先日友人たちと雑談をしていて、三木首相が暴漢に襲われた瞬間をNHKのカメラが偶然に捉えた一件に話が及んだ。事件当日のテレビのスロービデオで、私は三木首相が眼鏡をとばされ、ゆっくりと路上に倒れていく一瞬の動きを目にした。
首相は恐らく不意をつかれたのであろう。不謹慎な感想かもしれないが、私がそのとき感じたのは、単なる殴打によって人間の身体がじつにあっけなく倒れることの驚きであった。しかし屈強な青年でも、不意をつかれればやはり同じような倒れ方をするのかもしれない。
身体への直接の危害に対し現代人は普通心の用意を怠っているからである。流血に対しつねに備えている緊張した生き方を、文明社会に生きる私たちは平生にはしていない。
テレビ劇や映画の中では殴ったり殴られたりする場面があれほど氾濫しているのに、大多数の人間は、実際の生活で、他人を殴った経験も、他人から殴られた経験ももっていないのではないだろうか。
雑談の席にいた数人の私の知友たちに聞いたら、勿論、誰一人そういう経験がないと言っていた。不意に、予期していない場面で他人から殴打されれば、私たちも首相と同じようにあっけなく倒れてしまうことだろう。
刑罰に対する考え方についても昔と今とでは大きな違いがみられる。幕末から明治初期を描いたこの小説の中で、勅任官に手傷を負わせたというだけで斬罪の刑になる男の話が出てくるが、現代では首相を殴り倒した男はどのくらいの刑になるのだろうか。
見せしめや報復という考えは今では必ずしも刑罰の中心観念ではない。一般に現代では、犯罪を個人の責任に帰するというよりも、社会的あるいは病理学的要因に還元して、犯罪人の個人責任をできるだけ軽くするという考えが支配的になっているからである。
先日テレビの報道番組で見たのだが、アメリカのある刑務所では――おそらく凶悪犯は除いてあるのだろうが――塀をはずし、門をなくし、社会との往来を自由にし、囚人は刑務所の中で個室をもらって、音楽を楽しみ、趣味に生き、女囚はお洒落を存分に味わえるという特殊な試みを実験的におこなっている例を見た。この小説の中で展開されている苛酷な刑罰の世界とはまた何という相違だろう。
私たちは一杯の水を飲んでそれが直接死につながるかもしれないという不安をもって日々の生活を送ってはいない。たいていの病気からは医業によって守られていることを知っているからである。
私たちはよほど特殊な例外を除いては、他人から肉体上の直接の危害を加えられることはない。ましてや血ぬれの身体、人間の切断した四肢や首を目撃するような機会はない。いな身内の臨終の床以外は、屍体を目にする機会すらほとんどないといっていいだろう。
文明とは何だろうか。あらゆる残酷と直接の危害からわれわれの感覚が遠ざけられることが文明なのだろうか。
したがって文明の発達した産業社会では、人間と人間との関係はどんどん間接的になっていくほかはない。そしてその分だけ映画・テレビ・小説といった映像や情報の世界には直接的な場面がふえていくのである。
現代では人間が互いに間接的に交わり、自分ではなにひとつ行為せず、行為の世界を抽象的にしか意識できなくなっている。そしてそれにほぼ比例して、交通事故などによる大量の死、高度の戦争技術による組織的な破壊が、この地上のどこかで休みなくくりかえされていることをわれわれは知っている。それに対してわれわれ現代人はただ不感症になっていくばかりである。
つまりこの現代では死もまた物体の消滅のように機械的・物理的な現象としか感じられなくなっているのと並行して、生もまた間接的な、なにか曖昧な性格のままに進行していく。
この『斬(ざん)』という小説の世界は、あらゆる点でこうしたわれわれ現代人の生きている状況とは正反対のところに位置づけられている。少なくともこの小説の出発点はそうである。
ここには人間が人間の首をはねるという――文学の題材としてははなはだ危険な――戦慄すべき場面がくりかえし描写されている。だが、読者が気をつけなければならないのは、ここには血への嗜虐的趣味が語られているのではなく、人間が人間に対しておこなう直接的な行為のいわば極限が提出されていることである。そしてそれが明治の文明化・西欧化の波の中でしだいに解体していくプロセスが語られているともいえる。
いいかえれば、この小説はわれわれの今日の文明とは逆の立場から歩き出し、今日の文明をしだいに裏返しに映し出していく批評的な小説であって、首斬りという特殊世界に題材を限定していることが、すでに作者にとってはかなり意図的な設定であるといえよう。つまりこの作品はある種の観念小説であるといってもいいのである。
つづく
文春文庫 綱淵謙碇『斬』解説 昭和50年(1975年11月)より