江戸のダイナミズムに寄せて(六)

guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

  当日のパーティー参加者には吉田先生の読者が想像していた以上に多く、挨拶された諸先生の中で一番、読者が多いのではないだろうか、と思えるくらい、あちこちで、「今日は吉田先生が挨拶されるんだ」という声が聞こえてきました。
  
 私にとって神話解釈というのは、気にせず通り過ぎようとすると何となく気になってしまい、どうしようもなくなり、逆に集中しすぎると現実がみえなくなってしまう、まことに厄介なものでした。レヴィ・ストロースの構造主義的、あるいは記号解析的な神話解釈は私の頭が追いつかず、フロイトの神話解釈は新たな神話つくりにしか思えない、そんな私のジレンマの中で、吉田先生の本はたいへん明晰な形で私に神話解釈の世界を与えてくれるものでした。
 
 ロラン・バルトに、「神話とは語源そのものであり言葉そのものである」というくだりがあったと記憶しますが、つまり、言葉・語源と言い換えていいような、私達が生きている現実世界の根幹を、あますところなく説明してくれるものとしての神話解釈の世界が、吉田先生の著作の最大の魅力です。日本神話の造化三神から「無為の中心」を、さらにそこから日本人の和の精神を説明されたり、あるいはアマテラスの忍耐強い性格に、世界の皇室・王室でほとんど唯一とさえいえる日本の皇室の伝統的な温和な性格の起源を明らかにされる。吉田先生の神話解釈はバルトの言葉に忠実に、常に現実を説明してくれるもので、ゆえに多数の読者を獲得しえている、ということがいえるのではないでしょうか。
 
 ポストモダン思想ブーム華やかなりしころ、私は大学生になりたてでしたが、ニューアカデミズムブームに乗る学生達の多くは、中沢新一さんや山口昌男さんたち「流行」の神話解釈モデルに乗っかって、吉田先生を読む私を「地味」呼ばわりしていたことを思い出します。私は意地になってでも「吉田派」でなんだか自民党の派閥みたいでしたが(笑)、私に言わせれば、現在や自分にかかわりを持たない神話解釈学はどうでもよくて、日本人の素朴な表情を説明してくれるものはどうしても吉田先生の著作の方であり、神話と現実を橋渡しし「過去を行為」しようとする学問的精神のいったい何処が「地味」なのか、と何度も思ったことを憶えています。
 
 出版記念会の後何日かして、吉田先生の本を斜め読みしていて、「崇めることは、これはもう人間がそれなくしておそらく生きていくことができない、人間の文化が成り立ちえないような肝心なことであると思うわけです」(「神話のはなし」)、というかつて読んだ一節をみつけました。これは吉田先生の当日のスピーチの内容に、意外なほど近い内容ではないかな、と思いました。つまり、ニーチェの文献学批判や、宣長の解釈方法に近いお考え、ということです。

 今から考えれば、吉田先生の方がニーチェや宣長のある意味での激しい精神に近く、逆に流行理論をもてあそんでいた私の知己の方が、ニーチェや宣長の批判対象になるような硬直性をもっていたのではないかなと、私は思います。

つづく

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