私がブログの更新を怠っているのは、仕事に夢中になっていて時間がないためと思っていたゞきたい。四月は四つの雑誌に出稿し、新しいテレビの活動を始めた。
久し振りに『正論』(6月号)に気合の入った論文を書いた。題して「日本の分水嶺 危機に立つ保守」(36枚)。日本は旧戦勝国のいわば再占領政策にはめ込まれている。窒息寸前の本当に危うい処にきている。
私はこの論文で憲法改正のできない理由は、保守言論界が天皇と戦争の関係をきちんと問うことを逃げていることにあると書いた。九条改正後、宣戦布告をする責任主体は天皇以外の誰にあるというのであろう。ダメなのはリベラル左翼ではなく、問題を逃げる日本の保守である。
『諸君!』(6月号)は最終号となる。7人の論客の大型討論に出席した。5時間の討論で、伝統、外交、政治、経済、歴史認識などを論じ合った。
出席したのは田久保忠衛、櫻井よし子、松本健一、遠藤浩一、村田晃嗣、八木秀次、そして私、司会が語り手でもある宮崎哲也の各氏である。ゲラ刷りの修正整理が大仕事だったが、長大な討論をどうやって編集したのか、想像がつかない。
各自でゲラに書き込みをするので話がつながらなくなってしまうのではないか、と心配している。本当はこういう長い討論は二度著者校をしないとうまく行かないと思うが、そういうこともなしで終った。何がどうなったのか、誌面をまだ見ていないので分らない。
この大討論会でも私は上記の問題意識を問うているし、やはり日本の保守がダメなのだと言った。
『WiLL』にもある事実の論証をメインの目的とする論文を書いたが、論証にまだ不十分な点があることが分って、ゲラの段階で今回の掲載を見合わせることにした。論証には外国への問い合わせなどを要するので、発表は2~3ヶ月先になるだろう。
他には『撃論ムック』に先回の続篇を書いた。また今月のGHQ焚書図書の内容は「消された菊池寛の名著『大衆明治史』」である。
人と討論したり、雑誌に書いたり、雑誌に書くために世界の情報を調べたりすることで物事を「考える」切っ掛けが増えるので、上記のような活動をいろいろ多様にすることは悪いことでは決してないが、私が今思い悩んでいるのは、こういう活動から一定の距離を持たないと本質的に「考える」ことは出来ないということである。
今月は以上の通り、『正論』と『諸君!』の二冊に私の時局に対する明確な意見表明がなされているが、これから『諸君!』がなくなるし、雑誌言論界に少しづつ変化が生じるように思えるので、これを切っ掛けに私の生き方をも少し変えなくてはいけないと思っている。
単行本で勝負するのがやはり筋だと思う。それも、評論集の類ではない。自分の主題をしっかり追った単一主題の本である。昨年私が出した5冊のうちで私自身がその意味で納得しているのは『三島由紀夫の死と私』である。
単行本に打ち込むためには何ヶ月も、一年も、ときには二、三年くらいその主題への没頭が生活のすべてになるような生活をしなくてはならないのである。当然、雑誌その他からは離れることになる。
昔は雑誌が連載をさせてくれた。だから両立した。『江戸のダイナミズム』は『諸君!』連載であった。今の余裕のない出版界ではその機会はほとんどない。私がいま企画しているのは世界の18世紀を考えるテーマである。大型企画である。今やらせてくれる処はない。
毎月黙って30枚づつ書いて一年半書きつづければ500枚レベルの本は書ける。私の体力はまだ私にそれを許している。勉強するのは楽しい、という気力もまだある。『国民の歴史』と『江戸のダイナミズム』につづく第三作をどうやって実現するか。
人間は易きにつくという性格がある。安易な方をつい選ぶ。雑誌に書いていると何となく集めて本ができる。今も新しい一冊の本の編集が進んでいる。時代への私の想いを表明した内容である。時代への私の危機の表明は――今月も先ほど冒頭で述べたように――本気であり、これからも消えることは恐らくないし、時局から目を離すことも恐らくないだろう。しかし私の心は満たされない。こんなことをやっていて、ただ時代に吠えただけで、そのまゝ死を迎えるのは耐えがたい。
何か本当のことをまだ書き了えていないという飢餓感がつねに私の内部に宿っている。それは若い頃からずっとそうだった。心の中の叫びが表現を求めてもがいている。表現の対象がはっきり見えない。そのためつい世界の中の日本をめぐる諸問題が表現の対象になるのは安易であり、遺憾である。何か別の対象があるはずである。ずっとそう思ってきた。そして、そう思って書きつづけてきた。
結局対象がうまく見つからないで終わるのかもしれない。私は自分がなぜたえず飢えを覚えて生きているのか、自分でもじつは分らないのである。
話変わるが、5月から放映のはじまる新しいテレビの録画の仕事は二ヶ月分をすでに済ませている。そのことは次回に報告する。