初冬到来(一)

 急に寒気が押し寄せて来た。東京に冬のシグナルが灯ったのは二日ほど前からである。

 今年の秋は長く、相当に気温が高かったので、11月に入ってもずっと初冬のイメージすらなかった。紅葉はテレビで知るが、公園の樹林の変化はまだ小さい。

 私がこのところ何をしているか、時局のテーマについて何を考えているか、「日録」で報告してほしいと読者の一人からいわれたが、これが案外にむつかしい。他人に見せる日記をつけるむつかしさは誰にでもあろう。問題はそれだけでなく、文章を書くことを仕事にしている人間にとって仕事以外の文章は、も抜けの殻の自分を外にさらすことなのである。

 かいつまんで報告をするのは不本意だが、やむなく文字通りかいつまんで11月中旬の出来事を語る。

 11月8日に荻生徂徠『論語徴』を読む研究会に午後いっぱい参加し、談論風発を楽しんだ。読み進めた分量は少いが、やはり徂徠は凄いと三人で感銘。三人とは直木賞作家の佐藤雅美氏と愛知教育大の北村良和氏である。北村氏は中国文学者で、師範格である。吉川幸次郎や貝塚茂樹ほかの現代の論語解釈にまるきり反映されていないことにあらためて疑問をもった。

 同日夜、路の会例会で田久保忠衛氏の「北をめぐる日米中のせめぎ合いを考える」が開かれた。

 6カ国協議の協力を理由に2002年10月に江沢民が米国に台湾の武器売却を停止させた。米国の台湾政策がぐらついたのはあれ以来である。同時多発テロ後の米国のテロ優先政策も対中政策をぐらつかせている。米国はカードを次々に切っては捨てた。本年7月の北のミサイル発射と核実験で、こうした犠牲的な米国の努力もすべてフイになった。

 田久保氏はこう語り出して、北が時間稼ぎに成功、みんなコケにされ、米国の失敗があからさまになった、と語った。こうなると北に核廃棄を約束させるのは至難の技だろう。代償は高くつく。

 中国は何を考えているのか。北が民主主義国家になることは中国にとって悪夢である。台湾と朝鮮半島という二つの民主政権を目前に見ることは中国崩壊の起爆剤になる。これは何としても避けたい。人民解放軍の8万余が中朝国境に展開していて、いつでも介入可能な状態にある。

 北の自滅的崩壊はあり得ない。中国が鍵を握っている。金正日の息子たちへのバトンタッチは彼等にカリスマ性がないのでむつかしい。クーデターを日本人は期待しているが、内乱が起こると核がテロリストの手に渡るのを恐れて、米国も介入するだろう。中国、韓国の軍隊も踏みこむだろう。

 いま半島は日清戦争の直前の状態にあるが、日本はプレイヤーではない。米中どちらがリーダーシップを握るかだが、韓国に危機感がほとんどない。日清戦争の直前の朝鮮半島もそうだった。

 中韓両国にとっては今の侭が一番いい。両国一致して国連決議(制裁案)の空洞化をはかっている。海上臨検はいやだ、など。

 しかし中国も試されている。北をこのまゝ扶けつづけることができるか、それとも日米中心の半島政策に従うのか、ライスに短刀をつきつけられている。北は中国にとって生命線である。半島が民主化するか否かということは台湾の運命にも関わっている。

 そこで民主、共和のいずれかという米政権の行方の問題があらためて重要になる。ニクソンとキッシンジャーが中国と手を結んだように、民主党は悪魔とでも手を結ぶ。目的のためには手段を選ばぬ傾向がある。

 ブッシュは演説の中でfreedomを何回も唱えたように、イデオロギー、道義性を重んじる。民主主義を叫ぶモンゴルやインドとも呼応している。中国に追い討ちをかけている。

 東アジア共同体を唱える中国の政策に、麻生外相は豪州、ニュージーランド、インドを加えようと提案した。これは中国封じ込めの共和党政権の中長期的目的、民主主義国でかためて北朝鮮問題をも解決しようとする目的に沿うよう、日本から協力の意志を示したものである。

 田久保氏の以上の談話に数多くの質疑応答がつづいて、全体で討議は3時間以上をも要した。出席者は黄文雄、高山正之、木下博生、大塚海夫、萩野貞樹、入江隆則、田中英道、大島陽一、藤岡信勝、東中野修道、佐藤雅美、北村良和、山口洋一、中澤直樹(Voice)、湯原法史(筑摩)、力石幸一(徳間)の諸氏であった。

 11月10日から福岡に旅行した。私はほとんどすべての学会から退いているが、日本ショーペンハウアー協会だけはまだ参加している。独文科同級生のワーグナー研究家の高辻知義君が会長をつとめている。前会長もまた駒場同級生の哲学者山崎庸介君である。

 11日(土)に九州産業大学で第19回目の総会があり、一年も前から公開講演をたのまれていたのを果たした。公開だったが、一般からの参会者は少なかった。

 私はショーペンハウアーの研究をいまほとんどしていない。仕方がないので『江戸のダイナミズム』の第9章を利用して「富永仲基の仏典批判とショーペンハウアー」と題する比較論を試みたが、同時代という以外に、両者の間に直接の関係はない。たゞ、両者ともに東と西の端から革命的なインド像を提出したという点で共通している。自分の置かれている宗教的前提をくつがえした二人だ。

 両者ともにそのラディカルな批判精神には魅力がある。ことに仲基が龍樹(ナーガールジュナ)の自己欺瞞、大乗経典をより上位に置くための詭弁に近い「教相判釈」のロジックを見破った論法はじつに面白い。空海の「十住心」の教えも間接的には否定してしまっている。

 仲基は鎖国時代を生きて、サンスクリットも何も知らなかった。漢訳仏典しか知らない。それなのに中国以北に伝来した数多くの仏典がすべて釈迦の直説であるとする既成宗門の安易な惰性を打ち破った。

 ショーペンハウアーも同様にサンスクリットを知らなかった。『ウプネカット』というウパニシャッドのペルシア語訳のそのまた重訳であるラテン語訳を眼光紙背を徹して読んで、インドの何たるかを掴んだ。ヨーロッパの東洋研究はショーペンハウアーの出現の前と後でくっきりと区別されている。

 思想の方向はむしろ逆だった。仲基は歴史を求めた。仏典の成立の納得のいく歴史的説明を求めた。その意味では18世紀前半に生きて、すでに西洋よりも100年も早く聖典の「原典批判」を実行した点で、彼の頭脳は西洋人よりも西洋的だった。

 それに対しショーペンハウアーは東洋の宗教の非歴史的性格に魅かれた。インドには歴史がない。いつ、どこで、何がという簡単な記録にさえインド人は関心をもたない。

 二人の知性のあり方は逆で、それだけにそれぞれが自己否定において徹底していた。仲基は東洋の不合理な曖昧さを嫌った。ショーペンハウアーは西洋の主我的な、歴史に文明の自己実現を見るたぐいの傲慢さを憎んだ。ショーペンハウアーのヘーゲル嫌いは衆知のことである。

 それでいて仲基とショーペンハウアーは互いに案外に近い地点に立っていたのではないか、というのが私の推理である。仲基は大乗非仏説論者では必ずしもない。ショーペンハウアーはキリスト教的隣人愛を最後まで手離さなかった。どちらも既成の宗教に対し破壊的ではない。思想的に中後半端だといわれればそれまでだが、彼らは破壊や否定それ自体を求めていたのではなかった。

 福岡では最初の晩は友人たちと、二日目は友人たちも含めて学会の懇親会をかねて楽しい夜をすごした。最初の晩はふぐ刺し、二日目の晩は鳥鍋だった。どちらも福岡の名物らしい。

 食べ終わって中洲のスナックでカラオケに興じた。二晩もつづけて同じスナックで唄った。折角なじみのつもりで二度目も同じ店に行ったのに、二度目は明らかに不自然な金額を求められた。

 中洲の名誉にならない思い出を残して去ったのは残念だが、旧友にめぐり合い、学ぶことも多い良い旅であった。

つづく

「初冬到来(一)」への9件のフィードバック

  1. 『論語徴』を読んで徂徠はすごいと思われた。反日日本人の元祖のような男ですよ。『論語徴』を読むことなど人生の時間の無駄使いです。そう思います。中華の差別文化の礼賛者は日本的ではないものです。

  2. 吉田松陰は『中国古典』の教養だけで『明治維新』の指導者たちを輩出したのですか。わずか29才で日本の将来を見据えたことに驚かざるを得ない。それほどの『知力』を中国古典は持っていたと言えるのででしょう。『和算』においても同時代の西欧の数学のレベルに達していたのすね。
    大阪南へ出かけました。ティファニー・グッチ・エルメス・・
    が軒を並べていました。日本の女性の財布は『世界的』です。
    家をもてない貧困さでしょうか。
    西尾先生がお元気なので日本はまだまだ『大丈夫』ですね。

  3. >それほどの『知力』を中国古典は持っていたと言えるのででしょう。
    そうであるならば、本家の中国では明治維新以上のことが起こったはずです。日本はGHQの占領時代以外は言論統制がなかった国です。ですから松蔭も『論語』『孟子』だけを読んでいたわけではないのです。松蔭の生家の杉家は神道皇室を尊ぶ家柄だった。また松蔭は水戸学に強い影響を受けた。
    『孟子』冒頭の梁の恵王との問答で孟子が「王はなぜ利を問題にされるのか。仁義に適っているかだけが問題だ。」と答えた。この問答の王の姿勢を松陰は「志がある人物」と評価している。この評価は一般的ではないのです。この利とは具体的には富国強兵のことで、恵王は国を盛んにする方策を問いかけた。それに対して孟子は仁義を施すだけだと答えた。儒教は精神主義の唯心論で物的富み・武力などは蔑視する思想です。ですから孟子にとっては王は志を欠いている人物なのです。でも、武士たる松蔭が武勇を軽視するはずもなく、また日本文化また神道は富を軽視しない。だから松蔭の「志がある人物」との評価になったのです。この松蔭は本当は中国の古典(儒教)に反する思想を述べているのです。中国の古典(儒教)は法律を軽視する。富・商業を軽視する。(ただし賄賂はとる)武力を軽視する。労働を軽視する。儒教以外の学問を軽視する。一家一族と比べれば国を軽視する。この中国の古典(儒教)に従ったなら明治維新はできなかった。事実、中国では明治維新はおこらなかった。

  4. 明治新政府の要人達は岩倉具視を始め『世界見聞』の旅出かけました。彼らの「教養」は『中国古典』によるものでしょう。しかし各国では、今で言う『品格』のある振る舞いとして、賞賛されたということです。日本文化は『神道』だけで成り立ったとは思えません。大陸の影響はなくて日本の思想が成熟したはずはありません。仏教・漢字は大陸生まれ・から来たのではないのですか。自己を主張せんが為に重箱の隅を突くような論理展開されるのは非常に見方の狭い『儒教的教条主義』では。
    日本の『風土的条件』から『繊細な文化』を生み出したのでしょう。外つ国の文物に鋭敏であったから『海外事情』を察知し、『政治体制』を変ええたと思われます。自国が世界そのものならなんら『外の文物』は必要としないでしょうし『体制変革』も起こしようがないでしょう。

  5. 明治新政府の要人達は岩倉具視を始めに『西欧見聞の旅』に出かけました。彼らの教養は『中国古典』によるものでしょう。

    各国で、今に言う『品格』のある振る舞い(?)で賛美を得ています。日本文化が『神道』のみで出来上がっているとはとてもい言えないでしょう。大陸の文物を、漢字・仏教思想などは受け入れたものでしょう。単に『儒教』のみが中国古典ではないのでは。自己を主張せんが為に非常に狭い論理展開はいかがなものでしょう。

    日本文化の『繊細さ』は風土環境から来るもので、外つ国の文物・情報に鋭敏であったが為、海外情勢を察知出来、明治維新へと『政治体制の変革』を可能としたのでしょう。

    自国が『世界自体』なら『海外の文物』は不要で、政治体制は支配層の変化は起きても『文明の変革』まで起きる必要はないのでは。単純に『明治維新』と『儒教』を直線的に結びつけるのは無謀でしょう。

  6. >wajyurouさんへ
    コメントの反映が遅くなりました。両方のコメントともアップしておきます。

  7. 今回の西尾先生の教育に関することはよくわからないな。よほど私がにぶいのか。

    >「昭和22年制定の現行教育基本法には悪いことは何も書かれていませんよね。たゞ〈個人の尊厳〉〈個性の尊重〉〈自主的精神〉〈自発的精神を養う〉などの美辞麗句に満ちているわけですが、これらの言葉の影、裏側が書かれる必要があったのです。

    これはなんとなく理解できる。近代化されてからの習慣かどうか知らないけどしばしば日本人は内実のない言葉に捉えられる。自分で探して発見した言葉ならその制約条件もわかるとしたものだ。私の別会社にいたときの技術担当役員が「技術者とはこういうことは技術的にどこまでできるかを明言できる人間をいう。実験をしてみないとまったくわからないというのは技術者とは違う」という言葉を思い出す。実際には発生した民族では内実があってその内実に現実が囚われることは少ないだろうけど。

    わからないのは以下の文章である。

     〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。

     その意味では教育は訓練であり、陶冶であって、そういう基盤を欠いた単なる〈個性〉や〈自主性〉は我侭や好き勝手を助長するだけです。教育基本法にはそういうことを書いて欲しい。それなのに〈愛国心〉がどうとかばかり言っている。

    私は近代化教育は徳育教育から知育教育に、それも一律の型をはめる教育を行ってきたことに疑問を持っている。さらに現在の生きる力は西洋型の弱肉強食の世界でも子供が生きられるように教育するのかと思いきや、まったく違う点にも違和感を持っている。

    そして江戸時代の教育は徳育であり基礎教育は徹底した暗記型の教育であったと考えている。誤解があるといけないが日本人がやってきた小学校から中学校までの基礎教育はやはり日本が優れているが、それ以降の義務教育以降では生徒が先生へ質問をめんどくさがらずに正直に答えてあげて、答えられない質問にはここまではわかっている、または考え方を助言することではないかと考えている。

    さて本題に戻ると西尾先生は
     〈個人〉や〈個性〉は求めて得られるものではありません。自然に生まれるべきものです。〈自主性〉や〈自発性〉は学校や親が計画して育てるべきものではなく、基盤となる精神が予め鍛錬されていることから自ずと生じるのではないですか。

    とお書きだ。すると基盤となる精神は誰が教えるのだろう。親でもなし、教師でもなし、それとも子供が勝手に相互研鑽で鍛錬するものだろうか。
    私は自分の狭い経験からやはり親の責任が大きいと考えている。多くの社会人は給与生活者であって以下の私の経験が得るような機会はないと思うが、やはり親の背中を見ることは大きな教育要素ではないのか。かならず朝の8時には店にでて夜の7時のNHKニュースを見るまで店で働き、それと同じ行動パターンを私に小学校5年の夏休みから大学に入るまで長期休みの場合はかならず店に出て無料で働かせることを強いたし私もそれを許容した。
    いまでも何かあると思わず腰が浮いて行動したくなり、他部署にちょっかいだす習慣はこれらの経験が背景になるのだろう。

  8. コメントへのコメント:荻生徂徠は反日ではないですよ。この点に関して、彼の言いたかったことは、中国は昔は良かったが、今はだめだ。現代の日本は、過去にはあまり偉大だとは言えなかったが、いま遭遇している未曾有の危機を乗り越えれば、世界最高の国家になりうると、言うことです。宣長とは違うが、一種の日本礼賛があります。

    また、中国古典がすばらしいのではなく、中国の古典をみる徂徠の目がすばらしいのです。論語徴などで示されている歴史相対性の思想は、実は宣長に継承されているし、徂徠の文明主義的国家主義的歴史主義を理解できなければ、宣長の革命性も結局は理解できないでしょう。ましてや、宣長を越えることなどできない。

    実は、江戸時代の末以降、現代に至るまで、徂徠や宣長の生み出したパラダイムは越えられていない。これは、日本が今でも遅れているというのではなくて、江戸時代の後期に人文社会科学の基本的な考え方の面では日本が最も進んでいたので、その枠内で欧州の文明に合わせることも出来たし、米国の文明に対処することも出来たということです。例えば、津田左右吉の議論など、宣長の同時代人が行っていた議論で、宣長の論理によって既に、越えられてしまっています。

    現代は、それから200年以上たって、そろそろ新たなパラダイムが必要になっています。それを生み出すためには、西洋の思想を理解することも大切ですが、徂徠や宣長と正面から取り組むことが必要になります。西尾先生のご著書の出版が楽しみです。

  9. 誤解を避けるために、付け加えます。
    宣長は日本礼賛ではありません。やまと礼賛とは言っても良いでしょうが、日本には批判的です。

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