入学試験問題と私(六)

 次に掲げる評論文は昭和44年(1969年)12月号の言論誌『自由』にのった。『自由』は『諸君!』のまだない時代の唯一の保守系オピニオン誌で、福田恆存、林健太郎、竹山道雄、平林たい子、関嘉彦、武藤光朗の諸氏の同人的色彩の濃い評論雑誌だった。

 私の評論文の題名は「自由という悪魔」である。こういう題の論文が私の著述の中にあることを知る人がむしろ少いだろう。

 例の『悲劇人の姿勢』に収められている。

 じつは同論文の書かれた時期に注目していたゞきたい。

 前年の1968年に全共闘系学生によって東大安田講堂が占拠され、1969年1月には警察機動隊が封鎖解除に出動している。世の中は騒然としていた。

 1968年11月号の『自由』に三島由紀夫が「自由と権力の状況」を書いている。正確無比な文章である。この論文をも含め諸論を一冊にまとめた同氏の『文化防衛論』は1969年4月に出版され、同6月に『三島由紀夫VS東大全共闘』が発表されている。時代の雰囲気を思い出していたゞきたい。

 これだけ述べればここに掲示した問題文の「自由」の概念の歴史的背景は理解できるであろう。

 にも拘らず同問題は平成12年(2000年)、30年ほどの時間差を経て出題されている。そういうケースが他にも非常に多い。

 あの激しい時代に抗して展開された私の自由の概念は認識への冷たい複眼を求めていて、時代の情念、情緒、エモーションからいかに遠かったかをむしろ物語っている。

 きわどい思想の闘いの日の痕跡を、忘れずに30年後に入試問題に採用した日大の国語担当教官の記憶への意力にあらためて御礼申し上げたい。

日本大学 平成12年度
生物資源科学部

〔1〕 次の問題文を読み、後の問いに答えなさい[ 1 ]~[ 11 ]の解答は解答欄にマークしなさい。

 私にとっての自由は、私自身の生き方の(ア)程の中にしかない。

 私が自由であるためには、私は自由であろうとして生きるのではなく、私が生きることがそのまま自由であるように、そのように生きなくてはならaないという意味である。なくてはならない、という目的意識を表す言葉を用いただけで、すでに私は自由であろうとしているのである。A自由であろうとするとき、人は自由ではない。自由は条件でもなければ、目標でもない。自由は私たちひとりびとりの日々の歩き方の中にしかbないというのは、私達が二度と取り返すことの出来ない掛け替えのない一日、一日を生きているという、時間に関するある大切な、動かし得ない原理の上に立っているからである。

 十九世紀以来の自由主義思想はすべてこの点で躓(つまず)いた。いわゆる近代的自由主義者にとって、自由とは実現すべきものであり、生の目標であり、従って、自由は程度と分量の問題と化し、外から与えられる条件となり、計量可能の領域に収まった。

 しかし例えば、昨日自分はあることをし遂げたいと思ったが、邪魔が入って果たせなかった、誰しもこういうことではくよくよすることが無意味であることを知っている。しかし戦争がなければ、自分の青春はもっと美しかったろうに、というような思いからは人は容易に解放されることはないらしい。だが、いずれにしても、過去は不可逆なのである。何が美しいか、それは誰にもわからcないのだ。後悔などいくらしてみても、今の私達が一日、一日を掛け替えなく生きていく上になんの足しにもならない。そして、今の私達の社会には、自分のB今日の失敗を昨日の過誤で弁解する口実がなんと沢山(たくさん)あふれていることであろう。後悔や反省などいくらしてみても、今日を勇(イ)カンに生きる事の妨げにこそなれ、そこからは真の自由というものに通じる道は閉ざされているのではないか。

 「困難な務めを日々に果たすこと、他にはなんの啓示も要らぬ」は、ゲーテの静かな自信に満ちた言葉だが、こういう当たり前すぎる言葉を吐いて、そこに力強さがあるのは、それだけの実行力を備えていた人の言葉であるからだ。ゲーテは自由という概念を目の前に置いて、分量を測定したり、自由の仮想的を拵(こしら)えて、頭の中の影と戯れたりはしなかった。

 時代がどのように変わっても、自由という一概念にはなんの積極性もなく、自己を実現しようとする個人の意志的な努力のうちに自由は達成されるのではなく、僅(わず)かに予感されるのみである、というのは私には動かせない真実のように思えるのである。誰しも自由を求めて生きるのではなく、何事かをなし遂げようとして生き、[ X ]的に、ある自由感の裡(うち)に生きる、ということもあるかもしれなdない。人は自由を捕らえるのではなく、反対に自由に捕らえられるように、自由が意図せずして歩み寄ってくるように生きることが真の自由であろう。だが、そうして手にした自由でさえも、それが自由であると意識化されれば、たちどころに不自由に転ずることにしかならないようなものかもしれない。真の自由は客観的に認識できないし、主観的にも容易に自覚されることのないなにものかなのである。

 従って真の自由のもたらすかように大きな精神の緊張感には、誰でもが容易に耐えられるものではない。だから人々は自由を口にしてはいるが、本当の自由を求めているわけではけっしてなく、自由主義という名の小さな自由の枠の中へ、適度に不自由に制限づけられることを欲しているに過ぎない、とも言えよう。人は束縛を嫌って、自由を求めると言われるが、C自由であることもまた、一つの束縛なのである。

 自由があり余れば、人は不自由な観念に(ウ)レイ属したがるであろうし、自由の制限によって、安定と自己調和を得たいとむしろ願望するようになるだろう。文明が進展し、機械が余暇を生めば、なにものにも縛られeない自由の領域は[ Y ]的に増大する。つまり、それはなにもしないでいてよい自由ということだが、かかる消極的概念としての自由の領域は益々(ますます)ひろがり、それに比例して、積極概念としての自由の生き方は益々むずかしく、困難に見舞われるだろう。いや、現に私たちはそういう時代に入りつつあるのかもしれない。 (西尾幹二「自由という悪魔」)

問一    線(ア~ウ)にあてはまる漢字と同じ漢字を用いるものを次の語の片仮名部分から、それぞれ一つ選びなさい。
(ア)-[ 1 ] ① カ説  ② カ激 ③ 日カ ④ 歯カ
(イ)-[ 2 ] ① 鳥カン ② 基カン ③ 果カン ④ 壮カン
(ウ)-[ 3 ] ① 奴レイ ② 激レイ ③ レイ儀 ④ レイ句

問二 赤色(a ~ e)ないの中に文法上、他と異なるものが一つある。それを次の中から選びなさい。
[ 4 ] ① a ② b ③ c ④ d ⑤ e

問三 [  ](X・Y)に入る最も適切な語はどれか。次の中からそれぞれ一つずつ選びなさい。
X-[ 5 ]  ① 結果 ② 原理 ③ 絶対 ④ 意識 
Y-[ 6 ]  ① 感覚 ② 条件 ③ 相対 ⑤ 観念

問四 波線(緑色)の意味として正しいものを、次の中から一つ選びなさい。
[ 7 ] 
 ① 個別の知識が突然、まとめられて理解されること
 ② 人の祈りに応じて、神が姿を現して示すこと
 ③ 人知の及ばぬことを、神がさとし示すこと
 ④ 物事の本質や存在を、一瞬のうちに理解すること

問五   線Aの理由として、文脈上、最もふさわしいものを、次の中から一つ選びなさい。 
[ 8 ] 
 ① 自由であろうとすることは、既に目的意識にとらわれたものであるから。
 ② 人が既に自由の身であるならば、そもそも自由であろうと望むはずがないから。
 ③ 自由は人が意図するものではなく、向こうから歩み寄ってくるものであるから。
 ④ 自由は程度と分量の問題であり、外から与えられるべき条件と化したから。

問六   線Bからうかがえる作者の見解として、最も適切なものを次の中から一つ選びなさい。
[ 9 ] 
 ① 人々は、現在の失敗が過去の過ちに起因するとして、過去をふりかえるだけである。
 ② 人々は失敗の原因を過去の過ちで言い訳ばかりして、現在なすべきことを忘れている。
 ③ 人々は、現在の失敗の原因は過去の過ちにのみあるとして、言い逃れようとしている。
 ④ 人々は現在という時を後悔や反省のみで埋めつくし、無駄に費やしているに過ぎない。

問七   線Cの理由として最もふさわしいものを、次の中から一つ選びなさい。
[ 10 ] 
 ① 何もかも自分で決定しなければならないということが、そのまま制約と化すから。
 ② 自由も一つの観念である以上、その概念から一歩も踏み出すことはできないから。
 ③ 束縛があってこそ自由も存在するが、束縛がなくなれば自由という概念も消滅するから。
 ④ 消極概念としての自由は自覚できるが、積極概念としての自由は意識できないから。

問八 問題文の筆者の考えと合致するものを、次の中から選びなさい。
[ 11 ] 
 ① 自由とは実現すべきものであり、生の目標であり、従って、自由は程度と分量の問題と化し、外から与えられる条件となり、計量可能の領域に収まった。
 ② ゲーテは後悔や反省などいくらしてみても、真の自由に通じる道には至らないことを知っていたから、自由の仮想敵を拵えて、それと戯れたりはしなかった。
 ③ 真の自由をもたらす大きな精神の緊張感に耐えることは容易ではないので、あり余る自由の中では、人は適度に不自由な枠の中の安定と自己調和を願うようになろう。
 ④ 文明が進展し機械が余暇を生めば、何ものにも縛られない自由の領域はかなり拡大するだろうが、それは近代的自由主義者の目標としていた自由とは異なるものである。

管理人注:問題を都合上色分けしています。

「入学試験問題と私(六)」への4件のフィードバック

  1.  色々な想像が可能ですね。出題担当教官の方が当時、日大あるいは日大関係に在籍していたのかどうか、ということはもちろんどうでもいいことですが、どうでもいいことだけに、この問題文がここに出現するまでの物語の形を、詮索好きの私は考えてしまいます。言うまでもなく日大も学生運動の激しい大学でしたが、セクト運動にかかわった大半の人間が、当時を回想してみて、三島さんや西尾先生、あるいは福田さんや竹山さんが指摘した通りの「自由」の苦しみがその後の日本にやってきたことからして、苦渋に満ちたこの30年の思いをこめて、出題したのかもしれません。あるいはそうでなくて、この出題にかかわった方(方々)は当時から学生運動にかかわっている連中からは一線を画した冷めた読書をしていて、自分があの頃考えていた「自由」への危惧みたいなものが、皮肉にも現出しているという事態に、当時読んでいたことを思い出すかのように、この文章を選んだのかもしれません。もちろん時代とかかわりない世代の人達が、歴史的に当時の時代と西尾先生とのかかわりを考えながら出題したのかもしれませんし、もしかしたらそういう物語のいっさいは不在なのかもしれません。けれど不在なのかもしれない、ということはすでに可能性としての存在を考えさせる何かがある、ともいえるわけで、この出題にかかわる物語を考えることは、何かしらの意味がある、といえると思います。
        問題文を解く側にして考えてみると、そういう時代背景というものを知っているかどうかということが、理解にどうかかわるか、ということが問題になります。もちろん時代背景を知らなくても理解することは可能です。ただ、自由や平等、絶望や虚無、死や永遠といった深く広い主題を扱う文章においては、ただそこに投げ出されている客観性だけでは、受験生は戸惑ってしまうし、さらにそれが「書かせる」問題になると、採点者に困難を強いてしまい、さらには著作権者に不安を抱かせてしまいます。言うは易しですが、主観性・客観性・普遍性というのは、それがセットになって、「考え」として理解されやすくなるものだ、と私は思います。たとえばドストエフスキーの文学に関して、彼の文学世界の壮烈な観念論を普遍性の問題として考えることは間違いではないですが、彼は何といっても、19世紀のロシアを主観的に生きた人間である、という面を絶対に見逃すことはできないでしょう。
       受験生にとって、この出題にかかわる文章の背後の物語を読む精神的余裕はほとんどない、といっていいかもしれません。しかしもし、この文章を書いたその時代の激しさと格闘した西尾先生の精神みたいなものを受験生が知識的に知っていたら、この文章に触れて問題を解くとき、さぞ知的興奮を伴って、苦しい試験時間が何ほどか楽しい時間に変わったのではないでしょうか。そしてその時間が自分の人生の財産になる。その楽しい時間は後々に生きる確かな読書術の一つにになると思います。私が嫌う悪しき区分的な読書術、とは全く正反対の読書術ですね。ドストエフスキーの小説を主観性・客観性・普遍性のそれぞれの次元で感じるように、ということですね。

  2.  自由が増大すれば、それに比例して慎みが減少していくと思います。現代の世相が、それを示しています。

     無制限の自由とは、恐怖を伴うものだと思います。お前はどの組織にも属さない、お前は何をやってもいい、お前は誰にも束縛されないとなれば、恐怖を感じてたじろがない者はいないはずです。無制限の自由。それは暗黒の世界です。

     しかし、その暗黒の世界をものともしない者、いるかもしれないな。

  3. 無関係ですが緊急の要件です。
    西尾先生が執筆陣に加わる関岡英之氏のムック『アメリカの日本改造計画―マスコミが書けない「日米論」』が出版妨害にあっています。山崎行太郎氏のBBSの、私と同じ名前の投稿者のスレ「関岡英之の本が入手しずらい件について」を参照してください。松原隆一郎氏の出版物も被害にあっている模様。

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