福田恆存氏との対談(昭和46年)(七)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
  (私が35歳のときの評論です)

近代とエゴの処理

 もとよりそれは日本の近代にのみ特有なことではない。それは自由と平等の理念の調和性を夢みたヨーロッパ近代の大きな特徴でもあった。自由の理念は、厳密に考えれば、必ずしも平等の理念と一致しはしない。自由と平等という相容れない二つの理念を同時にわがものとしようとした個人が、ために自分のエゴイズムの処理の仕方において失敗し、混乱している時代とも言えよう。ロレンスはこうした処理に対しなんらかの解決策を提示したのではない。ただ、問題の所在を明らかにしようとした。彼は個人の生き方の上での「純粋」が不可能だといっているのではない。だが、本当に純粋であるとは、他人や社会のことを自分よりつねに上位に置いてそこに良心を賭ける、というような他者への愛が、厳密にいえばイエスひとりにおいてのみなし得た人間の実現不可能事に近いのではないか、というぎりぎりの問を孕んでいることを確認したかったまでだろう。この世に純粋な個人はなく、イエスといえども、弟子の前で教えを説くときには支配し、支配されるという政治の力学、集団的自我から解放されることはなかった。われわれは純粋な個人たり得ない。われわれは他者を支配しようとする自分の内なる権力意志から自由にはなり得ない人間としての弱さを宿命的に秘めている。本当に純粋であることは、自由ということがほとんど成立不能に近いそうした個人的自我を正視していることであり、その弱さの自覚を通じてはじめて人間はなにほどかの強さを得る。現実の不公平、もしくは仮借なさに耐え得る人間としての生き方の強さの一面に触れることができる。もし最初から人間は愛他的な存在で、権力意志などからは自由な強い精神だという風に考えるとしたらそれは余りに楽天的に過ぎるだろう。また、権力に虐げられ、奪われている弱い人間にはもともと権力意志などは介在する余地はない善意の存在だと考えるとしたら、それはまったくロレンスの言っていることとは逆であって、彼はアポカリプスの「神の選民」のうちにむしろ弱者の自尊の宗教を見る。現世の保証が得られぬために、弱者の秘められた欲望はいっさいの地上権勢を拒否して、理想が満たさぬために理想がいっそう病的に純化された「呪詛の宗教」となってあらわれたのがアポカリプスの精神だと彼は見る。「奥義、大いなるバビロンの地の淫婦らと憎むべき者との母」そういう呪いの言葉は全世界に向って放たれ、黙示録として聖書のなかに忍びこんだ。中世期には、神の名による政治の力学の完璧な体系が成立していて、その歪みが表面に顕在化することはなかった。むしろ近代に入って、解放されたエゴイズムが自由、平等、博愛を掲げた近代のヒューマニズムの裏側にその姿をみせはじめるにつれ、黙示録に秘められていた人類への呪いは、しだいにあらわになる。なぜなら、自由や平等や民主主義は、エゴイズムを調節する政治の原理ではあっても、人間がエゴイズムから脱却するための原理ではなく、むしろそうした解脱をますます困難にする近代病の上に成り立っているからである。

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