読書の有害について(一)

 「早朝、一日がしらじらと明け染める頃、あたり一面がすがすがしく、自分の力も曙光と共に輝きを加えているとき、を読むこと――これを私は悪徳と呼ぶ!――――」と、ニーチェは『この人を見よ』の中で言っている。だが私のように最近、時間があれば早朝であろうと真夜中であろうと、急がされて翻訳という読書に追い立てられている昨今では、彼のこの高度に自分の意識のみを透明に集中化して行く瞬間の存在が、ただもう羨ましい。

 白水社版のニーチェ全集(全24巻)の中で、『偶像の黄昏』『この人を見よ』『アンティクリスト』の三作を担当した私の一巻の出版だけが、まったく私の個人的事情から遅延し、版元と他の翻訳参加者に大変にご迷惑をお掛けしたため、今、あらゆることを犠牲にして、ひたすらこの課題に打ち込んでいる。そのため、他の案件に頭が回らないので、訳し了ったばかりの『この人を見よ』の中から、二、三の短い言句を引例して、この稿の責めを果たしたいと思う。

 が、それにしても、われわれ日本の外国文学者ほどに翻訳という手仕事に多大の時間と労苦を捧げる者は他におるまい、と最近つくづく考えさせられるので、その点について先に一言しておきたい。

 日本でも哲学者や社会科学者はそれほどでもない。何といっても外国文学者が翻訳の仕事を最も尊重する。それにはそれ相応の理由があると思う。われわれの仕事の起点はテキストの精読だからである。加えて、主として外国産の他人の思想や作物を手掛かりにしてしか物を考えない、というのがわれわれのほぼパターン化した思考の習性となっているから、ますますその前提は疑われない。

 また、外国文学者でなくても、一般にわれわれ書斎の人間は、本を読んでいると何となく時間を充実させたような錯覚に陥り勝ちな存在である。読書がそのまま仕事だと本気で信じている人さえ少なくないほどだ。

 読書は他人の思考に自分をさらし、そこで得た体験で自分を豊かにすることだといえば聞こえはいいが、実際には、他人の思考に自分を侵害され、食い荒らされて、自分を失ってしまう例も稀ではない。

 真摯な読書家にかえって多い事例である。そして、われわれ外国文学者にとっての「翻訳」とは、緻密に、正確にテキストを読む努力の実践課題でもあるのだから、他人の思考に自分をさらすこの「読書」の延長線上にある活動、あるいはその誠実な理想形態ともいえるだろう。

 そう思えばこそ私もまた、振返ってみると、案外にエネルギーの多くを翻訳に注いできた。私の達成した訳業は量的にも質的にも乏しく、この道の諸先輩の多くの偉業を前にすると翻訳がどうのこうのと言えた義理ではないのだが、ただ、翻訳の相手が今日話題にしているニーチェのような場合であると、私は大変に奇妙な感慨、自分のやっていることがどだい極端に矛盾した行為なのではないかという思いにすら襲われるのである。今日はそのことを少し考えてみようと思う。

つづく

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

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