新刊の拙著『「権力の不在」は国を滅ぼす』(WAC刊 ¥1524円+税)は8月8日に店頭発売となります。「あとがき」の全文を掲示します。この本の主題はここに集約されています。
あとがき
本書で私は皇室問題を論点の一つに揚げていますが、最近もひきつづきマスコミが取り上げている雅子妃殿下のご進退をめぐるテーマが、本書の追及する皇室問題では必ずしもありません。それは昨年上梓した『皇太子さまへの御忠言』(ワック)でほぼ言い尽くしております。
本書ではまだ不十分なかたちで言及しただけですが、天皇と戦争の関係をあらためて問い直す必要を唱えています。Ⅰ部第1章「危機に立つ保守」とⅡ部第3章「国家権力が消えてなくなった」に、今まで私が踏みこまなかった新しい論題への言及があります。
今上陛下が本年四月八日のご結婚五十周年の記念の記者会見で述べられたように、象徴としての天皇のあり方は日本の歴史に反するものではもとよりなく、むしろそれに沿うものでしょう。昔から皇室は権力ではなく、権威でした。権力に逆らわず、権力に守られ、静かに権力を超える存在です。しかし、権力のない国家はあり得ない、というのもまたもう一方の真実です。権力がしっかり実在していて、権威が心棒として安定しているときに、この国はうまく回転します。
そこまでは分かり易いのですが、「権力を握ってきた武家」が昭和二十年以来アメリカであること、しかも冷戦が終わった平成の御代にその「武家」が乱調ぎみになって、近頃では相当に利己的である、という情勢の急激な変化にどう対応するかを無視して、皇室問題を考えることは今ではできなくなってきました。冷戦時代には、世界のあらゆる国が米ソのいずれか一方に従属していましたから、日本の対米従属は目立ちませんでした。しかし今はこの点は世界中から異常視されています。
北朝鮮からは舐められ、韓国からは侮られ、中国から脅されるような日本の今の危うさは、昭和の御代にはありませんでした。すべて平成になってからの出来事です。平成につづく次の時代にはさらに具体的で、大きな危険が迫ってくると思います。
戦後左翼は軍部による統帥権の干犯ということを今次大戦の最大の問題とし、昭和天皇の戦争責任を問うてきました。保守側は軍部の独走を同様にやはり非難する代わりに、天皇は立憲君主の制限枠を守られて責任はなく、一貫して平和主義者であられたと弁護にこれつとめてきました。私はどちらの見方にも反対です。あの戦争を否定してしまうから、この無理な二つのいずれかの見方になるのです。
私は保守側が天皇の戦争責任を左翼とは違った見地から問い直す時代が来たと考えます。昭和天皇は責任がなかったのではなく、責任を立派にお果たしになったのです。
憲法九条の改正が喫緊の課題として今や国民の大多数の常識になっていますが、それなら統帥権(軍権)は誰の手に委ねられるべきなのでしょうか。日本国家は将来「宣戦布告」を誰の名において行うべきなのでしょうか。この肝心な一点を考えないで置いて、憲法改正もないではありませんか。
右の問題追及と新しい認識の確立は、今上陛下がその望ましいあり方を求めてこられたという「象徴」天皇の憲法規定と矛盾するものではありません。また両陛下がすでにサイパンを訪れて戦没者の霊を慰め、今後東南アジアの戦場を訪れたいと仰せになっている追悼の意志とも、いささかも相反するものではありません。
ところが陛下のご意向、憲法への思いや慰霊行脚を口実にして、これを政治利用する人が早くも出てきました。保阪正康氏は講談社の『本』(2009年6月号)で「平和勢力としての天皇」というエッセイを書いて、「こうした一連の行動(戦没者追悼の)や、その意味するところから考えて、私は、天皇は日本社会の最大の平和勢力ではないかとも考えるに至った。平和勢力という言い方はいささ固苦しいイメージを与えるにせよ、この天皇・皇后が存在する限り、日本は戦争という手段を選ばないとの理解は、国際社会でも確立しているように思う。つまり国益につながっていると考えられるのだ。」と述べています。
戦争という手段を封じた現行憲法が今まで辛うじて有効だったのは、日米安保条約とワンセットになっていたからにすぎません。冷戦の終結とともに、この条約は共産圏から日本を守る役割を失い、ゆっくりしたテンポで変質しつつあります。日米安保条約は今では国際社会での日本の行動の自由を拘束し、国内では、外交政策や経済構造や司法や歴史教育観などにおける日本の自律を侵害しつづけています。
日本人は国内に五十個所も米軍基地を許し、関東南部の地上から7500メートルの空域を米軍の管制下に置かれ、戦争はしないと言いつつも米国の意のままの戦争にのみ狩り出される可能性は今後高く、自発的ないっさいの紛争処理能力を奪われる弊害は無気力な退廃を生み――拉致問題を見よ!――保阪氏が言うように「国益につながっている」と考えることなどはまったく出来ません。
今上陛下は「平和勢力」であり、昭和天皇は「平和主義者」であるというのは一面的な見方であり、悪いのは天皇を利用して独走した旧軍部であるというのも、単純な善玉・悪玉論にすぎません。こうした偏ったものの考え方は現在の世界の現実にも、歴史の真実にも一致しません。平和という念仏を唱えつづけたい人の妄執じみた信仰にほかならないのですが、困ったことに、ものを考えない多数の人の安易さにこれは波及効果があり、しかも天皇の政治利用を絡めている悪質な手法を用いているだけに、油断がならないのです。
日本はいま国家としての「分水嶺」に立たされていると思います。本当にこの国はどうなるのだろうか、との思いは多くの人の胸中に鬱積しているに相違ありません。
そしてそれは経済や産業や教育や社会問題の不安だけでなく、むしろ背後においてそれら不安の原因をなしている国家の中枢の変質の問題、ないし権力の空洞化ということと関係があります。私は本書ではその意味において皇室と安全保障とが岐路に立たされていることを考察しました。
ここで「皇室」と言ったのは、天皇と戦争をめぐる歴史観の再考というテーマであることは右に強調してまいりましたが、話題の皇太子さまご夫妻のテーマもまったく無関係ではありません。
昨年十二月羽毛田宮内庁長官がいわば天皇の意を体して「皇室そのものが(雅子さまに)ストレスであり、やりがいのある公務が快復への鍵だとの論があるが」それに「両陛下は深く傷つかれた」と発言しました。これは天皇から皇太子ご夫妻へ向けて二人のあり方を真剣に考え直せ、というメッセージであったと思います。この間のいきさつについては本書ではⅡ部第4章記録を復元し、できるだけ詳しく判断の材料を提供しました。
加えて今年二月の皇太子殿下の誕生日記者会見に殿下からどのようなご回答があるかにも注目し、本書の213―223ページに会見内容を再録しました。ご覧の通り、殿下はいろいろなことをたくさんお話になっていますが、肝心のこの点、記者団から「問二」として出された質問にはするりとすり抜けるようにいっさいお話しになっていません。一番のポイントですが、それだけに難しすぎてお話しになれなかったのだと思います。その点はもちろんご同情申し上げますが、しかし問題は皇室そのものが妃殿下のストレスになるという、まさしくここにきわまっているのです。
いわゆる適応障害と呼ばれる病気はそんなに長くつづくものではないといわれています。私は雅子妃殿下はご病気かどうかは今もって知り得ないのですが――一人の医師の認定以外に、情報は完全に閉ざされている不自然さゆえに、国民の一人として推理させていただく以外に方法はないことを前提として申しますが――妃殿下にとって皇室がストレスであるとは皇室という環境そのものがいやで、伝統的行事とか日本古来の仕来りとか和歌とか作法とか、そういう世界からできればなるだけ遠ざかっていたいという心理状態なのではないかと思います。美智子皇后への劣等感もそこに重なっているのかもしれません。
とすると、ここからが問題で、皇太子ご夫妻が宮中の主人公となられた暁には、公務の質をがらっと替えてしまわれる可能性が高いと思われます。そして、あっという間にご病気は治り、代わりに国民と皇室との一体感は消えて、まるきり異なった関係が生じ、国民を戸惑わせるのではないかと思えてなりません。私が一番心配しているのはこの点です。今の日本では「民を思う心」が皇室にあり、神道の本質ともいえる「清明心」の模範の柱が皇室にあるとの信仰が国民にあります。その二つの型の呼吸がピタと合っています。それが今はまだあります。この両者相俟つ関係が今後もはたして維持されていくのだろうか、それを私は一番心配しているのです。
独楽を回すと、中心の心棒は動きません。回転が順調で、速ければ速いほどぐらつきません。独楽の運動と心棒の関係は、国民の活力と皇室との関係です。
天皇が国民の代わりに神に祈って下さる祭祀が最重要の公務であるのは、ここに由来します。
皇室を守っている権力がしっかりと実在し、権威である皇室がぐらつかない限り、国家は安泰なわけですが、今の問題は、その肝心要の権力が外国にあるということの悲劇があらためて認識され、「権力の不在」が露呈しているのに、国家がなすすべもなく茫然自失している事実です。日本政府は皇統問題の未解決にも、妃殿下のご不例にも手を出しあぐね、テポドン、竹島、東シナ海ガス田等の近隣諸国からの脅威にも手が打てないのですが、方向の異なるこの二種類の無策は同質です。
「権力の不在」は皇室を荒れ野に放り出しています。政府が何かに怯えてかの田母神論文をわけもなく封じた周章てぶりは、国防をアメリカに丸投げしている魂のも抜けをまるで絵に描いたような椿事でしたが、これはわが国の皇室が戦後GHQ保護下に置かれた秘かなる歴史の後遺症と切っても切り離せない関係にあります。
そうです!今必要なのは、独立です。日本国家のありとあらゆる面における独立です。
本書は四十日に及ぶ真夏の総選挙の最中に投げこまれます。この選挙は国家の核を守るのが存在理由である保守政党がその自覚を失ったがゆえに苦戦を強いられ、他方、勢いづく野党は国家意識を持っているのかどうかすら怪しいのです。
ある人が言いました。「自民党は左翼政党になった。」「では民主党は?」と私は聞きました。「民主党は外国籍の政党です。」
この不幸な無政府状態のカオスを脱するのに、本書がわずかでも心ある人に道を示すことができればまことに幸いです。