西尾――近代文学は何か一つ、反権威でもいいし、反市民社会でも、反社会性といってもいいですが、芸術の核をなすものの中にいつもあった。日本も小ながら隠微な形でそういうものがあった。ところが、いま反社会性がまったく成り立たなくなっている。どんな反社会的な事件が起きても、別な価値体系から祭り上げられてしまい、いつの間にか反社会性自体が社会性を獲得する妙な状況が左でも右でも起こっている。そうすると、何もできないし、何もしないほうがいい、すること自体間違っているのではないかと言うような・・・・・。
福田――間違っているかどうか、わからないにしても、しがいがない、徒労だ、という感じがしますね。これはぼくだけでなくて、多少まじめに仕事をしようと思えば、だれも皆感じていることではないかなあと思いますね。で、さっき言いかけたことですが、日本では芸術と実行の問題、それから政治と文学の問題という対立でいつも取り上げられてきました。芸術の中には、自分の純粋自我を表現するが、実行は、そうでない、集団的自我である。だから、芸術のほうを高く評価するという行き方があった。二葉亭四迷のように、芸術と実行の矛盾に悩み、文学を捨ててしまった人もいるわけです。田山花袋のように、自分がふと書いたものが祭り上げられて、あとでどうしようもなく、身動きできず、結局、修生、芸術と実行という問題に悩み通した人もいる。芸術と実行の問題は、ロレンスの個人的自我と集団的自我に関連があると思います。その問題はいまだに日本では解決されていないのではないですか。
西尾――そうですね。
福田――ロレンスがイギリスの中で苦しんだ激しいものでないにしても、芸術と実行という問題は、まだまだ日本の文学では問題になっている。だけど、そのときに、私がいつも素人でいろ、素人を大事にするという考え方と関連があるけれども、私は芸術よりも実行を大事にしてしまうんですね。
西尾――あるいは、実行で果たされない部分を芸術で勝負しよう、と。逆にいえば、芸術の中に実行を忍び込ませるようなことはするな、と。ということは、芸術の実現不可能なことかもしれないというところに勝負をしろ、と。さっきの主題に繋がるが、それが実際にやられていなくてマス・プロ条件がますますおかしくなっている。ただ、六〇年代に起こった事象というか、文化現象に見られるように、日本にもようやく、そういうつらさが皆の中へ入ってきている。考え方によれば、ようやく、近代社会になってきたともいえる。
福田――ええ、そういうこともいえますね。だから、ロレンスに影響されたというか、ロレンスを利用した場合には、あくまで、日曜学校の牧師をやっつけるためにやっていたことだともいえる。それは知識人ともいえるし、自分だけ正しいという偽善的正義派を攻撃するときに、ロレンスのアポカリプス論くらい、便利なものはない。ほかにニーチェやドストィエフスキーがいるが、英文学ではロレンスほど便利なものはない。年代からいっても、われわれに近く、ドストィエフスキーよりも近い。だから、私はもっぱらロレンスをやるようになったといえる。
西尾――実際には、
『人間・この劇的なるもの』に展開されている主題も、この本の中に胚胎しているという印象はあるのですが、たとえば個人性と全体性、あるいは自由と宿命の問題ですね。
福田――ええ、ロレンスに影響されたものは、非常に根本的なものだが、もっと表面的にいうと『人間・この劇的なるもの』が売れる部数と、
『平和論に対する疑問』が売れる部数とは違う。表面的には『平和論に対する疑問』のほうにロレンスを多く利用している。『人間・この劇的なるもの』は利用したのではない。ロレンスがもっとはいり込んでいるというだけで、意識的に利用したわけではない。気軽に利用したのは『平和論』のようなときであって、『人間・この劇的なるもの』は書いたときには気軽にとはいかなかった。第一に、利用することを意識していないし、もっと深く入りこんでいたでしょうね。だから、ほんとうにロレンスがはいり込んでいたのは『人間・この劇的なるもの』のほうかもしれない。
西尾――その場合、先ほどの問題に戻りますが、個人の純粋自我と集団的自我の二つの対立は、福田さんが「演劇」と「政治」という二つの世界を活躍の舞台としたということで、いかにもふさわしい。演劇と政治はまさしく個人的自我と集団的自我との戦い合う場でもある。福田さんの行き方あるいは思想が、個人の在り方と、それから他者の在り方、もしくは他者を含めた広い意味の社会とを、どうかかわらせるかをたえず意識しているように思う。つまり、この本に出会うことによって、福田さんの内部にあったものが、触発されたのでしょうが、非常に運命的なものがあるといえる。小林秀雄におけるランボーに似たような性格があったと思う。ロレンス論の最初にも書いていますが、一冊の本に出会うこと、それがだんだんいまなくなってきている。文学や、生き方でも一つのものに自分がのめり込んで初めて人生の目が開かれるということがなくなってきて、水増しのようなジャーナリズムの氾濫の中でアップアップしているのが多い。強い生き方が不可能になってきている感じがある。話は戻りますが、ロレンスは、個人的純粋自我は可能かということをたえず問い続けている精神であるから、場合によっては集団的自我との妥協の仕方、つき合いの仕方、処世の仕方を教えているとも解釈できますね。
福田――ええ、だから、非常に平俗ないい方ですが、結局私がさっきいった自分の自我との折り合いのつけ方ということになる。
西尾――それは結局、自覚に繋がることだが、そういう対決をくぐり抜けていない場合は精神の弱さになる。その場合、問題になるのは集団的自我がつき合っていく外延の世界、他者もしくは集団社会、われわれのコミュニティーですが、これが現代では非常にアモールフ――不定型なものですね。日本の社会自体がもともとアモールフなものなのですが、加えて時代が六〇年代後半からますますそれを強めてきている。非常に厄介な時代をいま迎えていると思いますが、それに対する決意はいかがですか。
福田――たとえば、ロレンスについていえば、彼は最後に結局、愛とか心の温かさとかが一番大事だ、ということをいっている。ところが、実生活では、ほんとうに彼は心の温かさを持つにいたったか。それからドストィエフスキーでいえば、たとえば『罪と罰』では、ソーニャの前におごりたかぶったラスコリニコフの自我がひざまずくということを書いても、ドストィエフスキーは実際には、そういうことができない。それがなかなかできないのが西洋人ではないのか。というより、そこに西洋の近代文学の限界があるのではないか。そこに芸術と実行の問題があるが、西尾さんにいま、現代の状況に対する決意のほどといわれたが、それはあまり、いま考えておりませんね。それよりも、自分がいろいろと書いたり何かしたことが、自分の生活にどれだけのものをもたらしたかということのほうが大事で、ロレンスの影響にまだこだわっていえば、人が人を愛し得るか、という問題を提出するよりは、自分の実生活でそれをやることのほうが、私にとっては大事なことのように思うんです。中世ルネッサンス以来、問題は全部出しつくされて、これ以上、新しい問題は出せっこないと思っている。だから、それを実際自分の生活でどうしたらいいかということが残る・・・・・。
西尾――いままで福田さんは特に大義名分に従った生き方を批判されてきた。逆にいうならば、大義名分があらゆる陣営において、あらゆる思考形式において、むなしいものであることが広く自覚されつつある。大義名分は、また出てくるかもしれない。しかし、そのときはそのときで、いままでは自分の生活のじゃまになるものに対して戦ってきたわけですね。
福田――ええ、そのとおりです。
誤字訂正(11/17)