月が替わってまた4月号の月刊誌の出る時期が来た。以下の通り『WiLL』では評論、『諸君!』では対論を発表した。
いまこそ「昭和史」と戦おう 『WiLL』
「田母神俊雄・真贋問題」を決着する 秦郁彦VS西尾幹二『諸君!』
どちらも歴史がテーマである。第二次大戦をめぐる評価の問題である。いつ果てるともない日本の言論界のいわば永遠のテーマといっていい。
しかしここへきて、明らかに変化が生じてきた。今まで「保守的」と思われ比較的まとまっていた陣営が戦争観に関して二つに分れだした。すなわちあの戦争を強いられた戦争とみるか、国内の悪の発動とみるか。侵略された側とみるか、侵略した側とみるか。いかんともし難い運命との戦いとみるか、回避しようと思えば回避できた愚かな選択とみるか。戦前・戦中の生死観には特有の幸福の意識があったと考えるか、今も昔も人間の生死観には違いがないと考えるか、等々。・・・・・・
以前からこの二つの考え方の対立はあったのだが、マルクス主義的左翼と対決している間の思想界はこの二つの価値の相違をあまりはっきりさせないできた。保守の名において大同団結していたからであrう。
いまアメリカの覇権が終わるのではないかという時代認識――勿論明日どうこうではなく10-20年の時間はかゝるであろうが――少くとも覇権の意味が、その質が変わる潮目の時代に入ってきている。それははっきり言えるであろう。
このことによって歴史の「枠組み」(パラダイム)も変わるのである。日本人は日清から四つの戦争を武士道の精神で戦ったのではなかっただろうか。英米の金融資本主義とも、ソ連のコミンテルンの教条主義的行動とも、ドイツやイタリアやフランスを襲ったファシズムとも、日本はそのどれとも関係がなく、「心理的」影響を受けはしたが、せいぜい時代のモードとして受け入れただけで、基本は国家の危難に対し武士道の精神をもって起ち上ったのではなかっただろうか。
今そのことが多くの国民に少しづつ実感されてきて、言論界の歴史観も二つに分れてきたのである。そこへ田母神さんの事件が起こった。丁度いい切っ掛けだったのである。
『諸君!』3月号の拙論「米国の覇権と東京裁判史観が崩れ去るとき」はこの時代の転換について論説した。『WiLL』4月号の「いまこそ『昭和史』と戦おう」と『諸君!』4月号の秦郁彦氏との対論はこれを承け、さらに思想的に発展させている。
同時に私たちがこれから相手として戦わなければならない今の時代の典型的な「進歩的文化人」は、半藤一利、保阪正康、北岡伸一、五百旗頭眞、秦郁彦の諸氏であることを、『WiLL』4月号で宣言しておいた。
4月号のこの両誌の私の発言は、時代の転換に対する一つの里程標になるものと信じて疑わない。