日本人の「上下」について――(2)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 本居宣長の古事記伝(四十三)に次のような一節がある。

 「君のしわざの甚だ悪きを、臣として議ることなくして、為し給ふままに見過ごすは、さしあたりては愚にして不忠(まめならざ)るに似たれども、然らず」。

 臣下のものが、君の悪いおこないを見きわめず、諫めもせず、なされるままにしておくということは、臣として愚かで不忠にも似ているけれど、そうではない、というのである。

 「君の悪行は其の生涯を過ざれば、世の人の苦しむも限りありて、なほ暫(しばらく)のほどなるを、君臣の道の乱れは、永き世までに、其の弊害かぎりなし」。

 君の悪い行いが生涯を通してということになると、人々は苦しみ続けるが、それでも限りのあるもので暫くの間である。しかし、君臣の道が乱れたなら、将来永きにわたって、弊害は限りなく続いてしまう。

 「御行為悪(に)くましまししによりて藤原基経大臣の、下し奉られしは、国のため世のため賢く忠(まめ)なる如くに聞ゆれども、古への道に非ず、外つ国のしわざにして、いとも可畏く此れより(中略)漸(ようやく)に衰へ坐(まし)て、臣の勢いよいよ強く盛りになれるに非ずや」

 君の行為が憎いからと、藤原基経がやったように、天皇を下し奉るというようなことは、世のため国のために、賢明な善きことをしたというふうに聞こえるが、古へのわが国ぶりからは外れていて、これは外国の考え方である。(こんなことをしていると)世を経てますます君の道は建てられず、臣の権勢が強く盛んにのさばる世の中になるのは分かりきったことではないか、と宣長は批判したのである。

 第五十七代の陽成天皇は貞観十八年(八百六十七年)、九歳で帝位に就かれたが、少年時代からしばしば乱暴をはたらき、十五歳のときに宮中でご自身の乳母の子、源益(みなもとのすすむ)を殴殺するという事件を起こし、摂政の藤原基経に退位を命じられたという。

 見方によってはやむを得ないことともみられ、北畠親房は『神皇正統記』でも「いとめでたし」と基経の見識を讃えている。後世の歴史家もこのことを理に適った措置として、鎌足が入鹿を誅したことと並べて、藤原氏の功績とする見方が多かった。 

 しかし、宣長はまったく基経の判断と行為をさかしらごととして、痛烈に批判したのである。天皇が乱暴をはたらく、穏やかならぬ行状が多い、その他の理由でも〈人間性〉を疑い奉るという朝廷側近の観察が漏れ伝わる、というようなことは、或いは歴史の上で幾度かあったかもしれない。

 もし、それが現代であったなら、さらに困難な状況を導いていくことだろう。臣民であるなどという意識は勿論、毛頭ない。国民は週刊誌の論評どおり「女でもいいじゃないか」といって平然としていられる世の中である。皇室らしからぬ、という事件があったなら日本は沸騰するに違いない。藤原基経というのは摂政ではあったが、陽成天皇の叔父にあたる。さしづめ今の日本人なら、叔父さんの言うことなら問題はないじゃないか、という声も上がるだろう。

 この宣長が「古への道に非ず」と批判した深意をみつめていると、大変な思想であることがわかってくる。万世一系の天皇が百二十五代も続いて来たのは、国民の幸福を常に祈って来られた「徳」があったからだという保守陣営の人々がいる。一方で、男系をつないで来たというその奇跡的事実が尊いので「徳」の問題ではないという人もある。

 宣長の耳はおそらく、そんな保守陣営の見解もふらついた意見にしか聞こえないだろう。もし、天皇に「徳」がおありにならなかったとしたら、どうするのか。御自ら「徳」を傷つけるような行いが続いたらどうするのか。宣長は「どうもしない」と言っているのである。

 近衛忠房卿が明治六年に書いた「神教綱領」には「天下ナルモノハ天皇ノ天下ニシテ天下ノ天下ニ非ズ」とある。当時の激烈な王政維新のイデオロギーが背景になって生まれた語句であり、明治初期の神道主義者の言葉をもって今を語ることはできないと、古書店に押しやられるような綱領だが、これと宣長の言っていることは寸分違っていない。

 同志社大学の加地伸行教授が先頃、産経新聞の「正論」欄で、「富田メモ」事件について他の有識者とは異なる角度から批評しておられた。メモの真贋を訴求したものではなく、天皇陛下がメモにあったようなご発言を実際になさったとしたなら、「なぜ、その場でお諫め申し上げなかったのか」と、側近である宮内庁長官の傍観的行為を叱ったもので、儒教が教える「臣」の責務を果たしていないと書かれていた。

 しかし、ここで儒教の教えを持ち出しても、宣長の言う「古への道」とはだいぶ懸け離れたものである。陽成天皇の場合などは、臣下がお諫めするという限度を越えていたかもしれない。平成の先入観を取り除いて言えば、わが国では天皇が統治者であらせられたから、本来いかなる御発令も上御一人の御自由であり、天下なるものは天皇の天下にして天下の天下に非ずということは、変動なく続いて来たのである。

 では、宣長の結論はどこにあるか、というと、まったく「神教綱領」と同じで、天皇がもし過たれたならば、国民もそのまま過つのである。天皇が間違いを犯されたならば、一緒に国民も犯された間違いを受け入れるのである。そんなことをしていたら、国の理性ははたらかないで亡んでしまう、という考えがある。宣長はおそらく言挙げしないが、そのときはただ一緒に亡ぶのである、という意味で「神のまにまに」と説くのだろう。

 日本には天皇のほかに「正義」などないという思想である。

 会社や組織の上下関係ということを何気なく考えていたら、古事記伝の一節を思い出して綴った。現代社会の人間の掟と、宣長の「古への道」の思想とはおのずと別に考えなくてはならない。けれど、宣長の答は常に簡素であり普遍におよび揺るぎない。ひょっとすると、事の次元によったら別のものではないかもしれない。

(了)

     「福田恆存を語る」講演會の御案内

 毎年いまごろに行なわれる恒例の福田恆存先生の人と業績を語る講演会が今年も下記の通り催されます。

 今年は芥川賞作家で、日本芸術院会員の高井有一さんがお話になります。高井さんは私(西尾)とは旧知の間柄で、1977年にソ連作家同盟の招待で、加賀乙彦さんと三人で一ヶ月に及ぶソ連旅行をした仲間です。私の旧著『ソ連知識人との対話』の登場人物です。

 集英社の文学全集に高井文学が集録されていて、私が解説を担当しています。

 当日はどんなお話をなさるか分りませんが、福田恆存先生を深く敬愛されていた文学者のお一人です。さぞかし懐かしい思い出をも含めて、素晴らしいお話をなさってくださることでしょう。多分言葉の問題が中心だと思います。

 会場には私も参ります。久し振りに高井さんにお目にかかり、お話を伺うのをたのしみにしています。皆さんもぜひお出かけ下さい。

「福田恆存を語る」講演會の御案内

日時  平成18年11月18日(土)午後三時開演(開場は30分前)
會場  科學技術館6階第三會議室(地下鐡東西線 竹橋驛下車歩7分)
講師  高井有一
演題  「福田恆存といふ人」
参加費 1500圓(※電話またはメールで事前にお申し込み下さい。)
    電話 03-5261-2753(午後5時~午後10時まで)
    E-mail bunkakaigi@u01.gate01.com
(氏名、住所、電話番號、年齡を明記)

現代文化會議
新宿區市谷砂土原町3-8-3-109

「日本人の「上下」について――(2)」への4件のフィードバック

  1. 伊藤悠可氏の記事、前回のものと合わせて拝見しました。

    宣長的な上下関係が会社組織で生きられた時代というのは、ある意味、いい時代だったのかしれません。
    ただ、今はもう無理です。ヘッドハンティングされた上司が落下傘で降りてくる時代ですから。(笑)結局、能力とか実力とかいうものが問われてしまいます。

    もちろん、天皇の価値はそういうこととは別に、宣長の言うように、ただ長く続いたことにもとめられると思いますし、長幼の序的な秩序というのは、町内会とかそういうところにはまだ生きていると思います。
    ただ、地域社会でも、人の出入り意が激しくなるにつれて、そういう価値観も徐々に消えて生きつつあるように思います。

  2. いかが思われますか?私は同感ですが・・・
    (藤原先生は小生の知人です)

    ますますご健勝にてご活躍のこととお慶び申し上げます。

    今回は「自民党復党問題」について私見を述べさせて頂きたく、メールさせて頂きました。

    今回の件に止まらず、諸々の問題ついて原因は何なのか、解決するにはどうすればよいかを、ブログにて発信していく所存です。
    ぜひご覧頂き、国民の皆様のため活かして頂ければと思っております。
    アドレスはこちらです→ http://soseinippon.way-nifty.com/

    よりご健勝にて、国の為・国民の為ご活躍下さい。

    ==========================================================

    >

                   (ブログ11月24日掲載文より)

     安倍政権に変わって、郵政民営化に反対して自民党を離党
    させられた議員に対しての、復党問題が浮上している。

     自民党は、「安易に復党を許すと、国民を騙すことになる」
    とか、「信頼を裏切る」などと、もっともらしいことを言って
    いるが、真相はいかがなものか。

     また復党に反対している小泉チルドレンと呼ばれる刺客たちの
    言い分こそ、人情的にはわからぬではないが、そもそも隠密の
    ごとき刺客は、「死して屍拾うものなし」の覚悟で立候補した
    はずで、小泉前総理自身に「刺客は使い捨て」と言われて驚く
    こと自体が、まさに幼稚なチルドレンというほかあるまい。

     自民党の幹事長である中川氏は、「郵政賛成の爪印を押す
    ならば、復党を認める」と言うことだが、そもそも「郵政解散」はなぜ起こったのだろうか。

     自民党の総務会の決議もすまぬうちに小泉前首相が、「郵政
    民営化」を強行するために閣議決定したことに端を発したはずだ。本来ならば、それを一番諌めなければならないのは、当時の幹事長である武部氏だった。「総務会の決議もすまないうちに、閣議決定をして強行するということは、自民党始まって以来の暴挙であり、とても党のとりまとめなど出来ません。総理といえども、党の規律を無視してまで強行するのであれば、私は幹事長の座を降ります」と身を挺してでも押しとどめていれば、その後の郵政解散も、刺客を送ったり、自民党の分裂の火種を残すようなことも、多数の離党者を出す事態にも至らなかったはずである。

     幹事長という地位は、首相を補佐すると共に、党の要となる重要なポストである。ただ総理のイエスマンであるだけが良いのではない。いい意味での総理と党の舵取りの役目として、見方によっては、その後の党の運営の方向付けをし、場合によっては今回のような分裂の危機をも招きかねないのである。

     そもそも小泉氏は、橋本総理の時代に、永久第一位を約束して地方区から比例区に回っていただいた中曽根元総理に対して、突然の引退を迫るなど、まさに武士道に反する行為であり、日本人にあるまじき行為である。

     その上、郵政民営化を云々するなら、現行のまま行く場合と、民営化した場合の利点と欠点を国民に明確に示すべきである。机上の空論のように、理屈ばかり並べてみても、一度配達して不在の場合は連絡するまで配達しないという姿勢の郵政が、何度でも配達に
    来てくれ、しかも配達の方に直接電話でき、さらに一時間でもかかる場合には「すみません」と言う宅急便と、たちうちできるはずがないのだ。そういう実態を知っているのだろうか。

    「民営化、民営化」と言うけれども、それは「総理に経営手腕と経営能力がない」ということの裏づけ以外の何物でもない。歴代の総理は国家経営に失敗をして、国鉄をはじめ三公社五現業を解体し、足りなくなれば消費税等で穴埋めするだけの無能振りをさらけ出し、赤字国債がどれほどになっているのかわかっているのだろうか。

     にもかかわらず郵政解散選挙では、各地に刺客を送り、広島の場合にはライブドアの堀江氏の応援演説にまで出向き、「私の息子です、私の弟です」と連呼した事実は、民主党の偽メール問題で救われたが、その後の堀江氏の罪状を見ても、党の舵取りとしての認識を疑うものである。たまたま民主党の勇み足でその場は逃れたとしても、その責任は重大であり、郵政民営化に反して離党させられた人たちよりも先に、責任を負うべきである。

     今、自民党の復党の代表として、平沼氏を代表とする十二人の議員がいるが、平沼氏の「私にはその要求は、ハードルが高い」と言う意見は当然ではないか。

     むしろ二度とも反対を表明した平沼氏は、骨のある態度である。

     普通ならば、個人の意見の前に党の方針があると言いたいが、その党の方針をまず無視して事を進めたのは当の小泉総理であり、武部幹事長である。

     もともと小泉氏は、自民党を壊すと言っていたではないか。その者を優遇して、まともな意見の者を離党させる自民党とは、一体いかなる党なのか。

     民主党もだらしがないでは、一体国民は何に託せばいいのだろうか。綿貫氏や亀井氏、堀内氏など、もう一度大同団結してはいかがか。あれこれと理屈をこねる中川幹事長も小者になったものだ。もっと大局を見て舵取りに誤りなきを期せ。

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               平成18年11月27日
                蘇れ日本人の会 会長 藤原 大士

  3. いかが思われますか?私は同感ですが・・・
    (藤原先生は小生の知人です)

    ますますご健勝にてご活躍のこととお慶び申し上げます。

    今回は「自民党復党問題」について私見を述べさせて頂きたく、メールさせて頂きました。

    今回の件に止まらず、諸々の問題ついて原因は何なのか、解決するにはどうすればよいかを、ブログにて発信していく所存です。
    ぜひご覧頂き、国民の皆様のため活かして頂ければと思っております。
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    よりご健勝にて、国の為・国民の為ご活躍下さい。

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                   (ブログ11月24日掲載文より)

     安倍政権に変わって、郵政民営化に反対して自民党を離党
    させられた議員に対しての、復党問題が浮上している。

     自民党は、「安易に復党を許すと、国民を騙すことになる」
    とか、「信頼を裏切る」などと、もっともらしいことを言って
    いるが、真相はいかがなものか。

     また復党に反対している小泉チルドレンと呼ばれる刺客たちの
    言い分こそ、人情的にはわからぬではないが、そもそも隠密の
    ごとき刺客は、「死して屍拾うものなし」の覚悟で立候補した
    はずで、小泉前総理自身に「刺客は使い捨て」と言われて驚く
    こと自体が、まさに幼稚なチルドレンというほかあるまい。

     自民党の幹事長である中川氏は、「郵政賛成の爪印を押す
    ならば、復党を認める」と言うことだが、そもそも「郵政解散」はなぜ起こったのだろうか。

     自民党の総務会の決議もすまぬうちに小泉前首相が、「郵政
    民営化」を強行するために閣議決定したことに端を発したはずだ。本来ならば、それを一番諌めなければならないのは、当時の幹事長である武部氏だった。「総務会の決議もすまないうちに、閣議決定をして強行するということは、自民党始まって以来の暴挙であり、とても党のとりまとめなど出来ません。総理といえども、党の規律を無視してまで強行するのであれば、私は幹事長の座を降ります」と身を挺してでも押しとどめていれば、その後の郵政解散も、刺客を送ったり、自民党の分裂の火種を残すようなことも、多数の離党者を出す事態にも至らなかったはずである。

     幹事長という地位は、首相を補佐すると共に、党の要となる重要なポストである。ただ総理のイエスマンであるだけが良いのではない。いい意味での総理と党の舵取りの役目として、見方によっては、その後の党の運営の方向付けをし、場合によっては今回のような分裂の危機をも招きかねないのである。

     そもそも小泉氏は、橋本総理の時代に、永久第一位を約束して地方区から比例区に回っていただいた中曽根元総理に対して、突然の引退を迫るなど、まさに武士道に反する行為であり、日本人にあるまじき行為である。

     その上、郵政民営化を云々するなら、現行のまま行く場合と、民営化した場合の利点と欠点を国民に明確に示すべきである。机上の空論のように、理屈ばかり並べてみても、一度配達して不在の場合は連絡するまで配達しないという姿勢の郵政が、何度でも配達に
    来てくれ、しかも配達の方に直接電話でき、さらに一時間でもかかる場合には「すみません」と言う宅急便と、たちうちできるはずがないのだ。そういう実態を知っているのだろうか。

    「民営化、民営化」と言うけれども、それは「総理に経営手腕と経営能力がない」ということの裏づけ以外の何物でもない。歴代の総理は国家経営に失敗をして、国鉄をはじめ三公社五現業を解体し、足りなくなれば消費税等で穴埋めするだけの無能振りをさらけ出し、赤字国債がどれほどになっているのかわかっているのだろうか。

     にもかかわらず郵政解散選挙では、各地に刺客を送り、広島の場合にはライブドアの堀江氏の応援演説にまで出向き、「私の息子です、私の弟です」と連呼した事実は、民主党の偽メール問題で救われたが、その後の堀江氏の罪状を見ても、党の舵取りとしての認識を疑うものである。たまたま民主党の勇み足でその場は逃れたとしても、その責任は重大であり、郵政民営化に反して離党させられた人たちよりも先に、責任を負うべきである。

     今、自民党の復党の代表として、平沼氏を代表とする十二人の議員がいるが、平沼氏の「私にはその要求は、ハードルが高い」と言う意見は当然ではないか。

     むしろ二度とも反対を表明した平沼氏は、骨のある態度である。

     普通ならば、個人の意見の前に党の方針があると言いたいが、その党の方針をまず無視して事を進めたのは当の小泉総理であり、武部幹事長である。

     もともと小泉氏は、自民党を壊すと言っていたではないか。その者を優遇して、まともな意見の者を離党させる自民党とは、一体いかなる党なのか。

     民主党もだらしがないでは、一体国民は何に託せばいいのだろうか。綿貫氏や亀井氏、堀内氏など、もう一度大同団結してはいかがか。あれこれと理屈をこねる中川幹事長も小者になったものだ。もっと大局を見て舵取りに誤りなきを期せ。

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               平成18年11月27日
                蘇れ日本人の会 会長 藤原 大士

  4. <藤原基経がやったように、天皇を下し奉るというようなことは、(中略)古へのわが国ぶりからは外れていて、これは外国の考え方である。>これは、宣長の考えであるし、歴史的事実でもある。しかし、<宣長はおそらく言挙げしないが、そのときはただ一緒に亡ぶのである、という意味で「神のまにまに」と説くのだろう。>というのは勝手なこじ付けである。宣長はその時代その時代の神を唱えている。いくら古代が良いとしても、古代に立ち返ろうとすることは、その時代の神に逆らうさかしらと主張している。宣長が「神のまにまに」というのは、その時代を生きろという意味である。

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