坂本多加雄選集のこと(一)

 坂本多加雄さんが逝ってから早くも四年が経つ。藤原書店から部厚い二巻本の選集が出てからも一年経った。以前に「日録」でもこの本のために知友が集って、ご父君の援助もあって、選集出版を誓い合ったことを報告している。

 思い出せば亡くなられた年の師走の寒い雨の日に追悼のための集会が行われた。今年もまた同じような寒い年末を迎えている。ここで二巻本の選集のことを遅ればせながら顧みておこう。

 選集は坂本さんの弟子筋の杉原志啓氏が奔走して、実務も担当され、実現の運びとなった。杉原さんがいなければとうてい日の目を見なかった著作だった。

 残念なのは一冊の値段が各8400円+税と高額なことである。序には粕谷一希、解説には杉原志啓、そして二冊の月報に猪木武徳、梶田明宏、北岡伸一、中島修三、西尾幹二、東谷暁、御厨貴、山内昌之の八人が名を並べている。

 Ⅰ、近代日本精神史、Ⅱ市場と国家の二冊に分れ、カタログにはⅠについて、「日本政治思想史研究」を学問として成立させた丸山真男を受け継ぎ、この学問の新たな領野を切り開いた坂本多加雄。秀逸の丸山論、福沢論を始め、近代日本思想史の豊かな遺産を現代に甦らせた諸論考と、「言葉」を手がかりに大正以来の思想史を初めて一望してみせた『知識人』を収録、と書かれている。

 Ⅱ市場と国家については、憲法に規定された「象徴天皇制度」の意味を、日本の来歴に基づいて初めて明らかにした天皇論、国家の相対化や不要論が盛んに説かれるなか、今日における「国家の存在理由」を真正面から明解に論じた国家論、歴史教育、外交など、時事的問題の本質を鋭く迫った時事評論を収録、と書かれている。

 以上はカタログの文言である。ここでは私の月報の文章と、その文中に坂本さんの真摯な性格を物語る一例として取り上げた、往時の彼の解説文を紹介したい。

   彼がいてくれればこんな事にはならなかったとしきりに思う。死なれると存在が大きく見えるものである。生きている人間は生ぐさくて浅間しい。

 思い出すために亡くなられた直後に私が新聞にのせた追悼の「談話」をもう一度読んでもらおう。

 あまりにも早い死を悼む
 学識もあり、洞察力もある優れた知識人だった。あまりにも早く逝った。今思えば、病気が彼の体を急速にむしばんでいたのは、靖国神社の代わりの追悼施設を審議する懇談会で一人正論を主張していた五、六月のことではなかったろうか。

 坂本さんはつくる会創設の最初の四人のメンバーの一人で、教科書のかなりの部分を執筆した。しかし実は、彼の専門の明治維新前後はほかの執筆者が書いた。彼の当初の原稿は批判されたのである。専門家でありすぎ教科書の記述にはなじまない、と。だが、ここからが坂本さんのすごい所だった。近世や戦後史など専門でない分野を進んで担当した上、全体の完成度を高めるために献身的、協力的だった。私は彼に人間的に負けたと思った。

 「一番男らしいのは坂本さんだ」。当時の編集者のこの言葉がすべてを表している。(談)

「坂本多加雄選集のこと(一)」への6件のフィードバック

  1.  私が坂本先生の本から教えていただいたのは「フィクションだ」という言い方こそ、フィクションを弄しているフィクションだ、ということでした。
     このことを教えてくれた方がもう一人いて、ポストモダニズム全盛の頃、「物語批判」というのがそのブームの中で極めて安易に横行しました。今でも不思議で仕方ないのは、物語批判論の公式に従って国家批判やイデオロギー批判をしていたポストモダニストの大半が絶対平和主義という、いかにも脆い物語に流れていってしまうのですが、この安易な物語批判の風潮を厳しくかつ論理的に批判したのは笠井潔さんでした。笠井さんはそののちリバタリアニズムの方向にいってしまいますが、この笠井さんのロジックを国家論や政治論の分野で、しっかり示してくれたのが、坂本先生ということになります。
     坂本さんの本の中ではやや大衆的な本で、しかも最晩年の書になってしまいましたが、「国家学のすすめ」の第二章で展開されている国家実在論に、私が受けたその影響が凝縮されているといえます。これはあまりにも恐縮な言い方かもしれませんが、西尾先生の雄弁でスピーディーな論理展開の著書の数々に比べると、坂本先生の著書は時として晦渋なもの、寄り道的なものもある本だと思います。しかしそれが実に強固な理論武装を与えてくれていく楽しみを与えてくれます。恐縮をさらに重ねれば、西尾先生がジェット戦闘機であり、坂本先生は重戦車みたいなイメージです(笑)坂本先生が示してくれた国家実在論は、おそらく私にとって生涯の財産になるものだと思います。坂本先生の明治国家論も、時として図式性に陥りがちな司馬遼太郎さんの明治国家論のエッセイより、よほど強固なイメージを与えてくれます。選集は私の「財産」の一つとして、必ず購入しようと思っています。

  2. すまそ

    話題ぶった切って

    Mr,幹二

    俺は

    霧の谷!?

    だったかな・・

    ドイツの
    強制収容所の
    燦燦たる現状の

    生還者の

    手記を見たこと有るよ

    「苦しみの中にも光明を
    観れるらしいですよ。」

    幹二の参考になるなら
    一つ覚えてください。

    落ち着いたら
    又、幹二さんの日記を
    精読しに参ります。

    私の所属部隊を
    を忘れなく。

    思い出したらWISしますね。

    靖久。

  3. Mr,幹二

    買い直さなければならない

    本が山程あります。

    暫し、時間を下さい。

    手始めに

    沈下す共を

    撫で斬りにします。

    ご心配は無用ですよ

    西尾さん

    峰打ちですからね^^

    掲載宜しく!!

    靖久。

  4. つくる会問題の本質がかなり具体的なかたちで、会員に知らされるようになってきました。迂闊な行動をとる人の「迂闊な」情報も発信されています。一般会員は何も知らされていなかったようです。総会で内紛情報に「蓋」をしたことの弊害が出てきたようです。

    石原隆夫氏の「会員から見た“つくる会”の今」を拝読しました。文章の行間には、石原氏のつくる会に対する真摯な「想い」と精緻な分析姿勢が深々と伝わってきます。石原氏の見解がつくる会の問題点をほぼ正しく集約していると言えるでしょう。その理由のひとつは、石原氏の文章には「嘘」がないからです。文章に「品格」さえ感じられるからです。真の響きを感じるからです。

    産経グループもカタナシ。残念です。不自然なことをすべきではありません。どんな中国戦略があったにせよ(大局的に考えて、分からんでもありませんが)、もっと大人の振舞をすべきでした。昨年12月の中国視察旅行に編集員が同行、またW記者を処分しなかったこと。どれもこれも、あまりにも稚拙でした。なぜもっと巧みに対応できなかったのでしょう。多くの産経ファンをガックリさせました。
    小泉フィーバーを煽り続けてきたのも「迂闊」の最たるものでした。ともあれ、会員の多くが実態をかなり認識するようになった。石原氏の文章は、その極み付けのようです。

    私は今、さほど教科書の採択率にこだわりません。ジワジワ実績を伸ばしてゆけば、そのうちアッという間に、まともな教科書が採択されるようになると考えるからです。
    日本は「空気社会」であることを一時も忘れてはいけません。熟柿が自然と落ちるように・・・慌てず・・・

    その昔、「空気社会」について、飯田橋の山本七平事務所で、山本先生とじかに話し合ったことがあります。その事務所とは、ビルの谷間のラーメン屋ではありませんが、まさにビルの谷間の廃屋といった感じでした。今にも倒れそうな、古い日本家屋の事務所2階が先生の仕事場でした。壁の周囲、天井まで古本でギッシリ、山本先生が逝った今、懐かしい思い出になりました。
    山本先生は「日本の空気」を誰よりも深く察知していました。それに真の知識人でした。世の中の裏側、社会の現象的進行と方向を見抜いていました。

    山本先生がご健在でしたら、間違っても再生機構に名前を連ねることなどは無かったでしょう。一流の知識人でした。

  5. 皇都衛士さんの山本七平の「空気」の話につられて。

    もう来年に1月末で定年で、部長になってからも変えなかったHNを今度は変更しようと考えている松井です。数年まだ前の組織で働くことになりますが、部下が育つまで単なる重石か例外処理への対応要員としての存在になるのかな。

    空気の研究をもう一度読み直しているのですが、やっと長年の疑問がごく一部理解できるようになりました。それは冒頭で日本には差別の道徳があると書いてあったことです。身内なら助けるが身内でないなら救わないという丸の内の過激派によるビル爆破事件に関連した話です。

    差別の道徳という山本氏特有の用語を使っていますが、個人を律する基準は必ずあるはずです。そうでなければ日本は無規範の社会になってしまいます。その律する基準が道徳とか倫理とか呼ばれているものなんでしょう。

    今回の騒動で西尾先生の指摘が正しいならその指摘している部分が保守の差別の道徳なでしょう。何がって仲間だろうと敵だろうと個人を律する倫理は状況には左右されないはずです。保守を批判することが革新への応援になるというのは相手の属する団体やグループや身内でない身内であるによって個人を律する基準を変えるのはあきらかに差別の道徳です。保守がおかしなことをしたらそれを批判しないと自分を律する基準に違反します。

    もうひとつ興味深い内容をはじめのところで書いています。それはこれも長年の疑問でまだ私としては解明されていないことです。それは「日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたことが不道徳行為”とみなされる。したがってそれを絶対に口にしてはいけない。これが日本の道徳である」という山本の発言です。
    幾つかの可能性は考えてみました。

    ①日本では文字が多いコミュニケーションは野暮と考えられている。確かに同じに分かり合えているものどうしでは饒舌はいやがられるだろう。相手が無知であることを認めることになるからだ。口にすることじたいが不道徳行為というのはこういうことをいうのだろうか。

    ②何かわからないけど導入してきた儒教や仏教や西洋文明の道徳を無意識に受容したきたものと違う身についた道徳律があるという話だろうか。

    ③相手の矛盾を批判することは不道徳行為というような例だろうか。確かに旧軍で天皇陛下の命令と下級兵士が上級下士官から言われてもまさか上級下士官が天皇陛下の命令を直接受けるわけがないと兵士が指摘したら、そういう建前の世界をまるで王様は裸だったと指摘するのと同じだから不道徳というのだろうか。

    こういうのが混じって抵抗できない空気ができるのだろうか。まあ本題とは関係ない話だけど。だれかこういう意味だと助言してくれるかたはいないかな。

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