謹賀新年 その二

 正月早々墓の話を掲げたのは死期を意識しているからではありません。まるきりそんなことはないのです。

 毎月一度必ず主治医に血液を採られています。そして前月の結果を知らされる。もう何年ほとんど「異常なし」です。中性脂肪もコレステロールも尿酸値も肝機能も腎機能もつねに正常の範囲内です。血糖値がやゝ境界領域にありますが、犬の散歩のおかげでこれも少しずつ改善されているようです。

 主治医はこう言います。「今は毎日のご生活が充実していることがなによりも大切です。医者はあなたの身体の逸脱を警戒し、注意を喚起するだけで、それ以上のことはできません。」

 私がそこで「大きな異常にはなにか予兆のようなものがあるのでしょうか」と問えば、「たいていドスンと来るのです。」と怖いことを言うのです。「加齢と遺伝は誰しも避けることができません。」

 私は昨年、当ブログの右側に並ぶ五冊の本を相次いで上梓し、働き過ぎでした。平成18年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」の名誉会長を退任し、拘束から解放されたことが、著作家としてのここまでの単独行動を可能にしました。今しみじみと辞めて良かったと思っています。

 「ものを書く」という仕事は団体行動にはなじまないのです。あの立場は私から言論の自由を奪うことがたびたびありました。昨年の皇室問題に対する私の発言は、あの立場にいたら会の主張と誤解されてはいけない、という思惑から出来なかったでしょう。

 事実、皇室無謬派(皇室に対してはたゞ弥栄を祈っていればよいという無条件崇敬派)がいわゆる保守言論界の一方にいるらしく、「つくる会」の元理事で分派して去った人たちが威丈高に私を叱責し、声を荒げて意趣返しをしていたのは昨年のひとつの光景でした。ですから、昔の侭のあの会にかつての立場で私が今もいれば、私は自由ではなかったでしょう。

 私がいま手にした自由はことのほか貴重だと分りましたが、しかし自由はそれ自体ではなにほどの価値もありません。むしろ物事を危うくすることがあります。皇室という環境が皇太子妃殿下の病気の原因であるという認定、主として齋藤環氏等医師たちの認定ですが、これが天皇陛下の大御心を深く傷つけている、との昨年末の宮内庁長官の公式見解は、妃殿下にもっと自由を与えよ、というリベラル・サヨク派の思想の危うい破壊性をはっきりと印象づけました。

 これから天皇・皇后になろうとする若いお二人にもっと自由を認めたらいいというのは何を考えているのかと私は思いました。皇室という環境が妃殿下を病気にした、という医師たちの認定ほどに恐ろしい天皇制度否定論はないと思います。なぜなら皇室という環境が人権侵害をしていると言っているのと同じだからです。

 正月六日の産経コラム「正論」に加地伸行氏が次のように仰っていました。

 昨年、西尾幹二氏に始まり、現在の皇室について論争があった。その詳細は十分には心得ないが、西尾氏は私より一歳年長であり、〈勝ち抜く僕ら小国民〉の心情は同じであろう。皇室への敬意に基づく主張である。

 その批判者に二傾向、(1)皇室無謬(むびゅう)派(皇室は常に正しいとするいわゆるウヨク)、(2)皇室マイホーム派(いわゆるリベラルやサヨク)がある。

 私は皇室の無謬派こそ皇室を誤らせると思っている。

 その理由として氏は、『孝経』が歴代皇族の学問初めの教科書であるが、その中に、臣下の諫言(かんげん)を受け入れることを述べる「諫争章」がある。

皇室は無謬ではない。諫言を受容してこそ安泰である。そのことを幼少より学問の初めとして『孝経』によって学ばれたのである。諫言―皇室はそれを理解されよ。

一方、皇室のありかたをわれわれ庶民の生活と同じように考え、マイホーム風に論じる派がいる。

だいたいが、皇室の尊厳と比べるならば、ミーハー的に東大卒だのハーバード大卒だのと言ってもそれは吹けば飛ぶようなものである。まして外交などというのは、下々の者のする仕事である。

にもかかわらず、そのようなことを尊重するのが問題の解決になると主張するマイホーム人権派もまた皇室を誤らせる。

 仰る通りである。私も氏と同じような考え方である。そして、皇室は「無」の世界に生きる処に本来性があり、幼少からの教育によってそれを培い、マイホーム主義と絶縁するのである、と氏は述べた後、一文を次のように結んでいます。

陛下御不例が伝聞される今日、皇太子殿下の責任―〈無〉の世界の自覚が重要である。もしそれに耐えられないとすれば、残る道は潔い一つしかない。『考経』に曰く「天下に争臣(諫言者)七人有れば・・・・天下を失わず」と。

 「もしそれに耐えられないとすれば」以下は、随分きっぱりと暗示したものです。

 じつは何を暗示しているのかは分りません。すべての人は今ここで立ち停まっています。私もそうです。天皇陛下も恐らく同じでしょう。

 『諸君!』12月号で私は雑誌ジャーナリズムのあり方を問う評論を掲げました。言論界が各種の固定観念に囚われ、透視力や洞察力を失っている諸相を分析し、指摘したのですが、そこで最後に、私が皇室発言をしてからというもの皇室無謬派=無条件崇敬派と皇室マイホーム派=リベラル・サヨクの二方向に言論が割れていることを述べて、加地氏と同様に肝心の問題はそのどちらでもない、真中にあることを示しました。

 どちらか一方は固定観念、つまりイデオロギーであって、左右ともに人をそこで安心させ、思考を停止させ、現実的でなくなり、悩みもなくなるのです。人は現実に向き合うときだけ苦悩があります。

 年末の宮内庁長官発言は、陛下の苦悩がやはりこの真中にあることを示しております。

 年末に出た『週刊文春』の記事が気になっています。皇太子殿下がご幼少からすばらしく温良に、従順に、弟君のように腕白になることもなく、いつも模範生として、周囲の期待に沿うように良い子でありつづけたことが物語られています。そこに問題がある、という危惧の念をこめてです。「潔い」ご性格、果断さは恐らくそこからは出てこないでしょう。

 すべてこれから起こることは憂愁につつまれたままである可能性がきわめて大きいように思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です