福田恆存氏との対談(昭和46年)(三)

西尾――イエス・キリストに対するそういう考え方は、ドストィエフスキー、ニーチェが似たようなことをいっていますね。ドストィエフスキーでは『白痴』にそれが感じられるし、また、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官にもある。ニーチェのアンチ・クリストにも似たような発想がありますね。大審問官と、ロレンスと、福田さんとの三者に共通していえるおもしろい現象は、純粋な自我と、集団的な自我とを分けて、一方では純粋であろうとしながら、他方では純粋であることは原理的に不可能だという自覚がつきまとっている。何人(なんびと)も、集団自我たらざるを得ない瞬間があるとするならば、集団の部分、すなわち、社会的次元における自我を是認しようとする。それを是認できない精神をむしろ弱い精神といい、悪を避けることに一義的な正義をみる精神に弱さをみている。カトリックは巨大な政治体系であるが、福田さん自身は、このカトリックの精神に親近感を持っておられ、あるところでは純粋な自我を一転するところがある。耐えられないのを貴族主義的である、といわれましたが、逆にいえば、ワンマン的なものを是認するところがあるわけで、そのへんをお伺いしたい。

福田――それはいまだに私には、自分で始末つかない問題なんでね。もし、始末がつけば福音を述べるかもしれないけれども(笑い)。

西尾――ただ、それは、背景の文化にかかわっていませんか。個我の純粋は成りたちがたい。そのような個人性は、極限を要求する。ロレンスは、そういう考え方に立ってイエスにすらなし得ないことがあることをはっきり自覚しようとした。したがって、ましていわんや凡人においてをや、と思わざるをえない。他方では大審問官の大衆侮蔑という形で、大衆にはパンでもだまして与えておけばいいのだという発想がある。ですから、個人が他者を愛することは不可能である、という実現不可能性をいつも見続けていくことになり、しかも、実現不可能を知りながら虚偽に耐えようという発想が逆に出てくる。それがカトリックの考え方のように思う。

福田――確かに私が青少年期を送った時代にはそのような背景が日本にはなかったが、私の性格や生い立ちの中にあったように思う。一番つまずくのは、人が人を愛し得るかという、愛と信頼との問題です。これは私が芝居や評論を書いても一番大きなテーマであって、結局、それと同時に実社会においても文学と生活、芸術と実行という関係のなかでいわゆる貴族主義者たちは芸術一辺倒ですましていることを、私にはどうしてもできなかった。それは下町で育つというところにも理由はあるかもしれない。私の学校の友だちは高等学校、大学を通じてほとんどが地方から出てきて寄宿舎や下宿生活をしていた。ところが、そこに成り立っているコミュニケーションは、彼らが故郷に帰れば、父や母や、兄弟とかわすものとはまったく違うわけです。大半の学生たちは大部分の青春を、家庭的なものから切り離されて、貴族的な純粋自我の世界に、あるいは理想の世界に生きていたといってもいい。ところが、私の場合、寄宿舎生活をやったことがない。浦和高校、大学も、家から通った。毎日、家に帰ると親父、お袋がいる。いまでいう庶民ですね。だから、学校で友だちと話し合ってきたことは通じないんですよね。その落差の中に、いつも悩んでいた。寄宿舎の学生みたいに、夏休みのときだけ、親戚づき合いをすればいい、というのではないのです。飽きがきたころ、またのびのびと学校に戻ればいいということは許されず、毎日、毎日その落差に悩んでいた。親戚は、お袋系も親父系も全部職人ですから、もちろん話が通じない。そういうことから純粋自我だけでは生きられない、個人的自我だけでは生きられない。集団的自我というものに目を向けずにいられない状況にはあったとは思う。そこで、個人的自我はどこからきたかというと、外国文学や、外国思想の影響でしょうね、きっと。

西尾――そうですね。だいぶはっきりしたような気がいたします。つまり、福田さんが大学時代に出会った精神的空間を一つの日本の近代化を促進したところの知識世界として象徴すると、もう一つは庶民的レベルでの生活の場という空間があり、そこには常に落差があったということですね。福田さんには前者の部分が持っているゆがみが若いころから非常に鮮明に見えていた、あるいはそれに悩んでいたことが思考の一切の基礎体系になっている。しかし、ロレンスの個人的自我、集団的自我のドラマは、西欧二千年の歴史的な背景をもったすさまじい世界から出ているのではないですか。その場合、このロレンスが福田さんの魂を触発した一面があったとしても、同時にそのままは結びつけることのできない日本の近代の弱さ、にせもの性が別にあった。時代を動かしていると言う日本の知識階級には自己過信がある。それは妄想にすぎない。実際、日本を動かしているのはそういうものでなく、現実の大きな力があるのであって、知識階級は根無し草である。そういう状況の中で、福田さんは職人的日常、もしくは江戸期の町人の生き方、という文化的な考えを措定さrせている。つまり頭脳だけ空疎に走ることに対する戒めがあるわけです。しかし、その基盤をなしている職人的部分も、怪しげになっているのが日本の近代ですね。それを両刃の剣みたいに両方切っていかなければならない。

ところが、ロレンスの場合には、一つの大きな文化体系の中で試みていたから、ロレンスは反逆児たり得た。正統思想の中で異端派可能であった。日本においては、正当なものをつくってからでなければ異端になりえないということで福田さんはシェークスピアをつくり、さらにロレンスをつくり出した。その分裂が自らの中にあったと思いますが・・・・・。ところが、いまの日本のような状況になると、どんな反逆も有効性をもたず、ますますもってロレンスでも生きられない時代になってきたんではないかという感じもしますが・・・・・。まだ、ヨーロッパも怪しげになっておりますけれども・・・・・。それで、自我の支えがうまく調和とれているのですね。

福田――ええ、いいかえれば、一種の集団的自我が成り立っている。別のことばを使えば、個性あるいは個人を放棄している。よくいえば共同体意識がある。これは時間的にも空間的にもいえる。つまり時間的にいえば伝統であり、空間的にいえばコミュニティといえる。ヨーロッパにはそれがまだある。アメリカはもう危うい。そういう意味でいえば、確かにロレンスの生きていた時代には、正統思想がまだはっきりとしていた。いまのヨーロッパでもまだまだそれがあるといえる。日本にはそれがない。いわゆる知識人もにせものなら大衆もにせものと化した。大衆もにせものというわけにはいかないが、大衆の生活をにせもの化してしまった一つの近代化があるということになる

西尾――大衆の知識人化傾向ですね。

福田――ことに日本は六〇年代にその現象がはっきりと起きている。ぼく自体にもそういう面があって、どうやってもしようがないと思わざるをえない。だから、ものを書くことがぜんぜん徒労だという感じになってきている。

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