入学試験問題と私(二)

 上智大学の設問の立て方でおかしいと私が思ったのは、いうまでもなく問2の「反論をして下さい」である。寄せられたコメント欄の最初の四人の読者の反応も、この点がおかしいと皆が例外なく言っていて、取り違えはない。

 ある人は出題文の主張に対する解釈はいくつあっても成り立つが、はたして反論の形式でそれがたとえ一つでも成り立つものか、と疑問を呈している。反論に模範解答があり得るかとも言っている。

 ある人は大学側の「出題者の意図に反論して下さい」と解答欄に書くのが正答ではないかと茶々を入れ、また別の人は、自分が受験生なら出題文の内容は「全く正論、反論はない」と書いて上智大への入学を諦めるだろう、とまぜっ返している。

 大学の出題者は「確信犯的リベラル」で「質の悪い問題」だと、政治的肚を見抜いている人もいた。

 ということは国語の入試問題が思想調査に化けているという意味だろう。

 どういう思想調査をしているのか分らないが、上智大の受験生は昨春、同問題を前にして多分当惑しただろう。出題文に共鳴したか、少なくとも納得した受験生はなおのこと、何を書いてよいか分らなくなって呆然としたに違いない。

 私は不必要に受験生を迷わせる問題は良くないと考えている。能力や学力を知るうえでも役に立たない。

 次に掲げる日大の問題は平成10年度でやや古いが、私の旧著、第一エッセイ集『悲劇人の姿勢』(1971年新潮社刊)からの出題なので、『ヨーロッパの個人主義』と同じ私の若い時期の文章である。送られて来た問題用紙を見て少しうれしかった。あの本をまだ覚えている国語担当教官がいるのだと知って、それが意外でもあり、有難くもあったのである。

 取り上げられた短文「歌劇お蝶夫人」は筑摩書房の『ちくま』という広報誌(1969年12月号)に掲載された目立たぬ小文である。同文の前半の約半分の分量がこの入試問題に使用されている。このあと議論はまだまだつづくのである。

 出題内容も形式もきわめてオーソドックスで、奇をてらった処はない。正答を私は聞いていないが、私までが迷うような手のこんだ難問、不必要な落とし穴はつくられていないように思った。

 私は平明で、迷路のない出題内容が一番良いと考えている。しかしそれなら点差がつかないので、入試らしくないということになるのかもしれない。

 それにしても私自身がもう忘れてしまった30歳代の前半の自分の未熟な文章が入試に使われるのは何となく気羞しく、またそれでよいのだろうかとも考えることが多い。

日本大学平成10年

 《日本人の作品が外国の劇場で上演されることもときたまあると聞いていたが、私は二年間の滞独中に、そういう幸運に恵まれたことはなかった。ヨーロッパで日本および日本人を演じている舞台といえば、ポピュラーなのは、相も変わらず『お蝶夫人』なのである。

 その昔、これは長崎が舞台だというのに、背景画に富士山を描いたりして、ひどいちぐはぐがあったそうだが、私の見たハンブルクの舞台装飾はそれほどひどくはなかった。障子や畳のある座敷を舞台正面にしつらえ、窓から桜の花がみえ、(ア)丸木の橋、庭の稲荷など、たぶん版画や書物で得た知識から作られたのだろう。それなりに上手に、日本的情緒を出していた。尤(もっと)も、その「日本的」ということに過度にこだわり過ぎているように見えるのが、われわれの感覚にある程度は逆らうのだが、今はそこまでは問うまい。

 日本航空の外国支店の窓口によくある小型の石庭なども、大抵は日本人の工芸家の手になるのだろうが、それでも作られた日本以上のものとは言えないのである。それ以上のものをハンブルクのドイツ人舞台装置家に期待することは無理だろう、私はそう思った。しかし、幕が開いて、オペラが進行するにつれ、成程いままで気がつかなかったが、(1)「日本的」と呼ぶ以外にないようななにものかが矢張りたしかに実在するのだ、と納得した。というのは、装置も衣装もそんなに気にならないのに、いかんせん役者の動作だけはなんとしても気になって(イ)仕方がなかったからである。

 日本で人を呼ぶときよく手を叩くが、それはかなり間伸びした手の叩き方が普通であるのに、ところがお蝶夫人が女中のスズキを呼ぶとき、まるで拍手のようにパチパチと間断なく叩く。木魚を叩く場面もあるが、恰(あた)かもジャズドラムを打ち鳴らす具合に賑やかである。女性が立ったまま障子を閉める。子供が足を投げ出している。ピンカートンが障子にノックする。(これはまあ許されてよいかもしれない)しかし、三幕の最初のところで、お蝶夫人が座敷の真中に、立て肘(ひじ)で、腹を下にして、男がだらしないときによくするように横臥したりする。座敷に座ったり、立ったりする動作が不自然なのは仕方ないことかもしれない。日本の民衆を演じた合唱隊がどうかするとすぐ土下座をするのも、知らないための誇張かもしれない。

 しかし、一般に喜怒哀楽の表し方が狭い日本座敷という場にどうしてもそぐわない。これは芝居と違って、オペラであるから、ある程度大袈裟(おおげさ)な動作になるのも止むを得ないことなのではあるが、それにしても、あの時代の日本女性が畳の部屋を端から端へ猛然とつっ走ったり、憤りの余り女中のスズキを見るから乱暴に突き倒したりするだろうか?貞節を守って自刃する日本女性なら、その情熱は内に秘められた忍従への情熱なのであって、激情はわずかな動作から迸(ほとばし)るものでなければならないのであって……等々、私が勝手に考え出すこと自体が、すでに私が「日本的」というものを抽象化している証拠かもしれない。

 それにしても矢張りおかしい。なんとなき異和感はどうしても拭(ぬぐ)えない。日本人が演ずればいくらオペラでもこんな風にはなり得ないと思える部分は、舞台上の動作、振舞であって、装置や衣装に相当する部分ではないのである。これが [A] のオペラであることを十分に差し引いても、この舞台に欠けているものは、日本人ならうめることが可能なものばかりである。そしてその欠如に気がつくのも、やはり日本人だけであろう。装置や衣装という目に見える部分の「 [B] 」は、いくらでも輸入可能であり、訂正可能であるが、立居振舞までは、容易に再現できないものらしい。》

 尤も、オペラ歌手たちは日本人らしさを演じようなどという意図を初めからあまり持っていないに相違ない。オペラ歌手の所作などはもともと大雑把なものである。これを日本の新劇俳優が西洋人になり切ろうとしている(ウ)苦心と比較することはむろん出来ない。それにしても、西洋人が日本人を演じた舞台などは、ヨーロッパでは依然としてほかに容易に見られないから、これは私にはなかなか貴重な経験だったのである。

 ふだんドイツで、シラーやクライストの舞台を見ているときに、私は西洋人の演ずる西洋の舞台を見ているという事実をいつしか忘れてしまう。言葉の不便はいつまでもつき纏(まと)うが、そういうものだと諦らめる気持が出てくる頃には、芝居そのものの心が私を摑(つか)み、役者が何国人であるかなどは実際どうでもよくなってくる。尤も、ドイツ人の演ずるモリエールやクローデルなどは、ドイツ人の演ずるシラーやクライストの芝居以上にドイツ人臭さを感じさせるものである。これも私にはひとつの発見だった。おそらくフランス人が見れば、私以上にパリの舞台との相違をはっきりと感じとるだろう。だが、ドイツでは、フランス物をすでに(a)自家薬篭中のものにしているし、そのドイツ的上演はひとつの伝統にさえなっている。

 そして、そういう意味でなら、『お蝶夫人』のごとき娯楽オペラも各地ですでに何千回と上演され、私の見たあの舞台には、西洋の観客の趣味好尚に逆らうものはなにもないだろう。それだけに、(2)日本という写し紙にうつし出された西洋のこのグロテスクは、西洋人の行動のパターンがいかにわれわれの間尺に合わないものであるかを否応なく拡大して見せてくれた。そして日本人の行動様式や生活様式には、意外に独自なパターンが今なお確然と存在するのであって、われわれが悲観することはないほど生活の「型」というものはまだ生き残っているのかもしれないという思いに私を導いた。

 といっても、それは風俗や習慣のパターンであって、それだけではまだ文化と呼べるようなものではない。だがまた、風俗や習慣、すなわち立居振舞、動作、応待、交際、儀礼、そして他人の行動に対する心理反応に至るまである一定の様式が存在しないようなところに文化というものを想定することは出来ないだろう。そしてそういうわれわれの生の様式は、百年にわたる「西洋化」によって荒廃し切っていると考えられているが、ある種の無言の抵抗が(3)そこに働いていないとは言えないだろう。

(西尾幹二「歌劇お蝶夫人」)

問一 空欄 [A] ・ [B] に入れる言葉として文脈上最も適当なものを、次の1~4の中から一つずつ選び名さい。
【13】 [A] {1 当世風  2 玄人好み 3 大時代趣味 4 ハイカラ趣味
【14】 [B] {1 外国 2 仕草 3 粉飾 4 習熟

問二 波線(下線)部(ア)~(エ)の漢字のうち、読み方が〈湯桶読み)となっているのはどれか。次の1~4の中から一つ選びなさい。
【15】 1(ア)丸木  2(イ)仕方  3(ウ)苦心  4(エ)間尺

問三 二重傍線部(a)(青色)の意味として最も適当なものを、次の1~4の中から一つ選びなさい。
【16】 1 好意的に迎えられているもの。
    2 思うままに使いこなせるもの。
    3 すっかり馴染みになっているもの。
    4 効果が十分に浸透しているもの。

問四 傍線部(1)(赤色)を別の言葉に置き換えて説明するとどうなるか。文脈上最も適当なものを、次の1~4の中から選びなさい。
【17】 1 舞台装飾の工夫もあって異和感のない日本情緒がオペラの舞台に作られている。
    2 日本人にしか感受できない身体的振る舞いがオペラの舞台に欠けている。
    3 書物の知識を借りてでも日本の再現へのこだわりがオペラの舞台にはある。
    4 日本人が日本というものの核心と感じるようなものがオペラの舞台に現れている。

問五 傍線部(2)(赤色)はどういうことを言っているか。次の1~4の中から最も適当なものを一つ選びなさい。
【18】 1 西洋人が日本人を演ずる『お蝶夫人』の舞台に、日本人が強い異和感を感じること。
    2 ドイツの劇以上で上演中の『お蝶夫人』を見ると、日本人が西洋人を演ずるに通じる無骨さがあること。
    3 日本の伝統文化を鏡にしてオペラ『お蝶夫人』を見ると、西欧の粗放な感性が明らかになること。
    4 オペラ『お蝶夫人』を通して西欧人の異文化への関心の強さが、日本人には強く感得できること。

問六 傍線部(3)(赤色)の意味するものは何か。次の1~4の中から最も適当なものを一つ選びなさい。
【19】 1 私たちの生活文化に生じた大きな変化。
    2 私たちの精神的基層に残っている生活様式の発想と型。
    3 西洋文化を受容しつつ歩んで来た日本の近代。
    4 西洋化による不均衡の中で生じた私たちの生の病理。

問七 問題文の主旨に合致するものを、次の1~4の中から一つ選びなさい。
【20】 1 ヨーロッパの国同志での交流に異和感がないほどには、ヨーロッパの日本への理解が届いていない。
    2 過去百年にわたり西洋化した結果、模倣の域を脱したところまで日本の近代化が進んでいる。
    3 日本人の生活様式に根ざした振舞いや所作は、ヨーロッパ人には所詮(しょせん)演じきれないものである。
    4 西洋にとって日本がまだ遠い存在である分だけ、日本を演じたオペラは日本人である私には異様に映る。

注:段落は適宜変えています。
  また、試験問題の傍線部など色で変えました。

「入学試験問題と私(二)」への8件のフィードバック

  1. 受験国語の世界について世間で色々言われていますが、私にとってメリットの部分もたくさんあったことは間違いありません。私は現代文の点数がよい方ではありませんでしたが、現代文の試験問題文を通じて、現代的に活躍している色々な評論家や思想家に出会えたのも事実で、現代文の受験授業や試験の時間はとても楽しい思いが残っています。現代文は極端な高得点を確保するのが難しい科目ですから、よほどの失敗をしないようにすればよい、ということで、気楽に取り組める、ということも大きかったと思います。不思議なもので、現代文に関しては、印象深い問題文というのは今でもよく記憶していて、自分が思考するときの財産になっているようなところがあるのですね。受験生の読書時間は限られたものになりがちですから、よい問題文・よい設問に触れることは、受験生の入学後の思想形成に大変重要な役割をもつのではないか、と私は考えています。
      西尾先生は「30代の前半の自分の未熟な・・・」と謙遜されていますが、処女作あるいは処女作周辺の著作というのは、その思想家や作家のすべてを物語る、ということがいえて、後の西尾先生の思想形成を知った上で読むと、この文章には後の西尾先生の思想の萌芽が充分に読み取れます。「日本的」ということはいったい何か、そこにどんな形式が存在しているのか、あるいは私たちがヨーロッパのものを読み・観るときにいかなる距離が日本とヨーロッパの中であるのか、そういうのちに大きく展開される主題が流れているのですね。西尾先生のことを受験生が知っているかどうかは別にして、私が西尾先生の著作にはじめて出会ったときの感銘と同じものを、はじめて西尾先生の文章を読む人が味わうに大変相応しい文章だと思います。受験生にとって、目指す目的分野が社会科学だろうが人文科学だろうが自然科学だろうが、まず読むことが財産になる文章だ、というふうに思えます。「日本的」「日本とヨーロッパとの距離」ということはどんな分野においても、基本的に必要とされる問題意識だからですね。先生がおっしゃるように、設問も素直だと思います。私が受験生の立場でしたら後々まで印象に残るよい問題、言い換えれば、いい思想に出会えた問題、といえると思います。受験生の知的財産になる文章を選択し、よき設問でより印象深くする、それが受験国語の使命だ、というふうに私は思います。
      

  2. 上智大学の問題は誰かもコメントされてゐたやうに、外国で自分の言葉で論述すると云ふ訓練をどれほどして来たかを見る、良い問題だと思ひます。
    外国経験があればその経験をもとにして(日本語でも)首尾一貫した論述が出来なくては意味がありません。

    西尾さんと同じ頃、森有正はDissertatioと云ふフランスの子供たちが学校で受ける訓練の必要性について語つてゐます。

    西尾さんは留学しても(既にご自身の身には着いてゐる爲に)この訓練が日本の学校教育に一番肝心なことを痛感しなかつたやうです。
    これが缺けてゐるために、政治家も学者もジャーナリストも北朝鮮や韓国や中国の主張に言論で対抗できないで、右往左往するのです。

  3. 上智大学の問題についてですが、
    「この筆者の考えについてあなたはどう思いますか?」という出題なら許されるかと思いますが、初めから「反論を書け!」と、
    反論に限定するところに大いに問題があると思います。
    そもそも他人の文章を問題に使うにあたって、
    出題者自身が反論を提示するならともかく、コドモ(受験生)に反論を書けという問題を出して、
    自分は押し黙って、間接的に筆者の批判をさせるということは道義的に間違っていると思います。
    私は自分が受験生ならそんな教師のいる大学には入学したくないと思って、前回の意見を書きました。
    こういう入試問題を見ると、やはり日本にはまず「心の教育」が必要だと思いますね。

  4. 論文Dissertationとは語源的にAuseinandersetzungでこれは実力闘争も意味します。
    学問とはdiskursivに(つまり感情や直観によつてではなく概念を通じて)論証することです。

    人間の知性は神や天使のやうに物事の本質に直接達すること(知的直観)は不可能なので、概念と云ふ遠回りをする他はないのです。

    思考の世界では『然りと否』の二分法dihairesisから始めるしかありません。それが子供であらうと大人であらうと関係ありません。或はそれが出来ないのは子供で大学に這入る資格はありません。大学の試験であり感想文を要求してゐるのではありません。感想文と論文の違ひが分らない人は入学試験を受ける資格もないでせう。

  5. 上智の件ですが、あれの逆の場合を考えればどうでしょうか?

    運動会で順位を着けず、みんな平等に扱う。徒競走でも最後はみんな一列に並んで手を繋いでゴールするといった事例を紹介し、「これは人を差別しないとても良い方法だ」と賞賛する 〜 という様な、”平等” についての文章が出題文章だったとします。

    そして設問が「反論して下さい」です。

    私には、この後に起こることが、容易に想像出来ます。

    まず、この試験に対して、「これは思想調査だ」といったクレームがどこからともなく出てきます。それを朝日新聞や毎日新聞が記事にして騒ぎ出します。そして大学は謝罪させられます。

    こんなところでしょうか?

    思考力を見る為の設問という意見も拝見しましたが、「反論して下さい」と設問するならば、出題文章が適当ではないでしょう。色々な回答が期待出来る文章を選ぶべきです。西尾先生のあの正論をついた文章では、それに反論するロジック及びパターンは高が知れています。点数をつける試験官も屁理屈を並べた文章を読む羽目になり、苦痛だと思います。苦痛でないとしたら問題です(笑

    ところで、西尾先生、自己採点したいので上記の日大の解答を”一応”、教えて下さい(笑

  6. 私も上智に白紙答案をたたきつけて試験会場をあとにしそうなので、次なる受験校(?)日大の問題文は真剣に読みました。読み進むうちに『無言の抵抗』という言葉にぶつかり、ああそうだったかと少し胸が熱くなりました。

    私は論文(dissertation)の大切さを強く信じるものですが、上智の設問の立て方は、やはりdissertationを要求していることにはならないと思います。賛成であれ反対であれ、『自分の考え』に基づいて明晰な文章で論考を行わせるのが高校生のdissertationの本来あるべき姿でしょう。

    いや、あえて自分の意見とは反対の立場にたって法学部のようなデイベート(debate)をさせて論理推論力をみる設問だとのコメントもありましたが、論理推論力とデイベート能力とは本来別のものです。英米の大学・高等教育の場で行われるdebateは単なる論理的論説に終わることなく、いかに相手(あるいは陪審員・審判員)を説得(persuade)するか、そのトレーニングをきちんとやることが眼目です。説得(persuasion)と論理的思考は明確に区別されていることが前提です。

    見ていて面白いなと思うのは、英米人、特にアメリカ人が『デイベート』を仕掛けてくるとき、日本人は『まこと』と『ことわり』を尽くして論理的に反論して、負けるのです。それが日本人の誠実さであり、公正さであり、同時に致命的弱点であります。中国人はデイベートの代わりに『嘘のレトッリク』と『法治主義の無視』によって自己の目的を達成します。

    この言語文明の違いを見究めてそれを学びとることがないから、日本は、中国やアメリカの主張に言論で対抗できない、それが本当の問題ではないでしょうか?

    『嘘』と『デイベート』相手に、理をつくした明晰な言葉で戦う実力の基本中の基本を高校生には求めればよいのであって、上智の設問はやはり確信犯的リベラルによる思想調査であるとしか言いようがありません。

    渡辺さんのコメント(1月9日)にうなずきながら別のことを考えてみました。

  7. 言葉は世界を主語・述語・補語によつて分節しながら縫ひ合はせて現実の対応物を作ると考へれば、その項の一つつ一つの概念は分散diskretしてゐるので、西尾さんでも誰でもの文章にも沢山の穴が発見出来るでせう。
    (蛇足ながら、これが最近変な日本語で『言説』と訳されてゐるDiscoursの意味で、人間に必然的な分散的思考と云ふ意味です。例へばカント『純理批判』B93)
    また書かずに退場する、と云ふ答へは極端としても、メタ・レヴェルでの回答も可能です。

    運動会で勝利者がただの紙切れを貰ふのが(古代オリンピックの月桂冠のことを考へても)別に不当だとは思はぬし、試験で満点を取る必要もないのです。それでも何処かで評価されてゐて、その努力が無駄になるとは云へないでせう。さう云ふ評価方法が現実の世界だとも云へます。答へが一義的に決まつてゐなければならないとすれば国語の問題としては一番拙劣でそれではTVのクイズ番組です。
    ましてイデオロギーの問題ではありません。それは西尾さんの文章がその表現ではないのと同様です。
    日本大学の試験問題と比較するのは止めて置きます。

  8. 教育には、知識を身につけさせて、
    大人の仲間入りをさせるという目的のほかに、
    エリートとそうでない者を振り分けて、
    社会の階層のどこかに送り込ませる、
    いわば子供たちの選別という目的がありますね。
    私塾なら、学問だけしていればよいですが、
    国が運営する学校は、子供を選別しなければなりません。
    子供たちを競争させて、格づけしている、
    その罪の意識から逃れたいという思いが、
    教師の心の奥底にあるのかもしれないと思いました。
    とくに試験問題が高度化して、
    塾や予備校で、
    様々な技術が開発されている現状を考えると、
    教師の心の闇は深まるばかりでしょうね。

    ところで今の教育の最大の欠点は、
    同じ釜の飯を食う、
    そうした体験がなくなってしまったことではないでしょうか。
    戦後の経済的な発展は、
    同じ釜の飯を軍隊で食べきた人々の手でなされました。
    姉歯建築士、村上ファンド、ライブドア事件、
    一連の事件の登場人物たちは、
    狭い社会の狭い現実しか知らない、そういう印象があります。
    同じ釜の飯をどうやって食べさせればよいのか、
    エリートに最下層の人々の現実をどうやって体験させるか、
    スイスやオーストリア式の徴兵制も必要かと思います。

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