「座右の銘」に添えて

 私は「座右の銘」とおぼしきものを日ごろ意識していない。
 好きな言葉はあるが、たいてい長文である。                   

 昨年末『諸君!』2月号が「座右の銘」と、それに添える1200字のエッセーを求めてきたが、銘の制限字数が60字なのではたと困った。

 60字に収まる名文句を先に選んで、それに合わせてエッセーを書くほかはないが、そうそう思いつくものではない。私はニーチェ研究家ということになっているので、ここで好みの短章がないとはいえないので、ツアラトゥストラをぱらぱらめくった。

  「私は人に道を尋ねるのが、いつも気が進まない。--それは私の趣味に反する! むしろ私は道そのものに尋ねかけて、道そのものを試すのだ。」

 最初これにしたかったが、制限字数を越えている。しかしこれはほとんど私のモットーである。

 「見捨てられていることと、孤独とは別のことだ。」

 これも好きな言葉である。字数も少なくていい。しかし、エッセーをどう書いてよいか考えていると迷いだして、結局、以下のような次第になった。

 新年に雑誌の2月号が届いたら、77人もの人がこの企画に参加していた。まもなく文春新書になるのだそうである。

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君が出会う最悪の敵は、
いつも君自身であるだろう。
洞穴においても、森においても、
君自身が君を待ち伏せしているのだ。

ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』

 人間はいつでも自分で自分に嘘をつこうと身構えている存在です。自己弁解や自己正当化からほんとうに免れている人はいません。重症患者ばかりの病棟に入院したことがありますが、巨人=阪神戦のテレビが病室から聞こえてきて、その部屋の患者は三日後に亡くなりました。半狂乱になりそうな人間がスポーツ実況を楽しめるのです。自分で自分に仕掛けるこの嘘は、切なくも悲しい生の慰めであり、息途絶える直前まで人間は自分を紛らわして生きられるという生の強さの秘密でもあります。しかし人間は基本において弱く、このような場面で自分に嘘をつく自分をまで「最悪の敵」とせよ、とニーチェが言っているのかどうかは、今は問わないでおきます。余りに大きな、深刻な課題へと広がっていくからです。

 人間は誰でも真実を求めて生きていますし、真実を前提にして物事を判断しているものと信じられています。他方、嘘が公然の秘密になっている社会的場面をも了解しています。例えば政治家の選挙公約は嘘が当り前だと皆思っています。しかし百パーセントの嘘を演技して大衆を瞞せるとは思えません。政治家も自分の嘘を嘘とは思わず、ほどほどに真実と思って政治に携わっているはずです。同じように言葉の仕事をする思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。制約は社会生活の条件です。公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう。それなら語られない暗部は真実の世界で、公的に語られた部分は嘘の世界なのでしょうか。そんなことはとても言えません。

 嘘の領分と真実の領分とは決して対立関係にはないのです。関係は微妙で、本音と建前の対立がよく取り上げられますが、意識的に操れるそんな見え透いた対立でもありません。

 思想家や言論人が出会う「最悪の敵」は、自分で気づかぬうちに自分に仕掛けてしまう自己弁解や自己正当化です。それが嘘となるのです。人間は弱い存在です。公論と称せられるもののいかに多くが自己欺瞞に満ちていることでしょう。

 近刊の拙著、『真贋の洞察』の「あとがき」の片言を、関連があるのであえてここに再録させて下さい。

 「言論の自由が保障されたこの国でも、本当のことが語られているとは限りません。

 本当のことが語られないのは政治的干渉や抑圧があるからではないのです。大抵は書き手の心の問題です。

 私はむかし若い学者に、学会や主任教授の方に顔を向けて論文を書いてはダメですよ、読者の常識に向かって書きなさい、とよく言ったものです。言論人に対しても今、世論や編集長の方を向いて書いている評論がいかにダメか、を申し上げておきたいと思います。

 言論家にはここにだけ存在する特有の世論があります。評論家の職業病の温床です。

 書き手にとって何が最大の制約であるかといえば、それは自分の心です。」

 ニーチェは、敵は自分であり、自分自身が自分を待ち伏せしているのだ、と言っているのではないですか。

『諸君!』2月号より

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