読書の有害について(二)

 ニーチェはもともと「読書」をすら軽蔑している人だ。

 「私は読書する怠け者を憎む」と『ツァラトゥストラ』の中で書いている。彼にとって他人の思想はすべて自分の思想を誘発するための切っ掛けでしかない。自分の内心のざわめきに耳を傾けること以外に本質的に関心のない彼には、他人の思想に身をさらす「読書」は自分の思想の展開にとっての邪魔であり、自分の思想を持たない「怠け者」のやる行為にすぎないのである。

 そういう彼が、他人の思想のテキストの精読に生命を賭けた文献学という学問と最初に出会ったのは大変な矛盾であり、皮肉であるが、しかし彼は元来が眼も悪く、予備知識もあまり準備しないで、他人の思想の中心部を鷲摑みにするタイプだった。

 こういう彼にとっては、たしかに他人の思考や知識は自分の思索の妨害物であり、せいぜい自分の思索を休止しているときの暇つぶしか慰み程度のものでしかなかったという事情はよく分る。『この人を見よ』の一節に次のようにある。

 「読書」とは私を、私一流の本気から休養させてくれるものである。仕事に熱心に没頭している時間に、私は手許に本を置かない。つまり私は自分の傍で誰かに喋ったり考えたりさせないように、気を付けている。……第一級の本能的怜悧さの中には、一種の自己籠城ということが含まれている。私は自分に無縁な何かの思想がこっそり城壁を乗り越えて入ってくることを、黙って許せるだろうか。そして、ほかでもない、読書とはこれを許すことではないのか。」

 本を読むことで何か仕事をしたような幻想に陥り勝ちなわれわれ書斎型の人間に対する痛烈な批判の一語になっているともいえるだろう。

 他人の言葉や思想を手掛りにしてしか物を考えられない(従って物を書けない)われわれ末流の時代の知識人は、研究とか、学問とか、評論とか称して、何か創造的に物を考えた積もりになっているが、果たしてそうか。簡単にそう言ってよいのか。ニーチェはわれわれにそういう鋭い原理的な問いをつきつけているように思える。

 「学者は要するに本をただ〈あちこちひっくり返して調べる〉だけで、しまいには、自ら考えるという能力をすっかりなくしてしまう存在である。…本をひくり返していないときに、彼は何も考えていない。学者の場合は考えるといっても、なにかの刺激(――本で読んだ思想)に答えているだけである。結局、何かにただ反応しているだけである。学者はすでに誰かが考えたことに対し Ja だと言ったりNein だと言ったりするだけで、批評することに力の全てを使い果たし、――自分ではもはや何も考えていない。」

 耳の痛い言葉である。

 さらにもう一つ、学者とは「火花――つまり<思想>を発するためには誰かにこすってもらわなければならない単なる燐寸(マッチ)である」とまでニーチェは言っている。彼一流の奇抜な言い方である。

つづく

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

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