青葉を観ながら考えさせられたこと

ゲストエッセイ
坦々塾会員 伊藤悠可

 梅雨入りしたが雨が少ない。初夏の光のある間に青葉をみておこうと、先般、親しい人たちと近郊の名所を訪ねた。春の桜もいいが新緑の瑞々しさは格別だ。最近、力作の論文を書き続け、講演でも活躍する坦々塾の中村敏幸さんも一緒だった。彼は文章と同様、意見の交換も常にストレートである。ふだん同じ方向を向いているつもりでも、論点で微妙な差異が見つかることは却って面白い。その日、彼と違いをぶつけあって楽しかった。

中村さんは断っておくが安倍首相の“応援団”という人ではない。シンパでなく、むしろ厳しい視線を常に注いでいる批評家である。だが、この間のサミットについてかなり高評価を与えていることを知った。「安倍首相がサミットの開催地に伊勢を選んだことを君はどう思うか」と私に訊くからである。中国経済の末期症状、南シナ海問題、北朝鮮の核などの会議の内容ではなく、何と開催地についてだった。

 私はある程度、中村さんという人間を知っている。そもそもこんな質問をするのは、伊勢神宮への崇敬の念から出ていることは察せられるし、さすが安倍晋三はツボを心得ていると感心してのことだろう。いきなり「君はどう思うか」というときは大体、強烈に同意を求めているときである。可笑しかったが、私は反対なのである。感心しないと答えた。

 まだ選定のはじまる時期ではない頃から、何となく「伊勢」が候補地に上がるだろうなと自分は予想していた。日本文化の中心であり、魂のふるさとであり、最も尊い聖地。安倍という人のこだわりそうなことである。各国首脳をここに招き、実地に神域にふれさせ、至尊の幣垣内に導きたい。中村さんはいう。「地上絶類の清らかな神気をこうむった首脳たちは、そのときは何も感じなくても、将来、この瞬間の感動はリーダーたちの深層にはたらくのではないか」と。

 おそらく中村さんの頭には、アインシュタインやアンドレ・マルロー、マルローと親交のあった竹本忠雄さんのことなどがよぎっているのだ。安倍首相も同じような動機かもしれない。伊勢の神気というものを念頭において、純粋に目の当たりに神明造りの社を見せたいという気持ちがあったのだろう。

 そのとおりなら、私はその純粋な動機が子供じみていて深慮に欠けているとも感じられ、少しいやなのである。自分は伝統を最も重んじる政治家だ、伝統の最上といえば伊勢だ、神宮のすばらしさをトップリーダーの眼にやきつけてもらう。言い換えれば図式化された感動づくりなのだ。安倍晋三にはそういうところがある。日本イデオロギーというべきか。

米国議会でのスビーチがまずそれだ。七十年談話がそれだ。韓国との慰安婦問題のケリのつけかたがやはりそれだ。この三つの歴史の課題はここで触れないが、安倍首相はこのあたり明確にカーブを描いている。心情は曲げないが言葉は相手の受けをみて変える。いっそう良くないことなのだが、そうなっていないか。こっちは政治なのだ、と安倍は手を打つようになった。

 話を戻したい。伊勢参りの有名な浮世絵を思い出す。広重のなかでも私の好きな一枚は、主人に代わって参詣するけなげな犬である。けものだから宇治橋は渡させてもらえないのだろうか、たもとで参詣者の群に埋もれていたと思う。犬を家族としてきた私ほこの版画にほろっとしてしまうのだ。ここで皮肉を言っているわけではない、オバマやメルケルは広重が描いた犬ほど無心で清朗だろうか。オバマやメルケルはマルローの感受性をもっているとは思えない。

サミットはなかば格闘技である。私が反対なのは、神宮が貴いというなら神宮を使うな、という意味なのである。政治の土俵は神宮の対極にあるのではないだろうか。伊勢は遺跡でないし、廟でもないし、施設でもない。

それから、危惧もある。現実の脅威となったテロリストにヒントを与えるべきではない。

  春めくや人様々の伊勢参り
  参宮と言へば盗みも許しけり
 (蕉門の連句だったと思いますが、二つともいいですね)

 大事なものはそっとしておくものだと思う。伊勢と同等には語れないが、国内各社で世界遺産に指定された神社が多い。厳島神社、下賀茂・上賀茂の両社もそのため内外の観光客が増えたにちがいない。これからの予算も心痛のタネかもしれぬ。しかし、世界遺産の指定を何にもまして夢見るという感覚は本来神道界のものではあるまい。私は寺社にかぎらず世界遺産全般に良い印象をもっていない。落とし穴のありそうな不吉な贈答品だというイメージが拭えない。

 考えてもみよ、何で「遺産」なのか。人類はまだ若いかもしれないじゃないか。

 素人の私には、神道というものが濃い霧に包まれてほとんど奥行きがわからない世界にみえる。神宮・大社とよばれるところでは、非合理というべき契りや秘密や伝えが残されている。私はこう書きながらもう一つ記憶がよみがえる。それは昭和二十年十二月十五日に発せられたマッカーサー司令部の「神道指令」である。

 日本政府に発した「神道指令」とは、国家神道の禁止と政教分離の徹底であった。これによって神道の本質はほとんど抹殺されると震撼した日本人が少なくない。発令から一週間を経た二十二日夜、宮中でお茶会が催されたのだが、そこに召されていた歴史学者の板沢武雄博士が陛下に述べられたという。「この司令部の指令は、顕語をもって幽事を取扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏をもって煙を切るやうなものと私は考えて居ります」。これを陛下はまことに御感深く御聴き遊ばされたと、木下道雄著『宮中見聞録』に書かれている。

 その人の著書を読んだことがなく板沢武雄のことは何もしらない。が、顕語をもって幽事を取り扱うという言葉も、鋏をもって煙を切るという表現も、とても味わい深い。これほどの達観と自信とをわが国の神道人は今もたずさえているのだろうか。さっさと忘れて新しい道を歩いているのだろうか。若葉を観ながら、中村敏幸さんが投げかけた、どちらかというと他愛のない伊勢サミットの話題から、さまざまなことを考えさせられた一日だった。
(了)

教育は錬金術か

ゲストエッセイ

佐々木純子          

国立大学が、まだ一期校と二期校に分かれていた40年少し前の事ですが、教育学の先生が、「(受験生は)『本当にこれがやりたい』と思って(大学に)入って来ればいいんです …(でも)受験勉強で疲れ切っているんです」と強調していた事が、今でも印象に残っています。

その後共通一次試験が導入され、さらに今のセンター試験の時代になっても、そうした状況が変わったとは思えません。

もし現代日本を特徴づける言葉があるとすれば、受験勉強を代表として「もっとやれ、もっと」という「際限のなさ」であり、その他の方面においても等しく広がる、「何処からとも言えない、もっともっとという現実的要請」ではないでしょうか。

以前スペイン・英合作で、ロンドンの女子寄宿学校を舞台にした青春映画を観て面白いと思ったのは、キーツの詩についてのレポートを生徒に返却する時、先生が「最低!」と言って評しながら、レポート用紙を宙に放り投げるシーンでした。しかしそのレポートを書いた生徒の方も負けてはいません。「キーツが私に一体何の関係があるっていうのよ」と放課後、同級生にぶちまけるのです。

一方我が国の教育はどうか。「何が何でも解らせる」ならまだいい、すべてが、最近のテレビ映画劇場で、古い映画を上映する時、最初の画面にほぼ毎回出てくる「この映画には、一部不適切な表現がありますが、製作者の意思を尊重し、当時のまま放映致します」のように、曖昧模糊とした表現に満ちています。

そんな中、我々は「これ以上踏み込まないように」という暗示を受けて、口をつぐむのです。同様に学校の生徒も、例え様々な疑問を持っても、「高校までは、考える材料を積まねばならない、それ以上は大学に行ってやれ」と教師に言われるか、授業内容を消化しきれないまま「見切り発車」するかの、いずれかです。

ところが「問題意識」を持って意気揚々と大学に入った学生も、その他の平均的な学生も、しばらくすると大学の「本当の事情」を知り、より現実的な目標を持つ方が得策だと悟って、卒業して行く人が大多数なのです。

こうした教育の結果生まれるのが、「奴隷の世界観」を持つ社会人ではないでしょうか。

つまり日本に居ながら、ある時はヨーロッパ大陸に、また別の時にはアメリカ大陸やシナ大陸に自身の身を置いたと想定して、物を考え続けていれば、GHQの政策そのまま「日本が悪かった」史観に染まっても無理からぬことで、我々の多くは、こうした現実的根拠のない様々な妄想に取り憑かれ、あげくに自分が何国人か分からなくなるという、昔は精神分裂病、今は統合失調症と名付けられた精神病の一歩手前に至っている、と言っても過言ではありません。

さらに悪い事は、幼稚園や小学校から大学に至るまで、段階を追って選別されるため、すべてをランク付けせずにはいられない強迫観念と、「負け組」意識が染みつきやすいことです。これは個人間でも国家間でも同じで、「負け組」国民は、何事も挑戦する価値がないと思わせる原因となっています。

「エジプトのテーベから発掘された“パピルス文書”には、金属を模造する方法が、150通りも記録されている。金に銅や亜鉛を加えると、合金されて何倍にも増量するが、何も知らない人の目には、あたかも銅が金に変わったように見えた。それがやがて、金を作りだすという夢へつながっていった。」

「ギリシャの哲人アリストテレスは、すべての物質の根本は“質料”と称する基本物質で、別に水や土や空気は元素である、と考え、生物も土や水の中から自然に生まれてきた、と主張した。“質料”の配合を変えたり、量を増減すれば、土くれを金にすることもできる。これが、後の錬金術を生む重要な理論になった。」

「あらゆる物質の中で、金は完全な金属、銅や鉄や鉛は、自然の失敗作で不完全な金属である。だから病める不完全な金属を治療してやれば、やがて金に変わる。その治療薬が全物質に含まれていると思われる“賢者の石”という元素だ。」
(「錬金術入門」資料・監修 京都大学助教授 吉田光邦 資料 森島恒雄
企画・構成 大伴昌司 『少年マガジン』‘70年代前半)

こうした錬金術の理論を見ると、現代の「教育理論」や学習のハウツーものを思い出します。例えば、「どんな子供にも、無限の可能性があります」「学力ではなく、子供の自主性を尊重し、生きる力をつけます」「三か月で英語がしゃべれるようになります」といった「殺し文句」です。

またちょっと分かりにくいのは、学校現場によくある考え方で、一定の情報を子供に与えていけば、子供たち自身で「自然に道筋を見つけるだろう」というものですが、これは「盲人が盲人を導く」と同じで、失敗した錬金術の方法です。

以上のような現代の、底なし沼のような教育現場に、「日本人の自我」という筋金を通した杭を打ち込んだのが、西尾先生の『国民の歴史』をベースとした『新しい歴史教科書』(平成13年)でした。この教科書は、教育にとって肝心なのは、情報と共に、受け手である生徒の自我を啓発して初めて身についた知識となる事を前面に打ち出した点で、共産主義者を中心とする左翼と呼ばれる人たちに、相当の脅威を与えたに違いありません。

その例の一つが、今問題となっている「学び舎」と呼ばれる会社が作った歴史教科書です(http://manabisha.com/)。

この会社の教科書を灘や麻布といった、所謂一流校と呼ばれる学校が採択したそうですが、上記のサイトを見て、私はつくづくこれらの学校の生徒が気の毒になりました。教科書の具体的な中身は見ていませんが、唯一「慰安婦」の記述があるという、それこそ左翼の大好きな用語で言えば「時代に逆行」し、おまけに「つくる会」を強烈に意識した「学ぶ会」という名前や、「こんなに歴史はおもしろい!」という謳い文句を使いながら、「歴史との出会い」「問いを生みだす」等々、何十年前に流行したような古臭い教育理論に則っています。
こんな「つくる会」にギラギラの対抗意識をむき出しにした「現場の教師たち」が作った教科書で、いくら「自主性」を刺激されたとしても、生徒たちは、結局昔の詰め込み式の大量暗記をこなさねばならないのだから、目次を
見ただけで、新興宗教のパンフレットかと勘違いしそうな教科書で、大切な授業時間を費やすのは、徒労以外の何物でもありません。

数学者の広中平祐氏によれば、「数学の問題であっても、同レベルで難しくしようと思えば、いくらでも難しくできる」そうです。奴隷根性の教師たちが作った教科書でどれだけ学んだ所で、奴隷根性しか生みださないでしょう。もし仮に、歴史教育における奴隷根性を打ち破る生徒が出てきたとしたら、それは、まさに彼らが養成したがっていた「生徒の自主性」に他なりません。

「新世界に征服の触手をのばした白人は、ついに1543年、最後の目的地黄金の国ジパングにたどりついた。だが、インカやアステカと違って、日本人は手ごわかった。武力による征服はだめだと判断した白人は、平和的手段で足がかりをつくろうとして、キリスト教の宣教師を送りこんできた。キリスト教は、ヨーロッパの富をふやす働きアリのようなものだった。武力で征服した民族の反抗心を封じるために、進んで力を貸したのだ。信長も秀吉も、はじめのころはキリスト教を優遇し、布教の援助をしたこともあったが、秀吉はやがて、そのうらにある大きな目的を見ぬいて禁止した。徳川幕府は、さらに白人すべての上陸を禁じ、国内に残るキリスト教信者を処刑して、鎖国時代にはいった。こうして、日本は自ら世界に目をとじたが、黄金につかれた白人たちに荒らされる心配もなくなった。向かうところ敵なしとみられたヨーロッパ人は、戸じまりの厳重な日本にはじめて手痛い反撃を受けたのだ。」

「16世紀にはいって、ヨーロッパの文化は、すばらしく発展した。すぐれた芸術家が続出し、けんらん豪華な美術品や巨大な建造物が生みだされ、市民生活は豊かになった。だが、アフリカは暗黒大陸とよばれて、未開のまま放置され、黒人と鉱物資源だけが際限なく運び出された。南アメリカも、アジアも、貧しく荒廃していった。12、3世紀まで、ほとんど変わらずに発展してきたヨーロッパと東洋、南アメリカの文化水準が、探検の時代をすぎるころから、いちじるしく変化して、ヨーロッパの文化はぐんぐん高くなった。白色人種は優秀で、有色人種は劣等であるという評価が、その結果生まれてきた。
なぜヨーロッパ人は、この時代に世界を征服することができたのだろうか。それにはいろいろな説があるが、ヨーロッパ人は遊牧民族の子孫なので、世界の果てのどこへでも出かけて行き、征服することがじょうずだったからだろうと言われている。力のあるものが、力の弱いものを征服する。弱肉強食は、生物が生き続けていくかぎり、さけがたい宿命なのだ。」
(「探検の時代 新世界の勝者と敗者」企画・構成 大伴昌司 『少年
マガジン』‘70年代前半)

この40年以上前の『少年マガジン』のグラビア記事よりも、遥かにソフトな記述の「つくる会」の教科書を否定するなら、学び舎の教師や元教師たちは、いっそ「日本はもう既に『移民国家』なのだから、歴史教育を廃止し、アメリカのように、他民族と仲良く暮らして行くための公民教育を徹底すべきだ」と、本音をはっきりと主張すべきでしょう。

そうではなく、あくまで自分たちが主張する「生徒の自主性」に固執するなら、自分たちの奴隷根性をしっかりと自覚して、『国民の歴史』を推薦図書として生徒に読ませるのが筋です。教師の矛盾とブレほど、生徒にとって迷惑なものはないからです。

また生徒の方も、仮にも自分を「エリート」だと自認するなら、時には自分の足元を見て、今自分が案楽に暮らせているのは何故かを考える必要があります。日本語で読み、日本語で考え、外国人と対等に付き合えるのも西尾先生が『江戸のダイナミズム』で書かれたように、我々の先祖たちが何百年もの時間をかけて、国語を整備し、外国の強大な影響から我々日本人の精神の独立を保つべく、不断の努力をしてきたからです。

ただし西尾先生の著作に「挑戦」する時は覚悟も必要です。なぜならそれらを読んで「自我に目覚めた」者は、もう自分自身から逃げることができなくなるからです。そして生まれてきた以上何をすべきかは、自分自身の力で考
えるしかないと、つくづく思い知らされるのです。

      平成28年5月4日   
        佐々木純子

日本人の精神

ゲストエッセイ

坦々塾会員 浅野正美

三菱自動車の燃費改竄が発覚した。同様の不祥事としては、ドイツのフォルクスワーゲン(VW)が排ガス規制をクリアするために、実験に不正な操作を施して、正確でないデータを提出していた事例がある。そのとき、溜飲を下げる思いをした日本人は決して少なくなかったのではないかと思う。今でも一部の富裕層にとって、外車に乗るということはステイタスのようだ。もちろんそれは本人にとってというだけで、そんなことに一片の価値も見出さない日本人の方が圧倒的に多いだろう。VWは決して高級車メーカーではないが、同等の国産車と較べれば高い価格設定になっている。それでも乗りたいという人が少なからずいるということを、純粋な経済学の合理性モデルからは説明できないが、人間の行動や意志決定には、経済学の教科書が説明するような、完璧な合理主義に基づくモデルなど存在しないのだ。日本人は、ドイツとドイツ製品に対して拡大鏡で見てしまうという癖がある。私が職業上扱っているカメラを例にとれば、ライカと国産の同等スペックとの製品価格差は、5倍から10倍である(*注)。断言してもいいが、その価格差に見合うだけの性能上の優劣はなく、出来上がった写真の出来上がりに関してもまったく差はない。自動車に関して私は何一つ興味もないが、ドイツ製品と日本製品における、実体を伴わない価格差についてはカメラと似たようなものではないかと思う。だからこそ、日本人のドイツ(製品)崇拝に対する冷めた見方も多分に存在するはずだ。そういう人たちにとって、先のVWによる不正事件には、喝采を送りたくなるというねじれた感情も沸き上がったのではないかと思うのである。

ほとんどの日本人は、自国の工業製品に絶大な信頼を寄せている。だから、そういう人たちは反射的に、不正を働かなくては市場のシェアを獲得できない惨めなドイツと、優秀で価格競争力もある日本という構図が鮮やかに浮かび上がり、内心ではほくそ笑んだのではないかと思う。

多少業界の内部を知るものとして、カメラのことをもう少し詳しく書いてみたいと思う。現在まで、工業大国も新興国もどうしても追いつけない特殊な工業製品の一つがカメラなのである。カメラを発明したのは、ドイツ人ではなくて実はフランス人である。1839年にルイジャック・アンデ・ダゲールがダゲレオタイプの銀板写真機を発明したのが写真機の始まりである。カメラの歴史もまだ200年に満たない。なにによらず、新しいテクノロジーが登場したときの例に漏れず、これを批判する人達はいつの時代にもいる。ドイツのライプツィガー・フォルクスツアイトウング紙に掲載された次の記事には、そんな当時の雰囲気がよく現れている。

「つかの間の映像を捉えたいという望みは、単に叶わないだけでなく・・・・・それを願い、そうしようと考えるだけでも神を冒涜する行いである。神はご自分の姿に似せて人間を作られたのであり、人間の手になるいかなる機械も、神の姿を捉えることがあってはならない。永遠たるべき根本法則を神がお捨てになり、一介のフランス人をして世界中に悪魔の発明を提供せしめるなどということがあってよいものだろうか?」

今でこそドイツは、カメラの母国のように装い、世界もそれを信じているが、それは虚構なのだ。さて、ドイツのカメラが世界を席巻したのは、1913(大正2年)年に発売されたウルライカ(Ur Leica 「Urは古い・元祖」)と、1954(昭和29年)に発売されたM3によるところが大きい。ところがM3から5年後の昭和34年にニコンが発売した一眼レフカメラニコンFによって、業界の勢力地図は一気に塗り変わる。これ以降、報道や創造の分野で使われるカメラは、そのほとんどが一眼レフとなり、その後も半世紀にわたってその情況に変化はない。ニコンF以降、高級カメラの代名詞でもある一眼レフは、日本がほとんど世界で唯一の原産国であり続けているのである。

ここまでは前置きである。実は、冒頭の三菱の例は氷山の一角ではないかと思ったのである。私も40年近く会社員生活を続けてきたが、最近の風潮として、明らかに仕事に対する姿勢に変化が生じているのではないかと感じている。こんなことをしていたら、世界が賞賛する「日本品質」などあっという間に溶けてなくなってしまうのではないかと。

昨今ブラック企業という言葉がマスコミを賑わした。確かに報じられた居酒屋チェーンの勤務実態は、人を人とも思わない残酷なものだった。多分創業社長は、会社を軌道に乗せるまでは、それこそ寝食を忘れて、必死で働いたことだろう。自分がやってきたことなのだから、他人にもできないことはないという思い込みもあったと思う。だが、心身の健康を害し、従業員を自殺にまで追い込むような労働の強制はもちろん論外である。私が感じている違和感は、そういった極端な事例ではない。いま我が国で見られる風潮とは、社会全体が何となく物わかりが良くなり、真綿でくるまれてぬくぬくとしていられることこそが幸福であるかのような甘やかしではないだろうか。

最近の日本人は明らかにひ弱になった。困難に対する耐性が脆弱になった。時代精神がそういったひ弱な日本人に寄り添ってきたのか、甘やかした結果がこうした国民を大量生産したのか、こうした詮索は「にわとりとひよこ」の議論になってしまうのだが、多分お互いが影響し合って今日の事態を招いたのではないかと思う。そのことは最近の文学作品にも見て取れるのではないか。そんな物語に見られるのは、なにやら自閉的で社会との折り合いが悪く、いつも自分を責めては、取るに足らない個人の問題を、あたかもこの世の大問題であるかのように煩悶し、のたうち回っている若者の姿である。社会学者であれば、こうした情況を見て、豊かさがもたらした新たな渇望といったような気の利いた分析をして済ますであろう。私は決して豊かさを悪いことだとは思わない。むしろ豊かさを追求することは人の本性に叶うことであり、幸福を追求する上に置いても必要不可欠なものですらあると考えている。

世の中に少しでも不安が蔓延すると、人々は決まって「清貧の思想」を口にする。最近もウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が来日し、その言動が大きな注目を浴びたことは記憶に新しい。元大統領の、「貧乏な人とは、少ししかモノを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」といった言葉は、名言として多くのメディアに取り上げられた。特に若者がこの言葉に強い共感を示したことをテレビは無邪気なまでに喜んで伝えていたが、そもそも「無限の欲があり、いくらあっても満足しない」のが人間であって、それ以下でも以上でもない。そういう人間性に対する理解のないところで、聖職者のようなきれい事をいくらいったところで、人間の本質はなんら変わらないのではないだろうか。

地球上の存在で「足を知る」ことがないのは確かに人間だけである。過剰な欲望や蕩尽は人類だけが持つ妄執であり宿痾といっても良い。およそ人類が引き起こす犯罪や争いごとのほとんどは、人類のこういった性質が引き起こしてきた。だからもういい加減そんなことはやめようというのは一見正論だが、中学校の学級委員会かせいぜいが成人式の決意表明程度の正論であろう。「無限の欲を棄てよ」ということは、人間であることをやめよ、というに等しいのである。何事にも光と影があるように、このような人間の際限のない欲望が、人類の進歩と繁栄をももたらしてきたという動かしがたい事実が一方にはある。こんなことは改めて言うまでもないであろう。そして我々日本人は、現時点における、そうした結果もたらされた豊饒な果実の最終受益者でもあるのだ。

ホセ・ムヒカ氏は慈善家でも聖職者でもなく一国を代表する大統領だった人物である。そうであれば、国家の指導者としての最大の務めとは、国力を増大し、国民の生命財産を守ることにあるのではないだろうか。国力には多様な要素があるが、経済力はその中でも特に重要な分野であると思う。戦争は確かに愚かしくも痛ましいが、過去の戦争がそうであったように、将来起こる戦争も、信仰の対立と経済的利得を争う戦いになるであろう。人間とは、互いに殺し合いをしてまでも、豊かさへの渇望を持ち、そしてその裏返しである、貧困や欠乏への恐怖に苛まされている存在だということは改めていっておきたいと思う。偉大な文学作品が繰り返し描いてきたのは、人間の心が抱える深い闇である。どのようなメカニズムによって、このような複雑で功罪の多いプログラムが人の脳に埋め込まれたのかはわからないが、わかっているのは人間というものはそのように極めて厄介な存在であるということだけである。

私が若い頃に仕事を通じてお付き合いがあった人のなかには、戦後の窮乏期を生きて会社を興した、ぎらつくような欲望を全身から漲らせているような男たちが何人もいた。今その人たちはほとんど鬼籍に入られた。その後を継いだのが、学歴があり、スマートで、礼儀も弁えた二代目である。その二代目がどうなったかといえば、そのほとんどは世間の荒波に立ち向かうことができずに廃業していった。確かに、彼らの父親である創業者たちは強烈な個性や、強引ともいえる仕事のやり方で敵も作ったが、商売の本質は直感で理解していたのではないかと思う。円満な社交や、ときには偽善すらも、人間同士が利害を調整する場面では大切な潤滑油であることはいうまでもないが、二代目のほとんどは、あたかもそれが目的であるかのように勘違いをしているのではないかという場面に私は何度も遭遇して驚いたことがある。往々そうであるように、人はよく目的と手段を間違えて、手段を目的にしてしまうという愚を犯す。

国力の土台は国民である。それ故、国家を発展させるための国民教育は絶対に不可欠である。読み書きができること、簡単な計算なら暗算でできること、迷信の闇から開放されることは、教育を通じて身につけていくしかない。その教育も今や立派な目的となった。教育には、正しい判断をするための基礎的な素養を身につけるという機能はあると思うが、社会の様々な障害に直面しても、個人の力でそれを乗り越えていくという人間力を教えることは困難だ。これは学校で教えることが主として知識であるのに対して、生きる力というのは、経験や年長者の振る舞いを通して身につける智恵だからではないかと思う。今、その智恵が急速に衰えてきているのではないかという危惧を覚える。世の中にはきれい事ばかりがはびこっている。偽善を偽善と認識できる社会はまだ健全だが、現在の情況は、偽善をまとい続けたために、それが善だと信じ込んでしまっている情況ではないだろうか。

青少年期において、学問の基礎を徹底的に身に付ける唯一の方法は、正しい学習を繰り返し行い完全に我がものとする以外に方法はないであろう。運動であれ、芸事であれ、地道な稽古をせずに一人前になることはできない。それは確かに、人生のある時期における苦役ともいえるのだが、人生の全般においてこうしたことを忌避する人間は、職業においてもなにがしかのことを成し遂げることは不可能であろう。

ヨーロッパの製品は、自らの製品に対する物語を作ることでブランド力を高め、それを維持するという戦略の下、およそ品質とは懸け離れた高い値段でも買う富裕層だけを顧客にすることで生き残りを計った。一部の識者は、日本も今後はそうした戦略に方向転換せよという。しかしこれは、ある種の敗北宣言ではないかと思う。また、そのような戦略で二番煎じが通用するほど、ビジネスの世界は甘くないだろう。

例え会社員であっても、長い勤労生活を送る内には、ここぞという勝負時はあるのである。また、大なり小なり、何らかのプロジェクトを期日までに仕上げなければならないという立場に立たされることもある。そうしたことも否定して、法律に定められた時間だけ働けば良しとするような人間ばかりになったら、間違いなく国力は衰退するだろう。圧倒的な技術力があるから日本の優位は揺るがないという人もいるが、その技術を確立した原動力がなんであったかということに想像力を巡らすことは必要だと思う。

どんな職業であれ、働く現場から「ブラック」の要素を完全に払拭することは不可能である。誰かが不眠不休で働くことによって社会が支えられているという状態は今後も決してなくならないであろう。すべての人間がそうせよというのではない。使命感を持った一部の人間の、そうした自己犠牲ともいえる行為は、歴史を通した偉人伝でも読んできたことである。私が憂えるのは、そうした行為そのものが、自己満足であるとか、組織への隷属であるとかいった言葉で否定され冷笑される社会が到来することなのである。

日本は今、様々に困難な問題に直面しているが、では、歴史上様々に困難な問題に直面していなかったというような太平楽な時代などあったというのであろうか。かつての日本には、「頑張れば明日はきっと今日よりも良くなる」という希望があったという。飜って現在の日本には、将来の絶望しかないではないかと。しかし、その国の時代を作るのは、国民のベクトルの総和であるということは認識しておく必要があるのではないか。

 

(*注)

独ライカと日本製カメラの価格差を比較するのは、実は単純ではない。それはライカが日本製品と同じ土俵で戦うことを避けているからである。ライカの主力商品であるM型と呼ばれるカメラは、驚くことにいまだにピント合わせを撮影者自身で行う必要がある。Mは「Messsucher」(メスズーヒャー・距離計)の頭文字だが、ピント合わせの原理は三角測量である。M型ライカの店頭実売価格は90万円から100万円だが、日本のメーカーでは類似品を生産していない。

レンズが交換できないコンパクトカメラの場合、ライカが35万円、同等スペックのニコンなら5万円である。人間の視覚に近い50㎜の単焦点交換レンズでは、ライカは46万円、ニコンは5万円である。ライカは伝説と神話を頼りに生き残る道を選択し、富裕層の信者だけをターゲットとするブランドとして存在し続けている。

 

西尾幹二全集刊行記念講演会報告(六)

【補足】
ご講演のために西尾先生はレジメを作成されました。(三)からの『昭和のダイナミズム』の冒頭はそれを基にご講義されたのですが、当報告文でうまく表示できず、ご講演に名前が挙がらなかった人物もいますのでこの場で紹介いたします。

(徳富蘇峰)大川周明/林房雄、三島由紀夫/保田與重郎、蓮田善明 、岡潔/
(内藤湖南)平泉澄、坂本太郎/折口信夫、橋本進吉、山田孝雄/
      /小林秀雄、福田恆存/和辻哲郎、竹山道雄、田中美知太郎/
(西田幾多郎)鈴木大拙、西谷啓二、久松真一/

レジメは縦書きです。括弧書きは「点線の上は昭和ではない」人々で、「/」は改行箇所です。(三)の冒頭で上述の表を下(左)から上(右)に向かってご講義されました。

 ご講演の感想
坦々塾会員 阿由葉秀峰

私はこの度のご講演の前半部分を、ふさがれた地下水脈である「昭和のダイナミズム」に至るまでの「導入部」と思い拝聴していました。東西文明の俯瞰、そして歴史を時代区分に縛られない長い時間の尺で捉え、軸足は確りと日本に置いた「広角レンズ」の視点、併せて古代への神秘主義に傾倒した江戸の思想の系譜を「昭和のダイナミズム」と後半部に仰有られました。振り返ってみると、二部に分かれる今回のご講演が「昭和のダイナミズム」の「歴史編」(序章)と「思想編」であったと私には思えたのです。

「外国にふさがれた地下水脈」とは、大川周明、平泉澄、仲小路彰、山田孝雄・・・、彼等が大戦中に、日本の運命に積極的に真のリアリズムを以て関与した「思想の部分」に違いありません。
「ふさがれた」ままの問題は戦後主流の保守思想家たちにもあって、彼らは「徒に戦争を批判または反省する愚」を戒める一方で、「あと一歩というところで口を噤んでいる。(268頁上段)」そして、「一口でいえば戦後から戦後を批判する制限枠内に留まり、アメリカ占領軍の袋の中に閉ざされたままであるという印象を受けるのである。(268頁中段)」と。終戦までの日本の置かれた運命に、我が身を置いて素直に向き合うことを避けている不正直な姿勢から、「そこから先がない。あるいはそれ以前がない、(268頁上段)」。小林秀雄、福田恆存、竹山道夫ら重要な戦後保守思想家たちのことです。雑誌『正論』7月号『日本のための五冊』という企画『戦前を絆(ほだ)す』からの引用ですが、そこで西尾先生は彼等の作品を選ばれていません。彼らが戦前の思想をハッキリ知っている世代であるという点は重要です。私は、彼等は戦後占領軍主導の苛烈な統制から糊口の道を閉ざされる恐怖、実際それを目の当たりに見てきたからではないか、という気もしていますが、分かりません。しかしそれでは真の歴史を描くことも、時代々々の思想や営為も窺うこともできません。
大戦を含めた歴史を振り返るとき彼等に違和感を覚える、という西尾先生のご指摘はとても重要です。今の日本はもはや「そこから先やそれ以前」を糊塗して済ますことができないからです。

全集刊行を記念して西尾先生は、亡くなった遠藤浩一氏とのご対談(平成24年2月2日付当ブログまたは雑誌『WiLL』12月号)で「明治以降の日本の思想家は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません。」と、今回のご講演に通じることを仰有いました。思えば、同じ遠藤浩一氏とのご対談で『ニーチェ』二部作の第三部目が大著『江戸のダイナミズム』であると仰有いました。ということは「昭和」の視座で描かれた雑誌『正論』連載中の『戦争史観の転換‐日本はどのように「侵略」されたのか』が書籍化された暁には、それこそが第四部目となるのでは、と想像を逞しくしました。

西尾先生はご講演の締め括りに平泉澄の『我が歴史観』を共感と共に紹介されましたが、私は次の言葉を思いました。「凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成(くみたて)に與(あずか)る事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體でいえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覚をいだいてはならぬ。」(『少年日本史』「はしがき」)
大正末から昭和45年と長い時間を隔てていますが、「歴史は畢竟、我自身乃至現在の投影。」の認識を経ての言葉であることを思えば『少年日本史』の響きは変わります。そして今日の教育現場では正に「病菌」という錯覚を「自分自身」として教えているといえます。「自虐史観」と謂われますが、自分という認識が無ければ「加虐史観」です。決して歴史の名に値しません。

過去は、裁いたところで、幻とはならない。必要なことは、過去の悪をことごとく肯定する勇気である。さもないと、将来ふたたび反省や後悔をくりかえし、現在の自分の立場もまた悪として断罪の法廷に引き出されることになるであろう。(『第三巻 懐疑の精神』24頁下段)

結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。(『第四巻 ニーチェ』495頁上段から495頁下段)

「歴史」は「今」を生きる私たちにとって相対的なものです。時代区分についても、「境」は「今」を基準にして後付けするのです。必然的に最近の出来事の方が情報量も多く関心も高いから細かく境を細かくするものです。それはけっきょく自己都合に過ぎません。今から五百年や千年も経てば、細分化さる「今」もかなりザックリと括られてしまうのです。それは仕方のないことでしょう。
「今の自分」との関係から「史実」を取捨選択して「歴史」の材料とするのですから、その「今の自分」という「主体」を無くして歴史はできません。ましてや万国共通の「世界史」など描くことは出来ません。史実と歴史とはまったく別問題で、だから「歴史は行為」することなのであって、歴史からそれを描いた主体がよく見えることはおかしいことではありません。しかし戦後70年かけて「文学が無くなってしまった」時代にどう歴史を描いてゆくのでしょう。

 過去は現代のわれわれとはかかわりなしに、客観的に動かず実在していると考えるのは、もちろん迷妄である。歴史は自然とは異なって、客観的な実在ではなく、歴史という言葉に支えられた世界であろう。だから過去の認識はわれわれの現在の立場に制約されている。現在に生きるわれわれの未来へ向う意識とも切り離せない。そこに、過去に対するわれわれの対処の仕方の困難がある。(『第六巻 ショーペンハウアーとドイツ思想』207頁下段)

過去は固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。また、過去を認識しようとしている人間もまた、たえず動いている。歴史は、動いているものが動いているものに出会うという局面ではじめて形成される創造行為である。(『同上』482頁上段から下段)

 プラトンの対話篇『国家』でイデアを説くところの「洞窟の比喩」に、ことの難しさを感じます。
生まれながらにして洞窟内に脚と首とを縛られて壁に向かって坐らされている囚人たち。背後に松明(たいまつ)が燃えているが、彼らは振り返ることが出来ないので、彼らの背後をいろいろな物を持って行き来する人々の「壁に映る影」だけを見続け、それを影とは知らず「もの」と思い込んでいる。囚人には影以外のものが見えないからです。あるとき、ひとりの囚人が束縛から放たれて後ろを振り返り歩みだします。松明の光は眩しく目は慣れないが、何者かに外界に連れ出されてしまう。やがて外界に慣れてくると「ものの影」ではなく「そのもの」の姿を認めるようになり、太陽こそがことの原因であることを悟ります。彼は再び真っ暗な洞窟に帰り、縛られ続けている他の囚人たちに外界のことを話し、彼らを連れ出そうと束縛から放ちますが、囚人たちは彼を信用せず捕らえて殺してしまう・・・。
 以上のような筋でしたか・・・。囚人たちは「影」しか知らないので「そのもの」を、それがどうであれ受け容れることが出来なかったということなのでしょう。また囚人の束縛は、囚人の生の支えであったという気もします。

いつの時でしたか西尾先生とお話をしたとき、「私の言論は10年ほど経ってから理解される。」と仰有るので、私が「教育や移民問題を思えば、四半世紀は先んじていますよ。」と申したところ、「それでは困る。」と仰有いました。西尾先生が困られるのも当然で、「今起こっている」問題について声を挙げていらっしゃるのだから「先見」ではなく、「今」響かないのは確かに困るのです。10年や25年経ってから響くようでは全く困るのです。失礼なことを申してしまったと思いました。であれば、雑誌『正論』の中で異彩を放っている西尾先生の連載は今ますます重要で、「戦争史観」五百年史観は、日本人は直ぐにでも「転換」するべきものと思うのです。

最後に、私がこの度のご講演に関連していると感じた西尾先生のアフォリズムを、全集から幾つか拾って纏めてみます。

歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。(『第二巻 悲劇人の姿勢』36頁下段)

歴史は個人を超えている。知性は全体を把握することができない。知性が歴史全体に対し神の位置に立ったとき、歴史は姿を消す。過去に対しても、未来に対しても、個人は不自由である。不自由の自覚を通じて、個人は初めて「現在」に徹する自由への第一歩を踏み出すことを可能にするのみである。(『同上』143頁下段「知性過信の弊(二)」)

われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。(『第四巻 ニーチェ』495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)

歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。(『第五巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ』24頁下段から25頁上段「光と断崖」)

 過去は定まって動かなくなったものではなく、今でも絶えず流動し、休みなく創造されているものである。あるいは絶え間なく再生産されていると言っていい。そして、そうでなくなったものにとっては、どんな素晴らしい過去といえども死物に過ぎない。過去の文化とはそもそも幻影であって、実体ではないのだ。実体はあくまでそれを受け取って再生産する後世の人間の意識の運動の中にしかない。しかもそれはきわめてあやふやな運動で、時代によって異なった幻影を生むし、個人によって異なった再創造の試練を受ける。後世の人間がそのあやふやさに耐え、何らかの価値を賭けていく行為こそがまさしく文化なのではないだろうか。(『第七巻 ソ連知識人との対話 ドイツ再発見の旅』551頁下段から552頁上段「文化観」)

総じてヨーロッパ人がアジアに対する「公正」や「公平」を気取ろうとするときは、ヨーロッパの優越がまだ事実上確保されている場合に限られよう。もし優位がぐらつき、本当に危うくなれば、彼らの「公正」や「公平」は仮面をかなぐり捨て、一転して、自己防衛的な悪意へと変貌することにならないとも限らないのだ。(『同上』349頁下段「仮面の下の傲慢」)

 変わっていなくても勿論いい。日本は日本である。われわれの「近代」がヨーロッパを追い越す段階に達した今になって、日本はやはり日本だったということがはっきりして来たまでのことである。われわれは江戸時代以来の社会心理、人間関係、エートスを保存したまま、外装だけ近代技術の鎧(よろい)で武装して生きているのだ。それはそれでなんら不思議はない。(『第八巻 教育文明論』258頁下段から259頁上段「第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観」)
 
 西尾先生は平泉澄の『我が歴史観』をご紹介されながら胸に深く響いたと仰有いましたが、私は西尾先生の言葉触れて唯々思い入るのです。
 了

西尾先生への手紙

ゲストエッセイ

 中村 敏幸 坦々塾会員

西尾幹二全集第十二回配本記念講演会
 「昭和のダイナミズム」―歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのかー
 に対する感想文(西尾先生宛て書簡)

 前略にて失礼致します。
 九月二十六日の御講演「昭和のダイナミズム」に対する感想の件、所用が重なっており遅れてしましましたが、以下のとおり御報告申し上げます。

 同日同時刻に他に三つもの催し(井尻千男さん追悼会、高山正之さん講演会、山田宏さん激励会)が重なってしまったにもかかわらず、約二百五十人の方が聴講に訪れ、大盛況であったと思っております。中でも懇親会参加者は講演会の受付段階では四十名弱でしたが、先生の御講演を聞いて懇親会参加を決められた方が多数出て、結果的に五十六名(過去最高)の方が参加され、懇親会も大いに盛り上がり、続く二次会にも三十名(これも過去最高)の方が参加して下さいました。

 今回の御講演の意義は何と言っても、明治は西洋への対峙に追われて思想的には見るべきものがなく、ゆったりとした時代に育まれた「江戸のダイナミズム」を継承したのは明治ではなく昭和であり、「昭和のダイナミズム」の存在意義を知らしめることにあったと思いますが、懇親会や二次会の場でも多くの方々がそのことに言及しておられましたことから、今回の御講演は大成功であったと思っております。

 我が国では保守と称する人達の中に、司馬某や昭和史家と称する徒輩の台頭によって、「明治は偉大であったが、昭和は世界の大勢を見失って、愚かな戦争に突入した暗黒と失敗の呪うべき時代である」との史観?に毒されている輩が多数おりますが、この歴史認識こそがGHQによる焚書と公職追放によって記憶を奪われ、WGIPによって自虐史観を刷り込まれたことに起因して生じたものであり、日本が日本を取り戻すためにはこの歴史認識を払拭することが必須課題であり、「昭和のダイナミズム」の存在意義を知らしめることが益々重要度を増していると思います。

 また、今回の御講演で聴講者に感銘を与えたのは、先生が「正論・七月号」に続いて今回の御講演でも述べられた、「戦後を代表する保守知識人であった小林秀雄も福田恆存も、反省して歴史を変えられると思っている人の愚を戒めることにおいては峻厳であったが、そこに止まっていて、戦争責任はアメリカにもあったとは生涯通じて決して言わなかった」ということであり、聴講者の多くが「今まで気付かなかったが確かにそうだ」と考えるに至ったと思います。

 この問題について、私は「正論・七月号」の御論稿を拝読してから、彼らは占領期間中ならいざ知らず、何故主権回復後も言わなかった、或いは言えなかったのかを考えてまいりましたが、その理由を私なりに次のように考えております。

 ①GHQによる占領政策が余りにも巧妙であり、占領中も主権回復後も我が国の言語空間ではアメリカの戦争責任はもとより、日本の正当性を主張することもタブーとなっており、とてもその様な事を言える状態ではなかった。
②日本軍による残虐行為についても当時は反論するだけの研究材料に乏しく、一部の保守知識人の間では、戦前の我が国の正当性を体験していたにも拘らず、占領工作に洗脳されて、非は日本に在り、実際に残虐行為が行われていたと考えるに至っていた。詩集「大いなる日」で英米と蒋介石の非を詠った高村光太郎も戦後は自らを暗愚であったと言って花巻の山小屋に籠って一切の活動を停止してしまった。
 ③戦いは昭和二十年八月十五日で終わったのであり、終わったことを今更とやかくいっても仕方がないと思い、かつアメリカの国策が日本を自虐史観に封じ込めて従属国家にし続けることであることを直視せず、戦う姿勢を失っていた。
 ④漸く近年に至って、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も「バターン死の行進」も虚偽捏造の反日プロパガンダであることが立証され、反撃の機運が盛り上がってきたが、それまでに七十年近くを要し、漸く言語空間もそれを受入れる状態になりつつある。

 先生の「正論」に連載中の「戦争史観の転換」が第一ですが、竹田恒泰氏も「Voice」に「アメリカの戦争責任」を連載しました。しかしこれが十年前であれば「正論」も「Voice」も掲載を受入れたか否か・・・疑わしいものがあると思っております。

 次に先生は、「私たちが見て来た『昭和のダイナミズム』は私達が最後の生き証人であり、この後は出て来ない。文学は無くなってしまった」と仰いました。確かに昭和の終わりと前後して文壇が終焉を迎え、文芸作品は生まれなくなってしまいましたが、文芸作品が生れないということは日本はもう終わりということになり、私は「この後はもう何も生まれない」とは考えておりません。記紀万葉の時代から連綿として続いた我が国の文芸の歴史の中ではそれはほんの一時期のことに過ぎず、地下水脈として流れ続けている民族精神・民族文化が湧出する日が必ずめぐってくるものと信じる者であり、またそうさせなければならないものと考えております。

 以上とりとめのない感想になってしまいましたが、日本が日本を取り戻すためには「昭和のダイナミズム」の顕現は必ず達成されなければならない課題であり、これを実現できるのは貴先生をおいて他に無く、貴先生の一層の御健勝を切にお祈りする次第です。
                             
                                         拝 具

    平成二十七年十月六日

                        中村敏幸

     西尾幹二先生
          侍史

追伸
 今回の御講演とは直接関係がありませんが、先生のレジュメの中に蓮田善明と三島由紀夫の名前が記されておりましたので以下のようなことを思い起こしました。

 それは小高根二郎氏の著作「蓮田善明とその死」によれば、三島氏は昭和二十年十一月十七日に催された「蓮田善明を忍ぶ会」に参加し、後日出席者の感懐をまとめた「おもかげ」と題した冊子に、墨痕あざやかに次の詞を投稿しており、三島氏は自決に当って蓮田善明の自決のことが心の奥底にあったのでないかということです。
   
 古代の雲を愛でし君はその身に古代を現じて雲隠れ給ひしに
 われ近代に遺されて空しく靉靆の雲を慕ひ
 その身は漠々たる塵土に埋もれんとす
                      三島由紀夫

 また、小高根氏の著作の「序」(昭和四十五年三月五日初版)に三島氏は次のように書いております。

 「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。・・・・・然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる。」(大津皇子論)
蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのやうにして「文化」を創る人間になりえなかつたといふ千年の憾みに拠る。(中略)。
 それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたのかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。
 戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根無し草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、・・・・・それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのやうな腐臭を放ち、どのやうな文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである。この騎士的な憤怒は当時の私には理解出来なかつたが、戦後自ら知識人の実態に触れるにつれ、徐々に蓮田氏の怒りが私のものになつた。そして氏の享年に近づくにつれ、氏の死が、その死の形が何を意味したかが、突然啓示のやうに私の久しい迷蒙を照らし出したのである。(中略)
 雷が遠いとき、窓を射る稲妻の光と、雷鳴との間には、思わぬ長い時間がある。私の場合には二十年があつた。そして在世の蓮田氏は私には何やら目をつぶす紫の閃光として現はれて消え、二十数年後に、本著のみちびきによつて、はじめて手ごたへのある、腹に響くなつかしい雷鳴が、野の豊穣を約束しつつ、轟いてきたのである。

 自決された年の初め頃に書かれたと思われるこの文章を改めて読み直し、三島氏の、内なる敵はもとより、戦う姿勢を有しない戦後の保守知識人に対する怒りが伝わってまいりました。

 三島氏から見れば、小林秀雄も戦う姿勢を失った極めて高尚な趣味人にしか過ぎないと映ったのかも知れません。

『西尾幹二全集 第十一巻自由の悲劇』その(三)

西尾先生の指示により、長い文章ですが、切らずに掲示します。(管理人)

坦々塾会員 浅野正美

全集第十一巻自由の悲劇の感想

 先生の全集も前回の配本で半分が刊行されて、今回の第十一巻「自由の悲劇」で折り返しを向かえることになった。どの一冊も原稿用紙二千枚になんなんとする大冊である。

 本巻では、89年に起きた世界史上に特筆される政変劇、特にそのことを象徴する出来事の名をとって単に「ベルリンの壁の崩壊」といわれることもある共産主義の終焉と、人間にとって「自由」とは何かを突き詰めた考察、そして「労働移民」の問題を取り上げた論文が並んでいる。私は届いた本の目次を改めて見て、大きく三つのテーマを扱った巻だと考えて読み進めていったのだが、途中からその認識は過っているのではないかと疑うようになった。つまり、この三つは相互に関連し、因果が結びついた問題ではないかと考えるようになったのだ。89年の事件に驚愕し、思考を強制させられた人は多いと思う。当時の私は二十代があと数十日で終わるという、若くて未熟な年代に属していたが、あの日の衝撃は未だに忘れることができない。あの夜、だれとどこでお酒を飲んでいたかということまで、はっきりと覚えている。NHKのニュースでインタビューされた西独に住む老婆が、「絶対に起こらないと思っていたことが現実になった。もうこの先私の人生で何が起きようと、決して驚くことはないだろう」と語っていた言葉も強烈な印象として残っている。先生も同じ趣旨のことを後書きで書いている。

 指揮者のL・バーンスタインは確かドレスデンだったと思うが、ベートーヴェンの第九交響曲を指揮し、第四楽章歓喜の歌では歌詞の「フロイデ(歓喜)」を「フライハイト(自由)」と言い換えて演奏した。あの当時は、自由の勝利を称え、世界全体がそのことを無邪気に祝福するお祭り騒ぎに浮かれていたような印象がある。

 少し私事をお話させていただくことを許していただきたい。「壁の崩壊」からかなり時間が経ってからだが、私はどうしても東欧の国々を見て歩きたいと思い、ウィーンに飛んで、ハンガリー・ルーマニア・チェコを駆け足で回った。その中でも特に行きたかったのがルーマニアだった。本書にも書かれているように、当時大統領だったチャウシェスクとその妻は、民衆の激しいデモと国軍による攻撃によって無惨な最後を遂げた。このときの様子は連日テレビで放映されていたので、今も記憶している人が多いのではないかと思う。ルーマニアの「反革命」暴動は、最初北部の街ティミショアラから始まり、この街でも銃撃戦によって市民の中から多くの犠牲者が出た。そして、私が訪れた時には、そのときの痕跡を示す弾痕一つ見当たらなかった。やがて騒擾は首都のブカレストに飛び火して一層拡大し、夥しい犠牲者を生んだ。ブカレスト郊外にある広大な英雄墓地には、この闘争で亡くなった人たちが埋葬されていた。すべてが個人墓だった。墓石には生年と没年が刻まれていた。いうまでもないが、どの墓の没年も1989年である。私は総てのお墓を巡り、それぞれの犠牲者が何歳で亡くなったのかと計算して回った。なぜか。日本の報道では、若い学生や労働者が自由を求めて立ち上がったと伝えられていたからだ。そこに私は「安保」の光栄を懐かむ懐古趣味というか、郷愁の念のようなものを感じ取っていた。

 実際にこの墓地に眠っていたのは、まさにありとあらゆる年代の人たちだった。そこには0歳の乳児から相当な高齢者までがいた。

 その夜、オペラ座で「椿姫」を見た。切符売り場の窓口では英語が通じなくて、切符を買うのに大変な難儀をした。そうだった、共産圏では一部のエリート以外英語教育を受けられなかったんだ、ということを思い出した。たまたま列に並んでいた中に英語を話す人がいて、助けてもらった。演奏はオーケストラも歌手もひどい水準だった。優秀な人ほど、その能力で自分を高く買ってくれる海外の歌劇場に転身したのだろと思った。こんなところで資本主義の論理を実感できたことが可笑しかった。それでも社会主義時代の遺風だろうか、入場料は信じられないくらい安く、劇場で飲んだグラスワインの方が高いほどだった。この旅では、時間の都合で発火点であるポーランドにも、壁があったベルリンにも行かれなかったが、自分の中ではこれで共産主義のお弔いが済んだという思いだった。それから何年か後、モスクワに行った。美しい街だと思った。サンクトペテルブルク(旧レニングラード)はもっと美しいと、現地の人から言われた。新宿の路上でドイツ人の若者が、ベルリンの壁の欠片を売っていたので買ったこともあった。本物の証拠にと、壁に登って叩き割っている写真がおまけでついて来た。このコンクリート片は今も書棚に飾ってある。

 長々と思い出話を書いてしまったが、私にとってもこのときの体験(壁の崩壊)がいかに衝撃的だったかということを分かっていただきたかったからだ。もうこの先、どんな事件が起ころうとも、それに触発されて外国に行くなどということは絶対にないと思う。

 まだ刊行されているのは1・2巻だけだが、「昭和天皇実録」を読んで改めて感じたことは、昭和天皇の御生涯には実に多くの戦争が起こったという単純なことだ。御幼少の砌であられた日露戦争に始まり、第一次世界大戦、満州事変、支那事変(日支事変)、大東亜戦争(第二次世界大戦)、そしてその帰結である東西冷戦。まさに戦争の御生涯といっていい。東西冷戦の時代、西側諸国は繁栄を極め、平和を謳歌していたが、第二次世界大戦終結によって新たに形作られたその世界秩序は、冷戦終結によって見事に崩壊した。昭和天皇はそれを最後まで見届けることなく崩御されたが、この1989年という符合には、偶然では済まされない意味があるように考えてしまう。それは「壁の崩壊」がフランス革命から200年後に起きたと本書で指摘されている符合とも重なり合うのではないかと思う。

 先生がこの巻のタイトルを「共産主義の終焉」でもなく、「労働鎖国のすすめ」でもなく、あえて「自由の悲劇」としたところに、私は先生が伝えようとした問題の本質をくみ取ろうとした。あるいはこれは私の誤読(誤解)かも知れないのだが。

 先生は本書で、「共産主義の終焉」によって、歴史の進歩主義や人類の歴史におけるフランス革命の必然性という論理展開が完全に破綻したことを丁寧に説明している。本文から引用するのが一番分かりやすいと思うので、これ以外にもいくつかの重要なテーマに絞ってできるだけ多く先生の言葉を引用しながら進めていきたい。

『だからこそ久しい間、ブルジョア資本主義社会が打ち倒されて、プロレタリア独裁の共産主義社会が到来することが、「歴史の必然の法則」と呼ばれて来たのである。そして、その法則に従って、過去の歴史が解釈されてきた。とりわけブルジョア資本主義社会に道を開いたフランス革命に代表される市民革命が、共産主義革命を準備する前段階として評価され、位置づけられて来たのだと思う。(略)そもそも歴史に必然など存在しない。未来の一切は原理的に人間の認識の外にある。未来を限定して考える必然論は、人間が歴史の自由な創造者でもあるという大切な側面を無視した、思考のいわば放棄である(257p) 』

『「歴史の必然の法則」のドグマとは、フランス革命はロシア革命の前史にすぎなかったのである!フランス革命は次に起こるべきロシア革命準備段階として位置づけられ、それによってようやく意義を獲得していたにすぎない。二十世紀にはこのような見方が支配的だった。しかし二十世紀も終わりに近づいて、ロシア革命の有効性が疑われだした。ソ連や東欧は自らの革命を否定した。地球上の他の諸地域において、フランス革命のような市民革命を超克するプロレタリアートのための次の革命はもう起こらない、ということになれば、二十世紀を通じてのフランス革命の意味づけも、根本的に修正させざるを得ないことになってくるであろう。(259P)』

『そもそも否定されたのは「歴史の必然」という考え方である。普遍的なモデルを先行させて考えるあらゆる予見論が誤りとして否定されたのだ。(260P)』

『フランス革命のもたらした「自由」は必ずしも普遍的価値ではなく、南ヨーロッパ・カトリック地帯に起こった風土的精神現象、ローカル現象という一面もあるのではないか。(260p)』

 もう一つ私が感心し驚いたのは、この時点(1989年)ですでに、現在世界のあちこちで起きている混乱と紛争を予言していることである。

『ヨーロッパ流の「近代的自由」の勝利であり、やがて地球の隅々まで「近代的自由」は普遍価値として拡がるであろう、と言う人が多いが、私にはそうは思えない。イスラム世界は堡塁を守り続けるだろう。中国も「近代的自由」とは必ずしも一致しない異質の世界として残るだろう。「近代的自由」の最も良き理解者は日本だが、それでも完全には一致しない。世界は多元体制としての姿を明らかにするだろう。(76P)』

『ソ連の最大の悩みは他民族問題だが、そのコンフリクトの凄まじさは、米ソ両超大国のイデオロギーの覇権争いが終わった後で、地球上で起こる争いの最たるものが何であるか、人種、言語、宗教のコンフリクトこそが二十一世紀の命運を左右するのではないか、という反省をわれわれに蘇らせた。(295p)』

『国際社会で「教義」を持つ文明同士の争いを前にしたとき、日本の特性は無力を露呈する。長所を長所としてどこまで守りきれるか。抽象性を欠く道徳は、自由へのラディカルな情熱を持たないがゆえに、他人の情熱も見えないがゆえに、対策を誤ることにもなりまねないであろう。(343p)』

 まさに二十一世紀の今、人種、言語、宗教のコンフリクト(衝突・対立)が世界の命運を左右する情況となっているではないか。私たちは今、この論文が書かれた時点ではなくて、四半世紀が過ぎた時点で読むことができたために、先生が怜悧に現実を見据えた末に辿り着いた先見性の正しさに改めて驚愕することになる。世の中に、未来を予測する人は多いが、その多くは耳目を集めるための言説が言いっ放しにされているだけであり、検証もされなければ、例え現実がそうならなかったとしても、言った本人も何一つ反省などしない。

 もう一つ、共産主義が完全に否定されたにも関わらず、わが国では相変わらず左翼的な言論が一向に衰えを見せないという奇観というよりも病理的な現象が衰えを見せない。のみならず、それが正義であり優しさであるという共同幻想すらある。

 大衆がその意思決定において判断の拠り所とするところといえば、

『現代の世相は新聞・テレビに動かされ、あるいは知識人、評論家、大学の教師、ジャーナリストに動かされ、これとは正反対の方向の自由ばかりを-私に言わせれば真の自由からの逃走を-しきりに声高に唱える時代を向かえている。(360p) 』

 それだからこそ、こうした立場にいる人の発言には社会的な責任が伴うべきだが、現実は果たしてどうであろうか。

『ドイツでも日本でも、政治主義者の不幸とは、骨の髄まで空想家でしかないのに、自分では現実化だと思っているところにある。(215P)』

『考えてみれば日本の戦後史もこの手の知識人の空しい言論の墓場であった。(略)進歩的な知識人たちは、未来を口にしながら、つねに過去しか視野の中に入れてこなかった。(221P)』

『彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ。彼らの呪いのヴェールを破り、裸形の現実をありのままに見るようにならない限りこれからの日本も世界も浮かばれないだろう。(747P)』

 なぜ彼らは破綻した共産主義という悪夢にいつまでもすがりつくのか。

『日本のマスコミや知識人は、なぜCommunismを紛らわしくも「社会主義」と訳すのであろうか。そのわけはCommunism の体制とそれ以外の体制との間の深い、決定的な溝を直視したがらない曖昧で無自覚の国民性とCommunism の体制を心のどこかで救いたい、その最終的な敗北と失敗を認めたくないという深層心理と結びついたきわめて後ろ向きの退嬰的心情のなせる業と思われる。そして、スターリン一人に悪役を押しつけ、Communism に期待した自分の過去の不明から目を逸らし、自分の善意と正義心を泥沼に沈めたくないという自己欺瞞に外ならない。(245P)』

『マルクス主義が知的モードとなった二十世紀の初め頃から、人は素直に現実を見ようとしなくなった。民衆のエネルギーによる「下からの市民革命」を近代社会成立の前提条件と考え、各段階を乗り越えたうえでプロレタリア革命が最後の矛盾を克服していくという歴史の必然的発展段階説を信仰するようになった。(311p)』
『明治天皇制を、フランス革命以前のヨーロッパの絶対主義と規定したのは、1932年のコミンテルンから日本共産党に与えられた運動方針の一つであったようだ。日本の学会は、講座派理論と大塚史学に代表されるように、この運動方針に盲従した。なんというばかばかしい迷信が日本の学問を支配し、呪縛していたことであろう。(313p)』

 そんな彼らだが、自らの不明を恥じることもなく、深い精神的な煩悶に悩まされることもなく、実に平然と、いやあっけらかんとすらしている。

『自国をできればコミュニズム体制に近づけたほうが良いのだ、と漠然と思ってきた人々は、大学社会や文壇・論壇や新聞社・出版社に数知れないほど存在していたことを、私は決して忘れてはいない。私が疑問なのは、彼らがいまほとんど動揺もしていない事実である。二十世紀を悩ませてきたロシア革命の理念の、七十年余にしての破産を前にして、本来なら彼らは、東ドイツの人々と同じように放心状態に陥るか、羞ずかしくて人前にも顔を出せない心境になるべきはずのものであろう。(232P)』

 では、人間の複雑性に関して誰よりも鋭敏であるべき文学者はどうであろうか。先生はドイツのギュンター・グラスと大江健三郎の発言を引用しつつ、このように批判している。

『少なくとも「ベルリンの壁」の開放に関するかぎり、ソ連の政策の一大転換が、すべてを決定したのであって、民衆の力は相対的に小さい。グラスは「革命」などという言葉に浮かれているだけで、歴史の底流を動かす力学がまるで見えていない無知を暴露指している点では、日本の進歩的文化人と瓜二つである。(217P)』

『詩的なヴィジョンによって現実が変化するのではない。あくまでも現実的な要請が変化を生み出しているのだということに彼らはもっと留意しなければならない。(226P)』

『「自我の幻想性」と私が呼んだのは、世界中において自分の置かれた位置の認識ができていないことを指す。詩的なヴィジョンで政治に変化を期待する-そしてその無効性と自己欺瞞に永遠に気がつかない-グラス型の文学者は日本にも少なくない。(227P) 』

『文学者が自国の歴史を実際以上に暗黒化して、自分のみを美しい良心の徒に仕立てるという、いい子ぶっている動機が透けて見えるので、文学者らしからぬ、心理的複雑さの欠如というほかはない。(229P)』

 マルクス主義が生まれた背景とは何か。

『マルクス主義はもともとドイツ人がフランス革命よりもさらに徹底した、時代の先を行く革命を実行することで、フランス近代を追い抜こうとする底意を秘めた思想だという一面があるのである。(略)ユダヤ人のメシアニズムの系譜を引くマルクス主義には、千年王国を実現するための弱者の怨恨感情が流れている。遅れたもの、弱いものの暴力による一瞬にしての失地回復と永遠の至福の達成―マルクス主義のこのモチーフは、選民としてのユダヤ人の復讐感情(ルサンチマン)と無関係とは言いがたい。(161P)』

 そしてそれが目指していたものとは、本当に資本主義とはまったく正反対の概念であったのだろか。先生の認識はひたすら深い。

『東側の共産主義体制が自壊していくのを目の当たりに見ながら、両体制は政治制度的にはたしかに対立していたが、精神的には両者の間に本質的相違はなかったことを、あらためてここに確認する。なぜなら、どちらも物質の自由、産業や技術の向上発展への期待、地上の楽土建設への夢を求めてきた点では同じであって、ただそれにいたる手段や目的に相違が認められたにすぎない。(366p)』

 あの当時、共産主義の終焉は「自由の勝利」と讃えられた。ではその自由とは何か。果たしてそれは普遍のそして至上の価値なのか。

『フランス人にしても、ドイツ人にしても、「自由」のドグマによって現実には不自由に陥っている。しかしそれがヨーロッパ人の生きて行くために必要な掟であり、戒律であり、生の形式なのだと私は思う。(89P)』

『「自由」のドグマによって欧米が実際に陥った不自由とはいかなるものであろうか。
それでもなおアメリカは、自由競争のこの原則の旗を下ろすことはあるまい。なぜなら「自由」はこの場合、ただの理想でも、目標でもなく、いわば一個のドグマだからである。ドグマはここでは「独断」と訳されるべきではない。「教義」と訳されるべきである。一つの掟であり、定めであり、言ってみれば戒律である。どんなに不便でも、掟であれば従わないわけにはいかない。これなくしては、国家社会が成り立たず、ばらばらに解体してしまうようなもの、それがドグマだからである。(300p)』

 イスラム教徒の生徒が、戒律で定められているスカーフを着用して登校したことで大論争に発展したフランスでは、

『外から見ている限り、何ともはやばかばかしくも、みっともないコメディーに見えるが、当のフランス人自身は目の色を変えんばかりに切実な面持ちで、真剣である。自分で自分に課した「教義(ドグマ)」に縛られて、身動きできなくなっているからである。なにしろ、ドイツのように、教育の現場に宗教の表徴(しるし)を平気で持ち込むのは、ドイツの「後進性」の表れだと、フランス人は傲慢に解釈し、それが彼らの年来の自負心になっているから始末に負えない。その結果、自分たちの自由も、外国人の自由も、ともに制限せざるを得なくなっていることには気がついていない。(309p)』

『ドイツ人は、学問の選択の自由、研究の自由は、どんな大衆民主主義の時代になっても完璧な形で守らなければならない、という「教義(ドグマ)」に取り憑かれているようである。かりに医学を学びたいという学生がいたとしたら、彼を選抜試験によって門前で追い払うのは、「選択の自由」の原理原則に抵触すると考えるのである。(320p)』

 私たちの感覚ではもはやあっけにとられるばかりである。しかしこれが彼らのパラダイムなのだ。だから彼らにとって日本は永遠に異質の国である。

 

『日本の小学校の朝礼を見て軍国主義といい、日本の労働者を見て会社への封建主義的忠誠心に生きていると頭から決めつける、あのヨーロッパ版「日本叩き」は、ヨーロッパ社会が個人、自由、孤立、プライヴェートの諸価値を、今ではイデオロギーとしてしまったことのいわば裏返しであり、反証なのである。(286p)』

 先生は繰り返し、普遍などなくあるのはローカルな価値だけであると説く。そして、人間は本当に真の自由を欲しているのか、さらにそれに耐えうるのか問う。

『われわれ自由主義体制の人間は、余りにも広く開かれた「自由」の情況の中で、自分というものを維持していくワク組の喪失に悩んでいると言いかえてもよい。そのため、選択の自由は無限にあるのに、何をして良いかわからない。(略)この広い空間の中に自分を維持してくれるワク組が存在しないので、敢えて意図的に小さなワク組を自分の周りに作る。われわれの活動は多かれ少なかれ自閉症的にならざるを得ない。(254P)』

『妨げとなる障害を打破し、自由や平等の拡大を求めてきた結果、この方向をどこまで進めても、人間は自由にもならなければ、平等にもならないという事実にあらためて突き当たる。(340p)』

『何らかの自由の制限なしでは、自由の社会制度そのものも成り立っていかないことは、常識が教えている。しかし、世間が撒き散らしている「自由」の幻想の中では、常識はややもすると時代遅れにみえ、非常識が似非ヒューマニズムの仮面を被って大道を罷り通る。(361p)』

 そもそも、ヨーロッパが育んだ風土・思想・宗教とはいかなるものだったのだろうか。

『われわれは西洋的なヒューマニズムの発生の根源が、孤独と絶望と断念の思想に接していることを知らなければならない。孤独のないところには、人間相互の高度の理解というものも生まれないのである。したたかな自己象徴のせめぎ合う世界にしか、たくましい自己犠牲の宗教が生まれるはずもないだろう。(270p)』

 そして神の死によってもたらされた精神の荒廃とはいかなるものか。

『「もうひとつの縦の垂直の軸」に頼って、すなわち自分の心の内部に問いかけるだけで、横の相対的な関係軸を捨てても安心して生きていける生き方の「型」のようなものだけはまだ残っている。けれども、残っているのは型であり、形式であり、ポーズだけであって、「垂直の軸」の上方には本来は「神」があるはずなのに、じつは何もなくぽっかり空洞があいているに過ぎないのではないか。(略)内心の神に許されたと称して、果てしなく堕落することが起こり得てくる。(285p)』

 再び問う。人は自由な存在なのかと。何ものからも自由であるなどということが果たして可能であろうかと。

『人間は一個人であれ、一民族であれ、この地球上に自分の条件を背負って存在している。障害を持って生まれた個人もあれば、資源や気象条件に恵まれない領土に住む民族もある。そこまで敢えて言わなくても、個人の生涯は彼がこの世に生を享けたときに八割方決定されていると言ってもいい。民族の歴史にしても同様である。しかし、二割から三割くらいはその後の努力に任されている。(349p)』

『人の心は希望の方にばかりどうしても傾く。自由の幅を二割から三割に、三割から四割に少しでも拡大する方法にばかり意を注ぐ。周りの環境もそれをしきりに応援する。しまいに錯覚が生じる。そして、もともと七、八割は最初から制約され、条件づけられていたのだという自らの宿命は、次第に忘れられてしまうのである。(349p)』

そして先生はさらに恐ろしい現実を直視する。それは人間にとって最大の不自由とは何かという問題である。

『山の中腹を切り拓いて開墾はできても、山を動かすことはできない。この場合、どうしても動かない山とは何か。それは自分というものである。弱いものも強いものも、才能のないものも、女性も男性も、誰しも自分というものの限界の中に生きている。(350p)』

『人間にとってどうにも解決のできない困難な相手は、社会的・政治的な課題ではなく、自分という存在に外ならない。自分ほど困った、厄介な相手はこの世にない。(351p)』

『一番手に負えないのは自分という存在である。自由を妨げているのは自分であって、自分の外にある社会的障害ではない。何度でも言っておくが、そのような自分と闘うことから真の自由が始まる。障害と闘うことはなんら自由を意味しない。(352p)』

『百人のうち九十九人が、悪いのは自分ではなく、社会の制度や仕組みに問題があるのだと、自分の外に敵を見つけ、「自由」の不足を恒常的に意識するように教育されてきた現代では、そもそも「自由」であることそれ自体が人間の悲劇であり、何人もそう容易に「自由」であることに耐えられはしない、と深く認識させのは、聖書ではないが、駱駝が針の孔を通るよりむつかしい。(360p)』

そんな人類が到達した世界観を先生はこう述べる。

『われわれの体制にももちろん巨大な悪がある。しかし1989年に人類は、そもそも最善の体制は存在しないので、最悪の体制よりは次善の体制を選ぶ、ということでついに合意を得たのではないかと私は考えている。(234P)』

『1989年のゴルバチョフによる幕引きのドラマは「近代的自由」の導入が理想として後に立つ最大の地域がまだ残ってはいたが、今度の事件で消滅し、このあと「近代的自由」は、最終的に勝利するのではなく、標的を失って、新しい試練に直面するであろう、ということを意味するのである。(323p)』

『共産主義のような偽の自由のイデオロギーにも惑わされず、他のいかなる心地よい理想にも幻影を抱かず、時間的にも空間的にも何もない地平に、そうと承知して生のつづく限り現在を静かに、冷静に立ち尽くしているということ-この単純なことが人間には簡単にできないのである。(739P)』

論文の末尾はこう結ばれている。

『光はいま私自身をも包んでいる。なぜなら、私は自由だからである。しかし、光の先には何もなく、光さえもないことが私には見える。なぜなら、自由であるというだけでは、人間は自由になれない存在だからである。(367p)』

 非常に視覚的な、その映像が目に浮かぶような文章である。これは虚無だろうか。否、私はただ、「現実を直視せよ」ということではないかと理解した。
本書において先生は、複雑極まりない人間のことを知ろうと思ったら、少なくとも若いときに大文学と格闘せよと書いている。まったくその通りだと思う。歴史も未来も、それを描くのはただ人間の営みだけである。人間がその内面に抱える底なしの沼のような闇、その悪を受け容れなければ人間理解など到底叶わないだろう。世にはびこる偽善とお為ごかしからは、真実は何も見えてこない。悲しいかな、すべての人間が自分で思考し、自分で判断することができるほどに、大衆の知性レベルは高くない。先生も指摘しているように、多くの国民は、何の批判精神もなく、疑うことも知らずに、新聞やテレビを通して伝えられる意見や映像を通してただぼんやりと流されていく。

 大衆の混迷は国家の混迷に直結するが、その根本にあるのは、世論を形成する知識人問題であると先生は訴える。国家も個人も、いざとなったらエゴイストになる覚悟が求められるのだ。きれい事と人の善意をあてにするだけのお人好しで、相手もきっとそうであろうなどという甘えは世界では通用しない。
共産主義の七十年にわたる壮大な実験と失敗とは一体何であったのかという問題は、この二十五年間私の中で常に付きまとっている問題だった。特にそれがついに終焉を向かえた瞬間に、同時代人としてそこに立ち会えたということは非常に大きかったと思う。

 ロシアの作曲家、ショスタコービッチの交響曲11番は、1905年1月9日の日曜日に勃発した「血の日曜日事件」への鎮魂歌である。極めて乱暴ないい方をしてしまえば、このときの皇帝に対する不信が、十二年後のロシア革命への狼煙となったといってもいい。1905年は明治三十八年にあたり、日露戦争が終結した年でもある。日本は当時戦況を有利にするための後方攪乱として、ロシアの蜂起陣営を支援していた。だから、もう一度乱暴ないい方を許してもらえるならば、ロシア革命においてわが国は、その実効性はともかくとして、革命側を側面援助したということになるのである。

 フランス革命という母親から、正統な嫡子としてのロシア革命が生まれたというというおとぎ話を真に受けている人は、その前史としての明治天皇制国家を守るための裏工作というエピソードを、どのように読み説くのだろうか。これすらも歴史の必然であると強弁するのだろうか。共産主義が、ブラックマンデー(世界恐慌)という敵失と、右翼による全体主義からの防波堤役を期待されたという二つの外部要素によって、幸運にも生きながらえたという指摘も今回初めて知ったことだった。
東西冷戦終結に伴う当然の帰結として、世界はグローバリゼーションの嵐に巻き込まれた。まさにわが国における労働移民問題とは、遠く二十五年前の世界史を揺るがせた大事件に端を発しているといっていいだろう。冒頭で三つの大きなテーマはそれぞれが独立しているのではなく、お互いが因果関係にあるといったのはそういうことである。

 本巻を私は、本に付箋を張り付けながら読み、その個所をノートに書き写していった。そのノートには、今回引用しなかった文章もあるが、その大学ノート十数頁の書き写しは、自家製超エッセンシャル版として、今後何度も目を通して行きたいと思う。かつてドラッガーを同じようにして読んだ、若い日のことを思い出した。

福井雄三氏からの全集第9巻『文学評論』感想

ゲストエッセイ
福井雄三 歴史学者・東京国際大学教授

西尾幹二先生

 ご無沙汰いたしております。西尾幹二全集第9巻『文学評論』、第14巻『人生論集』、夏休みに時間をかけてじっくり熟読いたしました。
 
 先生の芥川龍之介に対する評価については、私もまったく同感です。私はなぜ芥川があそこまで巨匠ともてはやされ天才扱いされるのか、さっぱり理解できな
いのです。芥川はその古今東西に及ぶ希有の教養を土台にした創作活動を行いました。その批判精神に満ちた鋭い知性は、評論やエッセイ、あるいは短編小説の分野で多少見るべきものを生んだが、所詮は単なる教養人、物知りの域を出ることはなく、彼独自の思想・世界観を形成するまでにはいたっていません。私は芥川の作品に対して、清朝時代の訓詁学者のような枝葉末節の緻密さは認めるが、いわゆる芸術作品としての感動というものを感じません。世間で評価されているほどには、彼の作品に対して知性のきらめき、知的興奮というものを、さほど感じないのです。

 芥川は自尊心がきわめて強く、知的虚栄心も強く、マスコミの自分に対する評価を異常なまでに気にしていました。彼が自分の死後の名声にまで汲々としていたことは、遺稿集の中からも明白に見てとれます。先生の指摘されるごとく、彼は自殺したから死後も名前が残ったのです。彼のライバルだった菊池寛は、後年の大衆小説とその私生活のゆえに、ややもすれば通俗作家扱いされますが、そんなことはない。若き日の彼の作品は実に鋭い切れ味と冴えを示しております。私は芥川より菊池寛のほうが、はるかに作家としての天賦の資質を持っているように思います。

 先生は菊池寛の初期の戯曲『義民甚兵衛』をご存じですか。私は中学一年のときこれを読んで異常な衝撃に襲われました。人間のどろどろしたエゴイズムと醜
い姿を、ここまで赤裸々にえぐり出した菊池の才筆に圧倒されたのです。当時東大生で卓抜した秀才だった私の兄が「なに、これは村人たちのエゴイズムさ。最も醜悪なのは村人たちさ」と一刀両断してのけた口調が、いまも鮮明な記憶として残っています。私はこの戯曲にあまりにも衝撃を受けたので、高校の文化祭のクラスの出し物で、この演劇をやろうと提案したのですが通りませんでした。

 彼らの師匠であった夏目漱石についても私は疑問を抱いております。そもそも漱石の文学自体が、非常に通俗で低俗な要素に満ちているというのは、以前から
指摘されていたことです。ドストエフスキーの作品が実は意外にも駄作だらけであるのと同様に、漱石の通俗性についても、かつて昭和初期の新進気鋭の論客た
ちが喝破したことがあります。漱石が朝日新聞の連載小説の人気専属作家であり、締め切りに追われながら原稿を書きまくったこともあいまって、彼の作風が著し
く大衆的であり、一歩間違えば三文小説に転落しかねない、ぎりぎりのきわどい要素をはらんでいることは確かに事実です。この点、彼のライバルであった森鴎外の作風とは、明らかに一線を画す必要がありましょう。

 『こころ』の文学作品としてのできばえについても評価が分かれるところであり、これを駄作とみなす声もあります。Kと先生の二人の自殺が大きなテーマとなっていますが、はっきりいってこの二人が自殺せねばならぬ必然性は、作品の構成上どこにも見当たらない。最後の土壇場で乃木大将の殉死が登場し、先生が号外を片手にして「殉死だ、殉死だ」と叫びながら「明治の精神が天皇に始まり天皇に終わった」などと何やら意味深な言葉をつぶやいて死んでいく。このあたりなどは読者から見れば、はっきり言って三文小説にすらなっていない、ずさんな結末です。

 西尾幹二全集、早いものでもう半ば近くまで刊行されましたね。いつも先生の著書を読みながら、先生の生きてこられた人生を、私自身が追体験しつつ生きているような気持ちになります。私より18歳年長の西尾先生の生き様をたどりながら、私自身の18年後を思い描けるという意味で、これは私の人生の貴重な指針でもあります。それではお元気で、失礼します。

                                    
 平成26年10月7日 福井雄三

西尾幹二全集第14巻「人生論集」読後感

ゲストエッセイ
鳥取大教授 武田修志

 九月も半ばになり、ようやく梅雨のような夏も終わろうとしていますが、西尾先生におかれましては、その後いかがお過ごしでしょうか。

 『西尾幹二全集第十四巻 人生論集』を読了しましたので、いつものように拙い感想を述べさせていただきます。

 今回はこの一巻に、「人生の深淵について」「人生の価値について」「男子、一生の問題」と三篇の人生論が収められていますが、対談「人生の自由と宿命について」のお相手、池田俊二氏と同様、私も「人生の深淵について」を最もおもしろく拝読しました。341ページで池田氏が、「心の奥底をこれほど深く洞察し、心の襞をこれほど精緻に描いたものはどこにもないだろう」とおっしゃっていますが、全く同感です。

 「人生の深淵について」は「新しい人生論」と言っていいのではないかと思います。または、「新たに人生論の可能性を開いた人生論」と。

 どういう意味かと申しますと、三、四十年前までは人生論、あるいは人生論風の教訓的文章はよく出版されていましたし、読まれてもいたと思います。私も高校生から大学生の頃、比較的よく読んだように記憶しています。『三太郎の日記』『愛と認識との出発』といった一昔前の定番の人生論からトルストイ、武者小路実篤、佐古純一郎等、古今東西の人生論あるいは人生論風のエッセーですね。こういう文章が今や誰によっても書かれないし、また読む人もいません。言うまでもなく、こういう文章が、このニヒリズム蔓延の時代を生き抜かなければならない読者にとっても、全く無力だからです。

 小林秀雄が、世間から「私の人生観」を話すように求められながら、「観」とはどういう意味合いの言葉かという話から始めて、明恵や宮本武蔵の話をすることで、間接的に自分の人生観を暗示したに留まったのは、昔ながらの「人生論」の無力、ストレートに自分の生き方を語る不可能を自覚していたせいではないでしょうか。西尾先生もその点では同じだと思います。何か自分はもう人間として出来上がっているかのように、高みに立って、読者に教え諭すように語る、そういう人生論は陳腐であり、不可能である、と。

 それでは、現代においてはどういう「人生論」が可能であるか?

 まさに先生の「人生の深淵について」は、そういう問題意識を持って書かれた「新しい人生論」ではないでしょうか。

 「人生の深淵について」というこの標題が、先生のねらいがどこにあるかを語っています。人生の「深淵」、つまり、人が人生を渡っていく時に出会う「危機の瞬間」に焦点をあてて、人間と人生を語ってみようとしているのだと私は理解しました。人の心の奥底、心の襞を描くに実に巧みな焦点の絞り方です。そして、ここに「現代」というもう一つの視点を持ち込むことで、「怒り」「虚栄」「羞恥」「死」といった古典的テーマへ、先生ならではの洞察を折り込むことに成功しています。全編、これは本当に、読んでおもしろく、同感し、教えられるところの多い、名エッセーだと思いました。

 以下に少しだけ、私が特に同感したところを書き写してみます。

「怒りについて」から――

「(現代社会にあっては)本気で怒るということが誰にもできない。・・・怒りは常に何か目に見えないものの手によって管理されている。」(15ページ)

「・・・怒りは、人生においては何を最も肝要と考えて生きているかという、いわば価値観の根本に関わる貴重な感情と言ってよいのではなかろうか。」(20ページ)

「孤独について」から――

「『孤独感』は自分に近い存在と自分との関わりにおいて初めて生ずるものではないだろうか。近い人間に遠さを感じたときに、初めて人は孤独を知るのではないだろうか。」(51ページ)

「理想を求める精神は、老若を問わず孤独である」(57ページ)

「退屈について」から――

「突きつめて考えるとこの人生に生きる価値があるのかどうかは誰にもわからない。われわれの生には究極的に目的はないのかもしれない。しかし、人生は無価値だと断定するのもまた虚偽なのである。なぜなら、人間は生きている限り、生の外に立って自分の生の全体を対象化して眺めることはできないからだ。われわれは自分の生の客観的な判定者にはなれないのである。そのような判定者になれるのは、われわれが自分の生の外に立ったときだが、そのとき、われわれはこの世にはもはや存在しないのである。」(80ページ)

 ・・・・・こんなふうに引用していくと切りがありませんのでやめますが、今回最も教えられたのは「羞恥について」の一編でした。そもそも「羞恥」という感情について反省的に考察したことが一度もなかったので、以下の章句には非常に教えられるものがありました。

 「羞恥」は「誇りとか謙遜とかのどの概念よりもさらに深く、人間の魂の最も秘密な奥所に触れている人間の基本に関わる心の働きである。」(86ページ)

 「羞恥は意識や意図の入り込む余地のない、きわめて自然な感情の一つである。羞恥は自ずと発生するのであって、演技することはできない。演技した羞恥はすぐ見破られ、厚かましさよりももっと醜悪である。しかし、謙遜を演技することは不可能ではない。謙遜が往々にして傲慢の一形式になることは、『慇懃無礼』という言葉があることから分かるが、羞恥にはこれは通用しない。人は謙遜の仮面を被ることはできても、羞恥の仮面を被ることはできない。ここに、この感情が人間の魂の深部に関わっている所以がある。」(87ページ)

「羞恥はより多く伝統に由来している」(92ページ)

 そして、この羞恥という感情が払底しているのが、また現代であると。羞恥心といったものに自分が無自覚だっただけに、なるほどと納得しました。

 さらにまた(これは池田氏が対談の中で指摘されていることでもありますが)この羞恥という感情がなければ、猥褻ということは成立しないという93ページに詳述されている洞察は、実に目から鱗が落ちるような一ページでした。「人生の深淵について」全体の中でも、先生の思考の深さと明晰さが格別光っている部分ではないかと思いました。

 だらだらと長くなりましたが、この『全集第十四巻』の中で、「随筆集(その一)の部の一番末尾に置かれている随筆「愛犬の死」については、是非ひとこと言っておかなければなりません。

 これは、先生がこれまでにお書きになったエッセーの中でも最も優れたものではないかと思います。小品ですが、実にやわらかな、流れるような文章になっていて、しみじみとした味わいがあり、私は三度読み返してみましたが、三度とも涙なしにでは読み通すことができませんでした。ひょっとすると、この一編が読者へ与える、人が生きて行くことについての、また、死んでいくことについての感慨は、残りの六百ページの人生談義が与える感慨に匹敵するかもしれないなあとも思ったりしました。小説をお書きにならない先生の名短編です。

 (私の弟がたいへん犬好きで、今年の冬、愛犬を無くしましたので、この一編を読ませようと思って「全集第十四巻」を一冊送りましたところ、さっそく読んで、「とても感動した」とすぐに返事を寄越しました。)

 今回はまた表面をなぞっただけの雑漠たる感想になってしまいました。ご容赦下さい。
 今日はこれにて失礼いたします。
 お元気でご活躍下さい。

                                          平成26年9月10日

著者からのコメント

 武田さん、いつものような好意あるご評文、まことにありがとうございます。

 「人生論集」ということばで一冊をまとめましたが、仰せの通りこの題は正確ではないかもしれません。「人生論」という語には古臭いイメージがあるのでしょうね。ただ他に言いようがなかったので、こういう題目で一巻をまとめました。

 巻末の随筆集について触れて下さったのは有り難かったですが、『男子 一生の問題』に言及がなかったのは少し残念でした。これは型破りの作品だったので、いつかまたご感想をおきかせ下さい。

 今年は雨が多く、御地も大変だったのではないでしょうか。どうかお元気で。
                                               草々

國字としての漢字

ゲストエッセイ
    田中 卓郎 坦々塾会員 哲学者

 通常國字と言へば、支那から輸入された漢字ではなく、我が國に於いて案出され、支那には無い國産の「漢」字、例へば「峠」や「榊」などの文字を文字を指す。それら以外の漢字は、支那傳來の文字といふ意味で文字通り漢字である(津田左右吉は『支那思想と日本』に於いて「支那文字」といふ表現を用ゐてゐる)。
 さういふ譯で、漢字は支那が本國で、我が國はその輸入國に過ぎず、現在に到るも漢字に關するあらゆる事柄の最終的判斷基準、根據は依然として支那や支那の典籍、あるいは支那人學者の言に在るとわれわれのうちの大多數は信じ込んでゐるやうに思はれる。このことは一般の素人も專門家も變らず、殊に專門家はその多くが研究對象を盲目的に崇拜愛好するので、漢字に關する支那本家意識は素人よりも一層強いとも想像される。その證據に、支那文學、史學、語學等を問はず、支那關係諸學で支那を正しく「支那」と呼んでゐる專門家は現在皆無に近いのではないか。「中國」などといふ美自稱を卑屈に受け容れさせられて使用してゐる主要先進國は、戰後の我が國だけではないのか。一般に或る國をどのやうに呼稱するかはその言語使用者が決定することであり、明確な蔑稱でなければその使用に問題は無い筈である。現に歐米主要先進國での支那の呼稱は「支那」(の語源である秦、Chin)に由來するものである。私は西洋諸語に於ける我が國の呼稱JAPAN及びその變化形を個人的には好まないが、それは外國語に於ける呼稱であるから許容する。自ら名乘る場合は、ローマ字表記ならばNIPPONが當然の呼稱であるが(一九七〇年代くらゐまでは概ねさうであつたかと記憶する)、最近は「オール・ジャパン」などと平然と叫んで何の躊躇ひも無い。眞に滑稽で堪へ難いのは、それに「サムライ」などといふ形容詞を附けて、「サムライ・ジャパン」などと言ふことである。正確な現實認識の第一歩は正確な言葉遣ひであることを改めて想起する他は無い。

 現在のわれわれの常軌を逸した支那への卑屈な迎合は、勿論主に戰後の占領政策及び共産黨政權成立後の支那への左翼的幻想に由來すると考へられるが、より長期的、文化的な次元での支那認識の問題としてこの心理を考へると、文字の輸入といふ問題がその本質的な一部として伏在してゐるやうに思はれる。現に我が國の文字といふ意味で「國字」と言つてみても、高度な、學問的な觀念、概念を表現してゐるのは漢字及びその結合體たる漢語であり、かかる意味に於いて、「國字」と呼んでも實際は支那文字に過ぎず、これを突き詰めて考へても國語には辿り着かないのではないか、といふ疑念が心中に蟠居してゐるのではないかと思はれる。この意識はある意味でわれわれの潔さ、道徳性の高さの現れとも考へられるが、同時に自我の弱さとも考へられ、われわれの正確な現實認識を妨げてゐる。

 周知の如く、現在のヨーロッパ諸國で廣く用ゐられてゐるアルファベットは、その名が示す如く、ギリシア人がフェニキア人の文字を改良して案出したものであり、アルプス以北のヨーロッパ人が發明したものではない。にも拘らず、彼らはそれを自らの言語を表現する文字として使用し(勿論、西歐諸國が使用してゐるアルファベットはローマ人が使用したラテン・アルファベットであるが)、その使用によつて表現可能となつた自らの諸言語を用ゐて近代以降の世界支配を可能としたあらゆる思想、科學などを記述した。西洋諸語を母語として使用する者達は、その記述文字であるアルファベットが自分達の發明品ではないがゆゑに自らの言語に蟠りを覺えることはあるまい。自らの言語を普遍文明の言語たらしめたことは自分達の力以外には有り得ない、と強固な自我をその第一の特質とする近代ヨーロッパ人達は當然考へてゐるであらう。

 同樣のことが漢字についても妥當するのではないか。幕末期以降、西歐列強の侵掠の嵐の中に在つて、我が國はこれを防禦し、植民地化を免れる爲に彼の者達の文明を理解し、その力を我がものとする爲に西洋の學術書の讀解、翻譯に力を注いだ。その翻譯の爲に、西洋語の專門用語に對應してその内容を擔ひ得る「漢」語を「漢」字の組合せによつて案出した。それは、われわれの漢字の本質的な理解と西洋の學術書の正確な理解とが相俟つて初めて可能となる高度に獨創的な語彙の發明であり、これらの高級語彙の案出によつて初めて西洋の先進科學の受容が可能となり、その結果、我が國は列強の侵掠を免れて急速な近代化を成し遂げ、非西洋諸國唯一の近代的大國の地位を得たのであつた。これらの學術的な高級語彙たる日本製「漢」語は支那へも輸出され(「逆輸入」といふ表現はこの場合適切ではない)、彼の國の西洋理解を可能とする決定的な契機となつたのではないか。

 この歴史的事實を認識するならば、學術的高級語彙としてのかかる日本製「漢」語の案出こそ漢字使用に於ける決定的な成果であり、漢字を近代文明の先端を擔ふに足る文字と爲した決定的な偉業と言ふべきであり、これを成し遂げた我が國こそ「漢」字の本家であり、これらの學術的高級語彙こそ眞に「國字」の名に相應しいと言へるであらう。

 かかる認識の普及の爲にも、我が國由來の「漢」語を網羅し、とりわけ學術的な高級語彙を詳細に解説した書籍、辭書類が必要不可缺であるが、その要を滿たすものが見當らない。もし既に出版されてゐるのであれば、お知らせ願ひたいし、未刊であれば、然るべき專門家の先生方にその編纂を切に御願ひ申し上げたい。

「移民問題連絡会」の立上げと「トークライブ」(観覧報告)

〈ゲストエッセイ〉                  平成26年7月6日

  

                      小川揚司(坦々塾事務局長)   

 今般、西尾幹二先生は「移民問題連絡会」を立ち上げられ、関岡英之氏(評論家)、三橋貴明氏(経済評論家)、河添恵子氏(ノンフィクション作家)、坂東忠信氏(元警視庁北京語捜査官)がそのメンバーとして参加されるところとなりました。そして、西尾先生は、雑誌「正論」の小島編集長と語られ、この気鋭の論客四氏に呼びかけ、河合雅司氏(産経新聞論説委員)も加わり、7月6日(日)のトークライブ「日本を移民国家にしてよいのか」(雑誌「正論」主催)に出演される運びとなりました。

 この「移民問題」と云う深刻なテーマに、主催者の観覧者募集広告に対し、応募者は6月半ばの時点で会場の収容能力の限度である八百名を超え、主催者が更に殺到する応募を断るのに大童になる一幕もあり、この問題に心ある国民の関心が如何に高いかを如実に表すところとなりました。そして、当日、会場の「グランドヒル市ヶ谷の大広間」は、忽ちのうちに真摯な観覧者で埋め尽くされました。

 開演冒頭、主催者の挨拶に続き、西尾先生は、約7分間、満場の観覧者を前に、このトークライブの趣旨とするところを次のように語られました。

「私は丁度25年前、中国人に偽装したベトナム難民の渡来事件が起こり、 外国人単純労働者受け入れの是非が世の中で問われだしたときに、外国人受け入れに慎重論を展開した。聴衆の中でご記憶の方も居られるかと思う。
そのとき確認したメインポイントが8点あり、今もなお有効かどうか、本日のトークライブを聴かれた皆様にご判断いただきたい。

1.日本人は必ず加害者になる。
   被害者にもなるが、加害者とされ、国際誤解を招くような事件が必ず起こる。フィリピン人女性の変死事件で、日本では話題にならなかったが、フィリピンでは連日新聞が書き立て、悲劇のヒロインの映画までつくられた。

2.労働者受け入れ国は送り出し国に依存する。 
  大相撲をみれば分かるように、彼等送り出し国のパワーに日本側が取り込まれてしまう。ドイツではお金をつけてトルコ人を帰国させたが、同じ数の別のトルコ人がドイツに戻ってきてしまった。ドイツ側が特定の職業の専門集団であるトルコ人を必要とするからである。例えば、洗濯屋さんはトルコ人の仕事になっていて、代わりがいない。同じようなことは日本にもあるだろう。

3.入ってくるのは人間であって牛馬ではない。
   一度入ってきて日本のために働いた人を、強制的に帰れとは言えない。妻子を呼ぶなとは言えない。大事なことは、外国人もまた日本に来たら、日本で「出世」を望むことだ。彼等も老人になり「介護」を必要とすることになるだろう。

4.期限を切っても大半は必ず定住化に転じる。
   今までの各国の実例が示している。

5.日本には労働者階級はいない。
   日本は階級差が少なく、永続的な「カースト」は日本には存在しない。   
   移民達は自国の「カースト」を日本に持ち込む。日本に来て民族間の差別、中国人→ベトナム人→フィリピン人 といった格差を持ち込み、日本の流動的な社会を固定化し、創造的な日本文化を脅かす。

6.日本人は諸外国のように外国人を冷酷に対応できない。
 シンガポールでは、フィリピンメイドが多数働いているが、彼女等は定期的検診を受け、妊娠が判明すると国外退去を命じられる。シンガポールの雇い主の男性が原因でも、責任はメイドだけが問われ、追放される。
世界中どこでも外国人に対する「差別」が構造化している。日本人は 冷酷に対応できないだろう。メイドと一緒に食事をしたりするようになるだろう。我々は犬猫の前で裸身になっても平気だが、外国の使用人の前でも裸身になることができるだろうか。欧米人は犬猫を前にしたように外国人を扱う。

7.世界は鎖国に向かっている。
   移民国 カナダ、オーストラリア、アメリカでも導入を拒否し始めている。

 8.石原慎太郎氏は判断を間違えている。
   SAPIO(6月号)で石原氏は「太古から世界の人材と文化受け入れてきた日本の寛容を知れ」と言っている。氏は25年前から似たようなことを言っているが、勘違いしている。二千年にわたって少数づつ入ってきた技術者などと、今、地球の人間大移動期、イスラム教徒と中国人の大量移動の場合とは意味が違うので同一視はできない。
   それに、宗教的に包容力のある日本文化も、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、韓国儒教などの原理主義は基本的に受け入れていない。型どおりに包み込むが、歴史の中に取り入れず、歴史の片隅に置き去りにして行くだけだ。
   日本文化は選択している。大量の原理主義の導入は、日本文化の包容力を壊す恐れがある。
石原氏に再考を求める。」

 そして、西尾先生の司会により、パネリスト報告に入りました。

 パネリスト五氏の報告は、いずれも現実を具に見据えた視点から問題の本質を鋭く指摘するものであり、憂国の熱誠と相俟つ熱弁に満場の観覧者も文字通りざわめき一つなく熱心に聴き入り、結節毎に拍手で応え、場内の熱気と凛とした緊張感は高まり続けました。途中15分の休憩をはさみ、後半のフリートークに入ってパネリストの熱弁は更に舌鋒の鋭さを増し、聴衆もパネリスト達と一体化して呼吸する空気を、聴衆の一人として筆者もヒシヒシと感じました。

 やがて、トークライブも終演に近づき、司会者の西尾先生が、パネリスト達の諸提言を素早く集約され、次の8項目にまとめて、力強く再度読上げられました。

1.外国人受け入れ政策は、諸外国の事例を踏まえるべきであり、国民的議論なく進めることは認められない。

2.外国人単純労働力の受け入れ拡大は、日本の移民国家化と同じである。(国連における移民の概念は、1年定住)

3.高度人材の受け入れ要件と審査こそ、その厳格化を必要とする。

4.外国人労働力の受け入れ拡大は、国内労働者の賃金を下げ、格差社会を拡大するため、景気回復にはつながらない。

5.労働力不足は日本人だけで解決することができる。

6.日本在留者の犯罪検挙率・犯罪検挙数・犯罪検挙人口が国別で上位3カ国の出身者については、特に厳格な受け入れ基準を設けるべきである。

7.移民政策は少子化対策・人口問題の解決にはならない。

8.移民問題は、国防問題にほかならない。

 観覧者の少なからぬ方々がこの8項目を書き留める姿を筆者も目撃し、また、大きな拍手により、満場が賛同の強い意志を表したことを筆者は確認した思いでした。そして、残り時間も僅かとなって、ようやく質疑応答の時間となり、少なからぬ方々が挙手をされましたが、当てられたのは数人の方々で、斉しくパネリストに謝意を表した後「これらの提言は具体的に政府に建白すべきである」「何故、政府が外国人労働者の受け入れを閣議決定し、法案成立に向けて画策していることをマスコミは積極的に報道しないのか」と云った厳しく鋭い真摯な質問も相次ぎ、西尾先生をはじめ壇上のパネリストの先生方も大いに意を強くされたことであろうと、また、会場に参集された方々のご見識と憂国のご熱誠も本当に高いものであったと、筆者も深く感じ入ったところです。

 その気運を反映されてか、終演の挨拶において主催者も「今後、産経新聞においても、雑誌「正論」においても、特集を組んでこの問題に関する国民的議論にしっかりと取り組み、向かい合ってゆく」旨を言明されるところとなり、移民問題連絡会 代表の西尾先生をはじめとする諸先生の堅固なご決意とともに、この運動の行く手に確かな光明を見出した、そのような思いを筆者も強く感じた次第です。

 而して、降壇される西尾先生達パネリストの諸先生を、満場の観覧者は万雷の拍手で見送り、トークライブは大成功裏にお開きとなりました。

 あらためて、壇上で熱弁を奮われた西尾先生と気鋭の論客諸先生達に、またこのトークライブを企画・運営された「正論」の小島編集長達に深甚の敬意を表し上げ、そして、それを支えられた編集室のスタッフの方々、坦々塾の有志の諸兄に深く感謝を申し上げて、ご報告の筆を擱くことといたします。
以上

西尾追記

三橋貴明氏の以下の新刊本を推薦します。

移民亡国論: 日本人のための日本国が消える! (一般書) 移民亡国論: 日本人のための日本国が消える! (一般書)
(2014/06/27)
三橋 貴明

商品詳細を見る