入学試験問題に自分の文章が使用され、プリントが送られてきても、私は目を通さずに片付けてしまうことが多い。たゞ捨てることはしない。
四十年間文筆業をしつづけて来たので、採用例は決して多いほうではないと思うが、長期にわたれば相当の数になるはずである。しかし、袋に詰めてどこかに仕舞いこんで、昔のものはすぐには出てこない。
今私が紹介しているのは最近数年の、たまたま部屋の片隅に積み上った紙の山の手前の方に偶然置いてあった一袋の中から拾った、面白そうな幾例かである。
私の記憶では、入学試験問題になった私の本にはほかに『ニーチェとの対話』『日本の教育 ドイツの教育』『智恵の凋落』『自由の悲劇』などがあったように思うが、それらの本からの出題例は今手許で見つからない。
そして、これも興味深いことなのだが、『異なる悲劇 日本とドイツ』(改版本『日本はナチスと同罪か』)、『歴史を裁く愚かさ』『国民の歴史』などからの現代国語への出題例は、私の記憶にないだけで例外はあるのかもしれないが、思い出せない。
政治と戦争に関わるものが避けられるのは止むを得ないのだとしたら、1995年以後の私、ことに「つくる会」に関わり出してから以後の私は、もはや教育に役立つ文章家として扱われていないのかもしれない。
その中で唯一の例外は『人生の価値について』(1996年)である。これは一篇の分量が一問題にふさわしいので、利用されそうだと本を出す前から予想していた。
東京医科歯科大学の次の出題もこの本からである。
東京医科歯科大学 平成11年(1999年)
医学部・歯学部共通問題次の文章を読んで、後の設問に答えなさい。
重症患者ばかりの入っている病棟に入院したことがある。
不思議に思えたのは、明日にも死を迎えるかもしれない人々にも「社会生活」があることだった。検温、点滴、回診、検査、食事、自由時間と繰り返される毎日は、すべて他人との接触やかかわりで埋められている。病棟の中でさえ、他人から悪く思われまいとする思惑や、少しでも重んじられたいという見栄があり、そういうものがあるかぎり、人間は気を紛らわし、自分というものの本当の姿について考えないようにしていられるのである。だからパスカルは『パンセ』のなかで次のように言っている。
「小さな事に対する人間の感じやすさと、大きな事に対する人間の無感覚さは、奇怪な傾倒のしるしである」
死という大きな事に対しては無感覚で、その代わりに死ぬ何時間か前まで、隣人のなにげない片言や、友人の口もとに浮んだ薄笑いなどを気にして、死を考えないで済ませていられるというようなのが、人間存在の持つ喜劇性の現われだというほどの意味であろう。もっとも、生きるということはまさにこのような喜劇性を演じ続けることでもあるのだから、わが身に即せば、これまで笑ってしまうことは誰にも許されまい。私もまた毎日「小さな事に対する感じやすさ」を持つおかげで、明日わが身を襲うかもしれない運命の異変に「無感覚」でいられるのである。つまり困難で恐ろしい事は考えないで済ませることができるのだ。
重症患者を多数抱える病棟の必ずしも惑乱していない様子。ときには屈託のない顔が戸口からのぞかれ、笑い声さえ聞える、静かで落着いた雰囲気。私はかつてそういう病室の空気を遠望して、異様な思いがしたものだった。患者たちはなぜ泣き喚かないのだろう。なぜ髪を掻き毟り、眼を血走らせて廊下を走ったりしないのだろう。そんな気力も消え果ててしまったのだろうか。そうかもしれない。しかし、そうばかりではなく、どんな状況にあっても、人は小さな関心事に心がとらえられることにおいて生き続けられる存在なのかもしれない。
パスカルはこんなふうにも言っている。
「人間というものは、どんなに悲しみで満ちていても、もし人が彼をなにか気を紛らすことへの引き込みに成功してくれさえすれば、そのあいだだけは幸福になれるものである」
(西尾幹二「人生の価値について」より)
設問 人間の持つこうした性質に対して、あなたは病人と接する時どのような配慮をし、またどのような立場や態度をとるのがよいと思いますか。(六百字以内)。
読者の皆さん、きわめて簡単な内容の設問だが、答えるのはじつにもって容易ではないとお考えになるであろう。
この大学は競争熾烈な難関校である。
採点官が何を基準に点数をつけているのか、設問が余りにも空漠として、方向不明なので、責任のない私の方がかえって恐ろしくなって、気を揉む始末である。
ごらんの通りパスカルの引用で問題は終っているが、原文ではそれに次の文章がつづいている。著者に無断で削除され、出題されている。
そういえば、あと生命は何日かと思われていた重い患者の病室から、巨人=阪神戦のナイターのテレビ放送音が聞えていたのを覚えている。
人間が生きるとはなんという痛ましく、悲惨なものであろう。自分の力のとうてい及ばない事柄に対しては、人間は考えないで済ませてしまうという防衛本能を備えているのかもしれない。しかしまた、他方からみれば、人間はなんという強さを身につけている存在なのであろう。死の直前まで自分を維持し、惑乱しないでいられる心の構造はどういう仕組みになっているか分らないものの、それに対し私はやはり畏敬の念を覚えずにはいられない。
あの、あのですね、これ、18か19歳の若者が制限時間と制限字数内で答えるんですよね。 ひぇー、となりますよ。いや、私がです。
水準以上に語彙が豊富で国語力のある生徒ならば、単純に単語選びと文章構成の巧緻で、或いは文学的表現を駆使して、いっぱしの作文を完成できると思います。それこそ、オー・ヘンリーの短編「最後の一葉」を連想させるような感動物語を作ることもありうるかもしれません。
しかしです。かような論文に対して問題作成者が、病人と接する時「どのような配慮」と「どのような立場と態度」と問うています。及第点は何点か知りません。医学を目指すくらいの受験生だから、回答できて当然と考えているのでしょうか。
世間的常識から、明日をも知れない重病人に接する配慮、態度を求めるならば、自分が重病に罹かって入院し、或いは重病人を看病したことがなければ、語彙と文章力のみで回答するのは、若い人には無理だろうと、私はそう考えます。
ともあれ、受験生は合格したいのです。いっぱしの作文を書くでしょう。その作文が、将来重病人に接する態度に資することを願います。
私の友人間で西尾先生について話をするとき、大概、「哲学・倫理学についての論者」としての西尾幹二と、「政治的な主題について語る論者」としての西尾幹二、というふうに、二重に話をしてくることが多いですね。西尾幹二という思想家はその二つを巧みに使いわけているのだ、というが如き言い方を、友人の多くは言うのです。
私はそういうとき、ピランデルロに関しての外国文学者の安直な議論について語れられた西尾先生の文章をふと思い出します。西尾先生の文章はピランデルロの虚と実、仮面と真実、つまり自分自身への「嘘」ということが、安穏とした私達には及ぶべくもないめまぐるしい「自分」の構築の世界に置かれていたということを主題にされたもので、文筆家の使い分けとはそもそも全く違う話なのかもしれません。しかし、二つあるかのような文筆家の世界が「使いわけられているのだ」という安易な言い方は、ピランデルロに対しての外国文学者の安直な議論と、共通するものがある、というべきなのではないでしょうか。「使いわけ」ができるほど整理可能な世界を相手にしているのなら、文筆への激しい情熱など、生まれるべくもないのですね。しかし受験界は、先生がおっしゃるように、先生の文章を明らかに二分して利用していて、どうしてそういうことができるのかというと、あれは政治的に書いているときの西尾だから、そしてこれは非政治的に書いているときの西尾だから、というふうにとらえているからだ、と思います。受験の世界に深く(あるいは長く)かかわると、それを純粋客観的に捉える作業だけでなく、先生の主観面においてもそうなのだ、と勝手に取り違えて思い込んでしまうようなことが起きてしまいます。これは受験国語のマイナス面の典型例で、奇妙な言い方ですが、作者と文章の関係が、「受験歴史的」に分類化されてしまうのですね。誰某の作者はこの時期はこうであった、という分類を、現代文解釈においても信じ込んでしまう、ということです。ですから出題選択者が、果たして先生の文筆の意図を本当に理解しているのかどうかという疑問を、先生自身が根本的なところで感じられるのは、当然だと私は思います。
たとえば国語受験で王者のようによく使われる小林秀雄さんの文章に関しても、彼が実は初期に書いていた、苦心の塊のような短編小説などが使われることはまずない、といっていいでしょう。「未熟な頃の小林秀雄」だからです。しかしそんな「受験歴史的」な区分ができるほど、一人の思想家の「未熟」と「成熟」が区別できるものではないのではないでしょうか。しかし受験の世界は、そういう恐ろしいほど単純な区分を、幾重にもひいてしまうのですね。そして、それは合格後も継続して私達受験生の頭に何かしらの枠組みを残してしまう。出題選択者は、「未熟な頃」や「政治的な主題にかかわるとき」は、主観的すぎて受験に適さない、と言うかもしれません。しかし主観的だから受験に適さない、ということが必ずしもいえないことは、西尾先生がいくつか引かれてきたご自身の問題文によって、充分明らかになっていることだと思います。いくら文章が客観的でも、主題が「深くて広い」場合、逆に受験生は問題文を把握しづらい場合が多い。そして採点者に負担をかけやすい。今回の東京医科歯科大の出題文にしても、私が先生の文章の中でも特に好きな、たいへん客観性をもった主題をもった文章です。しかしだからこそ、私はこれは受験問題としては難問で、著作権者である先生に不安を与えると思います。出題者と採点者が同一かどうかは私にはよくわかりません。しかし少なくとも私は、作者と作品に関して、いろんな意味のない虚構を背負ったまま、受験国語の世界を構成していると思います。私自身は受験時代そこで多くの優れた文章に出会ったのは確かに事実ですが、反面、受験的、つまり変な分類を、作者という存在について施しがちになるという悪癖を危うく背負い込みかけた、ということもまた、紛れもない事実でした。
自分は医学部出身に知己を何人か得ておりますが、医学部というところは卒業後の進路として
患者を相手にする臨床医か、大学に残るなどして研究を進める研究者か、大雑把に言ってこの二つのようです。
つまり医学部に求められる機能として、各学生にどちらの道が自分に向いているか
(あるいはどちらの適性も無いのか)気づかせ、本人に納得させる点が挙げられます。
自分は彼の大学は存じません。
しかし西尾さんの深刻な文章を引いて答えさせるとは、
このプロセスが入学試験の段階ですでに始まっていると言うことです。
受験生は過去の出題を調べて受験勉強をやりますから、
単に当該年度に合格した学生のみならず、その何倍もの人数の、以後何年にも渡る受験生らに
医学を志すことの意味を深く考えさせる効果があるのだろうと思います。
それにしても削られた部分は哲学的に重要な指摘ではありますが、
削ることによって「医師は哲学者である必要は無い」という、
出題者の沈黙裏の自負、あるいは反抗心が感じられて面白いことです。
とてもよい出題、そして設問だと思います。
出題者は、人の死に接しなければならない職業の方ですから、
先生の文章に感銘し、その問いかけに、
何度となく自問自答した経験がおありなのでしょう。
また設問にしても、同じ職業をめざす若者たちに、
どうしても問いかけてみたい質問なのだろうと想像されます。
受験問題としては難問かもしれませんが、
医師としては避けることのできない問題です。
受験生のなかには、見事な答えを書いた若者もいるでしょう。
親や兄弟が医師なら、
病院の出来事は日常的に耳にしているでしょうし、
医師になろうとする決意の背景に、
家族の死が関係している若者もいるでしょう。
塾に通って受験の技術を磨けば答えられる問題ではなく、
人の内面に踏み込んだ設問が大学入試に出されたことに、
心が晴れる思いがしました。
基本的にオルフォーさんの仰る通り、よい質問と思います。
ただ、みいこさんが仰る通り、18,9の若者には荷が重いと思います。
死に縁が無い若者の感じ方と、先が見えてきたモノの感じ方は全く異なり、まして医療従事者のように数多くの人の死に関わる職業では経験と共に変化していきます。
人それぞれが違うように、患者さんの話を丹念に聞き、相手の心情を理解するのが上策であって、若い内から試験官を唸らせる死生観の持ち主というのは、何だか胡散臭い気がするのです。医科大学という事で、それなりの設問を、と考えた答案作成者の自己満足と言っては言い過ぎでしょうか?青臭い死生観を振り回すのを止め、重篤な患者さんが取り乱すことなく、日々を過ごしている事に着目し、西尾先生が入院した病院の手厚く心のこもったケアを褒める答案を書いたら、点数が付くのかちょっと気になる所です。