「入学試験問題と私」(一)で取り上げた昨春の上智大の出題はやはり反響があり、ひきつづきコメント欄に小さな論争がくりひろげられているようだ。受験生にとって不当で、著作権者にとって無礼なあの問題は、加えて採点者にとっては採点上の困難をもたらしていよう。
できるだけ客観的評価を下したいというのが公正を標榜する入学試験の目的のうちにある。そのために客観テストが普及し、○×式か番号記入式かが広く行われてきた。私の中学時代、高校時代はその方式のピークだった。
あれから徐々に修正され、文章を書かせるべきだという思想が入試の世界に少しづつ広がった。たしか東大の入試で字数をきめて葉書の挨拶文を書かせる出題例があったが、あれが○×式を打ち破る走りだったと思う。
噂では複数の採点官の点を平均して結果を決めたと聞いている。一点差で当落がきまる入試である。合否線上には同点者が並ぶ熾烈な戦いである。文章を書かせて、採点官の主観でどうにでも結果が左右される問題は採点する側にしても迚も恐いのである。
一般によく工夫された出題は採点がし易い。ずぼらな出題をすると採点であと苦労する。私が教師生活中にずっと経験してきた不文律である。
もともと人生に公平な客観的評価はあり得ない。評価に主観が入るのは人が生きていくうえでは避けられない。そう考えれば、文章を書かせる記述式にひそむ評価の不正確を恐れる必要はなにもないともいえよう。
私はそう考えるし、そう考えていたい。しかし、勿論採点官ができるかぎり公正で、レベルが高いというのがすべての前提である。いい加減な人が採点するのだとしたら、単純な○×式・番号記入式のほうが安全にきまっている。
次に掲げる大阪芸術大学の平成10年の試験は私の『人生の価値について』(平成8年新潮社刊)からの出題で、きわめて単純な記述式である。大変に採点に苦労するであろうと最初から予想されるような出題内容である。
大阪芸術大学(1998年度)
放送学科 編入学試験問題
時間90分次の文章を読んで、あなたが考えたことを600字以内に書きなさい。
自由と平等は正反対の概念なのに、歴史のなかではつねに一緒に姿を現わすのはなぜだろう。
一方の人間の自由は、他方の人間の不自由を意味する。したがってお互いに自由を主張し合っていれば、必ず優勝劣敗が生じる。誰でも勝つのはいいが、敗けるのは嫌だから、誰もが敗けないですむ和解協定を結んで、ほどほどのところで自分の自由に手を打ち、自由をなかばあきらめる。それが平等である。
平等は自由に対するいわば歯止めの装置である。
しかし、自由がどこまでも無制限に許容されて、平等による歯止めがまったくあり得ない世界が存在することを、ここで見ておかなくてはならない。作家、思想家、芸術家などの相互の関係がまさにそれである。彼らはみな自分が真物であって、相手は贋物であると、てんでんばらばらに自分の自我を主張し合い、独創と個性を競って止まるところを知らない。各自は自分の尺度で自分を評価する。全員がその前で沈黙する客観的で絶対的な評価基準はない。つまり「平等」という歯止めが存在しない。
考えてもみていただきたい。作家、思想家、芸術家は自分の才能を存分に発揮するための自由はなにものにも制限されてはならないと信じているはずである。しかし自分の能力をさらに上回る他の相手が出て来て、他の相手も同じように独創と個性を主張してくるとき、敗けるのが不快だからといってこちらが平等を唱え、誰もが敗けないで済むための手打ち式、しばしの休戦協定を結べるだろうか。
あるときロンドンの俳優労働組合が、売れない俳優にも売れると同じように平等の機会を与えよ、と要求したという記事を読んで、私は唖然(あぜん)としたことがある。イギリス社会の病患の深さを物語る。役者が売れる売れないは、才能と幸運のいかんによる。人気という儚(はかな)い虚栄も才能のうちである。彼らが平等や機会均等を言い出したら、舞台芸術はおしまいである。
つまり、芸術とか思想の仕事に、自由はあっても平等はない。自我の果てしない、不安定な露所はあっても、それへの歯止めはない。仕事の成功は一瞬の、緊迫したきわどさのうちに決する。露出した無数の自我の相互にかもし出すカオスのなかで、最終的にけりをつけてくれる審判者のいない自由の無制限の恐怖と、仕事の成功とは、隣り合わせている。
西尾幹二著「人生の価値について」より 新潮社刊
ここからどんな答案が書かれたのか、私には想像がつかない。ある意味でいい出題だともいえるし、受験生に衝撃を与える内容であったとも思う。
けれども、「最終的にけりをつけてくれる」以下の最後の一行に同文の中心主題が集約されていることに受験生が気づいて、解答してくれたであろうか。またそのような採点基準で採点者が評点してくれたであろうか。
私は文章を書かせる記述方式の入試も、よく考えてみると、なぜか空恐ろしいこと、罪深いことをしているような気がしてならない。
大学受験というのは何人かに一人(あるいは十数人に一人か)しか合格できないものだ、ということに個性をもたざるをえないところに、いろいろな前提があると思います。大半の大学の授業や公立高校の受験のように、何人に一人しか不合格にならない、ということでしたら、「書かせる」的な問題においても、公平性は確保しやすくなるわけです。明らかに日本語的にロジック違反を犯していたり、ほぼ完全に出題文や設問を読み違えている答案を不合格にすればいいからですね。しかし、その逆は非常に難しい。「書かせる」答案において、「合格の基準」は「不合格の基準」よりも確立が困難と考えなければならないのが一般的ではないか、と思います。
原典(問題文)と解釈(解答)の対応を考えるに、原作者の考えに忠実だからといってそれが優れた解釈だ、ということは必ずしもいえないわけです。世間の人は、大学の出題者なんていうのはそんな大袈裟なことを考えてはいないんだよ、と言うかもしれません。しかしニーチェをはじめとする文献批判の天才が受験生に現れる可能性が全くない、とはいえないはずです。ニーチェが現代日本の受験生に生まれ変わって、現代日本の国語の試験を受験した場合、私は彼はあえて不合格の答案作成を選択する可能性は高いと思います。ニーチェを不合格にするのが受験制度なのだ、とあえて強弁する大学当局者もいるかもしれませんが、そういうことならば、私は「国語」という受験科目を基本的に廃止して、文学史と語彙に限定した知識的な試験にした方がよほど話はすっきりすると思います。
大阪芸大の問題文の西尾先生のこの文章は私もかつて拝読した文章ですが、私は今でも、時々この主題について、考えています。つまり、それほど深く広い主題なのですね。深く広い主題というのは、「わかった」と思ってしまった瞬間にすべてが終わります。結論の出ないをしなければならないからこそ、深く広いのですね。そういう意味では、優れた文章になればなるほど、受験には不向きであるという逆説が本来ある、といわなければならないのかもしれません。
たとえばこの西尾先生の問題文は「平等」に対する私達の病理を主張されているように一見読みとれますが、しかし「平等」を否定して「自由」に優位がある、という単純な二者択一ではない。先生がおっしゃるように「審判者のいない無制限の自由の恐怖」という言葉に、この文章の主題があらわれています。シンプルに論理展開されているように見えて、主題展開は全然単線的ではない、のですね。「平等」と「自由」の終わりなきせめぎあいということをとらえようとしていることに、この文章の全体像がある、ということができると思います。受験生はこの単線的でない全体像をとらえることが可能なのでしょうか。あるいはニーチェ的な天才受験生が現れて、大上段からの解釈をぶつけてきたら、その答案はいったい何点なのでしょうか。こういう「深く広い」文章において、「不合格の基準」は存在するかもしれませんが、何人かに一人が合格できるという「合格の基準」を、「書かせる」答案において確立するのは難しいと私は思います。
音楽、美術、文学などの高度の作品についても、点数は付けられなくとも、誰でもがその優劣は直に分るものです。
まして国語の答案なら、漢字や文法の誤り、語彙、更に字の丁寧さ、などから簡単に評価可能なものが殆どです。
論述問題では満点は本来有り得なく、それ故採点が主観的になり困難だからと回避するのは単に教師の(許されない)怠慢に過ぎません。
唯一の正しい論証があるのではなく、人間の数だけの可能性があることを忘れてはなりません。
また余計なことですが、舞台藝術は一人では出来ないので、文筆家の場合とは明らかに違ひます - 彼らも編集者や読者に育てられたことを忘れてはなりません。大根役者も舞台に出てゐれば上手くなるものださうではありませんか - コネも藝のうちと云はれればそれまでですが。
あなたが考えたことを、六百字で書きなさい。そうですか、六百字というと、丁度ペラ三枚ですね。シナリオでペラ三枚書くのは楽ですが、この場合・・・ちょっと相手が悪いなあ。
人生の価値について、は読んでいませんでした。しかしこれ、読めば読むほど意味深長ですね。シナリオ書きの末席を汚す者として、業界のことをズバリ指摘されているような、嘘発見器にかけられているような、自分の生き様を揶揄されているような、おまけに言い知れない不安という奈落の底に突き落とされるような、無気味な印象を受けるからです。
感受性の高い芸術家志望の生徒を、これからお前たちの行く手には、異常な心理状態に陥る恐怖の世界が待っているぞ、と脅しつけるようなもの、とも取れる問題ですね。
そう回答した受験生には、どう採点するのですか!