福田恆存氏との対談(昭和46年)(五)

西尾――いろいろな論客がいますが、じゃまになるという意識で戦っているか、大義名分のために戦っているかで大きな違いが出てくると思われます。大義のために戦うか、それとも、大義のために戦っている相手に対して戦うかというところに違いがあると思います。ヨーロッパの場合には、いまドストィエフスキーとロレンスの例で挙げられたように、確かに実生活と彼らの頭の中の激しい戦いでは、ものすごく矛盾していて、生活と芸術はいつでも背反概念のような形をとって、芸術をいつも自分の自我の外に提出する。

福田――だから、ロレンスのように現代人は愛し得ないのではないか、ということをいっても始まらない。愛したらいいではないか、愛そうと努力したらいいのだ、ということにならざるを得ない。たとえば、マイホームというと、皆軽蔑するけれども、それならば、自分の女房、子供を、ほんとうに愛せるかということもいえると思う。なかなか愛することはできない。そこで、愛する仕事はまだ残っているといえるのです。“現代人は愛しうるか”という問題では、ぼくはロレンスに、相当影響を受けたが、もはや、そういうことをいっておどかしてもだめである。それは多くの人によってもう出しつくされてしまった。実際は、われわれがほんとうに愛し得るかどうか、一生かけてやってみることだと思う。個人が個人を愛することができるかどうかということを確かめるべきだろう。それから江戸の町人などのような過去の生き方に、学ぶということも考えられる。それが、よくはやる日本回帰かどうか知らないが、私にはある。三島君の言行一致、知行合一と一緒にされては困るけれども・・・・・。

西尾――あれは大義があるわけですね。

福田――ええ、そうではなくて、私にはやはり、生活にまだまだ課題があるという気がする。

西尾――福田さんのお考えの中に脈打っているのは生活人ということですが、こんどは、現在の状況みたいなものに、もう少し極限してお尋ねいたします。いままで述べられたことに全部つながると思いますが・・・・・。いま空虚感とか、生きがい、とかよくいわれているが、いままでは“欠乏の論理”で人生観、社会観が進んできて、何か敵があったほうが安全で、大義名分や反抗ということで何かを必ず敵視してきたが、“欠乏の論理”が近ごろだんだん成り立たなくなってきている。にもかかわらず、まだなんとなく昔の自我のままでいるふっきれぬものがあって、その穴が埋められなくて困っていることがあるのではないか。

福田――そうです。“欠乏の論理”ということは、別のことばでいえば危機感です。危機感をいつも食いものにしている。これはコラムに書いたことがあったのですが、ベトナム戦争の兵器をつくっているから死の商人というのは当然としても、ベ平連も死の商人ですよ。戦争をくいものにしているんだから。ベトナム戦争が終ったら彼らはどうしたらいいか。それをいつもくり返している。だから、危機感を食いものにするということをいわざるをえない。いろいろな危機感が皆なくなり、公害も片づきそうだとなると、いよいよ、それでは、こんどはどうしたらいいかというので、いま持ち出している危機感が西尾さんの指摘された生きがいなき空虚感というお題目です。だから、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がするだけです。前から、私は、空虚感ということはいっていたんですけれども、いまの場合にそれを持ち出されると、また始まったか、という気がする。過去には戦争反対とか何とかいっているときには、むしろ反対に、人間の空虚感、マイホーム主義を指摘しました。それが、だんだんといろんな危機感がなくなって安定してきているわけですが、それをまた逆に危機感をあおるような形で持ち出されると非常に腹が立つ。あまのじゃくという人もあるかもしれないが、私は自分があまのじゃくだとは思わない。空虚感ということを、また新しい一つの危機感にし始めているところがある。それを食いものにして、また文化人なり何なりがめしのタネにしていくことになると困るなあ、ということがあるのです。

西尾――つまり、日本人が、史上初めてというと大げさかもしれないが、近代人としての自由を享受し得る結果として出てくる孤独感を、皆耐えなければならないときがきたということですね。

福田――そういうことです。

西尾――文学者の中で、私がいま興味を持つ生活は、自分の弱さを知っていてじっと忍耐している人であって、弱さを売りものにする人は、自分では弱い弱いといってピエロを演ずる役を演じているだけで、腹の底では自分の強さやずるさを売りものにしているように感じる清潔感がないところがある。

福田――それは、簡単には礼儀なんです。礼儀作法ですよ。弱さを人の前に見せないということは強がるのではない。自分の弱さを人の前に見せられること、それは、うそついて、隠しているのではなくて、その自分が苦しんでいる姿をそのまま人前に見せることになり、自分の苦しみを他人の肩に背負わせることになるから失礼なんですよ。自分の持っている荷物が重いから、重い重いというと、向うの人が持ってあげましょうと、いわざるを得なくなっちゃうんですね。そういうことと同じです。

 話はかわるが、さっきの話と矛盾するようですが、イエスは自分に対する英雄崇拝を拒否したことになるが、逆に民衆の中には、英雄崇拝の気持ちがあるんですよ。だが、それをどうするかという問題は、一つの大きな力を戦後は権力からの縦の構造として否定してきた。みな平等だ、ということになったが、それでは民衆は気がすまない。集団的自我というものは、それでは我慢しない。平等だ平等だといっていて、喜んでいるかというと、そうではなくて、彼らに崇拝する人物を与えたほうが喜ぶところがあるわけですね。ところが、文学でいえば、ちょうど純文学と大衆文学みたいなもので、純文学では英雄を全部捨て、英雄否定になる。ところが、純文学が捨てた英雄を大衆文学が拾いあげた。この大衆文学の読者は相当数いるわけです――。テレビが皆に見られているのは強い者が出てくるからで、これに対する憧れが民衆の中にある。そういうことを考えると、さっきの一人の孤独な戦いということは、やっぱり個人的自我の仕事であって、われわれの中には集団的自我もある。いくら純粋なエリートであろうと、それはある。この始末がつかない限りどうにもならない。やっぱり、一つの縦の流れが、ロレンスじみてくるけれども、太陽系の中にあって、太陽の熱によって、それから太陽系の物理学的な星の運行というもの、太陽中心に行われているという考え、絶対者への、あるいは憧れというものがある。そういうものに対する憧れは肯定しなければならない。それを全部否定してきたのがヨーロッパの近代である。それにロレンスは反撥を感じている。民衆は皆権力に対する憧れを持っている。これをどうしたらいいか、それをロレンスは“古代異郷”の世界にもっていくのだが、これは彼のフィクション、いまさら古代異郷の世界にかえってもどうにもならない。この問題が解決できない限り、どうにもならないですね。だから、個人の一人のひそかな戦いは、それしかないからといっているだけで、実際はそれで解決できるかどうか。やっぱり、集団的自我というものを何とか位置づけないと、だめではないかと思う。それを、平等、平等でいくとエリートも我慢できなくなるし、それからエリートをほしがっている一般民衆も我慢できなくなってくるという状態が起こるのではないかと思います。

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