福田恆存氏との対談(昭和46年)(八)

解説評論:エゴイズムを克服する論理
(これは私が35歳のときの評論です)

“弱さ”の集団化

 私はここに掲載された福田恆存氏のロレンス論にさらにつけ加えてロレンスを解説する積りはないし、評論を評論したものをさらに評論しても仕方がない。また、ロレンスのこの『アポカリプス論』は右のごとき要約でとうていつくせないほど多様な内容に富み、とりわけ純粋自我たり得ない個人の救済を宇宙の根源に求めた壮大なコスモスへの論及は、福田論文によっても十分に触れられているとはいえない。

 読者がこの貴重な一書を自ら手にし、人生の謎の解明に役立てることを強く希望するひとりだが、ただ以上で、福田氏が日本の現実のこれまで提起してきた主題のある主要部分がロレンスの『アポカリプス論』とどう内的につながっているか、それを私自身の問題意識を通じて暗示してみたかったまでである。福田氏もまた、安易な「純粋」というものにたえず猜疑の目を向けてきた人であった。日本人のエゴの弱さというものも折りにふれ弱点として指摘してきた。受験勉強にかまけていて、デモに参加しなかったことを秘かに「罪」として意識するような心的状態は、日本の知識人の少年期を襲う、ある傾向性の「原型」をなすものである。デモに参加する、しないなどは、政治的判断の問題であって、そもそも個人の罪意識とは関係がないのだが、これはほんの一つの例であって、われわれの社会にはこの種の不可思議な愛他的集団表象が個人に無言の圧力をかけている例は無数にある。その日本的な独特なエゴのあり方に加えて、西洋近代の自由、平等、民主主義の理念がその弱点を助長するかのごとくいわば癒着してあらわれているために、混乱はいっそうひどい。人間の弱さにそのまま善意と誠実をみたがる近代人一般の感傷は本当の意味で個人の純粋とは何であるかを求めてはおらず、あらゆるエゴイズムから自由であろうとする意志の、ほとんど不可能に近い無私への苦しさを自覚した人間の弱さというものから目をむけている結果ではないだろうか。一見、強さを誇示しているかにみえる福田氏の生き方は、むしろ、弱さが集団をなして無言の、強い圧力となって個人をおびやかしている日本の湿潤な精神風土のなかで、真に人間の宿命的な弱さを見つめようとしている人間にのみ特有の強い態度なのである。

 ロレンスは次のように言っている。「民主主義はクリスト教時代のもつとも純粋な貴族主義者が説いたものである。ところが今ではもつとも徹底した民主主義者が絶対的貴族階級になりあがらうとしている。」「強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならぬのだ。」「ここに問題にしてゐるのは、政治的党派のころではない。人間精神の二つの型を言ふのである。」

 弱さに甘え、それを売り物にする精神は、大衆支配の時代にはもっとも強い。それでいて自分がさほど弱くもなく、弱さに苦しんでもいないことを知りながらなお弱さを口にする。福田氏がロレンスから学び、もっとも忌避したのはそのタイプの精神であったろう。自分の真の弱さを氏っている者は自分の弱みを口にはしない。ただ、自分の弱さに耐えて立ちつくすのみである。

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