九段下会議の「国家解体阻止宣言」を2月初旬に『Voice』3月号に掲示し、一般読者に訴え、その後小冊子も作成して、約2000部を各方面に配布した。感動した、賛成だと言ってくれる人は多いが、それ以上のものではない。
このマニフェストは従来の同種のものと異なり、賛意と署名を求めていない。類似の意見も求めていない。投稿することの好きな人の投稿も期待していない。自ら参加し、活動し、行動することだけを期待している。
何に参加し、どんな活動をするのか――それはまだ何もきまっていない。それは参加する人たちがきめる。そういう宣言文である。
とりつく島もない内容と思われるであろう。時代がそこまできているということは前から言っている通りである。ただの意見の交換の時代は終った、という認識である。この認識は本日録においてもいくたびも掲示して訴えてきた。
今日までに本部に約100を越える文書が届いている。私個人あてにもきている。何を勘違いされたか自分は何をするかも書入れず、会のメンバーに入れて下さい、と葉書に署名してきた方もいる。そういう会ではないのである。
5月12日午後執行部会を開いた。最大の問題は自民党政府の各省庁の審議会の全ての委員がリベラル左翼にほぼ100%握られている事実である。自民党は間抜けでそのことに気がついていない。
内閣府、外務省、文部科学省、厚生労働省、経済産業省、防衛庁のすべての審議会の委員リストを作成してよくよく見た。驚くべき人名である。これらの委員を誰がどうやって決めているのか。
日本の国家という屋台骨は毎日のように内側から白アリに食い亡ぼされている。九段下会議は「白アリ退治委員会」である。ターゲットはそこに絞られつつある。
ただし、具体的にそれをどうやって処理するのか、いまだ確定していない。具体的な名案をいまこそお寄せいただきたい。
※※※ 国家解体阻止宣言 ※※※
「平成の革命勢力」を打ち砕いて日本の大本を改めよ
≪≪≪ 九段下会議 ≫≫≫
伊藤哲夫(日本政策研究センター所長)
遠藤浩一(拓殖大学客員教授)
志方俊之(帝京大学教授)
中西輝政(京都大学教授)
西尾幹二(電気通信大学名誉教授)
八木秀次(高崎経済大学助教授)
***** 緊急政策提言 *****
国家基本政策 //////////////////
1 憲法改正はまず9条2項の削除を
2 歴史認識の見直しは「村山首相談話」の撤廃から
3 8月15日の首相靖国神社参拝を慣例化せよ
4 国産技術の防衛と育成に国家戦略を
5 政府審議会から左翼リベラル勢力を一掃せよ
外交政策 ///////////////////////
1 対北朝鮮経済制裁の即時断行を
2 朝鮮半島の「中国化」を阻止する対中政策を確立せよ
3 インド・ASEAN・台湾重視へ対アジア外交政策を転換せよ
4 対米依存心理から脱却した日米関係の再構築を
5 竹島・尖閣をめぐる日本側主張を国の内外に向け鮮明にせよ
防衛政策 ////////////////////////
1 専守防衛体制から「防衛の開国」へ
A 敵ミサイル基地への攻撃を含めた対ミサイル防衛態勢の整備
B 自衛隊による「領域警備体制」の確立
C 自衛隊武器使用基準の見直し
D 自立的な情報機関の確立
2 集団的自衛権の行使の意志確立を
教育政策 ////////////////////////
1 教育基本法の改正は愛国心書き込みだけに留めるな
2 教育責任の不在を生む「教育委員会制度」を廃止せよ
3 ゆとり教育は「見直し」ではなく「全廃」へ
4 国語教育の総点検を
5 教科書問題は「教科書法」制定から
6 「子供の権利条約」の弊害是正を
7 文部科学省の「日教組化」を阻止せよ
社会政策 /////////////////////////
1一連の「家族つぶし政策」を見直せ
A夫婦別姓の阻止
B少子化対策の見直し
C税制・年金における改悪の再検討
2ジェンダーフリー政策の駆逐を
A男女共同参画基本法の廃止
B過激な性教育の一掃
C男女共同参画の予算の大幅削減
3ヒステリカルな政教分離要求にまどわされぬ伝統・慣習の擁護政策を
九段下駅(半蔵門線)
Posted by nishio_nitiroku at 21:32 │Comments(3) │TrackBack(1)
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遂に保守論陣の二大巨頭がブログ化することになりました。おお!
早速トラックバック【中西輝政非公認ファンサイト】at 2004年06月05日 00:06
この記事へのコメント
利用方法がまだよくわかりません。
Posted by 年上の長谷川 at 2004年06月04日 22:32
上のトラックバックは上の方は消しておいてください。
「西尾幹二BLOG」の方です。
もしよろしければ、中西サイトでトラックバックを返す練習をしてみてください。
Posted by 無頼 at 2004年06月05日 00:11
「男子・・・」本注文したら三笠らしい。有隣堂は早い。横浜では二重丸。
Posted by 閑人 at 2004年06月16日 22:59
▼中国や韓国を、それも、国民全部を対象に、中国人、朝鮮人と名指しで誹謗する掲示板を見るが、どこの国にも良いとこ悪いとこあるのです。それを国民全部を対象に近隣国を誹謗するのは常識のなさ、自虐の典型、恥さらし、そのうえ国益無視です。日本人の一人として恥ずかしい。
▼北方4島の問題、不可侵条約に違反し、かつ多数の日本人を抑留したロシア、これらは批判しないのに。
アメリカは原爆、それも2発も落し、多数の都市爆撃、極東裁判、これには文句も言わない。これでは白人に媚び黄色人には威張る構図としか言い様がありません。自虐の典型です。情けないですね。
▼アメリカが作った憲法だからといって今度は日本人の手でアメリカに好かれる憲法に改憲しようとする。あきれます。意地でも改憲したくないですね。なんて日本人はこんなに自虐的なのでしょう。日本は大国なのです、もっと自信と心にゆとりを持ちましょう。この項04.1.20追加
▼『新しい歴史教科書をつくる会』はむしろ典型的「自虐的」なのです。現在に自信がないから海外で認められてもいない過去を持ち出す。個人でも他人が認めてもいないのに親、先祖の自慢や弁解は、劣等感の典型です。お話にならず恥ずかしい行為ですね。『新しい歴史教科書をつくる会』のお陰で多くの国民は肩身の狭い思いをしているのです。
▼◎自分を評価するのは他人です。歴史も同じで、自国の評価は他国です。◎そもそも歴史は全てに不確実で、証拠としての文献も正しいとは限らず、歴史は想像の域を出ないのです。
そもそも日本は小国ならいざ知らず日本は大国なのです。これを認識しましょう。
▼『新しい歴史教科書をつくる会』は歴史教育は何のための教育と位置付けているのでしょうか。日本は小国と位置付けて、それで威張りたいのでしょうね。自虐の典型です。
残虐行為はあった確信できる根拠
◎平和貢献が歴史教育の原点のはず
「近隣国との友好は必要ない」小泉総理が率先垂範
日本から世界平和の発信を安倍政権はタリバン政権と同じか
●第2時大戦で、為政者の国民に悲劇的打撃を与えた責任は計り知れないほど重罪です。これの責任も追求しない。
小泉総理の靖国参拝は「内弁慶」「空威張り」「NOと言えない」「皮を切って骨を切らせる」「国益無視」の外交で自虐的事例の典型的です。それとも日本は中国と距離を置くというアメリカに気兼ねした参拝か。
靖国神社には正義のかけらもない
●東京を始め多くの都市の爆撃、原爆投下までされたのです。特に2発目の長崎の原爆は許せないのです。アメリカに賠償するよう申し出るべきと思うのです。これもやらない。
●湾岸戦争で1兆5千億円もの多額の金を出したのに、かえって批判を受け、今度はショーザフラックと命令され、平身低頭、はい分かりましたと自衛隊の海外派兵。おかしいですよ。これ「自虐的」の典型です。
「金を出して批判されたのだから、今度は金も出さない」と怒るべきです。1兆5千億円をどうしてくれるの。
●万影峰号の問題でも、日本の「自虐的」そのものです。国の自虐的の典型でしょうね。靖国参拝なんかでなく何とかしてよ。しゃくにさわるので「まんけいほう」と日本語で呼んでいます。03.9.5追加
●政治家や官僚がどんなことしようが、ストライキも起きない。政権も変わらない。お偉い議員は牢屋からでも当選する。何も知らない2世議員の誕生。特に日米地位協定の見直しも要求しない。これらは「強者を助け弱者を挫く」で、これ「自虐的」の典型でしょう。
◎「自虐」とは
教科書問題や外交で「自虐的」だと批判があるが「自虐的」と「謙虚さ」とはどこが違うのでしょう。
「自虐的」という概念は「自分と同等以上の強者に対する概念」で「弱者に対する概念ではない」と思うのです。能力があるにもかかわらず「強い他人と比較して俺はダメ」という概念でしょう。
「謙虚さ」とは「誰に対しても公平な概念」と思うのです。
「負け犬」というのは、強者に対抗できず、反論も言えない。ストライキも打てない。むしろ味方して尻尾を振ることでしょう。これを言えかえれば、「自虐的」と言うのではないでしょうか。
米国には平こら、上役には平こら、官僚には平こら、政治家には平こら、盆暮れの贈りもの然り、泣き寝入りも然り。すなわち強者には平こら。これを「自虐的」と言うのです。強者に対しての奴隷的根性が「自虐的」なです。この日本人の性格を正すべきことが肝要と思うのです。
それなのに、中国や韓国に対してまで負け犬になるまいと、つまらない教科諸問題を提起している。中国や韓国は日本より上の強者なのか。『新しい歴史教科書をつくる会』はむしろ典型的「自虐的」なのです。情けないと思うのです。日本の恥さらしです。小泉総理の靖国参拝も同じです。親不幸が多いのに親と先祖がどっちが大切なの、とも聞きたいです。国益にも大きなマイナスです。
それに他人が認めないのに先祖の自慢話は世間の笑いものでしょう。他国の理解を少しも得られないのに事実と掲げてもむしろ軽蔑されるだけです。負け犬の遠吠えで、日本の恥さらしです。
日本では加害者の人権を認めても被害者家族の人権を認めないと言う意見も多いのです。威張ることより、先祖の自慢より、控えめの人、むしろ非を認めること、自分に厳しいこと、は何ら自虐的ではなく、勇気ある行動で、全ての人から尊敬されるのです。
そもそも歴史は全てに不確実で、証拠としての文献も正しいとは限らず、歴史は想像の域を出ないのです。したがって論争しても解決しないばかりか双方に軋轢が増すばかりです。
●特に「自虐的」と言うならアメリカに対して言うべきです。多くの都市の爆撃、原爆投下までされたのです。特に2発目の長崎の原爆は許せないのです。アメリカに賠償するよう申し出るべきと思うのです。
特に国民に対する戦争責任者は誰なのか。勝つ見込みのないのにひた隠しにして、多くの都市の爆撃、沖縄戦場、特攻隊、原爆投下まで戦争を続けたのです。それに特効を命じた責任者は誰なのか。この国民を馬鹿にした行為、悲劇的打撃を与えた責任は計り知れないほど重罪です。
これらの責任を不問にし放置して置くこと自体が国民の自虐性の典型的なのです。これらを明らかにすることを『新しい歴史教科書をつくる会』に望みたい。03.7.28
ベッカム旋風やブランド指向は日本人の自信のなさ、劣等感、自虐的な、性格の現れとも思うのです。03.8.5
>恥知らずさん
投稿姿勢に問題があるように思います。
何処かに書いてあったものの再掲でしょうか?
今後お気をつけください。
管理人様
私の投稿を掲載していただき感謝いたします。たぶん掲載されないだろうと推測していましたので、掲載されているのを見て、このサイト、即ち、西尾様、の公平さを感じました。この公平さを全ての言行に際して発揮されんことを願うばかりです。
>恥知らずさん
このサイトでは、出来るだけの公平さを期しています。
が、目に余るものについては掲載しません。
明らかなアラシ(外国からのものなど)などです。
HNがいつか自分の子供に「あくま」と付けた人がいましたが、「恥知らず」さんもお変えになった方がよいのではありませんか。
長谷川様
>HNがいつか自分の子供に「あくま」と付けた人がいましたが、「恥知らず」さんもお変えになった方がよいのではありませんか。
ご忠告ありがとうございます。ただし、あの「あくま」ちゃん騒動は親が子供につけた名前だったから問題になったのであって、自分自身でつけたものであったらなんら問題にならなかったでしょう。例えば、悪魔の子供という意味の 緑魔子 という名前の女優もいますがそれを問題にする人はいません。
私の 恥知らず というHNもそれなりに考えた結果採用したもので、他人様の差し出口があったとしてもそうそう変えられるものではありません。
それから、西尾様が常日頃仰っている「自虐的」という事ですが、私の最初の投稿文に書いたような風に解釈していますが、日本人は古来自虐的であったと考えられないでしょうか。謙譲語あるいは謙遜語を使う、他人に対してへりくだった態度、例えば、愚妻、愚息、豚女、愚弟、愚考、贈り物をする際の「詰まらないものですが、また、粗品ですが」、「大しておいしくはないと存じますがお召し上がりください」などという言葉は自虐とまでは行かないでしょうが、明らかにその精神は似たようなものでしょう。これらの言葉は諸外国ではあまり使用されない日本独自のもののような気がします。
また、自虐の究極の姿が自死だと「愚考」しますが、なら・平安朝の頃から日本人は「自死」ではありませんが死ぬことを最高の栄誉ないしは目的であったような気がします。
例えば、戦時中に良く歌われた「海行かば」の詞、戦地に行けばこれだの苦労が待っているということを飽きるほど繰り返し歌い上げている、軍歌に良く見られる詞、例えば、「討匪行」の どこまで続くぬかるみぞ、三日二夜食もなく・・、1940年に東京朝日新聞が募集して一等入賞して大流行した「父よあなたは強かった」の ・・鉄兜も焦がす炎熱を、敵の屍とともに寝て、泥水すすり草を食み・・ 骨まで凍る酷寒を、背も届かぬクリークに、三日も浸かっていたとやら・・など、諸外国の人々から見たら、戦意高揚の軍歌であるのに戦地ではこれだけ酷い目に会うのだぞという言葉を聞かされ、自らも歌いながら、そういう歌詞に鼓舞されて、そういう苦難が待ち構えている戦地に志願してまで勇躍出征してゆく日本人の精神構造はまったく「自虐的」としか言いようがありますまい。
外国の軍歌については不案内ですが、知っている限りでは日本とは異なり、国民の戦意を高揚させるために勇ましいことのみ唱い上げているのがほとんどのようです。例えば、ラ・マルセイエーズ、米国国歌、中華人民共和国国歌など、元は軍歌だったようですが、全て聞くものを奮い立たせるような勇壮な歌詞になっているようです。
軍歌「戦友」などは聞いているうちに気がめいってきて戦争どころではないような気にさせられてきますが、それでも大流行したそうですから日本人とは不可解であります。さすがに、軍当局もこの歌を兵隊が歌うことを禁じたそうですが。
また、殿の馬前に死す、命を鴻毛の軽きに置く、武士道とは死ぬことと見受けたり、あるいは切腹を武士の死の最高のものとして称揚する死の美学、等々、私には全て自虐的傾向を帯びているものと考えられます。したがって、つくる会の主張は日本人古来の伝統に反するものである、というのは間違いでしょうか。
私のHNについて書くつもりが途中で思いついたことを書き綴りましたので、論旨があやふやですが、じっくり調べて書けばもっと説得力のあるものとなったことと考えます。
>このサイトでは、出来るだけの公平さを期しています。
と仰っていますがこういう内容では表示は無理でしょうね。
>恥知らずさん
HNの件、了解しました。
上記コメントの段落などが不ぞろいで、読みにくかったので適当に直しました。ご了承ください。
恥知らずさんの投稿を読んでいてふと考えたこと。
自虐ってなんですかね。自らを虐するという言葉尻で捕らえれば一流のスポーツ選手は自分の体をいじめて記録を達成するのだから自虐なのですかね。
私は会社に入って10年目くらいに大失敗を犯しまして何百億というオーダーの阻害賠償を受けてもおかしくはない失敗をしました。このときやはり上の人間はえらいなと思いましたが、それは私の上司の係長も課長も部長も技術本部長も私を叱責しませんでした。失敗した原因は私にあるので部長や技術本部長には直接責任はないはずです。この上司の態度は自虐なのでしょうか。当時は平和でした。本部長が真っ先になってユーザーに謝罪にいってますます信用されて終わりなのですから。
あるサッカーの日本代表選手が現役引退してサッカースクールのコーチになったそうです。そのときの発言「人の痛みが分かる、人間味のある子供に育てたい」だったそうです。「人の痛みが分かる」ってこれは自虐なのでしょうか。
実際に自分が悪いかもしれないと考えることは決して日本では非難されることじゃありませんし単純に自我が弱いだけだという批判が正しいのでしょうか。仏教でも儒教でも日本人よ自我を強く持てという論調はほとんどなく、近代になって欧米文化と対面するようになってからではないでしょうか。この自我の強調の論調の背景には欧米文化が全面的に正しいという思い入れはないでしょうか。
自虐という言葉が私は悪いと思う。原因をすべて自分へ転嫁するという意味なら自虐という言葉は理解できるけど、そうじゃない。自分が悪いのでなく自分以外の国家が悪かったり、過去の歴史を生きてきた人間が悪いというのは自虐でなく他虐じゃなかろうか。
歴史を追ってみると違った文明社会の人間が日本人を評価している場合がしばしばあります。以下の例は戦国末期から江戸初期に日本へきたキリスト教宣教師の印象記の抜粋です。戦国末期ですから世の中は乱れていたはずですが私から見ればまともです。
コスムスワレンシス
「日本人は理解に富むのみならず、想像力も富み、自ら、世界のいずこの民族にも劣れるものにあらずと確信すれば、その見識は自然に高く、外人と邂逅しても、ただこれに賎視の一瞥を与えるものなり。彼らはよく善悪を識別す」
ザビエル
「第一に、余の考えにては日本人ほど善良なる資質を有する人種はこの世にきわめて稀有なり。彼らはいたって親切にして、虚言を吐き詐欺を働くごときことは、かって聞き及ばず、かつ甚だしく名誉を重んじ、その弊はかえって彼らをして殆ど名誉の奴隷たらしめることき観あり」
フロイス
「日本人の貴人はみな礼儀正しく教育よく、喜んで外国人に会い外国のことを知らんと望み、きわめて仔細なる点まで聞かんとす。彼らは生来道理に明らかなり。盗みは彼らのもっとも憎むところにして、ある地方においては盗みをなしたるものは何ら手続きを踏むことなく直ちにこれを殺すを得、鎖なく牢獄なく司法官なく各人は自家において判事たり。故にこの国の良く収まるをざるを得ず、罪は見逃されず、また譴責によって免除されず、直ちに犯人を殺すがゆえに、恐怖によりよく統治せらる」
フロイスの書いた後段はおそらく事実でしょう。織田信長や豊臣秀吉はわずかな金額で窃盗で現行犯で捕まったものはその場で処断してもいいというルールがあったと読んだことがあります。
江戸末期からの英国やロシヤの外交官にはこのまま日本人を放置しておくととんでもないことになるという報告を書いた人間もいます。実際に日本は東洋でただひとつの近代化を成し遂げました。そりゃそうでしょう。幸運もあったでしょうが、自分が関心があることで自分の好みにあったものは全体の体系関係なく取捨選択するのですから競争力もあったでしょう。もっとも学者先生には耐えられないでしょうけど、自分の考えた成果をいいとこどりされるのですから。
さて自虐の話ですが、以上に書いてきた外国人の日本人評価の話を含めて自虐ではないでしょう。ご存知かもしれませんが日本が朝鮮と合併する前に朝鮮と日本の貿易はちょうど欧米と日本の関係そっくりでした。これは日本が欧米に苦しめられた貿易障害を日本側も合併前の朝鮮にやらざるを得なかったからです。もしも進歩的文化人と呼ばれる日本人ならその日本の行為はおかしいと非難するでしょう。自分がいじめられたからといって弱い他人をいじめていいという理屈は通らないからです。日本は欧米の鏡であったわけです。しかし近代化=西洋化だとしたらそこで生じる正義は戦国時代以降に作られた日本人の好みとはあわないでしょう。ここに日本が抱えるジレンマがあると私は考えています。日本人の善悪を信じ、進んだ文明は道徳的に優れている徒考えている社会で近代化=西洋化=弱肉強食が正義であったら、またそうでないと自分たちは奴隷になってしまうなら自分たちの作ってきた伝統を破壊せざるを得ません。
この矛盾に苦しまない知識人は他に転嫁させて過去否定に走るのでしょう。そしてこれを一般的自虐と呼ぶのではないでしょうか。
不思議なのは進歩的文化人の矛盾は弱肉強食の西欧文化を鏡にしながら半面では長年の文化で育ったとしか考えられない考え方に呪縛されていることです。
考えられる自虐の流派はソ連や中国の共産主義体制を理想として自国をいやしめる派があり、さらに別派として敗戦前はいけいけどんどんと戦争をあおっていた人間で敗戦後は自分は悪くない反省したから正しいと実に戦前で書いたことの逆転したことを書いている知識人もいます。これも過去否定にならざるを得ませんから一種の自虐なんですかね。
和の文化とか甘えの文化とかいいますが、和の文化だからといって戦争を否定する習慣が出てきたのはおそらく江戸時代からでしょう。武士でさえ理由関係なく喧嘩両成敗なんですから争うことは悪いことになってしまいます。日本の和の文化は集団の中の和であって集団以外の人間には適用されないのでしょう。集団の中の和があるからこそチームで仕事すると強いのであって個人技能が優れていても一人じゃ仕事はできません。国民が戦争を望めばそれに反対する人間は拒否されるでしょうし、平和を望めばそれを否定する人間は拒否されるでしょう。問題は和を乱すやつなのですから拒絶されます。
私が自虐に関して常に疑問を感じるのは本来は近代化主義者=欧米化肯定論者であるはずの革新陣営の日本人が単純化すれば欧米の主要な政治流儀では考えられない話し合い絶対主義と絶対平和主義を採っていることであって、西欧文化を鏡とした自分たち自身は矛盾を感じないのでしょうか。
敬語でもいつ完成したか知りませんが、尊敬語、謙譲語、丁寧語と並べて考えてみると恥知らずさんの言う意味も理解できないわけじゃない。言葉を使う場合でも争わないで一歩引くという態度は自虐なんでしょうか。敬語の機能を考えてみると相手との関係性を良好に保つがあると思う。相手の権力や地位や権威関係なく日本語で「ため語」を使うことが相手との平等性を成立させる条件ではないのではないか。現実に権力や役割や権威があるとしたら「ため語」では会話は成立しなくなるからです。敬語を使いながら上司を使いまわすことは別に不可能なことじゃない。そういう意味では敬語そのものが自虐語であるかどうかは疑問がなきにしもあらずと私は考えています。
しかし現在言われている自虐は自分は正しいがほかの自分と意見の違う人間は反省がないという他者への責任転嫁ではないでしょうか。他者がしばしば国家に対する態度であって結局自分では何もしないで国家に寄りかかっているだけの話ではないでしょうか。そういう意味から「自虐」という言葉は誤解を呼ぶと思います。自虐的なことをいう人間は私財をなげうってでも被害を与えた他人に援助をしているようには見えないからです。
松井康雄様
貴方のお考えのほとんどには賛成であります。
つくる会の、いわゆる自虐史観派に対する論調には、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と言う考えが多分に含まれています。松井様のようなお考えであればさほど問題にされることはなかったでしょう。
つくる会の教科書は、とくに天皇およびその一族に関連する事項については、客観性を欠いているような印象を受けました。
それと、つくる会とは直接関係はありませんが、西尾氏と八木秀次氏の共著である男女共同参画についての著書(書名失念)は、これが大学の名誉教授や現職教授の書いたものであるか、目を疑いたくなるような嘘八百、事実誤認、事実の意図的な捻じ曲げのてんこ盛り。よくもまあ 恥知らずにも素面で天下に発表できたものだと呆れてひっくり返りそうでした。両名の人格を疑いたくなります。まあ人間など一皮向けば誰でも同じようなもの、悪党と変わりゃあしないと思いますが。つくる会の内紛騒ぎもその延長線に過ぎなことと、私の教師をしていた姉を見ても分かりますが、教師などと言う手合いは、唯我独尊、教室ではお山の大将、怖いものなしで、組織的に動く訓練など受けていませんから、すぐ感情的になって後先考えずに動くので、組織を良く知り、根回しに長けたワルが出てくれば組織を乗っ取るのなど容易でしょうね。
松井様
書き漏らしたことがありますので追加します。
>のインターネット日録
自虐ってなんですかね。自らを虐するという言葉尻で捕らえれば一流のスポーツ選手は自分の体をいじめて記録を達成するのだから自虐なのですかね。<
>あるサッカーの日本代表選手が現役引退してサッカースクールのコーチになったそうです。そのときの発言「人の痛みが分かる、人間味のある子供に育てたい」だったそうです。「人の痛みが分かる」ってこれは自虐なのでしょうか。<
私の文章をよく理解できればこういう解釈にはならないはずであります。
>私は会社に入って10年目くらいに大失敗を犯しまして何百億というオーダーの阻害賠償を受けてもおかしくはない失敗をしました。<
入社10年目と言うのを、新卒入社10年目、と言うことだとしますと、30歳そこそこの若造、失礼、にそんなに巨額の仕事を任せるとは、会社の規模自体も巨大でしょうし、一取引で損害賠償被請求額何百億と言うことですと、その仕事自体も総額千億円の桁かそれ以上の額に上りますか。たいした会社ですね、正直驚きました。それも松井様のその分野における才能が人並み外れた天才的なものだったからでしょうね。
>このときやはり上の人間はえらいなと思いましたが、それは私の上司の係長も課長も部長も技術本部長も私を叱責しませんでした。失敗した原因は私にあるので部長や技術本部長には直接責任はないはずです。<
立派な上司を持たれて幸運でしたね。功績は自分のもの、失敗は部下のもの、と言う上司が当たり前になりつつあるこの日本(不二家、雪印乳業、秘書が秘書が、妻が妻が、1億円もの大金を扱ったのに記憶にない、皆さんがそういうのであればそういうことはあったのでしょう、と嘯いた元首相、それをとがめずに不起訴にし、他方では運転免許証の住所変更届を忘れただけで逮捕し、起訴する司法、など無責任体制がはびこっている)で、そのような方々が存在するとは驚きです。
>この上司の態度は自虐なのでしょうか。当時は平和でした。本部長が真っ先になってユーザーに謝罪にいってますます信用されて終わりなのですから。
自虐ではありませんね。私がそう考えるであろうと貴方がお思いになることは結構でありますが、そうお考えになるより前に私の文章をもう一度じっくりお読み願います。
それがおきたのはいつのことか知りませんが、何百億円もの損害を謝罪だけで不問に付してくれたとは、その件で一番偉いのはそのユーザーの最高責任者でしょうね。今だったら、もっと小さな損害でも、相手の責任を追求しなかったなら、社内ではそれで済んでも 株主代表訴訟とやらで取締役の責任追求は必至でしょう。
いい時代でした。
>恥しらずさん
新・国民の油断のどの箇所が事実誤認、嘘八百、事実の意図的ねじ曲げにあたるのか、具体的にお示しください。
そうでなければ、単なる悪口のレッテル貼りになります。
今後もこのような投稿では掲載はお断りすることになります。
恥知らずさんご返事ありがとうございます。
批判するために書いたわけじゃないのですが、やはり私の人徳のないからなんでしょう。おそらく大まかには私と貴方は共通の土台が存在することが確認できたと考えています。
自虐の話を続けたいのですがいいでしょうか。
私自身は日本の庶民文化の生活様式の多くは江戸時代に作られたと考えています。西尾先生にいわせると生活様式は文化ではないそうですが、やはりこれも文化だと思うのです。実際に庶民の日常行動を規制しているのだから文化じゃないとしたらなんなのだと頭の弱い私には理解不能な事態になってしまいます。
自虐という意味をすべての原因を自分へ転嫁することによって心的な問題解決をしてしまうという意味では江戸時代に作られた文化は二つあると思う。もしかするとまだあるかもしれない。
ひとつは浄土真宗の教えで妙好人伝というものがあって、これはWEBなんかでみていると10年以上もまえに出ていたものが消去されていますが、当時の考え方は極論すれば「足を踏まれたのはそこに足を置いた自分がいけないのだ」、「人ごみのなかに入っていった自分が悪いのだ」とでも考えることによって心的な問題を解決してしまう考え方を教えたものです。これが江戸時代の特有の環境条件で作られたものかどうかはわかりませんが、原因はすべてをひとつに転嫁することはまず無理でしょう。逆に言うとすべて自分が悪いのだと思ってしまえば問題は心的に解決してしまいます。
こういう生活習慣というのは身についていますからつい意識していないと行為として現出する可能性は常にあるわけです。私が驚いたのは西尾幹二の著作で「人生の価値について」という本があり、実はこの本は先生からいただいたのですが感想でさえ書いていません。普段はそんな失礼なことをしないのですが、本の巻頭言の自由についての論説を読んでいたらそこで引用されているギリシャの奴隷哲学者の考え方がありゃこれは思考のパターンが「妙好人伝」と同じだなと思った衝撃ゆえです。
西尾先生が自虐だといっているわけじゃない。心的に自由を得ることによってという点が同一パターンだという意味です。もちろん本での自由はもっと自由の重みや苦しさを書いているのでしょうが、この衝撃が激しくてお礼の手紙でさえ書けなかったわけです。
もうひとつは江戸しぐさといわれている生活習慣です。
最近も本が出版されています。
相手に対する配慮が無条件に絶対化すればそれは自分への転嫁になりえます。
一例がWEBにありました。
1.忙しい、忙しいと言うな
忙しいとは心を亡くすこと、決して自慢できることではない
2.そんなに偉い方とは知らずにと言うな
偉くない人には無礼をしても良いのか
3.知ったかぶりをするな、見てわかる事を聞くな
知らないなら知らないと言った方が良い
4.人の話を真剣に聞くときにメモをとるな
メモを取ると話す人の気が散る、聞く人の真剣味が減る
5.自分と違う意見をないがしろにするな
意見が違うから参考になる
6.はい、はいと二度返事をするな
一度目は了解、二度目は迷惑
7.感情を逆なでする言葉を使うな
聞く人の気分を害する
8.人の意見を無視する言葉を使うな
話している人は真剣だ
9.人に行き先をむやみに聞くな
プライバシーを尊重せよ
10.相手を卑下するな、威張るな
そんなに自分が偉いのか
11.三脱の教え。初対面の人に年齢、職業、地位を聞くな
聞いて付き合い方を変えるのか
12.人と会っているときに足組み、腕組みをするな
自分を誇示する印象を与える
13.紹介者を飛び越えて親密になるな
紹介していただいたことに感謝せよ
14.打てば響く心意気を持て
説明しなければわからない輩とは付き合うな
15.何をしてもうわの空の人とは付き合うな
いつでも真剣勝負、些細なことでもないがしろにするな
16.口先でなく目で人を判断しろ
表面的な言葉では判断できない、本質を見よ
17.三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる
江戸の稚児の段階的養育法。三歳までに人間の心の糸をしっかり張らせる。六歳までに躾を手取り足取りまねさせる。九歳までに人前でお世辞のひとつも言えるくらいの挨拶が出来るようにする。十二歳には一家の主の代書が出来るようにする。十五歳で森羅万象が実感として理解できるようにする。
ここの8でも「相手の気分を害するな」が絶対化すれば相手がいやだと思うことはいわないほうがよくなりますな。相手がどんな不法であっても譲歩しろというまるで山崎拓氏のようになるわけだ。
世界有数の大都市江戸でかつ庶民の人口密度は現在の豊島区の三倍はあったといわれている都市で楽しく生活を庶民は送っていたわけだ。そしてその根底には西尾先生が文化でないと書いた生活習慣化したものがあったのでしょう。
もしも恥知らずさんの論説の趣旨に沿ってこのサイトの自虐の論説批判を考えるなら第一に西尾先生のいわれている生活習慣は文化でないというところから見ないとだめではないでしょうか。一番いけないのはないことにしてもそれはますます強固に自分を規制します。だって生活習慣って考えないで行動できるまで身についているのですからそれをないことにしても問題はますます潜在化して原因がつかめなくなるからです。
自虐の件を一般論でいうと日本的生活習慣で相手に接してはいけないことを無自覚でエリートたちがやっているのが問題ではないでしょうか。裸になれば誠意が通じる世界でもなくまたうそをつくのは国益上当然の世界に私らは生きているわけです。だからといって日本人の多くはだますよりだまされるほうがまだまともだと判断して後で痛い目にあうのでしょう。かといってその解決手段は闇の中に隠れてしまっているわけです。