米ソ冷戦の終焉といわれた1989-90年を境に、安全、平和が訪れたのでは必ずしもない。日本はその逆になることが予想されたのに、20年間はほゞ無事に経過した。
ボスニアヘルツェゴビナの戦乱からイラク戦争へかけ、地球の西方が荒れた。アメリカと中国の谷間にある日本の位置、巨大な人口と経済格差は把捉しがたいほどなので、本当はいつ何が起こってもおかしくはないほどに危うい場所にわれわれは立っている。それなのに20年間も平穏だったのは不自然で例外的だという思いが私の中にはつねにあった。世界の秩序の構造が変わったのに、基本的に不安を持たないで暮らしている人の方が私には不可解である。
サブプライムローンに端を発する金融危機は「いよいよ来たな」という恐怖の到来を私に予感させた。あれ以来、国際社会で起こっていることも、日本の政治経済に関わることも、本当のことはなにひとつ解らないのだという自己懐疑がずっと私にはつづいているので、正直にその不明をいま披瀝しておきたいと思う。
私も人並に経済や金融に関する論説を読み漁る時期があった。最近はやめている。生活から懸け離れた余りに巨きい金額はよく解らないし、精神衛生に悪いのである。現実を把握することをある意味で諦めた立場に立ってみたいと思っている。そういう人間の与太話と思って読んで頂きたい。
アメリカが背負った負債総額は天文学的数字で語られていたはずである。それにしてはアメリカ経済の立ち直りは早過ぎるのではないだろうか。否、立ち直っては決していないともいわれる。これから「二番底」があるのだという説もよく耳にする。ある人の説で、リーマンショックの時点でアメリカ政府は負債総額を隠蔽したのだそうだ。ブラックホールのようなぽっかりあいた赤字の大穴を外に見せないように蓋をして、欠損を少しづつ小出しにして操作しているのだという。本当だろうか。
金融機関の多くを国有化し、資本主義の本来のあり方を放棄したかに見えるアメリカ経済の未来はやはり薄明につつまれ、次第に暗雲に閉ざされていくほかないだろうという悲観説は、今でも正しいのだろうか。それとももうそんな段階はあっという間に踏み越えられていて未来は大丈夫と見るべきなのだろうか。アメリカの金融の失敗が世界の運命を左右したことだけは紛れもないので、ここがもう少しはっきりしないと、世界のことはなにひとつ分らないといっていい。私には判断のつかない基本的認識を誰かに教えてもらいたいと切に思うのである。
サブプライムローンの赤字負債で日本の金融機関は世界の中で最も傷が浅かったとは、当時よく伝えられた。庶民感覚でもこれを聞いてホッと安心したものだった。しかしそれにしては日本の経済の立ち直りが遅い。世界をリードしていいはずなのにそうはならない。株安と円高が同時に到来し、それが長い。いつまで経っても景気は回復せずに、世界の中でも不調の国の代表例のようにみられているのはどうしてなのだろうか。単に政府の政策の失敗と政権交代な どの政局の混乱が原因しているだけなのだろうか。それとも日本の富は1990年代の「マネー敗戦」のように、知らないうちにアメリカに何かを仕掛けられ、徐々に吸い取られているのだろうか。10年の後に「あのとき日本は瞞されていた」とまたしても暴露的に論評されるような経過をいま辿っているのだろうか。
というのも中国のことがこれと関連してまた解らないからである。北京オリンピックの前には中国の政治体制は明日にも崩壊する、との主張をなす人がかなりいたが、今はそういう説を唱える人は少なく、政治体制は崩壊しないが、中国経済はバブルがはじけて早晩破綻するだろう、という見通しを語る人が中国専門家の中では多くなったように思う。中国の好景気は上海万博までだ、というのは北京オリンピックの前から言われていたことなので、ようやくその節目の年に来ているといえるのかもしれない。
けれども中国経済が破綻したら、何より困るのはアメリカであり、それに伴い日本であろう。周知の通りアメリカ国債を一番多く買っているのは中国であり、日本がそれに次ぐ。中国の対米輸出の増加は日本の対中輸出をも増加させる。世界のどの国もが共倒れを恐れている。中国政府もそれを知って強気である。このまゝ中国は上昇しつづけ、高止まりで自己維持する可能性のほうが大きいのではないか。
もしも何かの変動が起こるとしたら、人々の予想に反して経済ではなく、政治体制にほころびが生じて、怒涛のような嵐が内部から突き上げてきて、抑えきれなくなるという事態ではないか。否、そういうことはない、と中国を知る人は皆いうが、アメリカの最近の中国からの政治的離反、離反とまで言えなくても、政治的に距離を置こうとする姿勢は何を意味するだろうか。いつもの「アメリカ民主主義イデオロギー」の表明にすぎないだろうか。
アメリカは自国の経済の救済を急務としている。トヨタにまで強行した自国企業の防衛力は、中国経済をどう扱うかにより多く発揮されるであろうことは余りにも自明である。最近、世界の投資はブラジルに向かっている。リオデジャネイロのオリンピックとブラジルの工業力への期待からである。中国にあるアメリカと日本の工場がインドネシアに移動しつつある。それに加えてGoogleの中国からの撤退は大きな事件である。
中国のインターネット検索が「天安門事件」を受けつけないことは前から聞いていたが、性的な文字まで約一万語をはねてしまうというニュースには驚いた。「胡錦濤」と検索されるのを恐れて「胡」の字をはねてしまう、というのは異常な心理状態である。
アメリカは自国の経済が中国に深入りしたことを恐れ始めているのではないか。時間をかけて中国から脱出しようと考えているのか、それとも政治的にゆさぶって体制崩壊を誘発し、中国に握られているアメリカ国債、すなわち債務を一気にチャラにしてしまおうと狙っているのだろうか。
そんなことを考えているとしたら中国が許すはずもないから、天下大乱となることは必至である。
将来のことはもちろん分らないが、アメリカの自ら抱えこんだ経済危機と、中国の自ら抑えられない経済膨張とが、今の地球上の二大不安の要因であることは厳然たる事実である。そして、その中間に位置する日本が経済的にも、軍事的にも、累卵の危うきにあることは一目して瞭然である。
この二大不安が対立し合うのは日本にとって不利ではない。衝突にまで至るのは困るが、互いにほどよく距離をもって敵対し合ってくれれば、日本に選択肢の自由の幅が広がる。
中国がギョーザ事件の解決を急いで、いまこの時期に、犯人逮捕を告げたりしたのはなぜなのか。アメリカが普天間基地をめぐる日本政府の迷走に対し当初の高飛車な反発を押さえ、「慎重によく検討する」などと称しじっと忍耐しているのはなぜなのか。両国はともに日本を敵に回すまいとしている。日本の国民世論が反中になるのも、反米になるのも、それぞれの国が警戒している。
両国が日本にご機嫌を伺う風があるのは、両国が多少とも相反関係に立っているからである。ただし、ご機嫌を伺うといってもせいぜいこの程度までで、アメリカのトヨタ叩きは企業問題ではなく、政府が後ろについている国家的行動であった。中国が東シナ海で譲歩する気配は勿論ない。
そして明らかにおかしいのは、日本政府がトヨタを守ろうとする国家としての支援行動を起こさないことである。
これから肝心なのはアメリカと中国からの寒暖両方の風、ときに日本に攻撃をしかけ、ときに日本への秋波を送ってくる対応をそのつどうまくさばき、日本が自己自身を貫く強さを発揮することだろう。その意味で現下の日本政府のしていること、あるいはしたがっていることにはナンセンスなものが多い。
なぜ今さら核持込みがあったかなかったかと「密約」を暴く必要があるのか。外交に密約はつきものではないか。それに、外から暗黙に密約が予測されるからこそ核の傘は有効になる。アメリカの核の傘が有効でなくてもよいというのか。いよいよ国家的意志の統一が必要な時期に、なぜ「道州制」だの「地方分権」だの呑気なことを言い出しているのか。中国や韓国と歴史観を共にすることなど不可能なことは分っているのに、なぜやらんでもいい共同研究などをして無用な波風を立てるのか。
大事を忘れ小事に囚われることが多ければ多いほど、自らを毀損することも多くなるのは、個人の生活でも国家の運営でも同じであろう。