西尾幹二の7月の仕事

1、評論  「教育再生会議」有害論
  Voice 8月号(7月10日発売)
  7月号の「『教育再生会議』無用論」
  につづく第2弾。無用論は道徳教育をめぐって論じたが、
  有害論は学校選択制の根本的間違いを問い質す。

2、対談  「文明」に名を借りた戦犯裁判の欺瞞
  川口マーン恵美さんとの対談。
  正論 8月号(7月1日発売)

3、放送  オランダのインドネシア侵略史①7月3日 ②7月31日
  文化チャンネル桜「GHQ焚書図書開封」第12・13回分

4、出版  国家と謝罪
   ――対日戦争の跫音が聞こえる――
  徳間書店、約320ページの評論集。7月25日店頭。

5、出版  日本人はアメリカを許していない
  ワック出版。解説高山正之氏。7月末日刊行。

夏には外国旅行も計画しており、少しゆっくり内省したいので、このあとしばらく休憩します。また秋に活動を再開します。

「西尾幹二の7月の仕事」への5件のフィードバック

  1. ピンバック: サムライブログ
  2. あげられた西尾先生のお仕事の中で、まず、川口さんとの「正論」での対談を拝読しました。
     西尾先生も川口さんも、ドイツを中心としたヨーロッパを生活経験のレベルから知り尽くされていることが言葉の背後に感じられて、そのことがお二人の勉強熱心と同じくらい、比較論を重厚なものにしていると私には思われました。

     たとえば日独戦犯の比較ということで、お二人と実に対照的な、軽薄なヨーロッパ理解を繰り返した丸山真男さんに対談で言及されていますが、これなど、ヨーロッパを体感されている人でないとできないような、たいへん参考になる指摘が幾つもあります。

     丸山真男さんのヨーロッパ理解の根本的な浅さ、一例としてのゲーリングをはじめとするドイツ戦犯への過大評価の誤謬については、かつて哲学者の加藤尚武さんが徹底的にそれを指摘して論壇にセンセーションを巻き起こし(加藤さんの偉いのは丸山さんも丸山伝説も健在なときにそれを行ったことでしょう)丸山さんの偶像を鮮やかに引きずりおろしたのですが、今回のお二人は、戦犯裁判に的を絞り、丸山さんに代表される戦後民主主義派の誤りを、加藤さんの指摘からさらに踏み込んでいるところがあります。

     たとえば川口さんは、丸山さんの言っているような(安易な)ナチスの計画性の賛美をもしドイツで翻訳発表されたら、これは反ナチス法にひっかかり、逮捕される可能性がある、と言います。実に痛快な指摘といえますが、このことからどんなことが連想されるかというと、丸山さんはいったい誰に向かってものを書いていたのか、ということになるのではないかと思います。ヨーロッパを不当なほどに賛美しながら、その賛美がゆえに、そのヨーロッパで摘発される可能性がある、ということは、「言論」として、あまりにもブラックユーモア的といわなければならないでしょう。所詮、ヨーロッパを語りながら、ヨーロッパの生々しさ、毒々しさをほとんど体感できていないから、言説がリアリズムをもつことなく、言説とその対象の間に、ブラックユーモアを形成してしまうのです。

     結果、お二人が冒頭で指摘されているような、ドイツでは、東京裁判はおろか、ニュールンベルク裁判裁判も学校教育でおこなわれない、という、ドイツ人の巧妙きわまりない戦後処理に、丸山さんをはじめとする戦後派知識人の大半が気づくはずもない、ということになるわけです。西尾先生が指摘されるように、「ナチスが有罪」であり「ドイツ人は無罪」であるという構図を完成させるために(ホロコーストと戦争犯罪の区別に当惑しつつも)戦後ドイツ人は、ほとんど冷たく論理的といっていいほどの狡猾をもってきたわけですが、丸山さんの本の何処をひっくりかえしても、この件に関しての事実指摘も、また事実指摘を匂わせるような思想的指摘も見出すことはできません。このドイツの狡猾さは、丸山さん的に言うと、進歩していないから日本人が身についていないものなのでしょうか。
      
    これは戦後派知識人や戦後文化全般についていえることであって、西尾先生は以前、「ヨーロッパ人は日本と違い一般民衆もみんなハイレベルな読書をしている」といった中根千枝さんの言説をとらえて、「ヨーロッパ人の一般人のレベルはとてもそんなものではない」と批判されましたが、丸山さんにせよ中根さんにせよ、「ヨーロッパは進歩している」というレンズでしかものをみられないこと、あるいは「進歩」をあくまでスマートな美的概念でとらえて「狡猾さ」ということと矛盾的なものととらえることは、連合国やドイツの戦後処理の狡猾さを見逃す精神的理由を形成してきた、といわなければならないでしょう。

      こうしたことを前提にして、この対談で私達がこれから一番考えるべき主題は何か、ということになると、やはりそれは西尾先生が指摘される「文明による裁き」あるいは「歴史による裁き」という概念を強引に持ち込んだ連合国、とりわけアメリカの悪辣さを認識対象にして、私達の歴史観や世界観から、その悪影響を脱色しなければならない、ということになると思います。対談で引用されているニュールンベルク裁判のジャクソン検事、東京裁判でのキーナン検事の冒頭陳述の言葉は、おそるべき意味において、実に歴史的なものと考えなければならない、と思いました。

      従来の東京裁判史観批判の大部分は、「東京裁判は復讐裁判である」というものでした。それは確かにその通りで「復讐」を裁判や国際公法に持ち込むということは前近代的に実に野蛮であるとは思いますが、しかし裏返せば、このような残酷で無論理的な復讐劇は、人類史のあちことで繰り返されてきた、理解しやすい悪しき伝統、ともいえます。言い換えれば「復讐」はいけない、復讐する側と復讐される側の双方に言い分があるのだ、という穏当な歴史観を思い出すことで、復讐裁判は否定することができる。しかし「東京裁判は復讐裁判だった」という否定の可能性の後を見越して、さらにもう一度、東京裁判を肯定するようなロジックを、ジャクソンやキーナンはすでに準備していたわけですね。このことが二人の対談で、たいへんに新しい認識として体得できたように思います。

     「復讐裁判」ということと「文明による裁判」ということは根源的には別のもので、前者の面ばかり見つめてきた従来の東京裁判史観批判は、どうも東京裁判の根源を言い当てていないような不満を私はもってきました。「文明」や「歴史」を持ち出すことは、民族や国民国家の復讐を遥かに飛び越えて、「神」の視点の登場(虚構)を意味することになります。そして実はこれに類似した概念設定を、戦犯裁判においてだけでなく、歴史観、文明観、世界観、様々な「観」に持ち込み続けたのが戦後世界のアメリカの知的戦略、ということになるようにと思います。ここに、ドイツ人の狡猾な戦後処理も顔負けの、連合国とりわけアメリカの、悪辣きわまりない、「裁判」の意味づけがあった、といわなければなりません。二次大戦の戦時の日本人がいくら悪しく主観的であったとしても、「神」の視点を虚構しようなどとは思いも至らなかったことはいうまでもないでしょう。

      ドイツにせよアメリカにせよ、戦後日本人がのんびり考えてきたような「進歩」的な文明人ということとはほど遠く、自国の利益の為なら歴史を改竄したり「神」の視点を虚構するのも平気の平左な人達なのだ、ということなのでしょうか。こうした国々と日本のどちらが進歩しているのか、と考えること自体が意味のないことで、そういう意味で、日独戦犯論の問題というのは、日本人の欧米観の再編を促す問題である、とお二人の対談を読んで感じた次第です。 

  3. 思想と思想史ではなく、思想と哲学 ― 哲学も西欧的偏見とも云ふべきものですが、それを論駁する理論が存在しない ― を区別しなくては!

    日本には古来から哲学がないと云ふ中江兆民の言葉や、日本には思想と云ふ曖昧なものはあるが、哲学はないと云ふことを中島義道も丸山真男も云ふのはそのせゐです。

    日本に(西欧の)哲学など無いのは当たり前だらう、何と陳腐なことを云ふのかと思つてゐましたが、段々と我々に缺けてゐるのは将にそのこと(背景になる原理がない)だと分つて来ます。それは知識だけを伝へ論理的訓練をしないで個人の才能に任してゐる日本の学校教育の缺陥です。

    一般の西欧人は別に難しい本を読まなくとも、信仰告白や告解などでも社会的に訓練されてゐて、普遍的論理が生活経験として生きてゐます。それは外国に行けば誰でも嫌でも経験することで、ナチの末端にもそれが現れるのでせう。

    西尾幹二も日欧の比較ではなく原理を求めるのだと理解します。
    少なくともその共通の背景tertium comparationisが明らかにされるべきです。

    哲学もないのに思想や反哲学がある、そこに何処かに実在する(はずの)手本の物真似に過ぎない現代日本が、中国とも北朝鮮とも対抗し得ないし、自己満足だけで世界の何処でも相手にされない、一番の理由があると思ひます。
    原爆投下が世界中で非難されてゐるのに、米国に謝罪も求めない日本は国際社会から卑しめられるだけでなく、これから脱落して行くのでせう。

  4.  久々に町に出た。家に閉じこもりきりじゃあ、書けるものも書けなやしない。最後に喋った言葉も思い出せない。というわけで、駅前のエスパに出かけた。たまには鰻でも食べるか。

     レストランで母と娘の親子がおいしそうに鰻丼を食べている。娘は小学校二年生くらいである。一瞬ギョッとした。娘の頭にウンコがくっついている。よく見ると茶髪だ。どうして子供が茶髪なのだろう。娘が小遣いで買ったのか。まさか。悪戯して母親の染髪料を使ったのか。それなら親が怒るはずだ。とにかく気分が悪くなったのでレストランを通り過ぎて本屋に寄った。いつもの立ち読みである。

     新刊書がこれでもかといわんばかりに山積みになっている。毎度のことながら面白いと思う本がない。本当にない。突き当りの壁には文庫本や新書が並んでいる。あった!「個人主義とは何か」を見つけた。レレレ!これ「ヨーロッパの個人主義」と違うか?そうだ、同じだ。あの黄色いカバーのは、引越しを繰り返して無くしてしまった。

     後書きを読んだ。私は本を手にすると、先ず目次を読む。その次に著者略歴、それから後書きの順である。いきなり本文は読まない。後書き、レレ!以前ブログに投稿した自分のコメントの一節が載っている。恥ずかしさ三分、嬉しさ七分。どうしようか、買うか。

     昔、あの黄色いカバーのを手にしたあの日。ヨーロッパ・・・個人主義・・・。魅惑的なタイトル。この本を読めばきっと自分は個人主義者になれる。そして買った。個人主義者にはなれなかった。でも、宝物を手にした。「こんなことを言える男がいようとは!」という印象を受けない限り本は買わないという信条を身につけたからだ。そして、新しいカバーの本を買った。文化論などではない「精神のドラマ」を読み返すのだ。

     西洋に対する日本人の態度は今も変わっていないと思う。西洋人のほうが進んでいる。いや日本はとうに追い越している。いや、西洋はもう模範とすべき対象ではない。にもかかわらず、大多数の日本人は、西洋人の生き方、西洋人の生活態度など微塵も考えようともしないで、ただ忙しくあくせく生活している。夜の10時に東京の電車に乗ると、つかれきったサラリーマンで満員である。幸せそうな顔をしているものはいない。ドイツでは夕方4時半から帰宅ラッシュである。家族で夕飯を食べるのである。

     レストランではまだ茶髪の親子が鰻丼を食べていた。ドイツの女は黒髪であっても茶髪にはしない。日本が西洋を模範としないならあの茶髪はなんであろう。気づかれないようにそっと前に回って母親の顔を見た。オランウータンであった。

     ご飯は駅のそば屋できつねうどんを食べた。茶髪に囲まれては、メシもノドを通らない。猿に始まって狐に終わった外出であった。

     

     

  5. ピンバック: なめ猫♪

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