。
安倍首相はひとつでもいい、米国の指令ではない独自の外交政策を打ち出し、東アジアのリーダーの実をみせて欲しい。
そうすれば100個の教育再生会議をつくるより、はるかに効果的な、はるかに強く国民を鼓舞する「教育再生」の有効な役割を果すことが可能となるであろう。
当に西尾先生の書かれたとおりで、脱力感に襲われてしまう。
アメリカは収穫期に入ったと思っている。
日本の富は元々自分達のものと本気で信じているから。
ただ、アメリカはそれを直接乱暴によこせと言わないだけである。
様々な法律を作って収奪する。
これは、アメリカ先住民の富を奪った、彼らの伝統芸だ。
支那は今まで乱暴によこせと言ってきたが、日本に言うことを聞かせるには
アメリカと組んだほうが得だと、方向を変えただけであろう。
北朝鮮カードは、ユダヤ資本にとって、かなりおいしい。
これから、5年、10年小泉の仕掛けた売国、亡国への道がはっきり
姿を見せることだろう。
もう、手遅れかもしれない。
一般的に個人主義に対応するものは全体主義だと思うけど、個人主義に対応するものとして集団主義を考えてみたら、米国が簒奪の世界であるというのはわかるのじゃないだろうか。
素朴人さんの指摘のインディアンへの簒奪も歴史的な事実なんだろうけど、日本人が近代化≒西洋化であると考えた場合、また多くの日本の進歩的文化人が絶対視する西洋個人主義への信仰を打ち破るためにもこんな論説はどうだろうか。
もともと西洋の個人主義は発生当初は利己主義とほぼ同じだと見られていたようだ。時代を経るにしたがってこれに理論武装がついてきてはいるようだけど。
発生論的に見るとほとんどの民族も集団も集団主義だったのだろう。むしろ西洋の個人主義が歴史的には異質なのだろう。色々なきっかけはあっただろうが、大きな原因の一つに西洋における産業革命があげられるという。集団主義を集団内の人間を身びいきするという流儀だとしたら国家そのものが国民の保護、国家の主権維持を目指しているのだから、待遇についても他国民と自国民の差をつけるのはほとんどの国家でなされている。これ一つ見たって普遍を絶対視すれば国家そのものの性格は国民を身びいきするだから集団主義なんだろう。
しかし集団主義は長所だけでなく大きな欠陥もある。一つは倫理が崩壊した場合、集団内での批判が起きないこと、これは集団主義の一つの側面に集団の維持が目的になった場合にしばしば発生する。もう一つはある意味で機会損失があることである。それは意味がさらに二つあって、一つは集団の少数意見が排除されやすいという点による機会損失の発生、もう一は集団の意向に反することを実行すれば集団から排除されるからそのリスクがあることである。集団の中で世の中であわせていれば安全なのだから生活するには確かに楽だと思う。米国から帰ってきた友人の多くが日本は住みやすいしほっとするという意見を聞くとそうなんだろうなと私も思う。
個人主義は時期的には産業革命の時期から生まれたという説がある。これはわかりやすい説で、産業革命によって世界市場を対象で考えなければいけなくなったからなんだろう。西洋の当初の動きはアフリカや北米や南米大陸やアジアの植民地化によって市場を得ようとした。一方で商売というのは思想より普遍的であり、集団主義のように集団内身びいきという行動様式を取ればその普遍性が崩壊する。身びいきによって集団内部での相互協力と安心を生み出すが、一方で機会損失をおこす。この機会損失が大きくなれば身びいきの逆転が起こりうる。この外的な要因として一番大きなものは歴史的に見れば産業化に伴う市場(商品市場、金融市場、労働市場などすべてを含む市場)の拡大が指摘できる。自分の集団だけ身びいきしていたのでは集団外部に存在する市場を効率的に利用できないという機会損失を生むからである。
このように考えてゆくと西洋の個人主義は我欲の抑制を取ってしまったのが近代の主軸の主張で、欲望に凝り固まったガリガリ亡者が自分のエゴイズムを抑制することで苦労している文化のように見える。辞書で見ると確かに個人主義は利己主義と同じと書いてあるものがある。
そういえば西尾幹二の「ヨーロッパの個人主義」にこんなフレーズがあった。
(引用開始)
いったい人間と人間との関わり方が、ここでは本質的に、ある冷たい相互不信を前提として成り立っているのではないだろうか?だからまた一方では、エゴイズムを相互に調整するために、一定の様式や秩序感覚が、日本などよりはるかに厳しく要請されているともいえるだろう。そういう関係はべつに意識的なものなのではなく、長い歴史が培った一種の習慣と化し、個々人の行動を規制するあるパターンをなしているのではなだろうか?いずれにしても、人間相互の関係が異質であることは確かである。労働の観念も、自由の観念も、秩序の観念も、ヨーロッパの書物には現れていない西洋人の生き方というこの背景を度外視しては、十分に理解できないのではなかろうか。
ヨーロッパ人の自戒
私が当時感じていたことは、一口で言えば、ヨーロッパの自我の強靭さである。激しい自己主張のあるところにしか、たくましい自己犠牲の宗教も生まれるはずはなかったし、根源的な拒絶と不信のある世界にしか、たくましい自己犠牲の宗教も生まれるはずもなかったし、根源的な拒絶と不信のある世界にしか、愛の宗教も成立しないと思われるからである。
ヨーロッパにおいて「個人」というものが大きな意味を持っているのは、個人がある全体秩序からの解放の自由を味わうことができたからではない。たえず「個人」が「社会」との緊張感の上に立たされる経験を歴史的に積み重ねているからである。「社会」がある行動上の様式を用意していて、個人がそれに則って、そのルール上の上で社会生活を営むという規範のない世界には、ヨーロッパ的な意味における「個人」の自覚というものが出てくるはずはないといえよう。
どんな個人もエゴイズムを持っている。他者支配への欲望をもっている。「個人」の解放とは、原理的には呵責ない自己拡張欲に火をつけることであり、その行き着く先はアナーキズムしかない。そかしこれはまた一方では、個人はつねづねないかある全体的なものに帰属したいという欲望に支配されてもいる。個人はなにものかに奉仕し、隷属することによって、自分のエゴイズムを滅却し、そうすることで、はじめて、ある精神的な安定を得たいと念願するものである。一方では自我の拡大欲があり、他方には、自我の止揚と救済への意思がある。われわれは人間性の根本に根ざすこの二つの相反する矛盾した方向に引き裂かれつつ、自己の生の安定と統一を保っているわけだが、問題はその分裂がどのような性格のものであり、したがって安定と統一とは最終的には何によって支えるられるかということに帰着するのであろう。
日本人のようにもともと自我の脆弱な民族の場合には、エゴイズムの衝突はあっても、摩擦はもともとそれほど激烈なものではありえなかったし、対立は相対的な次元で曖昧に解決をつけることになれてきている。したがって日本では、「個人」に徹することが、同時に「社会」に参与するということになるという逆説的な人間のあり方がどうしても理解されないし、また、そういうパラドキシカルな精神上の訓練をつむ基盤がまったくなかったところへ、社会機能の工業化のみが急速に進められたため、われわれの周辺に見られるのは依然として、欲望のままに赴く個人のエゴイズムか、さもなければ個人を完全に吸収してしまう集団主義か、つねに二者択一のいずれかの道でしかないのに、それが西洋的な思想を纏って現れるという知的混乱に見舞われるように思える。
考えてみれば、エゴイズムの解放は、全体秩序の完全な破壊にしか道は通じていないのである。ヨーロッパでは、自己の内部に他者否定の「悪」を強く意識せずにはおられぬほど、エゴイズムの底知れぬ深淵を思想上の基盤としてきているので、問題はすでに、いかにして自分の自我に固執するかということよりも前に、いかにして他人の自我を是認し、許容するかということに、したがって、何の支えによって自分の自我を止揚するかということに、最大の意識が集中されるほかないだろう。それほどに自分の自我のしたたかさを持て余し、他人の自我のしぶとさに警戒心をゆるめることができないのである。それが個人と個人とがぶつかり合って生きているヨーロッパ、国と国とが入り組んだ国境を接してせめぎ合っているヨーロッパの、長い歴史が育ててきた現実処理の智恵である。
(引用終わり)
中国もやっかいな国だけどヨーロッパの後継者たる米国もやっかいな国だな。それとも日本が異常なのかしら?