講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(三)

            (三)

 「暴力」が基本にあった・・・。正論12月号にホッブスを例に、中世のもっぱら暴力について書いているので憶えておられると思います。

『西洋の歴史は戦争の歴史といったが、イコール掠奪の歴史でもあった。掠奪は経済活動ですらあった。』 『略奪し強奪しあうことこそ人間の生業であった。それは自然法に反すると考えられるどころか、戦利品が多ければ多いほど名誉も多いと考えられた。』

 その実例をここではたくさん書いています。どれか一つだけ例を挙げると分かり易いのですが・・・、一番最初に私が書いたトーマ・バザンの「シャルル七世の歴史」の一節からとった、分かり易い具体的な例です。読んだ人は知っているかと思います。

『この辺りでは畠仕事は都市の城壁の中、砦(とりで)や城の柵の中で行われる。それ程でない場合でも高い塔や望楼の上から目の届く範囲内でなければ、とうてい野良(のら)仕事などできなかった。物見の者が、遠くから一列になって駆けてくる盗賊の群を見付ける。鐘やラッパはおろかなこと、およそ音のする物はことごとく乱打されて、野良や葡萄畠で働いている者たちに、即刻手近かの防御拠点に身を寄せよと警報を伝える。このようなことは、ごくありふれたことだし、またいたる所で絶えず繰り返されたのである。警報を聞くと、牛も馬もただちに鋤から解放される。長い間の習慣でしつけられているから、追うたり曳いたりするまでもなく、狂わんばかりに駆けだして安全な場所へと走って行く。仔羊や豚でさえ、同じ習慣を身につけていた』

 要するにそれぐらい無法なんです。今の「イスラム国」を見てください。無法でしょう?これはイスラムでなくヨーロッパの話なのですが、近代国家が生まれる前の「中世がえり」。世界は中世に近付いているということで、皆さんに今この話をしているわけです。

 

『だから、大土地所有者は武装集団を抱えていたし、民衆も武器を常時携えていた。僧侶ですら武装していた。橋も砦になり、教会は城塞として造られ、僧院には濠、跳ね橋、防柵があり、地下牢や絞首台まで備えている所もあった。僧院や聖堂は掠奪の標的になり易かった。』

 暴力がいたるところに偏在しているで点は、平安末期の日本も恐らくそうでしょう。でも上に聳え立つ公権力が成立していれば、ことにそれが武家集団であれば、それほど無秩序にはならないんですね。ヨーロッパ中世には国家がないんですよ。国境がないんです。あったのは教会なんです。全体として、カトリック教会そのものが国家だった。これは精神的権威であっても政治的権威ではありませんから、ホッブスが「万人の万人に対する戦い」と言った姿が、ヨーロッパ中世の姿であった。

 戦争が日常であり、掠奪が合法であり、反逆とか復讐とかが当たり前なこととして横行していわけであります。Fehde(フェーデ)という言葉があるのですが、フェーデというのは、プライベートな戦争のことです。

 他人に対する想像力がひどく弱い時代で、相手の痛みの感じ方が無かったのではないか。例えば目玉をえぐり出すという刑罰がありました。しかもこれは「お情け」であった。「死刑にしないでやるから」と・・・。これは、最近の「イスラム国」の残虐処刑を思わせます。人類はあっという間に千年を飛び超えてしまったのではないかと・・・。

『今の中国大陸もある程度そうかもしれないが、すくなくとも蒋介石時代の支那大陸はそうだった。あるとき黄文雄氏が「戦いに負けた方は匪賊になり、勝ち進んだ方は軍閥になる」という面白い言い方をされた。』

 私は名言だと思い憶えていますが、国家というものが無かった時代の大陸の無法状態の中で、強盗集団が軍事力になり軍閥になる。地方権力になる。だから今中東で起こっていることがまさにそれであります。

『 面白いのは8世紀の西洋のある法典にも似たような規定があることだった。ウェセックス国の法典第十三条に、7人までは窃盗、7人から35人までは窃盗団、それを超えるものが軍隊である、という規定がある。盗賊と軍隊との違いは単数の相違でしかなかった。』

 まだ国家意識とかいったものもはっきりしなかった時代の話です。

 さて、そういう状況の中で最近の出来事を見ると、安倍総理は「法の必要」ということを頻りに言いますね。ここでいう「法」というのは「国際法」のことでしょうけど、「法」という言葉が通らない勢力に向かって「法」ということを言うわけですね。

 では、「国際法」とは何だったのか? あるいは安倍総理が言う「法」というのは、どういう形で出現したのか? 今を見ていると、確かに中世に戻ったようであり、そして、「法」はまさに「無法」なわけです。一方で私たちは、なにか何となく、主権国家というものがあって、それを当然の事とうけとめて、そして、「それに反している!」と怒っているわけです。しかし、もし「国家」だとしたら、爆撃または空爆することは「無法」ではないのでしょうか?

 ひと頃、「北朝鮮を核査察せよ」と言いましたね。それに対して、ひとつの国の主権国家の防衛権を、「なんとしても核を開発する」と言っている北朝鮮の主張のほうが、道理に合っていると言えないでしょうか? それは主権国家の自由ではないでしょうか? それは「日本の危険」ということとはまた別問題の問い、として言っていますが、「無法」といことを言うならば、どちらが「無法」かわかりません。いつの間にかヨーロッパやアメリカが決めている法秩序、国際法秩序つまり主権国家体制というものが自明のこととされています。そしてそれをヨーロッパ、アメリカの側が破ることはいくらでもあるのに、私たちはその主権国家体制というのを自明のことのように考えているのは、正しいのだろうか? おかしいのだろうか?

つづく

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(二)

        (二)

 イスラム教徒とキリスト教の対立の背景は、皆さんも相当ご存知かと思いますが、最近の話ではなく、2000年前から始まっていました。

 19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したベルギーの有名な大歴史家、アンリ・ピレンヌに、「マホメットとシャルルマーニュ」という1937年に出版された著書があります。フランス語のシャルルマーニュCharlemagneとはドイツ語でKarl der Große カール大帝のことです。この大著のさわりをご紹介しようと思います。まず、ゲルマン人がローマ帝国に侵入した時と、イスラム教徒がローマ帝国に侵入した時の違いをまず論じています。

 ゲルマン人がローマ帝国に侵出したときは、帝政の成立以前から直ちにローマに同化されつつ、ローマの文明を必死に守り、その社会の仲間入りを果たすべく、ゲルマン人は精神的には従順且つ従属的でした。ゲルマン民族の侵入は、ローマ帝国が誕生するより前から、徐々に北方から入っていたのです。

 これに反して、アラビア半島との間には、ローマ帝国は長い間交渉らしい交渉を持っていませんでした。ゲルマン人との間では長い間ローマ帝国は長い交渉があったのですが、アラビア人はマホメットの時代まではほとんど接触がなかったのです。

『 ヨーロッパとアジアの両方に対して同時に始まったアラビア人の征服は先例をみない激しいものであった。その勝利の速やかなこと、これに比肩し得るものとしては、アッティラが、また時代が降ってはジンギスカン、ティムールが、蒙古人帝国を建設した際の勝利の速さがあげられるのみである。しかし、この三つの帝国が全く一時的な存在であったのに対して、イスラムの征服は永続的なものであった。(中略)この宗教の伝播の電光石火のような速やかさは、キリスト教の緩慢な前進に比較するとき、全く奇跡とも言うべきであろう。
 このイスラムの侵入に比べるならば、何世紀もの努力を重ねてやっとローマ世界Romaniaの縁をかじりとることに成功したにすぎない、ゲルマン民族のゆるやかで激しいところのない侵入など問題ではなくなる。
 ところがアラビア人の侵入の前には、帝国の壁は完全に崩れ去ってしまったのである。』

 つまり、よく歴史の教科書にゲルマンの侵入がローマ帝国を崩壊させたと書かれていることについて、ピレンヌの学説は「違うんですよ。」といっているのです。ゲルマン人は武勇、智勇に優れているけれど、しかし文化面ではローマ人に包摂されて、侵入は速やかではなく徐々にでした。

 それに対して、ローマ人は

『ゲルマン民族よりも明らかに数の少なかったアラビア人たちが、高度の文明を持っていた占領地域の住民に、ゲルマン民族のように同化されてしまわななかったのは何故であろうか、』

ということを、ピレンヌは問題にしています。

 

『ゲルマン民族がローマ帝国のキリスト教に対抗すべき信仰を何ももっていなかったのに反して、アラビア人は新しい信仰にめざめていた。このことが、そしてこのことのみがアラビア人を同化することのできない存在にしたのである。』

 つまり、ゲルマン民族はなにも信仰をもっていなかったというのです。そこへローマ帝国との接触が始まったというのです。アラビア人はそうでなかった、とピレンヌは言うのですが、これには問題があります。いうまでもなくゲルマンにはゲルマンの信仰はありました。それは我が国の信仰にも似ているような一種のアニミズム、洞穴とか樹木の霊とかそういうもの。或いはまたゲルマン神話というのは、忠勇、武勇の神々、英雄たちの乱舞する皆さんもご存知の、後にワーグナーが楽劇にするような、そういう神話世界がありました。ゲルマン人に信仰がまったく無かった、などということは全く無ありません。そのことは、私が今日お渡しした雑誌(正論3月号)の中にきちんと書いていますので、読んでいただきたいと思います。

 ゲルマン人に信仰が無かった訳ではありませんが、しかしながら、「一神教」ではありませんでした。ローマはその頃すでにキリスト教化していたのですが、イスラム教はキリスト教と旧約聖書を同根に持つ一神教です。

『アラビア人は驚くばかりの速さで自分たちの征服した民族の文化を身につけていったのである。かれらは学問をギリシャ人に学び、芸術をギリシャ人とペルシャ人に学んだ。少なくとも初めのうちはアラビア人には狂信的なところさえなく、被征服者に改宗を要求することもなかった。しかし、唯一神アラーとその予言者であるマホメットに服従することをかれは被征服者に要求したし、マホメットがアラビア人であることからアラビアにも服従させようとした。アラビア人の普遍宗教は同時に民族宗教であり、そしてかれらは神の僕(しもべ)だったのである。』

 こういう点では、ユダヤ教も似ていると言ってもよいでしょう。それに対して、

『 ゲルマン民族はローマ世界Romaniaに入るとすぐにローマ化してしまった。それとは反対に、ローマ人はイスラムに征服されるとすぐにアラビア化してしまった。』

 アラビア人がいちばん凄いということですね。

『コーランに源泉をもっているその法がローマ法に代わって登場し、またその言語がギリシャ語、ラテン語にとって代った。』

 そしてアラビア語が支配することとなったために、西ヨーロッパの言語にとんでもないことが起こるのです。ローマ帝国の末期頃、公の言葉、国際語のギリシャ語が使われなくなり、代わりにイタリア、フランス、スペイン、ドイツ、という各地方の方言が使われるようになり、ラテン語も衰微していってしまうのです。

 その方言の使用が次の時代、だいぶ経ってからヨーロッパが生まれる理由ともなるのです。しかし、それにはさらに数百年から千年ぐらい時間がかかり、ダンテはイタリア語で神曲を書き、ルターが1500年代に聖書をドイツ語訳する。こういった民族の興隆には、およそ1000年くらいの時間がかかっているのです。

 イスラムがどれほど支配的であったかがこれでお判りかと思います。これまでの間にどのようなことが起こったか?これが根本問題で、皆が知っているヨーロッパは二つに分断されます。ローマを中心とする西ローマ帝国およびビザンチンと言われる東ローマ帝国。真ん中には地中海があり、そこには交通がありましたが、イスラムによって分断されてしまいます。

 『 リヨン湾の沿岸も、リヴィエラ地方からティベル河の河口にかけて海岸も、艦隊をもっていなかったキリスト教徒たちが戦争と海賊の荒らしまわるがままに任せたから、いまでは人煙稀な地方となってしまい、海賊の跳梁する舞台と化してしまった。港も都市も打ち棄てられてしまった。東方世界とのつながりも絶たれ、サラセン人(アラビア人)たちの住む海岸との交流もなかった。』

 地中海は押さえ込まれたということです。

 『ここには死の風が吹いていた。カロリング帝国は、ビザンツ帝国とは極めて著しい対照を示す存在であった。それは、海への出口を全くふさがれてしまったため、純然たる内陸国家であった。嘗てはガリアの中でも最も活況を呈し、全体の生活を支える要(かなめ)ともなっていた地中海の沿岸諸地方が、今では最も貧しい、最も荒涼とした、そして、安全を脅かされること最も多い地方となってしまった。ここに史上初めて、西欧文明の枢軸は北方へと押し上げられることになり、』

 つまりヨーロッパといわれるものは、いまはじめて我々が知っている西ヨーロッパのほうへ、つまりローマ地中海から北方へグーンと押し上げられてしまった。今でこそ、車で行けば行ける距離、あるいは飛行機で行けばひとっ飛びの距離でありますが、当時は封じ込められてしまったのです。

 『その後幾世紀間かは、セーヌ、ライン両河の中間に位置することになった。』

 つまり、その辺りにゲルマン人とローマ人が混血し、文化程度が著しく堕ちたカロリング王朝が位置することになったのです。

 『そして、それまでは単に破壊者という否定的な役割を演じていたにすぎないゲルマン諸民族が、今やヨーロッパ文明再建の舞台に肯定的な役割を演ずる運命を担って登場したのである。
古代の伝統は砕け散った。それは、イスラムが、古代の地中海的統一を破壊し去ったためである。』

 つまり、古代の伝統、つまりギリシャ、ローマの伝統が、ずっと続いていましたが、それが今言ったイスラムの侵出により・・・。これが言語問題にものすごく影響してしまい(今日お渡しした正論3月号の最後の方に書いてありますが・・・)、ギリシャ語の聖書も消えてしまい、ギリシャ語を話す者さえも居なくなってしまったのです。

 カール大帝は文盲で(皆ひとに遣らせていた)、教養の程度も著しく低く、西ヨーロッパは文字を読むのは一部の聖職者に限られ、伝統からも情報も絶たれた、文化的にも著しく遅れた野蛮な地域でした。それゆえに迷信も蔓延り、キリスト教がその迷信を加速させました。キリスト教はもちろん一神教ですが、その他の信仰、マニ教、グノーシス主義、ゾロアスター教、そしてアニミズムがゲルマン民族を捉えつつも、カトリックはそれらとある程度の共存をしたのです。それらを認めはしないけれど、直ちに弾圧、攻め滅ぼすことはなく、いわば許していたのです。

 現代のカトリックは少し違いますが、基本的にカトリックは「自然」というものを尊重するところがあり、一神教以外の神の概念をまったく認めない、ということはありません。

 一番象徴的な例は、戦後、靖国神社がマッカーサーの命令により焼却される危険に曝されたとき、反対したのはカトリック教会でした。それは「自然法」というものを尊重している。自然法というのは、法律以前に自然の定めで決められていること、解り易くいえば、結婚は男と女がするものである、とか、敗者といえども自分の民族を守った者は祀られてしかるべきであるのも自然法のひとつですから、靖国神社を焼き滅ぼすなどとんでもないというカトリックの考えで、そのカトリック教会に靖国神社は守られたのです。そういった意味でカトリックが諸宗教に寛大であることがお解りかと思います。

 ところがプロテスタントはそれが許せないのです。その話が正論3月号の最後の方に出てきますが、簡単に言うとプロテスタントは神をもう一度、再確認したのですから、キリスト教の復興、カトリックと大いなる戦争をしたのですから、カトリック側にも当然新しい選択を迫られた。自覚的な信仰の再宣託が行われたので、両方の宗教にとって近代化ということになるわけですが、ニーチェは面白いことを言っています。

『ところがルターは教会を再興したのであった、つまり彼は教会を攻撃したからだ。・・・・・・』(「アンチクリスト」第61節)

 「プロテスタントは、キリスト教を攻撃したために蘇らせてしまった・・・、本来亡くなって然るべきキリスト教が、ルターの、あるいはカルヴァンの攻撃によって自覚が蘇り、カトリックまで復活してしまった。」とニーチェは残念がって言っていた。そのようなパラドクスがあるわけですが、大きな流れで言うとそのようなことが言えるわけです。

 先を急ぎます。フランスのカルカソンヌ城をご存知ですか? フランスに行くと必ず観るのですが、そんなに(ご覧になった方は)居ないのですか?南フランスに旅行すると必ず観るのですが、意外と知らないのですね。素晴らしい古城で、夜はライトが照らされていて本当に素晴らしい・・・。トゥールーズのあたりです。

 この古城は異教徒の城で、それを法王が攻め滅ぼしてしまうのです。それはまさに中世のいろいろな十字軍がありますが、十字軍というのは外に出ていくもの、と皆さん思っているかもしれませんがヨーロッパの中をも攻撃する十字軍も当然あるのです。つまり、キリスト教に一元化するために「異教徒が一人でもいたら怪しからん」ということで、凄まじい戦争をしてトゥールーズの城カルカソンヌは何万という人を殺して潰されてしまう、という歴史があるんですよ。

 それは、今日お渡しした雑誌(正論3月号)の連載の前半の終結部分にだんだん近付いていて、日本が始まるのは未だもう少し先なのですが、ぜひ読んでおいていただくと有り難いのですが、言わなくても読んでいる人はきっと読むから・・・。だけど知っているんですよね。言っても読まない人はきっと読まないんですよね。学生に教えていたころから知っているんですよ。こう言っては皆さんに無礼かもしれないけれど。小川さんは「先生、プレゼントをしなくても、皆さん買って読みますよ!」と言っていましたが、それは「3分の1くらい」の方はそうでしょうから差し上げた訳でして・・・。ただ、単独で読んで頂いても纏まっていて、読切りの短編になっていますから、前とのつながりが無くてもわかります。

 その意味で、プロテスタントはキリスト教最高の運動になると同時に、プロテスタント自体がキリスト教の内部に対する「十字軍」だった、と言えないこともありません。(つまり、外に対しては「十字軍」。内部では「プロテスタント」)それぐらいルターとカルヴァンの思想、行動は峻厳だったんですね。ですから、いろいろな雑駁な異教徒の流れを汲む様々な理念や思想は潰されていったということがひとつ言えます。

 さて、今までの話でイスラム教徒とヨーロッパ文明との対決が、いかに根が深いかお判りになったと思います。もちろん同時にキリスト教の側は、その遅れた教養も低い鎖された地域の彼らは、信仰心だけは固めつつ、異文明に対してチャレンジしてく・・・、有名なのは、「十字軍」ですね。

 ご承知のように、十字軍は11世紀にはじまります。具体的な説明はしませんが、イスラエルがひとつ、それから北の方のラトビアとかポーランドへ向けての十字軍、イベリア半島スペイン・・・。つまり地中海は全て抑えられますから、地中海の異教徒を追払うということ。それから、最後には2つのアメリカ大陸に進出すると・・・。じつは、これら全て十字軍なんですよ。つまり信仰の旗を掲げて、そして、異教徒を改宗させるか、殺戮するか。「改宗か? 然らずんば死か?」そして、それを実行するために、内部の綱紀が緩むために粛清する。これが数多くの粛清劇、魔女狩りとか・・・、先ほどのカルカソンヌ城の異教徒退治もそのひとつですね。

 つまり、内部を徹底的に時々厳しくやり、そして外対して、異教徒に対しては妥協したり拡げたりする。いろいろな形で柔軟にやるのです。さながらその姿は、「私たち異教徒」から見ると、ソヴィエト共産党と中国共産党みたいなものに見えますね。つまり、外部に対しては外交的に狡猾で、そして、内部に対しては一寸した異端も許さない粛清劇をする。非常によく似たところがあるんですよ。ですから、「棄教」といって、教えを棄てる聖職者がいると、それを許さないだけでなくそれに対する尋問をしたり、それが後々までどんな影響を持つかということを徹底的に論争するという、激しいものがあります。そういう点も、共産党を辞めてしまうことに対する手厳しい攻撃によく似ていますよね。それが中世ヨーロッパのエネルギーであると同時に、それがまた世界史に拡がっていくパワーだと私は思っています。

 善かれ悪しかれキリスト教のヨーロッパ中世からはおそらく3つのもの、ひとつは「暴力」、ひとつは「信仰」、そしてもうひとつは、16世紀に産まれる「科学」がありますね。今日はその話は出来ませんが、自然科学は、何と言ってもポジティヴで、そして自然科学はキリスト教そのものから産まれたのであって、それは他の宗教に類例を見ない出来事、ドラマなのです。自然科学は一般的で普遍的であると思われるかもしれませんが、根っこはキリスト教にあったということは、また一つ大きな問題であります。そのテーマは、今日お見えになっているかどうか・・・?古田(博司)先生、いらしてますか?(小川揚司さん:4時ごろお見えになります。)古田先生の「ヨーロッパ思想を読み解く―なにが近代科学を生んだか」(ちくま新書)という本がありまして、これはひじょうに難しい本ですが、いろいろなことを考えさせられます。

つづく

講演 ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)(一)

 2月1日に坦々塾主宰の私の講演会がホテル・グランドヒル市ヶ谷で開かれた。その草稿を元にして『正論』4月号に一文を草したことはすでに見た通りである。

 『正論』4月号の拙文は読み直してみてそれなりにまとまってはいるが、30枚余と最初から制限があるので、内容は講演とは部分的に重なってはいるものの、違ったものになっている。

 講演の音声から文字起こしをして整理して下さった会員の阿由葉秀峰さんからA4で25枚の講演草稿がファクスで送られてきた。読んでみて『正論』4月号とはかなり違う内容だと分った。

 『正論』4月号の拙論をよくよく理解していたゞくためにも、講演草稿をここに掲示するのは意味があると思った。

 阿由葉さんのご努力にあらためて御礼申し上げる。最初の書き出しは『正論』4月号とほゞ同一文だが、辛抱して読み進めていたゞきたい。

坦々塾講演  ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(決定稿)

                 (一)

 「イスラム国」を名乗るテロ集団による日本人の犠牲が出て、国の政治が停止してしまったかのような狼狽が見られました。

 アメリカ人やフランス人の殺害は対岸の火事でした。なぜ日本人が? という疑問と、やっぱり日本人も? というついに来たかの感情が相半ばしています。

 今のこの時代にこんな原始的な脅迫殺人が起こるとは考えられない、と大抵の人は心の奥に底冷えする恐怖を感じたでしょう。時代の潮流が急速に変わりつつあるのかもしれません。

 アメリカからは脅迫に屈するな、の声が日本政府に届いていました。アメリカ人ジャーナリストがオレンジ色の衣を着せられ脅迫されたときには、アメリカ国民は慌てず、いうなれば眉ひとつ動かさず、犠牲者を見殺しにしました。イギリスもそうでした。たしかにテロリストと取引きすると、事態はもっとひどくなります。福田赳夫元首相がダッカのハイジャック犯に金を払って妥協してから北朝鮮の拉致は激化しまた。それだけではありません。取引することはテロ集団を国家として認めることにもつながるのです。

 それでもなぜ日本人が? の疑問は消えないでしょう。日本人は宗教のいかんであまり興奮しない国民です。イスラム教とキリスト教の2000年の対立が背景にあり、パリの新聞社襲撃テロを含めて何となくわれわれには地球の遠い西方の宗教戦争であり、日本人には関係ないと思う気持ちがありました。せっかく親日的なイスラム教徒とは対立関係になりたくないという心理もありました。「イスラム国」のテロリストは他のイスラム教徒とは違うとよく言われます。この事件でイスラム教やイスラム教徒に偏見を持ってはいけないとも言われています。それはその通りです。けれどもキリスト教徒に問題はないのでしょうか。

 イスラム教とキリスト教の宗教戦争が根っこにあり、イギリス、フランスの20世紀初頭の中東政策への怨みが尾を引いているのは間違いないでしょう。中世までイスラム文明が西ヨーロッパ文明に立ち勝っていた上下関係が18~20世紀にひっくり返った歴史も、イスラム教徒の許し難い気持ちを助長させていることでしょう。

 4世紀のゲルマン民族大移動とローマ帝国の崩壊の後のユーラシア西方全体の歴史に、対立は深く関係しています。最初イスラム教徒が圧倒していました。キリスト教徒11世紀より後に「十字軍」を遠征してまき返します。13世紀にヨーロッパにモンゴルが襲撃してきたときでも、キリスト教徒はモンゴルより憎んでいたのがイスラムでした。モンゴル軍と妥協してでもイスラムを撃ちました。イスラムの方が比較的寛容でした。地中海の東方の出口を抑えていたからで、レパントの海戦(1571年)でイスラムが敗れ、キリスト教徒はインド洋、太平洋を制圧し、形勢を逆転させました。その後はキリスト教文明優位のご承知の通りの歴史の展開です。

 イスラムは、かつては文明的に野蛮な西ローマ帝国やフランク王国を見下していました。それが今はすっかり逆になっていしまった。キリスト教国に押さえこまれてきた歴史の長さ、重さ、劣等感がついに過激なテロの引き金を引かせる心理の一部になっているのは紛れもない事実でしょう。ヨーロッパのイスラム系移民の2世、3世が「イスラム国」に参加している例が多いことからみても、やはり歴史の怨みと現代の閉塞感が重なった宗教戦争の色濃い出来事であるとはいえるでしょう。

 歴史的反省をしたがらないヨーロッパやアメリカなどのキリスト教国は、あえてこのことを見ないで、「テロは許せない」とか「たとえ宗教批判になっても言論の自由はある」といった一本調子の観念論で、やや硬直した言葉を乱発していますが、これもキリスト教国側が承知で宗教戦争を引き受けている証拠なのです。

 こう見ていくと、日本人はどちらにも肩入れしたくない。公平な立場でありたいと願います。ところが、イギリス、アメリカ、フランスなどのキリスト教国側に乗せられ、キリスト教国でもないのに「テロは許せない」の西側同盟の一本調子のキャンペーンに参加している観があります。オバマ政権から脅迫に屈するな、の声が届けられ、テロリストと取引をしてはいけない、の教訓に縛られていたように見えます。それでいて、西側諸国と違って軍事力は行使できません。それならば何もしなければいいのです。日本は神道と仏教の国。宗教戦争には手を出さない、の原則を貫いた方がいいのではないでしょうか。「イスラム国」から被害を受けた地域の犠牲者に2億ドル(240億円)の救済金を出すと胸を張って宣言したような今回の日本外交のやり方は、関係者は気がついていないかもしれませんが、事実上の「宣戦布告」なのです。

 軍事力を行使しなくても戦争はできます。否、軍事力を行使する戦争をしたくないばかりに、それでいて戦争をしたふりをしないと西側に顔が立たないので、いつものように引きずられるようにカネを差し出す。平和貢献と称する度重なるこの欺瞞は今度の件でほんとうに最終的に壁にぶつかったと考えるべきでしょう。

 「イスラム国」のテロリストからは今回は脅迫されただけでなく、完全にからかわれたのです。二億ドルというぴったり同額のどうせ実現できないと分かっているほどの巨額の身代金を求められたではありませんか。しかも直後にカネはもう要らない、女性の死刑囚との交換をせよとあっという間に条件を替えられたではありませんか。相手が非道で異常なのは事実ですが、日本は愚弄されたのです。テロリストの頭脳プレーにより、日本国家は天下に恥をさらしたのです。

 もちろんオバマ大統領はじめ西側諸国はそうは言わないでしょう。日本の積極姿勢を評価するでしょう。差し当たり他に日本に打つ手がなかった、という政府擁護論にも十分に理はあります。

 ですが、日本は「のらりくらり作戦」がどうしてもできない政治体制の国なのだ、とあらためて思いました。そして、いわゆる西側の「正論」に与する前に、ほんの少しでもイスラム教とキリスト教の2000年に及ぶ宗教戦争の歴史に思いが及んだだろうか、と政府当局者に聞いてみたいと思います。さらに、国際社会の「法」と呼ばれるものがいつ、どのようにして形成されたかを、これもヨーロッパの中世より以後の歴史の中で検証したことがあるのだろうか、と疑問とも思えるのです。

 日本人の安全はカネを差し出すのではなく、本当の意味での実力行使以外に手はなく、他の手段で自国民を守れないという瀬戸際についに来ていることをまざまざと感じさせる事件でした。

 中国や韓国が戦後の日本からの経済支援に感謝しないばかりか、国民に支援の事実を知らせもしない、とわれわれのメディアはこれまでもしばしば怒ってきました。しかし一般に外国からの経済支援はその国の政治指導者を喜ばせるかもしれませんが、その国の国民には歓迎されないものです。歓迎されないのが普通です。アメリカからの戦後日本へのララ物資は日本人を救ったはずですが、われわれは家畜に食わせる餌を食わせた、と言わなかったでしょうか。どの国民にもプライドがあります。他国からの経済支援に感謝するのはそのときだけで、あっという間に忘れてしまうのが普通です。それがむしろ健全です。そして外国からの支援金でなにがしかの成功を収めると、自国の力が発揮された結果だとその国の政府も言うし、国民もそう信じたがります。中国や韓国が格別に不徳義なわけではありません。彼等が口を噤んでウソをつくのは許せませんが、カネを支払う平和貢献を軍事的威嚇のできない代用とする日本外交のいぜんとして変らぬ思い込みの方がはるかに大きな問題です。馬鹿々々しいだけでなく、今や醜悪でさえあります。ことに命の代償に240億円が数え立てられ、かつ取り下げられたテロリストの頭脳プレーにより、日本国家は天下に恥さらしたのです。

 オスマントルコ脅威の時代にイスラムが西洋を文明的に圧倒していたと同じように、中国は宋の時代まで日本に優越していました。中国人自身の主観では清の時代まで中国大陸優越を想定しているでしょう。ところが近代史に入って日本優位に逆転しました。それが中国人には許せません。口惜しさ劣等感が尾を引いていることはRecord Chinaなどに現れる観光客その他ネット情報を見ているとよく分ります。韓国人にも似たような一面があります。 

 中韓両国による対日批判は今や世界中に伝えられ、地球の不協和音の一つに数えられていますが、先の大戦が主原因と思われていて、アメリカやヨーロッパではよもや他の原因があるとは考えられていません。しかし戦争の歴史解釈は動機いかんで変わります。中韓両国民の動機は何に基いているか。イスラム教徒の歴史は欧米人の歴史像とはまったく違った展開になっているはずです。中韓両国の対日批判の動機もイスラム教徒の欧米批判の動機に似ていて、不合理で、情緒的で、宗教ドグマ的で、先の大戦をめぐる実証主義に基く客観性を著しく欠いています。そのことを欧米世界に、日本人はキリスト教とイスラム教の宗教対立を例にあげて説明し、日本における神仏信仰、皇室尊崇心と、中韓における朱子学(現われ方いかんでは一神教に近い)とでは水と油であることを分らせるよう働きかけるべきです。

 朝鮮半島と日本との間には、パレスチナとイスラエルとの間にある宗教的なへだたりにも似たへだたりがあることを、例えばオバマ大統領に知らせることは、このうえなく重要です。

 いたずらにわが国が右翼傾向を強めているなどと欧米から批判的に見られるのは、先の大戦の全像の見方を(少なくともドイツと日本とは違うことを)欧米側がいささかも変更しないことにあります。しかも中韓両国の感情的な対中批判を鏡に用いて、それに照らして、日本は歴史修正主義を志しているなどと言うのです。中韓の批判はイスラム教徒のキリスト教文化圏に対する劣等感に基く混迷な原理主義的感情論にも似ているのです。日本が「イスラム国」に対処するのにアメリカやフランスやイギリスの姿勢に合わせるのもいいのですが、それなら欧米が中国や韓国の主張に対処するのに、欧米の基準だけでものを言うのではなく、日本の姿勢にあわせることに道理があることを訴えていくべきです。

つづく

予定変更の報告と弁解

 結論から申し上げると、あと一週間ほどで刊行される『正論』4月号に、「ヨーロッパ流『正義の法』体制は神話だった」という私の新しい論文(14ページ、35枚)が掲載されます。「戦争史観の転換」と題した連載の13回目はまたまた休載となります。その代りこれは連載の「番外編」として扱われます。イスラム教とキリスト教の対立相剋を扱った論文なので時宜は適っていますが、連載の趣旨からははずれているからです。

 なぜこんなことになったのか。私に両論を書く体力と時間がなかったからです。講演を阿由葉秀峰さんに完璧に文字起こししてもらいました。それを手直ししてブログに載せ、一方連載はこれとは別に今月分を書く予定でした。ところが講演筆録は80枚分くらいになり、途中でこれをまとめるだけで十分に一か月かかると気がつきました。そう考えてウカウカしているうちに、連載の方の一回分を書くための準備も不十分だし、2月は〆切りが早いので、立往生しました。

 そこで編集長がブログの80枚を35枚に圧縮して、雑誌向きにまとめ直して、「番外編」として扱えるようなスタイルにすれば連載は休載しても許してやる、といわれたので、そのアイデアに乗っかることにしたのです。

 だいたい月に二篇を出すことは私にはもう無理と分りました。阿由葉さんに作成してもらった元原稿の約80枚の三分の二はもう使えません。終りの方の三分の一か四分の一かはまだ出せばリアリティがあります。どうしようか、迷っています。次の月の連載が迫ってきて、しかも今三冊の本の校正ゲラが襲いかかってきて、正直、何かをあらためて企て、実行する気力がありません。

 このブログにコメントして下さる方にお願いしたいのは、雑誌や本で刊行したものの感想を是非書いて下さい。さしあたり『正論』4月号が出たら、それを読んで、コメントしていただけたらとてもうれしいです。

 襲いかかってきているゲラ刷り三冊とは ①全集第11巻「自由の悲劇」 ②GHQ焚書図書第11巻「維新の源流としての水戸学」 ③新潮文庫「人生について」です。どれも3月20日ごろが〆切りです。

ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(二)をお待ちの皆様へ

コメント欄から転載します。

1.阿由葉秀峰

ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった(二)をお待ちの皆様へ

最初のアップロードが2月6日と、遅くはなかったと思っておりますが、それから1週間以上が経過してしましいました。

(一)につきましては、ご講義の導入で、内容が現在を含む長大な時間尺とヨーロッパの文明論・・・、ご論考がどこに向かうのか?想像だけを募らせてしまい誠に申訳なく思っております。

「長い時間尺を用いて、世界を『日本人の目』で見る」という視点は終戦爾後途絶えました。今回そのことが直接のご論題とはなりませんが、これから展開される西尾先生の長い時間尺を使われたご論考が、現在の日本が置かれた状況とも繋がっていると感じられることと思います。

この度、西尾先生と内容を打合せ(じつは完全に頼っております・・・)のうえ、当報告を進めてさせていただいてはおりますが、西尾先生ご自身の正論への期限が喫緊でいらっしゃるうえ、ご講義の内容とも連鎖しており、とても難儀なこととなっております。

もう少しお時間を頂きたくご理解のほどお願い申し上げます。

H27年坦々塾新年会講義

ヨーロッパ「主権国家」体制は神話だった

(一)

 「イスラム国」を名乗るテロ集団による日本人の犠牲が出て、国の政治が停止してしまったかのような狼狽が見られました。

 アメリカ人やフランス人の殺害は対岸の火事でした。なぜ日本人が? という疑問と、やっぱり日本人も? というついに来たかの感情が相半ばしています。

 今のこの時代にこんな原始的な脅迫殺人が起こるとは考えられない、と大抵の人は心の奥に底冷えする恐怖を感じたでしょう。時代の潮流が急速に変わりつつあるのかもしれません。

 アメリカからは脅迫に屈するな、の声が日本政府に届いていました。アメリカ人ジャーナリストがオレンジ色の衣を着せられ脅迫されたときには、アメリカ国民は慌てず、いうなれば眉ひとつ動かさず、犠牲者を見殺しにしました。イギリスもそうでした。たしかにテロリストと取引きすると、事態はもっとひどくなります。福田赳夫元首相がダッカのハイジャック犯に金を払って妥協してから北朝鮮の拉致は激化しまた。それだけではありません。取引することはテロ集団を国家として認めることにもつながるのです。

 それでもなぜ日本人が? の疑問は消えないでしょう。日本人は宗教のいかんであまり興奮しない国民です。イスラム教とキリスト教の2000年の対立が背景にあり、パリの新聞社襲撃テロを含めて何となくわれわれには地球の遠い西方の宗教戦争であり、日本人には関係ないと思う気持ちがありました。せっかく親日的なイスラム教徒とは対立関係になりたくないという心理もありました。「イスラム国」のテロリストは他のイスラム教徒とは違うとよく言われます。この事件でイスラム教やイスラム教徒に偏見を持ってはいけないとも言われています。それはその通りです。けれどもキリスト教徒に問題はないのでしょうか。

 イスラム教とキリスト教の宗教戦争が根っこにあり、イギリス、フランスの20世紀初頭の中東政策への怨みが尾を引いているのは間違いないでしょう。中世までイスラム文明が西ヨーロッパ文明に立ち勝っていた上下関係が18~20世紀にひっくり返った歴史も、イスラム教徒の許し難い気持ちを助長させていることでしょう。

 4世紀のゲルマン民族大移動とローマ帝国の崩壊の後のユーラシア西方全体の歴史に、対立は深く関係しています。最初イスラム教徒が圧倒していました。キリスト教徒は11世紀より後に「十字軍」を遠征してまき返します。13世紀にヨーロッパにモンゴルが襲撃してきたときでも、キリスト教徒はモンゴルより憎んでいたのがイスラムでした。モンゴル軍と妥協してでもイスラムを撃ちました。イスラムの方が比較的寛容でした。地中海の東方の出口を抑えていたからで、レパントの海戦(1571年)でイスラムが敗れ、キリスト教徒はインド洋、太平洋を制圧し、形勢を逆転させました。その後はキリスト教文明優位のご承知の通りの歴史の展開です。

 イスラムは、かつては文明的に野蛮な西ローマ帝国やフランク王国を見下していました。それが今はすっかり逆になっていしまった。キリスト教国に押さえこまれてきた歴史の長さ、重さ、劣等感がついに過激なテロの引き金を引かせる心理の一部になっているのは紛れもない事実でしょう。ヨーロッパのイスラム系移民の2世、3世が「イスラム国」に参加している例が多いことからみても、やはり歴史の怨みと現代の閉塞感が重なった宗教戦争の色濃い出来事であるとはいえるでしょう。

 歴史的反省をしたがらないヨーロッパやアメリカなどのキリスト教国は、あえてこのことを見ないで、「テロは許せない」とか「たとえ宗教批判になっても言論の自由はある」といった一本調子の観念論で、やや硬直した言葉を乱発していますが、これもキリスト教国側が承知で宗教戦争を引き受けている証拠なのです。

 こう見ていくと、日本人はどちらにも肩入れしたくない。公平な立場でありたいと願います。ところが、イギリス、アメリカ、フランスなどのキリスト教国側に乗せられ、キリスト教国でもないのに「テロは許せない」の西側同盟の一本調子のキャンペーンに参加している観があります。オバマ政権から脅迫に屈するな、の声が届けられ、テロリストと取引をしてはいけない、の教訓に縛られていたように見えます。それでいて、西側諸国と違って軍事力は行使できません。それならば何もしなければいいのです。日本は神道と仏教の国。宗教戦争には手を出さない、の原則を貫いた方がいいのではないでしょうか。「イスラム国」から被害を受けた地域の犠牲者に2億ドル(240億円)の救済金を出すと胸を張って宣言したような今回の日本外交のやり方は、関係者は気がついていないかもしれませんが、事実上の「宣戦布告」なのです。

 軍事力を行使しなくても戦争はできます。否、軍事力を行使する戦争をしたくないばかりに、それでいて戦争をしたふりをしないと西側に顔が立たないので、いつものように引きずられるようにカネを差し出す。平和貢献と称する度重なるこの欺瞞は今度の件でほんとうに最終的に壁にぶつかったと考えるべきでしょう。

 「イスラム国」のテロリストからは今回は脅迫されただけでなく、完全にからかわれたのです。2億ドルというぴったり同額のどうせ実現できないと分かっているほどの巨額の身代金を求められたではありませんか。しかも直後にカネはもう要らない、女性の死刑囚との交換をせよとあっという間に条件を替えられたではありませんか。相手が非道で異常なのは事実ですが、日本は愚弄されたのです。テロリストの頭脳プレーにより、日本国家は天下に恥をさらしたのです。

 もちろんオバマ大統領はじめ西側諸国はそうは言わないでしょう。日本の積極姿勢を評価するでしょう。差し当たり他に日本に打つ手がなかった、という政府擁護論にも十分に理はあります。

 ですが、日本は「のらりくらり作戦」がどうしてもできない政治体制の国なのだ、とあらためて思いました。そして、いわゆる西側の「正論」に与する前に、ほんの少しでもイスラム教とキリスト教の2000年に及ぶ宗教戦争の歴史に思いが及んだだろうか、と政府当局者に聞いてみたいと思います。さらに、国際社会の「法」と呼ばれるものがいつ、どのようにして形成されたかを、これもヨーロッパの中世より以後の歴史の中で検証したことがあるのだろうか、と疑問とも思えるのです。

 日本人の安全はカネを差し出すのではなく、本当の意味での実力行使以外に手はなく、他の手段で自国民を守れないという瀬戸際についに来ていることをまざまざと感じさせる事件でした。

報告者:阿由葉秀峰
(つづく)

イスラム・中世・イギリス、全集第10巻

 2月1日に坦々塾の会合を久し振りにもった。参加者は51名だった。私が1時間40分の講演をして、あとは懇親会だった。講演の内容は阿由葉秀峰さんのご協力を得て、近く少し調節し、文字化してここに掲示する。

 冒頭にイスラムの非情殺人のテーマに触れた。昨日のことだから、当然である。イスラムと西欧との2000年前の歴史について、アンリ・ピレンヌを引用してお話した。イスラム教徒とキリスト教徒の積年の宗教対立に無関係だとはどうしても思えない。がんらい日本人には何の関係もない争いなのだ。基本のテーマに日本人は手を出さない方がよい。

 私はいま「正論」連載で、「ヨーロッパ中世」は暴力、信仰、科学がひとかたまりになった一大政治世界であるとの認識を披瀝している。今、私たちが国際的な「法」と見なしているものは、18-19世紀に中世の争いを克服したヨーロッパがやっと辿り着いた約束ごとでしかない。いつ壊れてもおかしくない。実際20世紀に秩序は大きく壊れた。そして今、地球上で起こっていることは「中世」の再来のような出来事である。

 私たちは文明というフィクションの中を生きているにすぎない。『GHQ焚書図書開封』⑩の副題「地球侵略の主役イギリス」は計らずも19世紀の秩序の創造者であったイギリスが最も過酷な秩序の破壊者であったことを証明した。

 私の全集の最新刊はこれとは必ずしも同じテーマではないが、「ヨーロッパとの対決」という題で、今述べたこととどこか関係はある。1980年代に私がドイツ、パリ、その他で行った具体的な対決の体験談を基礎にしている。最近私のものを読みだした新しい読者の方は、この一連の出来事を多分ご存知ないだろう。

 後日立ち入った議論をこの欄にも展開するつもりだが、今日はとりあえず目次を紹介する。

序に代えて 読書する怠け者
Ⅰ 世界の中心軸は存在しない
Ⅱ 西ドイツ八都市周遊講演(日本外務省主催)
Ⅲ パリ国際円卓会議(読売新聞社主催)
Ⅳ シュミット前西ドイツ首相批判
Ⅴ 異文化を体験するとは何か
Ⅵ ドイツを観察し、ドイツから観察される
Ⅶ 戦略的「鎖国」論
Ⅷ 講演 知恵の凋落
Ⅸ 文化とは何か
Ⅹ 日本を許せなくなり始めた米国の圧力
追補 入江隆則・西尾幹二対談――国際化とは西欧化ではない
後記

「GHQ焚書図書開封 10」の感想

ゲストエッセイ
 河内隆彌:坦々塾会員、小石川高校時代の旧友 元銀行員
 『超大国の自殺』パトリックブキャナンの翻訳者
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 遅ればせながら、「GHQ焚書図書開封10-地球侵略の主役イギリス」拝読いたしました。毎度のことなのですが、今回は、自身でいささか生活に触れましたインドも大きく取りあげられ、大変興味深く読ませていただきました。

 イギリスの搾取と分割支配の爪痕は小生在勤中のカルカッタ(現コルコタ)の街なかのいたるところに刻み込まれていました。19世紀の中ごろまで、中国、インドのGDPが当時の欧米各国のそれを大幅に上回っていたことの知識はありましたが、たとえばインドの識字率がかつて60%だったことなどには目から鱗の落ちる思いでした。

 小生はいつぞや貴兄に、インドはイギリスによって外側から統一された、と申し上げました。しかし、それはインドがバラバラの国だった、という趣旨とは少々違います。かつて南アジア、印度亜大陸に一つまとまった、ムガール帝国ほか藩王国から成る小宇宙があったことには間違いありません。ただそれは「一つの(いまで言う国家の)主権」のもとにあったわけではなく、たとえばヨーロッパを一つの小宇宙として見たときと同じようなものと言うことができましょう。いずれにせよ、ほかの各国と同じように、インドを一つの国(a nation)として片づけてしまうとちょっと理解が行き届かなくなるのではないか、という気がするのです。インドは連邦制で、29州(一番新しい州はなんと昨年、州として独立したテラン・ガーナー州)と7直轄地域で構成されています。一番人口の多い州はウッタラ・プラデーシュ州で、1億9900万。1億以上の州には、ビハール、マハラシュトラ州があり、5000万以上の州も七つほどあります。言葉の面で見れば、連邦憲法上の公用語はヒンドゥー語、准公用語は英語ですが、各州が認める州公用語は22言語です。また紙幣(インド準備銀行発券)には単位ルピーを示す言葉が17言語で記されています(中国とは異なって、各言語は「字」も違います)。というと驚く人も多いのですが、インドの面積はEU圏の72%、人口はEU5億に対する12億、インドの大きな州はヨーロッパ各国、ドイツ82(単位百万、以下同じ)、フランス、イギリス62、イタリア60、スペイン46よりずっと大きい、また言葉にしてもヨーロッパには英語、仏語、独語、イタリア語、スペイン語などがあるので、インドの事情をこう説明すると納得していただけます。小生はやや言葉足らずで、インドは統一国家ではない、などと申し上げましたが、国際的に、連邦制国家インドはむろん統一主権を持ったひとつの国家です。

 英国は海からやってきて、この小宇宙を、ご著書が示される奸智と策謀を駆使して一つの植民地にまとめました。そして英国が去った後、インドはそのままの形(パキスタンとそこから独立したバングラデシュ、スリランカとなったセイロン、ネパールなどは分離したが・・)で独立国となりました。この広大な地域は、むしろ統一国家であることの方が不思議で、歴代政権の国家運営の努力は並大抵のものではないように思われます。印パ(ヒンズー教対イスラム教)紛争、バングラデシュ独立、スリランカにおけるシンハリ人、タミル人の確執などなど、深刻なトラブルがかつてあり、現在進行形のものがあるにせよ、インドが世界最大の民主主義国家としてまずまずの成長を続けている点は大いに評価されましょう。

 イギリスは植民地時代にも分割統治、宗教対立、民族対立を煽りましたが、去るにあたっても紛争のタネを蒔き続け、現在の印パ核兵器保持競争にもつながっています。日本人にとっての近現代史における句読点は、たぶん「明治維新」と「敗戦」だと思うのですが、インド人にとっては「the Mutiny(反乱)」と「the Partition(分離)」である、とインド人から聞いたことがあります。前者は1857年のいわゆる「セポイの反乱」であり、後者はイギリスの置き土産である、1947年の血を血で洗うような「インド・パキスタンの分離」でいずれの事件にも深くイギリスが絡んでいます。

 ご著書、日英同盟の項にある1915年、シンガポールにおけるインド兵の反乱を帝国海軍がイギリスの要請によって鎮圧した、という話、Colin Smith “Singapore Burning”の冒頭の章に結構詳しく載っているんです。インド兵の反乱を煽ったのは、シンガポールで捕虜となっていたドイツの軽巡洋艦エムデンの乗組員ほかドイツ人捕虜たちでした。駐屯していたイギリスの正規兵が欧州、中東戦線に出払ってしまったあと、イスラム教徒主体のインド兵に捕虜の監視をさせていたところ、インド兵がドイツの友邦トルコに好感を持っていることにドイツ人が気づき、君たちはトルコ人と戦うことになる(すなわちマホメットを敵にすることになる)と裏切りを使嗾したのが事の発端だったようです。

 このシリーズで戦前の立論に直接触れられることは本当に貴重です。ご著書「あとがき」にあるように、それらは「今かえって非常に鮮明に感じられ」ます。ソ連崩壊後、冷戦時代に見えなかったもの、本質的に隠されていたものが見えてきたせいでしょうか?こちらが馬齢を加えたため既視感が積み重なってきたせいでしょうか?「歴史」が「いま」と交錯する局面が本当に多くなった様に思われます。今後とも焚書図書のご紹介をよろしく。

 昨今の話題、映画「ザ・インタビュー」、仏週刊誌「シャルリー・エブド」などの下品なdefamationのプロパガンダを、「言論の自由、表現の自由」の名のもとに徹底して擁護する欧米の姿勢に改めて白人の傲慢さを垣間見ます。このところ欧米の首脳は、同性婚問題でソチ五輪をボイコットしたり、「私はシャルリー」とパリに相集ったり(オバマは行かなかったことで非難を浴びているようですが・・)何かつまらぬこと?に熱心で、どこかヘンですね。まがまがしさを感じています。以上ご著書拝読感想まで、乱文お赦しください。

2015年の新年を迎えて(四)

以下はこの動画に寄せられたコメントです。

-BERSERK HAWKWIND
2 週間前 (編集済み)

大変教養に富むお話、ありがとうございました。伺っていて整合性を考える必要性を感じた事を一点申し上げます。共産主義が創作された時点よりも以前では、国家対国家という構図からの考察でも全体を合理的に説明できると考えました。一方、その後では実際にはアメリカ自体も国際金融資本に支配されてしまった、という現状を考えると、実際にはやはりイギリスの”支配層”、いわゆる一部のユダヤ系と便乗集団が、アメリカを通じて制空権を抑える、更には”制宇宙空間権”を抑えることで世界のコントロールしようとしている、と考えるのがより全体を合理的に説明すると考えます。更にイギリス自体も中央銀行はアメリカと同じく彼らの手中ですから、国家間の対立構造が見えつつも、やはり特に共産主義発生後は彼らの意図の上で操作されてきた、と考えると、より辻褄が合うと考えます。

Kimiaki Ohyama
2 週間前

西尾先生の話、断然面白い。イギリの制海権、アメリカの制空権と金融支配の歴史。さて、今の日本政府は防衛上支邦を封じ込めるためどうする。支邦の東シナ海から太平洋への進出。将来、正面から東京を攻撃される可能性は十分ある。政治家も防衛上の見識を高め、大いに議論すべきである。又、実際に予算を付けて、支邦封じ込めのため、防衛設備を増強すべきである。

清水光裕
1 週間前

西部先生といい西尾先生いい今年の対談は良いですね。
私が20代~30代にかけて薫陶を受けた(勝手に思い込んでいる(笑))巨匠のお話。
お二人が日本を憂うる気持ち、日本人(瑞穂の国に住む人々)を誇りにし愛している事がうかがわれます。・・・(西部先生は照れ隠し皮肉屋さんの高杉晋作、西尾先生は心配性の吉田松陰ですかね、すみません。)
保守思想を突き詰めると三島文学などを読んだりして、行きつく先はニヒリズムの肉体言語に陥りがちですが、西部、西尾両氏の考えでどうにか踏みとどまれます(笑)。
言語の可能性という中に。
そして、日本も捨てたものじゃない、がんばらねば。・・・とね。

Momo Fuji
2 週間前

明けましておめでとうございます。
西尾先生の大ファンです。GHQ焚書図書開封の本も、西尾先生ご自身の教養の深さも日本の宝物で、国を愛する日本人みんなが、この国の歴史や文化をよく知り、考え、共有していくことが、これからの日本に大事だと思います。これからも末永くお元気で決して無理はなさらずに、『日本の未来のために』よろしくお願いいたします。

2015年の新年を迎えて(三)

 正月十日に高校時代の級友早川義郎君から次の書簡が届いた。彼は元東京高裁判事、退官後は数多くの海外旅行を経験し、著書数冊を出した。著書は美術と地誌学的関心からなる本が主で、例えば韓国や日比谷公園に関するものなどが近著である。

 私の全集の最初の巻、すなわち第5巻『光と断崖―最晩年のニーチェ』のときに「月報」を書いてくれた人だ。全集月報の第一号だったので覚えている方もいようか。

拝啓
 正月早々執筆等に忙殺されていることでしょうね。小生風邪をひき、4日ほど寝込んでしまいました。治りかけてから早速貴兄のGHQ焚書図書開封10「地球侵略の主役イギリス」を拝読しましたが、大変面白く、なるほどなるほどと頷きながら、一気に読み終えました(ちゃんと読んだ証拠に206ページ4行目「礼状→令状」と348ページ2行目「野郎自大→夜郎自大」の2か所の誤値発見)。

 アムリトサル事件のことはあまりよく知りませんでしたが、まさに暴虐の一語に尽きます。アイルランドでも同じようなことをしていますから、ましてやインドではということになるのでしょうか。このほか知らなかったことも多く、啓蒙されること大でした。

 我々のイギリスに対する見方は、日露戦争の際日英同盟が日本の勝利に役立ったということで、多少点が甘くなっているのかもしれませんし、物心ついてから我々が知るイギリスというものが、2度の大戦を経て衰亡の道をたどる20世紀後半の姿であったということで、搾取と暴戻をきわめたイギリスの植民地支配を過去のものとして見逃しているところがあるようにも思われます。これなどまさに貴兄のいうわれわれの「内なる西洋」のなせる業かもしれません。

 アメリカとイギリスとの歴史的関係に関する貴兄の指摘にも教えられるものがありました。アングロ・サクソン同士の一枚岩の同盟関係といっても、それはごく最近のこと、アメリカの軍事的、経済的覇権が確立してからのことで、それまではしばしば対立と牽制の関係にあったことがよく分ります。第二次大戦以後の米ソの緊張関係や一昔前の英仏のヨーロッパでの覇権争いに目を奪われているせいかもしれません。

 それにしても、幕末・維新の元老たちはえらかったですね。佐幕も勤皇も英仏との深みにはまらず、絶えず日本の将来を考え、アヘン戦争を他山の石として対処していたあたりはさすがだと思いますが、武士の躾にはやはりそれだけのものがあったのでしょうか。開封11が楽しみです(今度は自費購入しますので、お気遣いなく)。

 甚だ粗雑な感想で申し訳ありませんが、一筆御礼まで。
                                     敬具
西尾幹二様                     早川義郎

 尚、同書は『正論』3月号で、竹内洋二氏が書評して下さることになっている。また、宮崎正弘氏が早くも年末に氏のメルマガに書いてくれている。併せて御礼申し上げる。