入学試験問題と私(三)

 私の最初のドイツ留学は1965年の7月から67年の9月、30歳になったばかりの2年間だった。ドイツの大学は休みが多い。私は閑さえあれば、ヨーロッパ全土を歩き回っていて、夜はオペラや演劇、昼は美術館を見て歩く旅行三昧の歳月で、ヨーロッパ体験が目的だと粋がっていた。

 以下の文は帰国してすぐに綴られた32歳の頃の体験記で、小林秀雄の影響下にあることを告白しているような文章だが、しかし若い頃外国に出なかった小林とは明らかに違うことも言っている。⑤の傍線部分の「この円周を打ち破る」経験ということばを今40年振りに読んで、私にだけ分る秘かな思いがあるのである。

 私は「円周」の内側にお行儀よくおさまっている学者、知識人、専門家、文壇人のたぐいの価値観に否定的で、一生その手のタイプを破壊しつづけて来たように思い出される。この問題文の中でも最後に、パルテノンに手放しで感激する美術評論家の感傷を「猥褻」だと言って罵倒している個所がある。

 入学試験の問題でよくこんな大胆な個所が選ばれたものだと感心する。しかも問7で「円周を打ち破る」意味を30字で書けと問うてさえいる。若い学生諸君に無理ではないのか。

 「円周を打ち破る」は私の人生そのものであった。近刊の『江戸のダイナミズム』でも、江戸文化という最も完成度の高い円周の中で「円周を打ち破り」そこを超え出たひとびとにもっぱら焦点を当てている。

 私の若い時代の文章が今頃になって、平成14年に出題された。私の人生を予言した一語を見落としていないのを知って感服もし、不安にもなり、こういう国語担当教官を擁した昭和女子大学とはげに不思議な大学であると思った。

昭和女子大学平成14年度
B日程試験(文学部・生活科学部)

(一)次の文章を読んで、あとの問に答えなさい。

 美術館という組織力は、「知識」を強いて、「感動」を奪うために存在するかのように、私には憂鬱だった。

 というのは、ここでは、「美」があたかも不動の、絶対の顔つきをしているからである。

 「美」もまた、人間の感受性という曖昧な武器に支えられて、辛うじて存在しつづけている不安定にして、流動的なものではないだろうか。恐ろしいような傑作が目白押しに並んで、たがいに効果が相殺されてしまうウフィチやプラドの内部をいくども行き来しているとき、私を襲ったのは、ただ、説明のしようもない孤独感だった。私が口もきけなくなるような「美」の放射能を浴びていたというのなら幸いである。そういう瞬間もあればこそ、美術館はくりかえし私にとって、旅の唯一の誘惑であった。

 が、美的感動とは、じつに気まぐれで、相対的なものである。永年あこがれていた作品の前に立ったとき、偶然、頭痛でも起こしていたらもうお仕舞いである。その反対に、同じ美術館を二度訪れる幸運にめぐまれ、一年位の間に感動の質がまったく変っていることに気づいて、私は自分の感受性の頼りなさをかみしめた。だが、「美術館」の方は前に見たときと少しも変っていない。おそらく十年後にふたたび訪れても同じことだろう。

 「保存」という近代的な意志にささえられて、「美」があたかも絶対的なものであるかのように、無数に蒐集され、陳列され、静止している美術館では、作品の美もまた後年の歴史が不断に[ A ]しているのだという事実を忘れさせやすい。一枚の絵はカンヴァスと絵具とから成り立つ物質でしかないのである。多くの日本人がこころみているヨーロッパ美術行脚も、イタリアから北上してフランドルへ行ったか、フランドルを見てからイタリアに南下したか、旅の行程に応じて幻影が織りなす感動の質も変ってこよう。だが、頼るべきものは、その感動の人間的あやふやさ以外にはないのであって、作品とは幻影であり、決して[ B ]ではないことを忘れてはなるまい。

 私がフィレンツェを再訪した五ヶ月前にアルノ河が氾濫し、街のいたるところにまだ土砂の山が残っていた。ミケランジェロのダヴィデで知られるアカデーミアの奥の一室の、トスカナ派の作品は全滅であった。ガラス戸越しに、私は無造作に積み上げられた整理中のカンヴァスの山を見た。それはまるで大学の文化祭やデモの後の、プラカードを積み上げた自治会室のような有様だった。復旧には十年かかるでしょう、と案内人が言った。私はしかし、なんの不条理も感じなかった。芸術はすべていつかは亡びるべき運命にあるのである。一時的にでもそのことを忘れさせる巨大な西洋の美術館や博物館の方が、美の確実性に関する錯覚の上に成り立っている一個の[ C ]のように私には思えたのであった。

 いったいヨーロッパ美術の「美」を知るなどということはどういうことなのだろうか?安易に語られ勝ちな西洋体験への反省を強いられるのも美術館のなかである。じっさいに数多くの実物に接したことが、西洋美術を知ったということになるのだろうか。あるいは逆に、一生を日本の外に出ないで、複製画ばかり眺めて暮らすことが、知らないということを意味するのだろうか。展覧会で見た一枚の本物のゴッホは、「『ゴッホの手紙』を書く動機となった私の持っている一枚の複製画の複製と見えた」という①小林秀雄氏の痛烈な逆説は、たとい一生に一度クレラミューラーを訪れる機会に恵まれたとしても、一生の大半を日本で暮らさなければならない日本人の、西洋文化への宿命的な決意を語ってやまないものがある。

 翻訳を通じてドストエフスキーを論じ、レコードを頼りにワーグナーに感動してきたわれわれの教養の在り方は、実際、良し悪しの問題ではないのである。それ以外に仕方がなかったのは事実だとしても、そう居直るのではなく、②代用品を食って酔うことが出来たという事実の一回性を軽んじてしまえば、本物に出会ったとき、感動の純粋さを期待することさえも出来ないだろう。

 私は数え切れぬほどの傑作の氾濫に数時間身をさらしたあとで、美術館を出るとき、いつも不図たまらない空しさを覚えるのが常だった。美術館の数をひとつずつ重ねてゆく度に、たしかに私の見方は変っていった。臆断は訂正された。思いがけない驚きにも出会った。好きであった作家が嫌いになり、今までよく知らなかった、未知の作家を発見したりした。

 だが、私はヨーロッパ美術の「美」に本当に感動したのだろうか。生まれ故郷オランダの外に一度も出たことのないレンブラントは、イタリアに学んだどの同時代人よりもイタリア・ルネサンスの本質を理解していたと言われる。ヨーロッパ各国の美術館を短時間に次から次へ矢継早に見て廻った③「教養人」にすぎない私は、経験の量がふえるにつれて、しだいに自分でも何をしているのか解らなくなってきた。私は「感動」という言葉に過剰に警戒している自分自身にいくたびも気がついた。

 しかし経験の量が豊富であることが理解を深めないなどと言っているのではない。森有正ではないが、「経験」ということばの意味が厄介なのもここにある。そもそも「自己」をもたないような人がいくら経験を積んでも、さもしい話題さがしの、薄っぺらな体験崇拝に終るだけであることは明瞭であるとしても、今度は逆に、「自己」などというものをおよそ容易に信じている人には、経験によってなにかが新しく開かれるということも起り得ない。

 私が帰国して間もなく、東京でレンブラント展が開かれた。たまに複製ではなく、本物のレンブラントの肖像画の幾枚かが日本人の目にもふれたわけだが、しかし、そういう企て自体が、いかにも私には④複製画的にみえたのである。むろん日本に渡ってきたのはオリジナルである。レンブラントを代表する最高傑作が来ていないというようなことが問題なのではない。ミロのヴィーナスという最高の作品が上野で展示されて、大群衆をよんだが、それはコピーが来ても同じことで、いや、そういう企てが、美術全集のページをくって美的感性にひたすら研ぎすませてきた日本人の「自己」というものにいかにも見合った程度に抽象的だということを言いたいのである。

 今では西洋の芸術に関し、われわれの中には西洋人以上に美食家である人が多い。閉じられた円周のなかで「自己」を信じることほど容易なことはない。ヨーロッパ美術行脚にもし意味があるなら、⑤この円周を打ち破る経験を意識的にくりかえすことにあろう。代用品ばかり食べてきた味覚は、本物に飢えているのでは必ずしもなく、むしろ空想上の本物に食傷して、空想と現実との区別が容易につかなくなってしまったのである。

 永年の念願がかなってギリシャ旅行をしたある美術評論家が、アクロポリスのパルテノンを最初に見たときの、浮き立つような感動を綴った美文調の文章を書いていたことがある。西洋芸術に関するこの種の感傷語は日本ではいたるところに溢れているが、私はこの文章をよんだとき、ある言いようもない猥褻感をおぼえた。どうしてそんなに容易に感動できるのか、私にはさっぱり解らない。アテネ空港からまっすぐアクロポリスにやってきて、いきなり見上げた丘の上のパルテノンがどんなに荘厳で美しくみえたとしても、写真や文献でつみ重ねてきた専門家としての知識、言いかえれば、空想が豊富であっただけに、純粋な感動はそれだけ得にくくなっていると考えるのが自然ではないか。だが、西洋の芸術に関する限り、不思議なことに、知識をもっている日本人ほど感動と感傷を混同する。この人はおそらくパルテノンをまだ見ぬうちに、飛行機で羽田を飛び立ったときに、⑥すでに「感動」していたに違いないのである。

(西尾幹二『ヨーロッパ像の転換』)

注 ウフィチ・・・・・・・・イタリア、フィレンツェのウフィチ美術館
   プラド・・・・・・・・・・スペイン、マドリッドのプラド美術館
   クレラミューラー・・オランダ、アムステルダムのクレラミューラー国立美術館>

問1   空欄[ A ][ B ]に入る語として、もっとも適切なものを次の中から選び、その記号をマークしなさい。
 【1】 ア 証明  イ 創造  ウ 調整  エ 関与  オ 現象
 【2】 ア 現実  イ 具象  ウ 事物  エ 実体  オ 本質

問2   空欄[ C ]に入る漢字三字の語を本文中から選んで記しなさい。回答番号は【3】

問3   ①小林秀雄について、(a)どのような文学者だったのか、(b)小林作品はなにか、それぞれもっとも適切なものを次の中から選び、その記号をマークしなさい。解答番号は(a)【4】(b)【5】

 【4】  ア 人道主義の立場から、宗教的色彩の濃い評論を発表した
     イ 批評・評論のジャンルを確立し、古典の世界にも深く傾倒した
     ウ 新心理主義文学を紹介し、みずからも実験的な作品を発表した
     エ ドイツ文学の翻訳に力を注いだよか、歴史批評でも活躍した
     オ 西欧文学との比較を通して、私小説、風俗小説を批判した
 【5】  ア 純粋小説論  イ 歌よみに与ふる書 ウ 無常といふ事
      エ 堕落論  オ 古寺巡礼

問4   ②代用品を食って酔うことが出来たという事実の一回性を軽んじてしまえば、本物に出会ったとき、感動の純粋さを期待することさえも出来ないだろう とあるが、この理由としてもっとも適切なものを次の中から選び、その記号をマークしなさい。解答番号は【6】
    
     ア 代用品に感動した時に与えられた印象の強さを記憶していなければ、本物と接した折に、純粋な感動かの判断もできなくなるから
     イ たとえ代用品とはいえ、一回でも感動してしまった事実を残念に思い、きびしい自省が加えられない限り、純粋な感動が得られるだけの能力すら持ち得ないから
     ウ 代用品への心酔から始まった体験を見くびるような軽率さからは、本物と直面したとしても、純粋な感動を受容できるような繊細な感性が生み出されないから
     エ 代用品に感動したことが確実に存在したと自覚されない限り、たとえ本物と出会ったとしても、純粋な感動を生み出そうとする姿勢も生まれないから
     オ たとえ代用品に感動したとしても、一回限りの貴重な原体験であり、本物からの純粋な感動も、その充実感を深めることでしか形成されないから

問5   ③「教養人」にすぎない私 とあるが、この表現にこめられた筆者の心情について、もっとも適切なものを次の中から選び、その記号をマークしなさい。解答番号は【7】

   ア 作品への印象を変えていく自己の拠り所の無さへの反省
   イ 西洋美術の本質を一向に理解できない自己へのさげすみ
   ウ 経験ばかりを重ねるだけの自己への哀れみ 
   エ 知識だけが豊富になってしまった自己への皮肉
   オ 感動を覚えられない自己の鈍感さへの羞恥

問6   ④複製画的にみえた の比喩によって、筆者はどのようなことを指摘しようとしているのか、もっとも適切なものを次の中から選び、その記号をマークしなさい。解答番号は【8】

    ア 著名な作品とはいえ、レンブラントの一部しか公開しないこの企画は、断片的な知識だけを提供する点で、複製画のありかたに似ているということ
    イ 日本人のレンブラント理解を打破するほどの衝撃力を持たず、表面的な理解しか与えない点で、複製画と同程度でしかないということ
    ウ 深い理解よりも、教養的な理解を求めようとする日本人の要求に応え、一通りの知識を与えようとした点で、複製画のようなものだということ
    エ 何枚かの本物を集めたこの企画は、レンブラント理解を固定化してしまい、複製画によって形成された、誤った理解を一層増幅させてしまうということ
    オ 日本人の美的感性のレベルに対応したこの企画からは、オリジナルの持つ神秘性を脱落させた、複製画のような浅さしか感じられないということ

問7   ⑤この円周を打ち破る とあるが、どのような意味なのか、三十字以内で説明しなさい。解答番号は【9】

問8   ⑥すでに「感動」していた とあるが、美術評論家のどのような状態が「感動」と表現されているのか、四十字以内で説明しなさい。解答番号は【10】

問9   本文の内容と一致するものには①を、一致しないものには②をマークしなさい。解答番号は【11】~【15】

 【11】 オリジナルか複製かどうかの区別は、鑑賞者の美術体験の質を確定させる決定的な要素ではない
 【12】 コピーを通してしか接触できなかった制約が、西洋美術への安直な体験を語らせる主因になっている
 【13】 作品の美が先験的に存在せず、見る者の感受性によるものである以上、美術体験の共有は不可能である
 【14】 美術館からその作品が本来成立した場に戻されない限り、作品の真の美を見極めることはできない
 【15】 鑑賞者が西洋美術への自己の姿勢を問い直すことに応じて、作品の姿も変貌していく

「入学試験問題と私(三)」への4件のフィードバック

  1.  これは昔から最近まで同じく、といっていいことのように思うのですけれど、日常の周囲の人間から評論家の類の人まで、ほとんどの人が、「美しいもの」=美の客観的普遍性についてしか語らず、「美しいと思う自分」=美の主観的普遍性についてなかなか思いが至っていないな、という不満を感じることが私もあります。問題文になった西尾先生の文章を読んで、意外に思われるかもしれませんが、私は小林秀雄さんではなく、カントの美的判断力についての執拗な考察を連想しました。空き缶のデザイン、エルミタージュ美術館の絵画、裸体の女性、こういうものすべてに「美しい」と思える「自分」が不思議で仕方ない、というところに、カントの問題意識はあったといえます。ところが美術館なり音楽鑑賞会など他者が横行する美との触れあいの場においては、この不思議さへの懐疑を失わせてしまうような、「他者の侵入」ということがある。本来、美術や音楽は、こっそりと出かけ、「美しいと思う自分」と「美しいもの」との間に生じた危ういせめぎあいを、自分自身の言葉で、これまたこっそりと行うべきものではないか、と思います。美術館や音楽会の「館」や「会」ということ自体が矛盾的存在なのかも知れません。西尾先生が「円周」と形容されるように、この「自分」と「美」の対象との、本来不安定であるべき関係を、強圧的に「安定化」していることが、私達のヨーロッパ美術理解において生じている、ということですね。美術館の倒壊に対して、決して大きな感慨をいだくことはなかった、という西尾先生の言葉は、実に含蓄の深い言葉だと私は思います。
       私が不思議で仕方ないのは、カントの哲学というのは、明治以来、そこそこの教養人ならば皆名前は知っているにもかかわらず、こうしたカントの美的判断力への懐疑というものが全然教養人の世界で一般的になっていない、美しいと思う自分自身の不安定さへの懐疑が、美を語る教養人の中で依然として定着していない、ということですね。どこに行ってもみんな「美しいもの」つまり美的対象のことしか語っていない。所詮、カントを自分の在り方に位置づけず、聖人の書として読んでいるに過ぎないからですね。ヨーロッパ哲学を原文で読め、つまり本物を知れ、ということを教条的言う人は非常に多いですが、それが(危うい)自己の中に取り込もうという取り組みがなければ、結局、「本物」と出会うこととは永遠に無縁だというべきでしょう。原文を読んでわかる何かがあるのは確かでしょうが、しかし読み方を変えなければ、変わらない何かが残存するのも確かです。ここにも西尾先生が言われる「円周」が私達を徘徊する他者を通じて、侵食しているということができると思います。「円周」ということは、私達のヨーロッパ理解の全体を締め付けているものなのかもしれませんね。
       しかし先生がおっしゃるように、この問題文は、大半が10後半の受験生にとっては難問であるのは間違いないと思います。その年の受験界では話題になったのではないでしょうか。おそらく出題者は、先生の著作のかなりの愛読者ではないか、と私は推察します(笑)

  2.  大学の国語の入試というのは、これほど難しかったのかと、いまさらながら自分の頭の悪さを痛感します。まあ、それはさておき、この著作も昔何度か読んだ本ですが、ヨーロッパの個人主義と並んで、著者の思想の基点となるものの一冊であると思います。
      
     明治開闢以来、脱亜入欧によって西洋の思想・文化を緊急避難的輸入した日本ですが、もう明治以前の思想・考え方にしたがった行動はできるはずもありません。日本という東アジアの果てにありながら、西洋の文化思想に引きずられて生きていくほかはないのでしょう。

     わたしは、この「円周を打ち破る」ということを30字で書くことはできません。ただ、おしまいの方に、いわゆる「進歩的文化人」の出来損ないのような美術評論家が描かれていることで、西洋の文化思想を見誤るな、西洋と日本に挟まれた自分の心に抱える矛盾を片時も忘れるな、という警句である、ということにとどめておきます。

     円周を打ち破るとは、進歩的文化人を打ち破ること?ふふふ。まあ、それは次に期待しましょう。ところで、この問題で満点を取る生徒がいたら・・・恐るべし。

  3. 文字が生まれ、古代の人々の気持ちが伝わるようになり、どれだけの月日が経ったか解らぬが、そもそも我々の人生が円周そのものと喝破した者は釈尊唯一人ではないだろうか。円周からの離脱と言っても、土星の輪の幾条も有る輪のうち、唯に隣に移るだけかも知れぬ。古代人の子を現代に、またその逆であっても、その子はその時代に合った大人に成長するであろう。土星の重力に囚われている塵芥と同じように、我々も人類と言うくびきから解き放たれない以上、リングであるという認識が持てない気がする。先生の話に触発され、拙ブログで「リング=怖い話」を書いた。教育基本法が改正されてもさして効果がなさそうな気がするのは、多くの日本人が同じ円周を回っているからに他ならない気がします。そしてそれは大学という権威の中で、リングの遷移を許さない(許すとすれば下位への遷移のみ)衰退への道筋です。外方への遷移を許さなければ、何れ巨大な重力に引かれ内方に落ちて行かざるを得ない。試験によって有る程度粒の揃った学生を集めることは可能でしょう。しかしそれは軌道の固定化に繋がり、外方に遷移する力を閉じ込め、異端を排除する事によって、講師陣が楽をする機構に繋がるのでは無いでしょうか。これ以上書くとボロが出るので止めますが、先生の一連のエントリーで思い浮かんだ雑感です。

  4. 【円周を打ち破る】という言葉から思ったこと。

    * 中学生のとき「偉人とは何か」の問いに豊臣秀吉と答え、偉人論に封建主義や民主主義を持ち出すべきでないという幹二少年と担任の遠田先生との論争。

    * 評論家のような百貨店のような授業をする大学の哲学の教授の中に真贋を見抜いていた学生時代。

    * 大学の教授会という互助会のようなところはさっさとやめている。

    * 誰も怖くて手をつけなかった日本の歴史教科書に異議ありと、「新しい歴史教科書をつくる会」を世に生まれさせた。これはものすごいことです。ここから日本人が少しずつまともな思考ができるように変わってきた。教科書採択パーセンテージ云々を言われますが、そのことより国民の意識が変わってきていることのほうが重要だと思います。

    * 平成元年(1989年)4月発足の第14期中央教育審議会の委員になり、その審議会の経験を「教育と自由 ―中教審報告から大学改革へ―」という本で著し、文部省役人をおびえさせた。
      
    その「教育と自由 ―中教審報告から大学改革へ―」の中の52ページ~、
    【 例えば今述べた村崎さんもそうした自由な立場の一人で、終始一貫、ユニークで、個性的な存在として、全体の流れに影響を与えた。文部省に向かって、「・・・・とすると、一番悪いのは文部省ではないですか」、などとズケズケと言ったのも彼女だった。そして、「済みません、また文部省の悪口を言って」と照れの一句を付け加える。すると、彼女の正面に坐る文部省高官から「いえ、もう慣れてきましたから」などと、渋い顔で、やんわりやられる。 ずばっと本当のことを言って相手の意表を突き、反省を求める彼女の例のスタイルは、例えば次のような発言で真価を発揮した。 

    「中教審の第1期から第13期までのメンバーの一覧表を最近みせて頂いて、わたしびっくりいたしました。同じ方が何度も委員になっているんですね。それに、今までの答申も全部読みましたが、個性化とか多様性とか、画一性の打破とか、同じいいことずくめばっかし、昔から繰り返しずっと言ってきていて、それで日本の教育はちっとも良くなっていないでしょう。だったら、一度委員をやった人が、どうして次の委員を引き受けられるんでしょう。わたしにはそれが不思議で・・・答申の内容が実行されてないと分かったら、恥ずかしくって、同じ役目をまた引き受けるなんて気持ちになれないんじゃないかしら。」 並み居るお偉方はこの言葉にどっと好意ある笑い声を挙げたが、発言内容の深刻さをいったい何人が本気で受け止めていただろう。

    村崎さんの右の発言は審議会1年目の比較的早い時期になされたものだった。それから2年経って、答申案を審議した最後の日、平成3年4月5日の散会寸前に、彼女は第13期中教審の昭和58年の中間報告を事務局に用意させた。そしてそれを全委員に配布させた後、その中の何箇所かを敢えて朗読した。彼女は審議会1年目の自分の発言を忘れてはいなかった。われわれ第14期中教審が提起したテーマは、ことごとく第13期中教審がすでに承知し、取り上げていたということを朗読で証明したかったのである。第13期中教審にはわれわれの副会長山崎正和氏、座長河野重男氏が委員ならびに臨時委員として名を列ねているのだから、彼女の朗読は最後に及んでの痛烈な皮肉であったとも言える。・・・・さらに彼女は驚くことを発見した。文部省が提出した高校改革プラン–第2節で取り上げたはことごとく第13期中教審の中間報告に書かれてあるというのである。・・・・文部省が自分で投げたボールを自分で受け取り、独り遊びをしている観があると私が第2節に皮肉を書いた高校改革の諸計画は、第13期中教審のガイドラインに沿うたものだったのである。私は現在の初等中等教育局のスタッフのプランだとばかり思っていた。

     農林水産省はコメの関税化を受け入れるかの否か決定を迫られたら明日にも決定しなくてはいけない。法務省は偽装難民が襲来したら対応策を明日にも決めなくてはならない。通産省は米国から独禁法の改定を強く言われたら、受け入れるか拒否するかの2つに1つを明日にも決断しなくてはならない。文部省にはこの「明日にも」がないのである。崖っ淵に立たされた経験が無い。 

    教育関係の答申には、一般に、「・・・することが望まれる。」「・・・するよう要望する。」といった、関係方面に単に下駄を預けた言葉が再三用いられているのを私はかねて不思議に思っていたが、これも現実における二者択一の決断を迫られる機械が乏しい習慣の生んだ、すべて他人の善意を当てにしている非政策的思考のせいではないかと思われる。・・・・

    文部省にとって受験生心理とは、外務省にとっての外国の対日感情のごときものであろう。受験産業とは、やや誇張した譬えでいえば、防衛庁にとっての仮想敵国のごときものであろう。それくらい油断のならない存在に膨れ上がっている。相手国の持つ力、情報収集力、その出方をいちいちキャッチし政策を立案するのが外務省や防衛庁の仕事であるのと同じように、文部省もまた国内に有力な敵がいることに対するリアリズムを具えた認識を持たなくてはならない筈なのである。今まで日教組を最大の敵としていたが、じつはそんな時代はもう疾うに終わった。
    文部省が受験生心理やそれを餌にする巨大受験産業に、現実には今も赤子の手を捩られるように易々としてやられるのは、相手を他者として認識していないからである。加えて、決して失敗を許されない、瀬戸際の掃蕩作戦を企てたことがないからでもある。
    しかし、そのような戦略思考を欠いたままで、この現代に、文教政策といえども、空を摑むようなことばかり言っていて、果たしてやっていけるのだろうか。(59ページ) 】 ここまで転載。

    山崎正和氏は「追悼・平和祈念のための記念碑等施設のあり方を考える懇談会」の座長代理も務め、故坂本多加雄氏と論争している。

    『なぜ「国家」から目をそむけるのか』西尾幹二 諸君2002年10月号より。

    【 座長代理の山崎氏の、靖国は存在しないから、代替を造るのではなく、ここでわれわれが初めての追悼施設を造るのだという詭弁の展開は、ある意味で鮮やかでさえある。しかし、坂本氏をはじめ他の委員は瞞されていない。歴史というものがまったく念頭に置かれていないからだ。戦後占領軍が靖国神社をつぶしかねなかったので、靖国は緊急避難として一民間宗教の位置づけに甘んじただけであって、一般国民の心の中で、国家の公的追悼施設としての位置をいぜんとして占めつづけている、という坂本氏と推定される委員の一貫した発言は、心強いし、重い。靖国はお稲荷さんと同じだという山崎氏と推定される委員の比喩の使い方はあまりに軽薄で、歴史冒瀆的である。・・・・見えすいた小理屈でしゃあしゃあと白を切る。「座長代理」のリードで、追悼懇は泥沼にはまった。私に言わせれば、B氏(坂本氏)の孤軍奮闘を除けば、6回の会議報告書は正気の沙汰ではない。歴史を扱う場で歴史を考えてない。国家の名で討議する場で国家と向き合っていない。これではどうにもならない。  】ここまで「諸君」の転載。

     
     村崎さんの「答申の内容が実行されてないと分かったら、恥ずかしくって、同じ役目をまた引き受けるなんて気持ちになれないんじゃないかしら。」という言葉には物事にけじめを持つ強い責任感を感じる。山崎正和氏は政府の○○委員になっていたいだけの人のようである。のごとくに今まで、だぁ~れも責任をとらなくてもいい、が10年続いたら、20年続いたら?
    教育が大変だ!と騒いでいる。教育再生会議(政府の)に百貨店のように沢山の人が委員となっている。こんなに沢山の人で何が決まるのでしょうか? 薄めたコーヒーつきの昼定食がわたしの中でイメージされる。

     戦後、「責任、戦略、命令」などという言葉、耳にしたときの「厳しさ」、「背筋をピーン」と伸ばさないではおれない言葉を、大人はなんだかんだと理由をつけて、りんご箱に入れて釘付けした。これまさに「円周」の内側に行儀よく収まっているというか、その中にもうひとつ円を作っている政治家であり、ジャーナリスト達。新聞は自主規制という枠を自ら作り、いつの間にか日本中に、「使ってはいけない言葉」を浸透させた。何のことはない、何かに怖がり、みんなで責任逃れをしてきただけの話。

    おかしいと思った事柄に、相手に、堂々と論争を挑む西尾幹二先生。こんな男らしい男がどうして日本に少ないのだろう。

    もう一度中央審議会の話に戻ります。

    《慎重と臆病は別のこと――この15年、この国で何が失われたか》「男子一生の仕事」80ページより。

    【「ある人は何度も繰り返し審議委員になって文部省に気に入られ、どこかの大学の学長になったりした。私とて無欲なわけではない。ただ、そういった類の煩わしいことへの欲がないだけだ。もちろん、私が審議会で唱えた理念や教育の理想を、実際に具体化させたいという欲ならば、これは当然、強烈にもっている。そのためならどんな役職でも引き受ける。」  

    「しかし、平成に入ってからの15年間に行われた教育改革はことごとく逆方向を目指してきた。文部省(現文部科学省)にはマルクス主義の影響がしつこくまとわりついている。全共闘の残党が官僚の中枢を握っているからだ。しかも、老化したシステムを温存保存しようとする体質だけは、人一倍強い。文部省が第14期中央審議会のアピールに耳を傾けず、むしろ私を遠ざけたのは、平成という時代の必然の動きだったといえるように思える。」】ここまで転載。

    中国と北朝鮮と韓国に嫌われる政治家は、すなわち日本に必要な政治家。
    とすれば、文部省が遠ざけたい西尾幹二先生は教育界にとって必要な立派な人間といえるのではないでしょうか。

    日本の人作りに、教育界に、西尾幹二先生をおいて他に誰もいません。自分の仕事にきちっと責任をとれる男は。一人やる気のある立派な人間がトップにいれば、何かが変わるのです。

    安部総理、次の文部大臣に西尾幹二先生を任命してください。
    何も怖いことはありません。西尾幹二先生は、マスコミ、官僚、に叩かれてもへこたれない信念と情熱、打ち負かす理論をお持ちです。
    子供たちの未来が今よりずっとずっとダイナミズムに溢れたものになります。
    それこそ男子一生の仕事とされ、日本が変わります。

    子供は今の一分一分、待ったなしで成長しています。

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