「いじめ」考

 

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、警察の雑記「BAN」(2007年9月号)に載った、西尾先生の文章です

 子供の「いじめ」が深刻視されています。政府の教育再生会議でも取り上げられ、新聞が会議のうろたえぶり、いじめた子の「登校停止」を提案したり、またすぐに八方おもんばかってその提案を引っ込めたりする右往左往ぶりを伝えていました。いかにも政府の審議会らしい腰の座らなさです。

 「登校停止」で解決できるケースなんて、むしろ少数でしょう。いじめる者といじめられる者との差があまりはっきりしない事例が多く、いじめられる者が、明日にはいじめる側に回るなどの可能性の微妙さがやっかいなのです。

 ある学校で、校長先生が教室に来て、いじめ問題を生徒に真剣に語りかけている最中にいじめが起こっていた事例があります。後で全員に文章を書かせて分かったのでした。だから大変な話なのです。

 現代で最悪のケースは、いじめが密室化し、被害者が自殺する場合です。いじめは私の子供時代からありましたが、いじめで自殺する子供はいませんでした。昔の子供は心が強かったからでしょうか。そうではなく、社会の基本には暴力があり、暴力を抑えるには暴力しかなく、暴力を道徳で抑えることは不可能だ、という当たり前の常識が普及していたからです。

 子供の群れる学校は野生の猿の世界です。私は農村も都会も知っていますが、私の子供時代、クラスのボス猿は大抵、親か兄かが非合法社会とつながっていました。ところがそのことが、彼の暴力を抑止したのです。彼は刃物を懐に入れていましたが、人を傷つけることはないし、人を殴っても手心を加えていました。今の時代のすぐキレる、優等生顔をしたヒステリー少年よりもずっと大人でした。なぜなら、非合法社会にいる親や兄が、自分の子供の暴力を許さなかったからです。

 昔は野生の暴力が、社会の中に実在していた有効性を考えておきたいのです。それは非合法勢力のことだけを言っているのではありません。村には必ず青年団があって、子供の暴力を力で牽制(けんせい)していましたし、上級生は生意気な下級生を袋叩きにしました。学校の先生の体罰も有効に働きました。街角でいじめを見て、普通の市民が介入し、叱りつけました。それがいつの頃からか「刺されるからやめておこう」に変った。

 今の世はおしなべて無責任な平和主義で、他人に干渉しません。その結果、いじめは学校の中で密室化し、陰惨になり、外から見えにくくなりました。いじめられる子供はいたぶられ、小づかれても、助けてくれる有効な上位の暴力がなく、行き場を失って絶望し、自殺に追い込まれるのだと思います。社会の中の野生の暴力が消えてしまったことに、自殺多発の最大の原因があるのだと言ってほぼ間違いないでしょう。

 政府の審議会は、暴力を抑えるのは暴力だというところまで本気で問い詰めているでしょうか。教育委員会や校長会は、きれいごとを言って逃げていないでしょうか。間違っているのは平和主義なのです。そこで、私はいじめられている子に「死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね」と学校の先生が日頃、子供たちにあえて教えておくことがぜひとも必要だと申し上げたい。無抵抗主義を教えるのは、弱い子供に対しては自殺への誘いです。正当防衛としての闘争心を教えること、先生が日々これを噛(か)んで含めるようにして言い聞かせておき、少しでも闘争心が芽生えたら、その子はもう決して自殺しません。

 防衛の心はそもそも生命力の表れなのです。

文・西尾幹二

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