想像するに父は真っ先に野口村役場に行って、村長にかけ合ったのだと思われる。なにしろ戦火の切迫した時代である。疎開者を迎え入れるのは農村の義務でもあった。かくて上郷地区出身の助役で、村の有力者の皆川善次平氏の大きな土蔵の中に我が家の疎開荷物の大半が収納された。そして、氏の分家の一つである道ひとつ挟んだ反対側の高台の上の農家に、一部屋を借り受けることになった。皆川清春さんというまだ若い当主と、その母親の二人っきりの家だった。(ちなみに、平成16年2月、大洗町で行った私の講演会場に皆川清春さんが聞きつけて訪ねて下さり、劇的再会を果たしたことも書き添えておく。)
私たちの安全を見届けて、父は仕事のために東京へ戻った。水戸市が空襲されたのは一家が野口村に引っ越した四日後の八月一日~二日の深夜であった。住んでいた水戸の家には27本の焼夷弾が落ち、いつも避難に使っていた防空壕には直撃弾が貫通していた。まさに間一髪の危さだったといえる。
野口村の村道に立っていると、長倉村を目指して、顔のすすけた、着物が真っ黒に焼け焦げた水戸の罹災者が次から次へと歩いて行くのが見かけられた。
八月十五日の終戦の玉音放送を私は村の農家のラジオで聴いた。父は東京にいた。その秋には洪水があった。台風と大雨の去った後、一気に広がった川幅を濁流が覆(おお)った。県道をひとつへだてた崖下はすぐ川原であり、普段は夏草が茂り、空閑地に芋が植わっていた。しかしそこも、もう一面に逆巻く急流だった。廊下に立って下を見渡すと、洪水は一眸(いちぼう)のもとにあった。村の農地は広域にわたって冠水した。私は冠水芋というのを初めて口にした。蒸かしても硬い芯があるために簡単に食べられない不味い芋だった。米は冠水すると臭気がついて、やはり食べられない。それでも、そんな米や芋であっても、何とか努力して食べた、という記憶がある。食糧難は厳しかった。
川原から水が引くと、いたるところに小さな池ができて、浅い池に大小さまざまな魚が白い腹をひっくり返して、バタバタとはねていた。私たちは手づかみで魚を拾って、集めた。
何もかもが私にはもの珍しい初体験であった。芋串といって、ゆでた里芋に味噌を塗って串に刺し、炉端に立てて焦がす、なんとも芳ばしい土地特有の食べ方があった。主屋のおばあさんが持って来て私の手に渡してくれたときのことも忘れられない。
終戦後しばらくして父は東京から家族の所に戻ってきて、何を考えてかしばらく腰をすえ、那珂川で釣りを楽しむ日々が続いた。国民の大半が茫然たる虚脱状態に陥っていた、米国占領初期の激動期である。あの一時期を両親がどう耐えたかは不明だが、私は子供の長閑な田園生活を楽しんでいた。
で、例の硯箱になった羊羹の木箱のことだが、あの底板に、筆で父が書いた次のようないたずら書きの文章が残されている。
「昭和二十年七月水戸ヨリ茨城県那珂郡野口村上郷ニ疎開ス 此ノ地風光明媚ナリ 滾々タル那珂川ノ長流屈曲シテ神龍山峡ニ横ハルガ如クニテ其ノ流水ハ甚ダ駛ク浅瀬石ニ激シテ淙々タル水音高シ 又深淵緑ヲ湛ヘテ其ノ底ノ深サヲ知ラズ 両岸ハ山姿秀麗連山波濤ニ似テ遠ク煙ル 落日迫レバ彩雲水ニ映ジテ紅ノ光ヲ散ス 其美観將ニ自然ノ限リナキ賜物ナリ 我モ又太公望ヲ定メ込ミテ風景ノ中一員トナリタルコト度々也 白箭生」
白箭は父が句作をしたときの号で、油絵も能(よ)く描き、碁将棋も得意な父だった。右のいたずら書きの型に嵌った美文調は、文学者ではないのだからお許し戴くとして、まさか六十年後に他人の目に触れるとは思わなかったであろうが、私には懐かしい。
長靴で川の瀬に入って釣り竿を掲げていた父を、私が岸辺で日がな一日眺めていた間伸びした時間は、まさに日本史の激動の歳月なのだが、野口村の風物と共に、昨日の如く静かな風景画となって私の瞼に甦ってくるのである。