11月22日に行われた坦々塾での足立さんのスピーチの内容を紹介する。
足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取
「アメリカの対日観と政策 “ガラス箱の中の蟻”」
<はじめに>
過日アメリカ大統領選挙でのオバマ氏の当選では、日本の地方都市、小浜市の奇妙なはしゃぎぶりが報道されました。オバマ氏は北朝鮮との対話を提唱しており、それは拉致・核・ミサイル問題での日本とは大きく対立します。加えてこの地方都市から拉致被害者がでていることは周知の事実です。それなのにそうした点にマスコミは一切触れず、馬鹿騒ぎだけの報道です。
又、防衛省の空幕長田母神氏の論文が政府見解と異なるとして同氏が更迭されましたが、これを巡る報道も専ら日本侵略国家論、文民統制論のみが書きたてられ、論文のどこが問題なのかの検証に基づく議論は皆無でした。
こうしたことに、何か肝腎な議論が抜けている、避けられ隠蔽すらされていると感じるのは私だけでしょうか。
この様な違和感は、この二つだけに留まらず、我国のあらゆる問題の底辺に横たわっているように思われます。本日はこうしたことが何に由来しているのかをお話したいと思います。
さて、今、私が身内以外で顔を合わせる人は2人のヘルパーさん、歩行訓練士さん、市の職員、ご近所などですが、皆私に関心があるらしく、何かと声をかけてきてくれます。
先般ルーペを頼りに西尾先生の「GHQ焚書図書開封」を拝読しておりました。
リビングのテーブルの定位置に置かれた本が皆の目に留まり、色々質問を受けました。「何と読むのですか」「どんな内容ですか」。
そこで私は逆に質問します。
「第一次世界大戦後ベルサイユ会議が開かれ、国際連盟が設立されます。このとき連盟規約に人種平等を盛る提案をした国がありましたが、ある国の強硬な反対で廃案になりました。提案した国はどこで反対し廃案にした国はどこであったと思いますか」「アメリカで黒人が選挙権を得たのはいつだったと思いますか」。
本日ご出席の皆様には先刻ご承知のことでしょうが、私の答えに周りは仰天します。それはそうでしょう。人種平等を日本が提案し、アメリカがそれに反対阻止したことも、日本では既に戦前から25歳以上の男子全員に選挙権が与えられていたのに、黒人に選挙権が与えられたのは、日本で20歳以上の全国民が選挙権を得てから久しい第二次大戦後20年近くもたった1964年であったことも初めて聞くことなのですから。
私は、こうしたことが何故日本でしられていないのかを解き明かしたのがこの本ですと言うと皆関心を示し、「GHQ焚書図書開封」が私の周りで読まれるようになりました。
さて本題に映ります。皆さん誰でも小学生の頃、ガラスの容器に土を盛り、蟻を飼育した経験をお持ちだと思います。私は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間 」、西尾先生の「GHQ焚書図書開封」に記されたGHQの検閲、焚書の実態をこうした「ガラス箱の中の蟻の国」のイメージで捉えております。
蟻にされた日本国民に与えられる情報は蟻の餌に相当します。その情報は勿論アメリカの意向そのものです。その様子は、国民が目に見えない壁面のガラスを通して見ていると捉えているものは実はガラスに投影された宣伝映画そのものだった。そんなイメージです。
私がこういうイメージを抱くきっかけはアメリカ生活からです。
その前に小学生時代の二つの思い出からはじめさせて頂きます。
私は昭和23年に小学校に入学しました。翌年の一学期の終業式の後、進駐軍から夏休みの「おやつの配給」が児童・生徒全員に配られました。中身はパイナップルの缶詰、干したアプリコット、レーズン、ビスケット、チョコレートなどでしたが、当時は食糧難時代ですから夢のようなものばかりでした。
でも、配られたのは我々の学校だけであったこと、そしてナゼ配られたのか、またそれ以降二度と”配給”はなかったことに疑問が残りました。
3年後の昭和27年のある日、学校から帰り卓袱台の上に置かれていたアサヒグラフのページを開き息をのみました。初めて目にした原爆被害写真でした。それまでも原水爆実験のきのこ雲のニュース映画は見ていましたが、このような日本人の凄惨な原爆被害状況を示す写真はそれまでただの一度も目にしたことはなかったのです。何故その時まで目に触れることができなかったのかということは大きな疑問でした。然し、この二つの疑問もその他の膨大な記憶に比べればほんの僅かなものです。
日本で溢れる巨大な情報は「日本は間違っていた」は「アメリカは素晴らしい」「アメリカに見習おう」と言うもの一色で、何事も「アメリカでは・・・」で始まるのでした。
そうした時代に育った私は1976年11月ニューヨークに赴任しました。
<アメリカの力の源泉>
私は郊外の小さな町のアパートに住み、7時13分発の列車でマンハッタンのグランドセントラル駅に着き、そこから地下鉄でダウンタウンのオフィスへ通う。子供は町の公立幼稚園から小学校へ進学する。そんな生活でした。
「ガラス箱」の話に焦点を合わせましょう。
着任したときの担当取引先の一つにTandy Corporationがありました。
主にエレクトロニクス製品の販売を事業とし、Radio Shackという小ぶりの店舗を全米に数千店を展開する優良企業でした。
私はフォートワースにある本社で事業内容の詳細を入手しました。大筋は、毎日各店から商品別の売り上げと在庫が報告され、それがコンピューターに入力される。
アウトプット資料を分析して売れ筋商品へのシフトをおこなう。販売不振の地域には広告を強化することもある。などなどでした。
その後日本でも広まるPOSシステムの先駆的なものだったわけですが全体を俯瞰し、戦略的目的に沿った枠組み、システムを構築していくわけで正にアメリカの真骨頂であると感心したものです。
<アメリカの対日統治枠組みの原型>
さて、「ガラス箱」を目の当たりにするのはニューヨーク着任から相当後のことです。地下鉄のストがありました。
その頃日本では春闘が始まると国鉄の組合による順法闘争で通勤客は大混乱に巻き込まれるのが常でしたから、アメリカでも同じであろうと思っていました。が実際はまるでちがいました。
スト初日、通勤経路は要所要所に灰色のペンキを塗った木製のバリケードが配置され、大勢の通勤客は川が流れるようにスムースにながれているのです。警官は少数でした。前日までに総てが用意されていたわけです。
それは正に「ガラス箱の中の蟻」を思わせるものでした。
戦後のアメリカによる我が国への占領政策はこれと同じ枠組みをとてつもなく巨大なスケールにしたものでしょう。
彼等は日本国民を、目には見えないバリケードである方向に誘導し、映画のようなにバーチャルな世界を現実・真実であると信じ込ませたと考えられます。
<真実のアメリカ>
日本国民に真実であると刷り込まれたバーチャルな情報イメージ内容もアメリカ生活で次第に浮き彫りにされてゆきました。
ニューヨーク赴任当時、日本企業の本社からの派遣社員夫人が警察に逮捕される事件が起きていました。
ベビーシッターを頼まず外出中に、幼児がアパートのベランダから転落死たことで、子供の保護を怠ったとして刑事犯として逮捕されたのです。
子供の保護責任は親にあることは日本でも戦前の常識でした。だが今日同じ事件が日本で起これば、ベランダの欠陥が云々され、アパート側の責任が追求されて、親の責任は話題にすらならないでしょう。
先年六本木ヒルズで子供がビルの回転ドアに挟まれ死亡しました。ビルオーナーとドアメーカーは世論の非難の集中攻撃を浴び、ビルオーナーとドアメーカーが親に補償金を払ったそうです。
この話を聞けばアメリカ人やカナダ人は仰天するでしょう。
北米で同じ事件が起きれば、余程の事情がない限り、親が逮捕されます。
北米では一定年齢以下の子供を連れ外出した場合、子供が事故に合い死亡すれば、親は保護責任義務違反で逮捕され処罰されることになるのです。
ですから外出する場合、親は子供が走りまわらないように子供の手をしっかり握るなどして必死になります。
公共の場所で子供が走りまわるのを親が放置し、挙句は微笑みながら見ているなどの光景は、世界では日本だけの、しかも戦後だけの異状な現象でしょう。
私の子供のアメリカの公立小学校生活は更に興味深いものでした。毎日国旗掲揚とアメリカを讃える歌をみんなで歌う。
子供が担任の女の先生にいじめにあったと相談に行くと、先生は「戦いなさい」と教えたそうです。
子供は日本に帰った後、公立中学校でいじめに苦労します。その学校では授業中に窓ガラスが割られる荒れた学校でしたが、一部の女の先生以外放置していたそうです。
アメリカで「不正に対しては戦え」と教えられた子供は、今でも「日本の教育の最大の欠陥は”正義ヲ貫く”信念が欠如していることだ」と言いきります。因みに月刊現代2000年2月号の対談「だから大リーガーはやめられない」で野茂英雄氏は、バッターが汚いことをした場合にはピッチャーはデッドボールをぶつけても良い、という暗黙のルールがあると述べています。それで骨が折れても構わないのだそうです。
<アメリカの拉致事件=イラン人質事件とアメリカの指導者・国民>
アメリカ生活で最も鮮烈な記憶として残るものは、アメリカの拉致事件、在テヘランアメリカ大使館員全員人質事件(以下イラン人質事件と略称)です。私のアメリカ時代はカーター政権と重なりますが、内政、外交とも失敗の多かった政権でした。
同政権の唱える人権外交の影響もありイランでは反王政運動が激しくなり、1978年末にはパーレビー国王一家が国外に脱出、翌79年初めパリに亡命中であったイスラム教シーア派指導者ホメイニ師が帰国、イスラム革命が成立します。
そしてアメリカとイランの関係は悪化し、11月にイランの過激派学生によりテヘランのアメリカ大使館員全員が人質となったのです。
イラン人質事件が起きるとアメリカ社会は一変します。
子供の通う学校では、毎日の国への忠誠教育に加えて人質大使館員全員の解放のお祈りを指導する教育が始まります。
テレビではニュース報道の冒頭に必ず「今日で人質事件XX日になります」と告げるようになりました。
特殊部隊による救出作戦も砂嵐で失敗します。パーレビー国王は亡命先のエジプトで死亡しますが人質事件は続きました。
事件が起きた翌80年はアメリカ大統領選挙の年でした。選挙戦は現職のカーター大統領と共和党のレーガン候補の間で戦われました。
マスコミ、特に日本の新聞は鷹派のレーガン候補ではなく現職のカーター大統領が優勢と報道していました。然しアメリカで周囲から受ける印象はまるで違いました。毎朝の通勤列車で同じボックスに座る3人のアメリカ人ビジネスマンの口振りからもそれが窺えました。ABC=Anybody but Carterという言葉が広まっていることも彼等から聞きました。
テレビに映るレーガン候補はリラックスした様子で首を少しかたむけながら柔らかい口調で「私は当たり前のことを言っているだけです。何故タカ派と言われるのか理解できません」。イラン人質事件についての質問にも、ただ、「当たり前のことをするだけです」と答えるだけでした。
大統領選挙の結果は、一つの州を除く総てでレーガン候補が勝つという一方的なものでした。
年が改まり1981年初、新大統領就任式が迫っていました。そんなある日、一大ニュースが飛び込んできました。人質全員が解放され既に帰国の途上にあるというものです。
全米が歓喜に包まれたことはいうまでもありません。
学校でのお祈りも、テレビニュース冒頭の「今日で人質事件XX日になります」も昨日で終わりました。
イランが大統領就任式直前に人質を解放した理由は明らかでしょう。
レーガン候補は、「当たり前のことをする」と約束し、米国民はそのレーガンに白紙委任状を与えました。
小学校から「不正に対して戦いなさい」と教育されてきたアメリカ国民にとり「当たり前のこと」の意味は明らかでしょう。イランもそのことは分かっていました。こうしてロナルド・レーガンは大統領になるその前にそれも一発の銃弾も用いず、アメリカ史上類例を見ない難問を解決したのです。
日本は戦争後今日に至るまで、アメリカをまぶしいほどの民主主義国のモデルとしてきました。そして戦前の日本をその対極として徹底的に一掃しようとしました。
だが現実に見るアメリカは、日本がモデルとしてきたものとは似ても似つかぬものでした。現実のアメリカはむしろ戦前の日本と共通のものを基盤としていました。
それが最もはっきりとしているものは、”不正”への対応です。アメリカでは小学校から「不正に対しては”戦”いなさい」と教育されそれが国民にしみこんでいます。
日本では「どんな不正が行われようと、絶対に戦ってはならない」と60年間教えられそれが刷り込まれています。その結果が、イラン人質事件と、北朝鮮拉致事件への対応の差です。
一週間前の15日は横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて31年目に当たります。
然し学校でめぐみさんの無事帰国を祈る教育を児童・生徒にしているところは皆無でしょう。この様な類例を見ない不正を日本国民はわすれようとしています。
「どんな不正が行なわれようが、絶対に戦ってはならない」ということの帰結がこれです。
国民性は確実に劣化しています。
<谷内発言で明かされた真実>
アメリカは自国では「当たり前のこと」であっても日本にはそれを許さない。それが今日の日米関係の真実であることを端的に示す事実が文芸春秋12月号コラム「霞ヶ関コンフィデンシャル」に記されています。
即ち、前外務事務次官であった谷内正太郎氏が、10月23日ワシントンで開かれた戦略国際研究所(CSIS)のシンポジウムで、安倍内閣の外務政務次官時代に、アジア太平洋の主要民主主義4カ国、日本、アメリカ、インド、オーストらリアによる戦略的対話構想をアメリカに提案し、又ASEAN+3(日・中・韓)とインド、オーストラリア、ニュージーランドにアメリカの参加による東アジアサミット構想を立案しアメリカに提案した。だがいずれもアメリカに断られたとし、アメリカは常日頃民主主義は大切といいながら日本がイニシャティブで提案すると拒否する。その理由が分かりません、との爆弾発言をしたと記し、更に、この勇気ある発言に会場は一瞬凍りついた、と記されています。
この文芸春秋の記事は二つの重要な真実を明らかにしました。一つは、この程度のこと、内容はアメリカにとってもまっとうと思われることであっても日本がいいだすことは許されない現実が存在していること。
もう一つは、こうしたことあるいはこの程度の発言が「勇気ある発言」「爆弾発言」と認識され会場を「一瞬氷づかせる」ものであったことです。
つまりこうした内容の発言は日本側にはタブーであるとの了解が日米間にあること。そのことはマスコミ関係者も知っていた節があるということです。
それはつまりマスコミにもタブーであったわけです。
こうした事実が明らかになってくると、日米関係は今もって占領時代の関係、即ちアメリカが日本「をガラス箱の蟻の国」として観察し飼育、管理する状態が変わっていないように思えてきます。
<アメリカの対日観>
それではアメリカが何故一貫して日本が、それが自国では当たり前に行なわれることであっても、日本がおこなうことを阻むのでしょうか。そしてそのことをなぜ隠蔽するのでしょうか。
それは日本が手強い国、国民であると考え、かつて人種平等やアジアの国々の解放を求め、貧しい国々の経済発展をたすけたような”当たり前で真っ当な”しかし彼らにとってははた迷惑なことを再び日本が行って世界の中での存在感を高めて欲しくないと思うからでしょう。
私自身、日本は凄い国であると思います。
ニューヨーク赴任当時、Tandy Corporationに感心したことは既述の通りです。だが、アメリカから日本に帰ると、もっと凄いことが出来上がりつつあった。それはクロネコヤマトの宅急便です。その凄さは仄聞するところ、イラク戦争に際して米軍はロジスティクの枠組み・システムをクロネコ方式に依ったそうです。
トヨタの看板方式、在庫ゼロ方式が、世界の製造業のシステムを大転換させたことも凄いことです。
無駄にされていた天然ガスを開発、生産、輸送し、長期契約に結びつけた天然ガスによる発電は世界に20年先行しています。原子力発電の建設技術も世界をリードしている。
こうしたことに見られる日本国民の潜在力にアメリカは脅威を感じている。それが彼等をして戦後今日までの対日政策の底辺にあるのです。
<広がる溝>
日本国民がようやく世界の現実に気付いたのは金正日が拉致を認めたときです。
然しそれはまだまだ甘いものでした。米国議会のいわばシンクタンクであるUSCCは03年7月に北朝鮮核問題をテーマとする公聴会を開催しました。
そこでの議論では、北朝鮮の核保有はアメリカへの直接的な脅威にはならない、脅威はそれがテロリストに渡ることであるとのことでした。北朝鮮から核を買うことすら示唆する意見まで出たほどです。
証人の一人は、北朝鮮の核保有は中国や韓国にも脅威ではない。脅威を受けるのはノドン100基(当時)のターゲットである日本である、と証言しています。
だが、議論はここまででした。委員の一人が「この公聴会は日本のためにおこなわれるものか」と反問し日本の核武装が正当化されてしまうという事実が露見しそうになったためかも知れません。
つい先月の10月、アメリカブッシュ政権は北朝鮮に対するテロ支援国家指定を解除しました。そうした可能性は既に5年前に内包していたわけです。
元々北朝鮮問題=拉致・核・ミサイル問題での日本の立場はアメリカよりも遥かに険しいものです。
アメリカに丸投げしてはならない問題でした。
今回のアメリカの決定は、平和時にさえ我国の意向がとりあげられない日米安保体制が戦時に果たして日本の防衛に機能するのかという問題です。
そろそろ結論を申し上げ負ければなりません。冒頭に日本人の原爆被害写真の衝撃について記しました。殆どの日本人と同様私も核には強いアレルギーを持つものです。然し、核の議論さえ我が国ではタブーとしてきたことが結局は米・ロ・英・仏・中の核保有を恒久化せしめ、インドやパキスタンの核保有をもたらし、今日の北朝鮮の拉致・核・ミサイル問題でデッドロックに追い込まれている原因を生んでしまったのではないでしょうか。
北朝鮮が核を保有するならば、日本も同様な権利を留保する旨アメリカに示唆することで、アメリカは中国を誘い北朝鮮に強烈な圧力をかけたのではないでしょうか。日本の核武装だけは何としても止めたいわけであり、どうでもよいことではなくなるからです。
小学生時代の「進駐軍からのおやつの配給」の理由について蘇った記憶があります。我々の学区の上級生が進駐軍のトラックにはねられて死亡した事件があったことです。今となっては「おやつ」とこの事件とつながりがあったのか証明の使用はありませんが、軍隊組織が無目的、善意である小学校に一回だけ「おやつの配給」などするわけはないことは当たり前でしょう。こうして見てくると、日米戦争は昭和20年8月25日に終わったわけではないことが分かります。
日本は降伏したが、アメリカは自らの意思を日本に強制することをやめてはいません。私は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」が世に出たとき、これで日本国民は目覚める、日本は再起するとおもいました。然しそれから四半世紀後の今日も日本国民はアメリカの作った「硝子箱の中の蟻」の状態から抜け出せていません。
今回の西尾先生の「GHQ焚書図書開封」は日本がガラス箱から抜け出す最後の機会ではないかとおもいます。
文:足立誠之