【補足】
ご講演のために西尾先生はレジメを作成されました。(三)からの『昭和のダイナミズム』の冒頭はそれを基にご講義されたのですが、当報告文でうまく表示できず、ご講演に名前が挙がらなかった人物もいますのでこの場で紹介いたします。
(徳富蘇峰)大川周明/林房雄、三島由紀夫/保田與重郎、蓮田善明 、岡潔/
(内藤湖南)平泉澄、坂本太郎/折口信夫、橋本進吉、山田孝雄/
/小林秀雄、福田恆存/和辻哲郎、竹山道雄、田中美知太郎/
(西田幾多郎)鈴木大拙、西谷啓二、久松真一/
レジメは縦書きです。括弧書きは「点線の上は昭和ではない」人々で、「/」は改行箇所です。(三)の冒頭で上述の表を下(左)から上(右)に向かってご講義されました。
ご講演の感想
坦々塾会員 阿由葉秀峰私はこの度のご講演の前半部分を、ふさがれた地下水脈である「昭和のダイナミズム」に至るまでの「導入部」と思い拝聴していました。東西文明の俯瞰、そして歴史を時代区分に縛られない長い時間の尺で捉え、軸足は確りと日本に置いた「広角レンズ」の視点、併せて古代への神秘主義に傾倒した江戸の思想の系譜を「昭和のダイナミズム」と後半部に仰有られました。振り返ってみると、二部に分かれる今回のご講演が「昭和のダイナミズム」の「歴史編」(序章)と「思想編」であったと私には思えたのです。
「外国にふさがれた地下水脈」とは、大川周明、平泉澄、仲小路彰、山田孝雄・・・、彼等が大戦中に、日本の運命に積極的に真のリアリズムを以て関与した「思想の部分」に違いありません。
「ふさがれた」ままの問題は戦後主流の保守思想家たちにもあって、彼らは「徒に戦争を批判または反省する愚」を戒める一方で、「あと一歩というところで口を噤んでいる。(268頁上段)」そして、「一口でいえば戦後から戦後を批判する制限枠内に留まり、アメリカ占領軍の袋の中に閉ざされたままであるという印象を受けるのである。(268頁中段)」と。終戦までの日本の置かれた運命に、我が身を置いて素直に向き合うことを避けている不正直な姿勢から、「そこから先がない。あるいはそれ以前がない、(268頁上段)」。小林秀雄、福田恆存、竹山道夫ら重要な戦後保守思想家たちのことです。雑誌『正論』7月号『日本のための五冊』という企画『戦前を絆(ほだ)す』からの引用ですが、そこで西尾先生は彼等の作品を選ばれていません。彼らが戦前の思想をハッキリ知っている世代であるという点は重要です。私は、彼等は戦後占領軍主導の苛烈な統制から糊口の道を閉ざされる恐怖、実際それを目の当たりに見てきたからではないか、という気もしていますが、分かりません。しかしそれでは真の歴史を描くことも、時代々々の思想や営為も窺うこともできません。
大戦を含めた歴史を振り返るとき彼等に違和感を覚える、という西尾先生のご指摘はとても重要です。今の日本はもはや「そこから先やそれ以前」を糊塗して済ますことができないからです。全集刊行を記念して西尾先生は、亡くなった遠藤浩一氏とのご対談(平成24年2月2日付当ブログまたは雑誌『WiLL』12月号)で「明治以降の日本の思想家は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません。」と、今回のご講演に通じることを仰有いました。思えば、同じ遠藤浩一氏とのご対談で『ニーチェ』二部作の第三部目が大著『江戸のダイナミズム』であると仰有いました。ということは「昭和」の視座で描かれた雑誌『正論』連載中の『戦争史観の転換‐日本はどのように「侵略」されたのか』が書籍化された暁には、それこそが第四部目となるのでは、と想像を逞しくしました。
西尾先生はご講演の締め括りに平泉澄の『我が歴史観』を共感と共に紹介されましたが、私は次の言葉を思いました。「凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成(くみたて)に與(あずか)る事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體でいえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覚をいだいてはならぬ。」(『少年日本史』「はしがき」)
大正末から昭和45年と長い時間を隔てていますが、「歴史は畢竟、我自身乃至現在の投影。」の認識を経ての言葉であることを思えば『少年日本史』の響きは変わります。そして今日の教育現場では正に「病菌」という錯覚を「自分自身」として教えているといえます。「自虐史観」と謂われますが、自分という認識が無ければ「加虐史観」です。決して歴史の名に値しません。過去は、裁いたところで、幻とはならない。必要なことは、過去の悪をことごとく肯定する勇気である。さもないと、将来ふたたび反省や後悔をくりかえし、現在の自分の立場もまた悪として断罪の法廷に引き出されることになるであろう。(『第三巻 懐疑の精神』24頁下段)
結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。(『第四巻 ニーチェ』495頁上段から495頁下段)
「歴史」は「今」を生きる私たちにとって相対的なものです。時代区分についても、「境」は「今」を基準にして後付けするのです。必然的に最近の出来事の方が情報量も多く関心も高いから細かく境を細かくするものです。それはけっきょく自己都合に過ぎません。今から五百年や千年も経てば、細分化さる「今」もかなりザックリと括られてしまうのです。それは仕方のないことでしょう。
「今の自分」との関係から「史実」を取捨選択して「歴史」の材料とするのですから、その「今の自分」という「主体」を無くして歴史はできません。ましてや万国共通の「世界史」など描くことは出来ません。史実と歴史とはまったく別問題で、だから「歴史は行為」することなのであって、歴史からそれを描いた主体がよく見えることはおかしいことではありません。しかし戦後70年かけて「文学が無くなってしまった」時代にどう歴史を描いてゆくのでしょう。過去は現代のわれわれとはかかわりなしに、客観的に動かず実在していると考えるのは、もちろん迷妄である。歴史は自然とは異なって、客観的な実在ではなく、歴史という言葉に支えられた世界であろう。だから過去の認識はわれわれの現在の立場に制約されている。現在に生きるわれわれの未来へ向う意識とも切り離せない。そこに、過去に対するわれわれの対処の仕方の困難がある。(『第六巻 ショーペンハウアーとドイツ思想』207頁下段)
過去は固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。また、過去を認識しようとしている人間もまた、たえず動いている。歴史は、動いているものが動いているものに出会うという局面ではじめて形成される創造行為である。(『同上』482頁上段から下段)
プラトンの対話篇『国家』でイデアを説くところの「洞窟の比喩」に、ことの難しさを感じます。
生まれながらにして洞窟内に脚と首とを縛られて壁に向かって坐らされている囚人たち。背後に松明(たいまつ)が燃えているが、彼らは振り返ることが出来ないので、彼らの背後をいろいろな物を持って行き来する人々の「壁に映る影」だけを見続け、それを影とは知らず「もの」と思い込んでいる。囚人には影以外のものが見えないからです。あるとき、ひとりの囚人が束縛から放たれて後ろを振り返り歩みだします。松明の光は眩しく目は慣れないが、何者かに外界に連れ出されてしまう。やがて外界に慣れてくると「ものの影」ではなく「そのもの」の姿を認めるようになり、太陽こそがことの原因であることを悟ります。彼は再び真っ暗な洞窟に帰り、縛られ続けている他の囚人たちに外界のことを話し、彼らを連れ出そうと束縛から放ちますが、囚人たちは彼を信用せず捕らえて殺してしまう・・・。
以上のような筋でしたか・・・。囚人たちは「影」しか知らないので「そのもの」を、それがどうであれ受け容れることが出来なかったということなのでしょう。また囚人の束縛は、囚人の生の支えであったという気もします。いつの時でしたか西尾先生とお話をしたとき、「私の言論は10年ほど経ってから理解される。」と仰有るので、私が「教育や移民問題を思えば、四半世紀は先んじていますよ。」と申したところ、「それでは困る。」と仰有いました。西尾先生が困られるのも当然で、「今起こっている」問題について声を挙げていらっしゃるのだから「先見」ではなく、「今」響かないのは確かに困るのです。10年や25年経ってから響くようでは全く困るのです。失礼なことを申してしまったと思いました。であれば、雑誌『正論』の中で異彩を放っている西尾先生の連載は今ますます重要で、「戦争史観」五百年史観は、日本人は直ぐにでも「転換」するべきものと思うのです。
最後に、私がこの度のご講演に関連していると感じた西尾先生のアフォリズムを、全集から幾つか拾って纏めてみます。
歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。(『第二巻 悲劇人の姿勢』36頁下段)
歴史は個人を超えている。知性は全体を把握することができない。知性が歴史全体に対し神の位置に立ったとき、歴史は姿を消す。過去に対しても、未来に対しても、個人は不自由である。不自由の自覚を通じて、個人は初めて「現在」に徹する自由への第一歩を踏み出すことを可能にするのみである。(『同上』143頁下段「知性過信の弊(二)」)
われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。(『第四巻 ニーチェ』495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)
歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。(『第五巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ』24頁下段から25頁上段「光と断崖」)
過去は定まって動かなくなったものではなく、今でも絶えず流動し、休みなく創造されているものである。あるいは絶え間なく再生産されていると言っていい。そして、そうでなくなったものにとっては、どんな素晴らしい過去といえども死物に過ぎない。過去の文化とはそもそも幻影であって、実体ではないのだ。実体はあくまでそれを受け取って再生産する後世の人間の意識の運動の中にしかない。しかもそれはきわめてあやふやな運動で、時代によって異なった幻影を生むし、個人によって異なった再創造の試練を受ける。後世の人間がそのあやふやさに耐え、何らかの価値を賭けていく行為こそがまさしく文化なのではないだろうか。(『第七巻 ソ連知識人との対話 ドイツ再発見の旅』551頁下段から552頁上段「文化観」)
総じてヨーロッパ人がアジアに対する「公正」や「公平」を気取ろうとするときは、ヨーロッパの優越がまだ事実上確保されている場合に限られよう。もし優位がぐらつき、本当に危うくなれば、彼らの「公正」や「公平」は仮面をかなぐり捨て、一転して、自己防衛的な悪意へと変貌することにならないとも限らないのだ。(『同上』349頁下段「仮面の下の傲慢」)
変わっていなくても勿論いい。日本は日本である。われわれの「近代」がヨーロッパを追い越す段階に達した今になって、日本はやはり日本だったということがはっきりして来たまでのことである。われわれは江戸時代以来の社会心理、人間関係、エートスを保存したまま、外装だけ近代技術の鎧(よろい)で武装して生きているのだ。それはそれでなんら不思議はない。(『第八巻 教育文明論』258頁下段から259頁上段「第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観」)
西尾先生は平泉澄の『我が歴史観』をご紹介されながら胸に深く響いたと仰有いましたが、私は西尾先生の言葉触れて唯々思い入るのです。
了
