新保祐司氏は拙著について二つの論評を書いて下さった。ひとつは保田與重郎を論じるのが主であった、産経新聞コラム「正論」(2010・10・25)の記事で、前回すでに紹介した。
次は月刊誌『正論』(12月号)の書評欄の書評対象としてである。以下に掲示させていたゞく。恐らくこちらを先にお書きになったのではないかと思う。
GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代 (2010/07/27) 西尾 幹二 |
戦前を「上手に思い出す」ことの実践
二年前の6月に刊行が始まったシリーズの四巻目である。今回は、「国体」論関係の著作がとりあげられている。『皇室と日本精神』(辻善之助)、『國體の本義』(山田孝雄)、『國體の本義』(文部省編)、国家主義者・田中智学の著作、『国體眞義』(白鳥庫吉)、『大義』(杉本五郎中佐)といった「焚書図書」が、「開封」されている。
シリーズの第一作で、著者は「自分を取り戻すために、目の前から消されてしまった本を取り戻すことから始めなければならないのだと私は考えて、この仕事に起ち上がりました」とその決意を語っているが、このシリーズ四巻目の「国体」論の「開封」は、日本人が「自分を取り戻すために」最も必要なものであろう。
というのは、この戦前の「国体」論は、戦後の、そして今日の「保守思想」の盲点となっているからである。
著者は、「戦前に生まれ、戦後に通用してきた保守思想家の多く」の弱点を鋭く指摘している。彼らは、「とかくに戦後的生き方を批判し、否定してきた。しかし案外、戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない例が多い。戦前の日本に立ち還っていない」からである。
ヨーロッパの保守思想を使っての「戦後民主主義」批判は、よく見られるものであるし、また、日本の思想家でも、福田恆存は援用されることが多いが、保田與重郎はあまり理解されていないといった現状にもそれはうかがわれるであろう。今年、生誕百年の保田のとりあげられ方の淋しさは、「戦前の日本」にしっかりと「立ち還」ろうとする日本人がいかに少ないかを象徴している。「戦後的価値観で戦後を批評する域を出ていない」保守の言論は、精神の垂直性を持っておらず、結局空虚なのである。
しかし、本書の最もクリティカルな点は、とりあげた「国体」論のある種のものに、著者が実に手厳しい批判を浴びせているところである。例えば、田中智学の著作や文部省の方の『國體の本義』などに対してである。
「戦前が正しくて戦後が間違っているというようなことでは決してない。その逆も同様である」といい、「戦前のものでも間違っているものは間違っている。戦後的なものでも良いものは良い。当然である」と力強く断言している。
「戦前」にしろ、「戦後」にしろ、それらを原理主義者のようにとりあげる偏狭さから、著者はその鋭い「批評精神」によって、きわめて自由である。その自由な思考が、戦前の「国体」論の著作を読むにあたり、生き生きと発揮されていて、「戦前」のものを扱う人間の多くが陥りがちな硬直性が感じられないところに、著者の精神の高級さが自ずと発露している。
戦前の思想のうち、「良い」ものを見抜くこと、これは著者もいう如く「そこが難しい」。しかし、この「難し」さを自覚しながら「国体」を探求するときにのみ、真の「国体」は顕現するであろう。
文芸批評家 新保祐司