福田恆存氏との対談(昭和46年)(六)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

罪意識と被害妄想

 先日、筆者はNHKの「十代とともに」という番組に招かれ、六人の高校生と対話を交す機会をもった。いずれも高校紛争などを在学中に経験し、きまじめすぎるほどいろいろな問題について悩んでいる、いわば青春の唯中にある少年たちばかりで、そこで展開される純粋な論議に、私の高校時代とちっとも変っていない、やり切れないほどの罪意識の告白をきく思いがした。彼らは、例外なく、高校生活の間に自分のことばかりにかまけ、自分たちが共同社会への建設的な役割になんら寄与しないで終ってしまったことに独特な罪の意識をいだいている。受験にかまけ、デモに参加しなかったことへの罪意識。定時制高校生がなお少数でも存在する社会のなかで自分たちだけが受験に没頭できる特権への罪意識。私はほとんど口をはさむ余地がなかった。それは他をよせつけぬ一つの妄執のごときものであった。その罪意識はまた、独特な被害妄想と表裏一体をなしてもいる。彼らは優秀なエリート学生たちばかりだった。彼らが口にする、今はやりの「根源的」な問を、成程われわれは青春のはしかのごときものとして笑うことはできるだろう。彼らがまだ大人になっていない若さのせいに帰すこともできるだろう。事実、そういう青年たちに向かって、世間はたいてい、「君たちは若いね」というようなことばを向けるばかりであるが、そういう大人がなぜかふっきれない、後ろめたさのようなものを持ったまま成長しているのが、また日本のインテリの独特な意識構造でもあるのである。

 つまり、このときの高校生の悩みごとのようなものが個人の生き方の問題として論理的に追求されることなく、なぜか曖昧な情緒のうちに、なし崩しにごまかしたまま「大人」になっていく、というのが大方の日本の知識人のあり方ではなかろうか。さもなければ「二十億の民が飢えているいま、文学に何ができるか」というようなサルトルの問のようなものが出されるとその前に呆然と立ちつくし、いじましい後ろめたさと罪悪感に閉じこめられてしまうようなことが起る筈もないのである。「文学に何ができるか」というような問を立てておけば、実際に文学にはなにをする力はなくても、それだけで文学の社会的地位は疑われないですむといった、この種の問のいささか欺瞞めいた、不毛な性格というものに対してどうしても気がつかないのも、こうした罪悪感にいったんとらえられたひとには例外なくみられる心理の弱さなのである。きまじめな高校生が提出したあのようなごく初歩的な問は、決して無意味な、幼稚な問なのではない。ある意味ではきわめて宗教的な問ですらある。人生の探求はそこから始まるのである。だがまた、それは一個人の身をもってただちに解決不可能な問でもある。従って、ときには口に出して、議論をするのもはばかられる問である。世には、口に出すことさえ場合によっては恥かしい問というものがある。それなのに自分の罪を告白するのは、そのことがすでに自己宣伝という別の罪を犯していることになる。定時制高校生が存在する社会の中で受験勉強をしている特権への罪の自覚といったことは、それ自体は幼稚な問かもしれないが、日本ではそう言って簡単に笑ってすませられないものがある。笑ってすませられるならどうして、日本の近代文学で「転向」などがあれほど大きな問題になったりするのだろうか。戦前から戦後へかけてのマルクス主義旋風が政治的な実行力から遠く、その種のヒューマニスティックな動機の善への懐疑をもつことなしに、ただ自分の善意を歌っていれば、それだけで思想や文化の保証が得られるといった安易さに支配されているのはなぜだろうか。大方の知識階級の意識は、高校生の初歩的な問とほぼ同じものを、別の形でさまざまに提出し、それを日本的な情緒のなかに風解させて、なし崩しに大人になった人間の弱さを内に秘めていないだろうか。

 というようなことは、福田恆存氏が生涯をかけて、折にふれ、くりかえし出しつづけてきた問とも密接な関係があるのである。ごく最近にも、私はある日本のカトリック作家のキリスト教劇を見て同じ疑問にとらえられた。キリスト教徒は戦争で人を殺すということは許されるか、という問をこの戯曲は提出する。解答不可能な問である。そして、そういう疑問に悩む弱い人間の絶対肯定と、悪しき時代の圧制への呪いとが全篇を流れている。自分はつねに善である。ただ自分は弱い人間なのである。時代の圧制に抵抗できない弱さのうちにひたすら犠牲者の動機の善を見るところにこの戯曲は成り立つ。キリスト教劇とは言いながら、私には一昔前の転向劇のようにもみえた。それは定時制高校生がいる時代にのほほんと受験勉強をしているのは罪ではないか、という問を立てられ、うまく返答できない気の弱い高校生をおびやかすのとほぼ同じ脅迫的効果をこの道徳的な戯曲はもっているということでもある。それ自体としてはいくら正しくても、解答不可能な問を立て、それによって他人の存在をおびやかすのははたして正しいことだろうか。いつも正しい問を立て、他人の罪や不正をあばき立てているひとびとは自分のエゴイズムというものを見ていないのではないだろうか。

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