荻生徂徠と本居宣長(五)

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江戸時代に起きた「言語文化ルネッサンス」
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長谷川  : 『江戸のダイナミズム』では、「国学」と「儒学」という、ある種、対照的な性格の思想を並べ置き、そこにもう一つ「仏教」という思想をもってきて、三本柱のかたちを取ろうという構想があったようですね。ただ残念ながら江戸時代には、徂徠や宣長に匹敵するような仏教家の人材がいない。ここに出てくる富永仲基では、ちょっと力不足ですよね。もし鎌倉時代まで遡ることができれば、道元がいます。少なくとも道元は、西尾さんがおっしゃる「偉大な思想家というのは実に単純なことを言っている」という条件にピタリと当てはまると思うのです。

西尾  : どんな単純なことをいっているのですか。

長谷川 : いちばん有名なのが『正法眼蔵』の第一巻「現成公按」の巻の「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という言葉なのですが、これはどういうことなのかというと、仏道だ、仏法だと、世の人々はなにか遠い国の珍しく有り難い教えを学ぶのだという意識でいるけれども、それではダメだ、ということなのです。仏道の基本はとても単純なことなので、自己がいかにして自己でありうるか――自己の探求こそがその核心なのだ、と道元は考えます。自己ほど不思議な謎はない。お釈迦様が探求し、悟った真理も、この自己という奥深い問題以外ではない、という考えなのです。

 もちろん、ここにいう「自己」は、たんなる「自我」とか「意識主体」といったものではない。むしろ、森羅万象がそこに映し出される透明なスクリーンのようなもので、だからこそ彼はすぐに続けて「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」というのですが、いずれにしても、ここで語られている「仏道」は、哲学的探求そのものといってもよい知的な営みです。先人の言葉をただ(それこそ)「お経」のように唱えて有り難がるというのとは対極にある知的冒険なのです。

 ですから、道元の仏道にとっては、文献学などというものは、まったく枝葉のこととなります。その昔、お釈迦様が悟りを開いたという事実があり、その体験の皮肉骨髄が師から弟子へと師資相承(ししそうしょう)してゆくということが大切なので、言葉というものも、それをつかみとる手掛かりとして、初めて意味をもつものだ、という考えです。道元ほど「偉大な思想家」の名にふさわしい日本人も少ないでしょう。

西尾  : 道元の「自己」は自我でも主体でもなく、自己を抜け出た超自我のようなものでしょうか。私にはよくわかりませんが、徂徠にも宣長にも神秘主義はあります。ただ長谷川さん、『江戸のダイナミズム』が対象としたのは「学問」なのです。「歴史」の学問なのです。いきなりストレートに「宗教」ではないのです。宗教的なところにまで届いた学者たちなのです。そういう限定を踏み外さないように論述しました。

 それから言語音韻学の面で江戸の学問から橋本進吉あたりへ強いインパクトを与えているのは、むしろ空海です。ですが道元を提出された貴女のモチーフはわかりますし、大切なポイントで、私にとっては次の課題です。たとえばこの本でいえば、ゲーテを例に挙げるとわかりやすいでしょう。ゲーテはホメロスがつくり話であろうと何だろうと、ともかく真っすぐホメロスの懐に入り、そこから生命が伝わり、それがゲーテの血肉になる。それで十分であり、テキストの混乱は考える必要がないという態度でした。道元もおそらく同じ態度を示したでしょう。

 宗教家にとってもテキストの真贋などどうでもよいのです。文献学など糞食らえです。ゲーテも同じでした。しかし面白いのは、文献学を吹き飛ばしてしまうような、そのような感覚を、徂徠も宣長も抱いており、江戸時代の日本で花開いた。私はこれを「言語文化ルネッサンス」と考えます。ただの平板な学問ではなく、一種の破壊的創造です。

 すでに述べたように、17世紀にヨーロッパでも中国でも言語に対する危機感が高まり、古代の文字体験に遡ろうとする運動が起きたのですが、同じことが日本にも起こった。日本では7世紀に中国から文字が入ってきました。日本語が存在しているところへ、中国文化を学ぶために無理して中国語を学んだという原体験がある。と同時に『万葉集』の編纂が行なわれ日本語が確立しています。この「中国語から日本語へ」というのと同じドラマが「儒学から国学へ」という流れで、徂徠と宣長のあいだになされたのではないかと思っています。

 最初に話題にしたように、とにかく徂徠は7世紀の日本人が初めて中国語に出合って驚いたときの体験を回復し、初心に戻りたいという激しい情熱を抱いた。したがって弟子たちにも返り点を打って漢文を読んではならないと、白文しか読ませなかった。

 日本語としてではなく、中国語として読む。それが7世紀の日本人に戻ってみるということで、その原体験が宣長につながっていくのです。私にいわせれば、これはただの言語の学問ではなく、形而上学的表現でした。「中国語から日本語へ」は日本人の信仰の原型だったのです。

長谷川 : それがはっきりと表れているのが、『古事記』の序についての宣長の解説ですね。この序は純粋な漢文で書かれていますが、だからといって捨て置いてはいけない。ここで語られている中身は、非常に大事であるという評価を宣長はしています。

西尾  : 『古事記』の編纂者である太安万侶は練達な漢文の書ける人ですから、「全文漢文で書いたほうが早い」というぐらいの認識だったと思います。ただ日本の大和言葉の音を尊重しているので、音をそのまま再現したかった。とはいえ漢字しかありませんから、漢字で記すしかない。そのため注釈をつけるなど、さまざまな工夫をしています。こういう読み方をしろとか、ああいう読み方をしろとか。

長谷川 : 小さな字で細かく指示していますよね。

西尾  : そういう努力をしているから、いま私たちが発音している音と同じような音で読める。実際、読んでみると不思議でしようがありません。たとえば「国稚くして浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時に」という部分で、「稚くして」というのは訓読みですから、これは漢文です。しかし「くらげなすただよへる」は「久羅下那州多陀用弊流」と表記し、「音で読め」と注釈をつけている。

長谷川 : このような注釈の付いた文章を読んだときの宣長は、単に古代のものを発掘しているというのではなしに、太安万侶に自分の“同僚”を見るような意識が生じていたのではないでしょうか。当時すでに、音だけが言語であった日本の古代の言語世界は崩壊の危機に瀕していました。放っておけば失われてしまうもっとも大切なものを、いま自分は救い出そうとしている――そういう切羽詰まった意識が『古事記』の表記からも、その序からもうかがわれます。そこに宣長は、ピンと相通じるものを感じたのではないか・・・・・。

西尾  : おっしゃるとおりだと思います。ある種、盟友に接するような感じがあったでしょう。

長谷川 : それに支えられながら、『古事記』を読み解いていったような気がします。

つづく

「荻生徂徠と本居宣長(五)」への2件のフィードバック

  1. 今日は80件もスパムコメント?が来ました。

    毎日、外国からです。よほど、西尾先生のブログを潰したい様子です。
    彼らは決してあきらめません。
    彼らは情報戦の一環として、敵対するものを潰そうとしているのですね。

  2. 「ルネッサンス」という言葉は普通は「文芸復興」という言葉で使われる場合が多いですが、西尾先生は言語文化の文字体験の原初への破壊的創造、というふうに「ルネッサンス」の意味をとらえて、江戸時代の「言語文化ルネッサンス」という独自の言い方をされていますね。
       
      西尾先生は長谷川先生に、「江戸のダイナミズム」は「宗教」をストレートに対象にしたのではなく、「歴史」の学問を対象にしたのだ、と言われます。「歴史」と「宗教」は非常に違うもののようにみえて、実は決定的に類似した点、意味の原初に立ち返らせてくれる力を同じく有しているという思想的原理(といっていい)を思い出します。
      
      ゆえに、「歴史」も「宗教」も同じく、神話に関心をもたずにはいられない性格をもっています。言うまでもなくいくら合理主義を敷き詰めても、意味の原初を説明しつくすことはできない、からですね。そして西尾先生が言われるように、宗教家にとって、「合理主義」の道具である文献学はどうでもいいし、どうでもいいと考えるのはそれほどむずかしいことではないんですね。言い換えれば宗教の本質は絶えず「ルネッサンス的」なのであり、その超合理主義をすぐ手にできることが、宗教の魅力でもあるし、軽薄さでもあるといえます。しかし「歴史」の学問を営為する人間が、こうした超合理主義の段階に到達するのは容易なことではない。膨大な文献が、彼らの前に立ちはだかるからですね。
     
      これは歴史や宗教に対して、一見すると無縁に過ごしているほとんどの人間にとっても他人事ではないように思えます。こう考えるのはとんでもなく飛躍かもしれませんが、私達は誰しも、自分の人生に対して、自分の存在の原初への関心を激しくもっています。しかし原初から今までに生じた様々な経験が、私達のあるべき関心を邪魔していってしまう。既成化して私達を縛り付けることにおいては、文字(文献)も事実化した人生経験も、何か共通するものをもっているように思います。文字の背後を読め、というニーチェの文献学批判の言葉ではないですが、人生経験の事実の背後の何かを読み込まなければ、私達は決して自分の「神話」にたどり着くことはできない。「子供はみんな、哲学者である」と西尾先生はかつて言われましたが、大人になると人間はみんな文献学者になってしまうのでしょうか(笑)

       言うまでもなく国語や国史の編纂を余儀なくされた七世紀の文化上の大変動は、日本における「意味の原初」の一つといえます。もちろん原初といっても、日本語の始まりそのものでなく、日本語は縄文時代からゆっくりと独自に生成してきた。しかし白村江の敗戦以降、中華世界への対抗意識をアイデンティティとしなければならない、しかし対抗するがゆえに徹底的に学ばなければならない、という二律背反的状況の中で起きた中国語の学習ということは、最重要の日本語の原初風景の一つといえましょう。そこには中華世界に対抗しなければならないという「危機意識」もあったのですが、七世紀の国語編纂者に、「音」だけで崩壊の危機に直面していた日本語への危機意識があったのだ、という長谷川先生の指摘をここで考える必要があると思います。

       「危機意識」から考察する、ということが日本史や日本語を考える上での大切なヒントになるのでしょう。西尾・長谷川両先生は、太安万侶と本居宣長が時代を隔てて、国語への危機意識を共有していた、といわれていますね。「危機意識」というのは別に江戸時代の中に起こったのではなく、江戸時代後半以降のナショナリズムの雰囲気の台頭など、明治時代以降も何度も、「危機意識」は私達日本人を襲ってきて、その都度、「ルネッサンス」が起きていると解釈することもできるように思えます。近代以降の日本は、何だか危機意識の連続のようにも読めます。司馬遼太郎さんあたりは軽々と、「日本人はドイツ人と同じく危機意識の強い民族だ」と言い切ったりしています。しかし問題は危機意識とは何か、ということですね。

       欧米各国のアジア侵攻に対して、中国文明との提携を通じてそれに対処する、などという主張が右翼思想に現れたりします。本来、こうした類のことは、政策的に対処すべきことであって、日本人そのものの危機ということとは別のことだ、という思想的冷静さが、あって然るべきだったのですね。「危機意識」や「ルネッサンス」の空回り的な連続ということは、「宗教」のマイナス面ということを連想させるもののように、私には思えてきます。

       「原初への関心」が禁欲されたまま、危機意識が強化されればされるほど、七世紀に起きた言語文化のドラマは忘れさられていきます。明治以降の様々なナショナリズムのムードの出現の中で、「言語文化のルネッサンス」がほとんど起きていない、ということは、危機意識の連続ということが実は擬似危機意識の空回りであって、近代日本の精神史の意外な脆さに直結しているように思えます。そうした近代日本人の禁欲は、いったい何のなせる業だったのでしょうか。「文献学」や「人生経験」のような、「合理主義」が何かの形になって、近代の日本史に色々立ちはだかったのでしょうが、しかしその正体を一つ一つ見極めるのはなかなか容易なことではないように思えます。 

        14世紀のイスラムの大知識人で、社会学・人類学の祖と言われるイブン・ハルドゥーンが「自分は20歳まで本を読んだが、後の人生ではもう読まないようにした」と実に面白いことを言っています。もちろん、別に本当に彼が本を読まなくなったのではないのですね。20歳より前の知的体験というのは、誰しもそう簡単に遡れるものではない、ということです。イブン・ハルドゥーンが言うのは個人の人生・知的体験についてですが、七世紀の日本人に戻ってみて、その体験が宣長につながっていく、という西尾先生の「形而上学的表現」という言葉をここで私は思い出します。時代や時間を超えて「驚き」という「意味の原初」の一つに出会うということは、確かに形而上学なのであり、ここにおいて、やはり「歴史」と「宗教」は不思議なほど接してくるのですね。

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