8月24日付の本欄で、内田博人氏が各種の「国体」論の真贋を私が区別して、ひとつひとつ善し悪しを吟味して論じている、と評価して下さったことに、私が格別の感謝の念をもったと記したことを覚えていて下さるだろうか。現代の思想書を論じるのなら、個別に善し悪しを吟味するのは当り前である。だが、昭和10年代の思想書となるとこれまで必ずしもそうはならなかった。
戦後ずっと昭和10年代の本、ことに「国体」論は全体をひっくるめて否定されてきた。その存在すら認められてこなかった。ひとつひとつを吟味する前に、どれも全部吟味に値しないものとして相手にされなかった。ところが最近少し風向きが変わってきた。
例えば佐藤優氏が今年『日本国家の神髄』を出して、昭和12年文部省刊の『國體の本義』を、一冊をあげて紹介論及した。氏が雑誌連載でこの本のことを取り上げる前か、ほゞ同時期に、私も『國體の本義』をテレビで論及していたのだが、氏の『日本国家の神髄』の方が私の『GHQ焚書図書開封 4』より、半年ほど早く刊行された。
佐藤氏の著書は「禁書『國體の本義』を読み解く」という副題がついていて、闇に葬られていた戦前の「禁書」をどこまでも肯定的に取り上げているのに対し、私は幾冊もの「国体」論の中の一冊として『國體の本義』を扱い、同書の善い面と悪い面、私からみて評価に値する面と一寸おかしいのではないかと批判した面、この両面を提示した。
批判したのは同書の「和」と「まこと」の概念の甘さと、鎌倉時代と江戸時代の評価の歪みに対してであった。私の批判の内容が正当か否かは今ここでは問わない。今まで全体としてひっくるめて否定されてきた昭和10年代の「国体」論を、佐藤氏のように今度はトータルに肯定的に扱うのは、無差別、無批判という点で同じことになりはしないかと私は怪しむのである。
今まで真っ黒だったものをこれからは真っ白に扱うことにためらいを持つべきである。さもないと扱いとして今までと同じことになりはしないか。一冊一冊の「国体」論にはいいものもあれば、バカげたものもある。代表的な国体論である『國體の本義』の内容そのものにも、納得のいく論点もあれば、異様に感じられる論点もある。それは当然であろう。われわれが現代の普通の論著を扱うときの平常心は、戦前の「禁書」を前にしても失ってはならないと私は考えるのである。
しかしじつは単にそのことが言いたいのではない。そこから歴史に対する大切な問題が立ち現われるとみていい。私は「あとがき」にこう書いた。
「戦前が正しくて戦後が間違っているというようなことでは決してない。その逆も同様である。そういう対立や区分けがそもそもおかしい。戦前も戦後もひとつながりに、切れずに連続しているのである。」
どうもそのことがすっかり忘れられているように思える。それは戦後の思想、戦後を肯定している戦後民主主義風の思想だけでは必ずしもなく、戦後をしきりに否定してきた保守派の戦前懐古調の思想の中にも宿っている決定的欠陥であるように思えてならないのだ。
「あとがき」に私はこうも書いた。
「戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想家の多くは、とかくに戦後的生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前の日本に立ち還っていない。」
小林秀雄、福田恆存、三島由紀夫は私が私の人生の門口で歩み始めたときの心の中の師範だった。この人たちを論じることで私は私の人生の起点を形づくった。
しかし私も75歳に達し、彼らとほゞ同じ時間を生き長らえてきた。加えて、日米関係は大きく変わり、日本をとり巻く国際環境は戦前のそれに近づいてきた。上記三人は戦後的生き方を的確な言葉で批判してきたが、三人の立脚していた戦前の足場は語られることなく、今の私たちからは今ひとつ見えない。深く隠されている。
だから必ずしも単に彼らのせいではなく、彼らの言葉は戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていないように思えることがままある。
つまり、こうだ。「あとがき」に私はこうも書いた。
「戦争に立ち至ったときの日本の運命、国家の選択の正当さ、自己責任をもって世界を見ていたあの時代の『一等国民』の認識をもう一度蘇らせなければ、米中のはざまで立ち竦む現在のわが国の窮境を乗り切ることはできないだろう。」
小林、福田、三島の三氏の言葉が戦後の私を導いてくれたのは紛れもないが、今となってはなにか遠いのである。「戦争に立ち至ったときの日本の運命、国家の選択の正当さ」を三氏は決して明らかにしてくれてはこなかった。明らかにしてはならなかった戦後的状況に、三氏はバランスよく合わせて、その範囲の中で、つまり「戦後的価値観」で「戦後を批評する域」にとどまっていたように思えてならないのである。
時代は急速に動いているのである。私はそれを敏感に感じとるレーダーをまだ失ってはいない。生きている限り失いたくないと思っている。