渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
西尾先生の「ニーチェとの対話」でモンテーニュの「私は非常に単純な歴史家か、または群を抜いた歴史家が好きだ」を引用されたくだりがあったと記憶します。モンテーニュの言いたいことは、歴史観における健全な主観主義と客観主義は、歴史家において稀少な両者にしか生まれず、歴史観を破壊してしまうのは、この三流と一流の中間にあって、客観主義を装いながら凡庸な主観主義を駆使している二流の歴史家だ、ということなのですが、大学時代の知己で、少なくない同年あるいは同年に近い出版業の人間と話すとき、私はいつも、このモンテーニュの言葉を苦々しく思い浮かべます。
大概の私の出版業者の知己は「こういう本もあってもいいのではないか」という私の見解を素人呼ばわりし、出版不況の現状を知らない空論だというふうに言われてしまいます。私の見解が素人なのは事実だとして、では、出版者としての彼らの職人意識に、マーケットメカニズム以外のどういう見識が存在しているのか、というと、実に情けないものしかもっていない場合がほとんどです。大体、不況といいながら、出版不況の原因が、自分達出版人であるかもしれないという謙虚さが全く感じられない。さらに不思議なのは、純粋にマーケットメカニズムに徹しているかというとそういうことでもなくて、こういう友人に限って、どう考えてもおかしな出版計画や雑誌企画を思い描いていたりするんですね。
もちろん、モンテーニュが言ったのは歴史認識の問題であって、出版業界の話とは全く関係ありません。しかし、認識における「主観」と「客観」の図式に拘りすぎて、「客観」主義の立場を「マーケットメカニズム」主義に一致させつつ、その内実はいろんな主観主義の悪戯をして出版界を疲労させている、というのがこの日本の言論界の現状なのではないだろうか、と私はお門違いを承知で、モンテーニュの言葉を飛躍させて考えます。歴史家と出版人において、共通点を見出してしまうくらいに、私は認識における職人意識が嫌いで仕方ないのです。
モンテーニュが言う「単純な歴史家」は、自分達のできる範囲で読者に誠実に良書を提供しようとする地味だけれども忍耐強い出版人、「群を抜いて優れた歴史家」は、絶えず斬新で的確な出版計画や雑誌企画を有しつつ、むしろそうした斬新さがマーケットメカニズムを変えてしまうような、実は評論家としても一流な出版人、そういうふうに平行移動して私はモンテーニュの言葉を理解しています。
言うまでもなく文藝春秋は「群を抜いて優れた歴史家」に該当する出版社です。1930年代という難しい時代の「文藝春秋」のバックナンバーを読むとそのことがよくわかります。世論がドイツとの同盟賛成に急傾斜しているとき、「ナチスは日本に好意をもつか」という鈴木東民氏の論文を掲載し、あるいは近衛文麿に対するこれまた世論の急傾斜に対し、近衛の革新思想被れを厳しく指摘する阿部真之助氏の論文を掲載したりしています。もちろん、これらは、反体制というイデオロギー依存の形での懐疑から生じたものではなく、この日本にあって、この日本でしか生きられないという前提を決して動かさない上での懐疑主義ということであって、その良心はずっと文藝春秋において、維持されているということができるのでしょう。
そういう意味で、乾杯の音頭を文藝春秋の社長氏がとられることは、西尾先生の今回の著書の出版元であったという以上に、西尾先生の著作の良心を象徴することに相応しいことだったように私には思われました。
二次会のレストランで、私の隣席だった方は、一般的にみて、あまり有名でない出版社の社長氏でした。しかしとても腰の低い見識豊富な人物で、私の知己に多いような二流の職人意識をひけらかしたりする出版人とは正反対の人物でした。「単純な歴史家(出版人)」か「群を抜いて優れた歴史家(出版人)」のいずれかはわかりませんが、モンテーニュが賞賛する人物であることは間違いないように思われました。「西尾先生の本を私のようなところでもいつか出版して、いろんな方に読んでいただきたいのですよ」と繰り返し言っていらっしゃいました。
私は西尾先生がかつての著作で「自分の本当の姿はさほど有名でない哲学誌や文芸誌に載っていたころにこそある、とさえ思っている」という言葉を思い出して、「そのうち必ず、その機会がやってきますよ」と、だいぶ酔いのまわってしまった口で話したら、その社長氏は本当に嬉しそうな顔で頷いておられたので、ちょっとだけいいことしたかな、と当日の楽しい宴の小さな満足感の記憶になりました。
たしかモンテーニュでしたかね、人生の時間と記憶の比較について述べられたものがあり、西尾先生は、よくその件を語られる事があります。つまり、人生を振り返ったとき、忙しい時間を過ごしたときはあっという間に時間が過ぎるが、暇な時間の場合はなかなか時間が進まないイメージがある。ところが過去を振り返ると、忙しい時の記憶はたくさんあるのに、暇な時の記憶は皆無に近いと・・・。
この着眼点はなかなかです。
人間の人生の原点を振り返させてくれるような、重い言葉です。
西尾先生の人生はいったいどんな時間の流れであるのか、大変気になるところですが、一般人にとっては忙しく感じるような事でも、たぶん先生には退屈なものに感じるのではないかと思います。
しかしおそらくモンテーニュは、個人差はあることを当然考慮して述べているものと捉えるべきで、個人間の比較は関係ないのでしょう。
つまり自分がどんな時間の使い方をしているかは、その当事者の勝手な思い込みであることは間違いないので賞が、結果的に記憶に深い時間帯は充実していたと判断できるという解釈が正しいのかもしれません。
そうした自覚を心の片隅に置きながら、人生を歩みたいという希望的観測を促すものと言えるかもしれません。
良いも悪いも記憶に残る時間帯を残す努力こそ、価値があると言えるのでしょう。
それにしてもやっぱり西尾先生の生き方を見ていると、講演や執筆のスケジュールを見ただけで、驚嘆せざるをえませんね。