立春以後(二)

 2月12日午後2時少し前に私は旅行用キャリアーバッグ(手で曳いていく大型鞄)に本と書類をいっぱい詰めて、紀尾井町の文藝春秋に車で乗りつけた。

 出迎えてくれた『諸君!』内田編集長が「この後ご旅行の予定ですか。」「そうじゃあありません。今日の討論会用の材料ですよ。」「いやぁー、それはどうも」と、重いバッグを私の手から受け取って、運んでくれた。

 相手はまだ来ていなかった。私は広い卓上に本と書類を山と積み上げた。ほどなく相手は現われた。現代史家の秦郁彦氏である。「私は現代史に専門家が存在することを認めていません。」と『諸君!』3月号に私が書いた、あの専門家のお一人である。

 2時から討論を開始、終ったのは6時だった。私はとことん自前の論理で打ち負かすつもりだったが、相手もさるもの、一生かけてこつこつ「実証歴史学者」としてやって来た人だから、そうそう簡単には倒れない。

 私は本当は保阪正康、北岡伸一、半藤一利の諸氏のほうをはるかに疑問としている。秦さんは気持ちの通じる学者なのだ。以上四氏の中ではいちばん「善意の人」である。それもあって討論は穏やかに始まった。

 前日までに編集長からこんなテーマで討議してくれ、と記した一覧表が届いていた。〔1〕田母神俊雄氏の問題の①論文そのものについて②騒動の性格について③社会的影響について。〔2〕「現代史の専門家は存在し得ない」「フィクションの方が立派な歴史になっている」という西尾の実証的学問への批判について。〔3〕17世紀以来の世界史の流れの中で捉えなければ大東亜戦争の本質は分らないという西尾の主張と「昭和史」の関連について。〔4〕東條英機らA級戦犯に罪を被せ国民がとかく被害者の立場で語る言説への違和感について。・・・・・

 このうち〔1〕の①で私が前回の3月号論文で取り上げていた問題の諸事例、ニコルソン・ベーカー、真珠湾陰謀説、張作霖爆殺へのソ連の関与、ハリー・デクスター・ホワイト=ソ連スパイ説の四つの具体的事例について、私のより詳しい説明と、それに基づく論争を行うことを提示されていた。私が大量の本を机上に積み上げざるを得なかったのはそのせいである。

 〔2〕と〔3〕についてはすでに私が3月号論文で詳細に論じている処でもあり、秦さんの反論がなによりも期待された。〔4〕が内田編集長から特別に持ち出されたところの、二人がまだ扱っていない新しいテーマだった。

 時間の大部分が〔1〕に費やされた。〔2〕と〔3〕については、秦さんが全く理解していないし、理解しようともしないので、水掛け論に終始した。〔4〕については若干の了解が成立した。予想した処でもある。〔2〕と〔3〕については、私は話しているのが嫌になってしまって、もう打ち切りたいと思ったくらいだった。

 それは〔1〕のニコルソン・ベーカーからハリー・デクスター・ホワイトに関して私が大量の知見を披露しても、ご自身勉強もしていないのに謙虚に聞く耳をお持ちでない相手とは、何時間かけても「対話」にならないという事情に由るものと思われる。私の説得の仕方もまずかったのかなと反省もしている。

 ここでは卓上に積み上げた本を以下に列記するにとどめる。

Nicholson Baker:Human Smoke
―The Beginnigs of the World War Ⅱ,The End of Civilization―(2008)

A.Weinstein and A.Vassililev:The Haunted Wood
―Soviet Espionage in America―The Stalin Era―(2000)

H.Romerstein and E.Breindel:The Venona Secrets
―Exposing Spviet Espionage and America’s Traitors―(2000)

Nigel West:Venona
―The Greatest Secret of Cold War―(1999)

J.and.L.Schecter:Sacred Secrets
―How Soviets Intelligence
Operations changed American History―(2002)

Thomas E.Mahl:Desperate Deception
―British covert Operations in the United States,1939-44―(1988)

須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』講談社メチェ

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』文春新書

柏原竜一『世紀の大スパイ、陰謀好きの男たち』洋泉社

中西輝政『国家情報論』第4回『諸君!』

杉原誠四郎「ルーズベルトの昭和天皇宛親電はどうなったか」『正論』2009,2月号

秦郁彦『現代史の争点』文春文庫

西尾幹二『GHQ焚書図書開封 Ⅱ』徳間書店

 論争がどんな風に展開し、私が異なる思考をもつ人の「壁」の前に立っていかに苦労したかは、『諸君!』4月号でご検討たまわりたい。私も十分に読みこんで勉強し尽くしている諸文献ではないので、論の展開も説得的ではなかったかもしれない。

 論争というものはもともと相手を説得するためにあるものではないのであろう。説得を諦めるためにあるものであろう。であれば、『諸君!』3月号の私の論文ですべて終っていて、それ以上のこと、二人で会って討論するのは所詮、虚しいあだしごとというようなことであったかもしれない。

 帰りの車の中で私は眼を瞑ってじっと動かなかった。それでも頭が冴えて眠れなかった。徒労感を感じたというのでもない。秘かに小さな満足があった。私はまだまだ体力があるな、ということに対して――。

 討論の席には仙頭『諸君!』前編集長が傍聴していられたので、家に帰ってから電話で感想を聴いたら、次のように語っておられた。

 「コップに水が半分入っているのを見て、もう半分しかないという男とまだ半分あるよ、という男の対話だったですね。」と評された。私がどっちかは読者には自ずと分るであろう。

 「日本はイギリスのように静かに小国になっていけばいいのです。」が会談中の秦さんの台詞の一つだった。私はそれを聞いて「人間でも国家でもナンバーワンになろうと努力する心がなかったら、オンリーワンにもなれないのですよ。」と答えたことをお伝えしておく。勿論スマップの歌のことにかこつけて言っているのである。

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