中村敏幸さんの当選作(二)

日米百五十年戦争と日本再生への道標    
        坦々塾会員 中村敏幸

コミンテルン工作と日支間を全面戦争に導け

 ソ連と支那国民党は1919~20年の第1次、第2次カラハン宣言によって急速に接近し、ワシントン条約(九カ国条約)の枠組みから外れたソ連は外蒙を勢力下に置き、コミンテルンは直ちに工作員マーリンを支那に派遣して支那共産党(コミンテルン支那支部)を設立すると共に国共合作に向けた事前工作を始めた。

 続いて1923年(大正12)の「孫文・ヨッフェ共同宣言」により、孫文は「連ソ容共」を唱えて直ちに蒋介石をソ連に派遣し、ソ連資金によって陸軍士官学校たる黄埔軍官学校を広州に、支那人革命家の養成所たる中山大学をモスクワに設立するに至った。コミンテルンから派遣された工作員ボロヂンとガーレンはそれぞれ孫文の政治顧問と軍事顧問になり、国民党を牛耳って第1次国共合作を実現させた。孫文は支那の覚醒と自主独立を切に願って支援を惜しまなかった頭山満、宮崎滔天、犬養毅、梅屋庄吉等の誠意を足蹴にし、完全にソ連の軍門に下ったのである。しかし、孫文没後の共産勢力台頭を恐れた蒋介石による、1927年4月の「上海反共クーデター」によってソ連からの顧問団は追放され国民党内での影響力を失った。ただし、コミンテルンはその直後の5月に開催された中央執行委員会に於いて、予てから国民党に潜入させていた共産党員の残留を指令している。

 1935年になると、コミンテルンは第7回大会に於いて「人民戦線戦術の樹立」と、米英仏と提携して日独伊と戦う方針を打ち立て、支那に対しては「抗日民族統一戦線」によって「日支間を全面戦争に導け」との指令を下した。それに応えて、支那共産党の「八一宣言(抗日救国のために全同胞に告ぐる書)」が出されたが、これは支那共産党による事実上の対日宣戦布告であり、翌年12月の西安事件によって第2次国共合作が成立すると、支那は全面的に抗日戦争へと突入するに至ったのである。今日では、1937年7月の盧溝橋事件とそれに続く第2次上海事変は国民党軍に潜入していた共産勢力の陰謀が発端となって起こったことが明らかになっている。また、同年8月21日に締結された「ソ支不可侵条約」の附則にはソ連による国民党軍への武器並びに資金の供与と「国民党はソ連の同意なくして日本との和平又は講和条約を締結せざること」が明記されている。(6)
 

米英仏ソの急速な接近連携と対支那支援 

 ソ連は1930年(昭和5)にリトヴィノフが外相に就任すると、米英仏等の資本主義諸国との共存に方針を転換した。また、アメリカは1933年にフランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任すると直ちにソ連を国家として承認し、米英仏ソは急速に接近して「民主主義対ファシズムの戦い」との構図が宣揚され、ソ連は国際連盟加盟を果たした。しかし、領土拡大や植民地支配による搾取と人種差別の激しかった米英仏の民主主義は白人民主主義であり、権力闘争と粛清を繰り返した恐怖政治国家ソ連が民主主義国家の一員であるというのは噴飯ものである。これに異論を唱えない史家には基本的な思想批判力が欠如しており、近現代史を語る資格は無い。また、日本がファシズム国家であるとの説は作意をもった言い掛かりであり、それでもなお当時の日本はファシズム国家であったと強弁する論者に対しては「ファシズムの定義を述べ、当時の我が国の政情と比較せよ」と述べれば反論はそれで足りるであろう。むしろ蒋介石国民党こそがファシズムであった。

 1937年に支那事変が起こると、米英仏ソは蒋介石国民党及び支那共産党に対し莫大な資金と軍需物資の支援を行った。日支間には互いに正式な宣戦布告がなされていなかった為に事変と呼ばれて戦争は拡大していったが、互いに宣戦布告がなされていれば、戦時国際法上、交戦相手国への支援は敵対行動であり、日本は事実上背後に有る米英仏ソと戦ったのである。

 蒋介石は東洋の敵たる米英仏ソと戦うことなく、逆に手を握って日本と戦った。詩人高村光太郎は東洋の侵略者と結託する蒋介石の否を詩集「大いなる日に」所収の「沈思せよ蒋先生」という一編によって詠っている。(7)

対日包囲網とアメリカの対英仏ソ支支援

 1929年(昭和4)のウォール街に於ける株価暴落に端を発して世界は大恐慌に陥ったが、アメリカは翌年「スムート・フォーリー法」によって、また、イギリスは1932年に「オタワ会議」によってブロック経済化を図った。更にドルとポンドの切下げを行い、フランスが「フランブロック」によって、また、オランダが「緊急輸入制限法」によって追随することにより日本は次第に世界貿易の枠組みから締め出されていった。  

 1937年になると、ルーズヴェルトによる「日独隔離演説」と翌年の「対日武器禁輸」、翌々年のハル国務長官による「日米航海通商条約の一方的な破棄通告」によって、アメリカは我が国の息の根を止めるべく正面から襲い掛かってきたのである。

 1941年3月、アメリカは「レンド・リース法」を制定し、ルーズヴェルトは「アメリカは民主主義国家の兵器廠である」と述べて総額500億ドル(現在価値にして約7000億ドル)に及ぶ英仏ソ支への軍需物資支援を開始する一方で、日本に対しては在米日本資産の凍結や対日石油全面禁輸を行った。反日史家の多くは日本の仏印進駐が経済封鎖を招いたと主張するが、それは、アメリカ主導によって行われた既定の長期戦略であり、かつ事実上の対日宣戦布告であった。(8)

 1939年にソ連はポーランドに続いてフィンランドに侵攻して国際連盟を追放されたにも拘わらず、翌年8月にはバルト三国を併合し、更に、英ソは1941年8月、「レンド・リース」法に基づく支援物資の輸送ルート(ペルシャ回廊)を確保するため、イランを挟み撃ちにして占領しているのである。英ソのイラン占領に対し、イラン皇帝レザー・シャー(後に退位させられ亡命)はルーズヴェルトに対し「領土不拡大を唱えた大西洋憲章に違反する」と提訴したが、ルーズヴェルトは取り合わず、側近には「大西洋憲章は白人国家のものである」とうそぶいて憚らなかった。

 これに先立ち、イギリスは1940年5月に中立国アイスランドに侵攻し、7月にはアメリカ自身がイギリスの肩代わりをしてアイスランドを占領しており、当時のアメリカ外交が二枚舌であったことは明々白々である。我が国の仏印進駐はフランスとの協定(松岡―アンリ協定)に基づいて行われた、援蒋ルート封鎖を目的とした行動であり、同時期に行われた米英ソの他国侵攻に大義はなく、日本の仏印進駐を非難する資格はない。

共産主義勢力のアメリカ潜入

 近年ヴェノナ文書の解読と公開により、ルーズヴェルト政権内部に多くのコミンテルン工作員が潜入していたことや、ニューディーラーの大半が共産主義者であったことが明らかになっているが、知識人の共産主義化によって体制内部からの革命を目指したフランクフルト学派の工作も見逃せない。(9)

 同派はドイツのフランクフルト大学の「社会研究所」を起点としたが、ナチスの政権獲得により、一斉にアメリカに亡命して拠点をコロンビア大学に移し、開戦後間もない1942年6月に設立されたOSS(戦略情報局、CIAの前身)に大挙して入り込んだ。そこで彼等は、日本占領計画である「日本計画」を策定し、やがてこの計画はGHQの民生局に踏襲されていった。

 このように、ルーズヴェルト政権はルーズヴェルト自身が社会主義者であったと言われているが、各方面から共産主義勢力に侵食されていたのであり、この点を直視しなければ、ルーズヴェルトのなりふり構わぬソ連支援は理解出来ない。

アメリカは何故日本を標的にしたのか

 欧米列強にとって、日本の存在と日支の協調接近は、彼等の東洋植民地支配を根底から脅かすものであった。特に、アメリカの太平洋での覇権構築にとって、彼等と異なる価値観と民族文化を有し、キリスト教化を受け付けない独立主権国家日本の存在は最大の障害であった。
 
 日米の衝突は、通説では、支那大陸の権益をめぐって起こったと考えられているが、私見によれは、それはアメリカが日本に対する攻撃の口実を得るための手段に過ぎなかったのであり、標的は初めから日本であったと考える。さもなければ、大戦が終結した途端に、手の平を返すようにアメリカが蒋介石に対しあれ程冷淡になり、何故あのようにやすやすと支那大陸を、そして、朝鮮半島北部までをも共産勢力に明け渡してしまったのか理解に苦しむものであり、かかる考えに傾かざるを得ないのである。しかし、この問題については、この視点による専門史家の今後の研究解明に期待したい。

註2
(6)第7回大会にはゾルゲも出席した。また、盧溝橋事件直後に支那共産党に対し「あくまで局地戦を避け日支を全面的戦争に導け」、「右の目的を貫徹するために、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩に依って、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい」他の指令を出した。              
コミンテルンの支那工作については興亜院政務部資料「コミンテルン並びに蘇連邦の対支政策に関する基本資料・昭和14年10月(国立国会図書館蔵)」に詳しく書かれている。
(7)次の下りがある。「先生は抗日一本槍に民心を導いた。/抗日思想のある限り、東亜に平和は来ない。/先生は東  亜の平和と共栄を好まないか。/今でも彼等異人種の手足となってゐる気か。/わたくしは先生の真意が知りたい」。
(8)東京裁判のローガン弁護人は最終弁論に於いて、「パリ不戦条約」の草案者の一人ケロッグ国務長官による1928年12月の上院外交委員会に於ける発言、「経済封鎖は断然戦争行為である」を引いて反論しており、当時の米国の共通認識によれば「経済封鎖=宣戦布告」であった。
(9)西欧に於いて労働者階級煽動による共産主義革命が行き詰まりを見せる中で、1923年、ルカーチを中心とする共産主義者が起こした学派であり、知識人の共産主義化により体制内部に入り、体制否定の理論(宗教、家族制度、父権、権威、性的節度、伝統、国家、愛国心、畏敬心等、人間の徳目と価値の破壊)による体制の内部崩壊を目指した。1960年~70年代の新左翼全共闘学生は同学派の一人マルクーゼを理論的柱としたが、その後、彼らの多くは政・官・学・財の体制内部に入り込んで行った。最近のジェンダ・フリーと過激な性教育、夫婦別姓、外国人参政権付与、人権侵害救済案等は彼らの残党と公職追放後各界に送り込まれた左翼売国勢力の影響下に育った者の工作である。
つづく
文:中村敏幸

中村敏幸さんの当選作(一)

 アパグループの第五回「真の近現代史観」懸賞というのがあって、坦々塾会員の中村敏幸さんが「優秀賞」を受賞したことは当日録でお知らせしてあります(12月25日)。その内容の要約文もご自身がすでにここに書いています(12月9日)。しかし私の見るところ、要約文では当選作の魅力は十分に伝えられていないので、皆さんに内容全体をじっくり読んでいただきたいと考え、以下に三回に分けて掲示します。

日米百五十年戦争と日本再生への道標    
        坦々塾会員 中村敏幸

はじめに

 現在、我が国を襲っている精神的荒廃と国威低迷の根本原因は、我が国が主権を回復したサンフランシスコ講和条約発効後60年を経た今日でもなお、言論マスコミ界、政官界、教育界、学界、法曹界が深く侵され宿痾と化している東京裁判史観とGHQによる日本弱体化工作にあり、これを打破根絶し、その洗脳から脱却しない限り我が国の真の再生を成し遂げることは出来ない。

 支那事変から大東亜戦争に至る戦いは、日本が戦うことを望まず、平和を希求したにも拘わらず、米英ソ支が巧妙な連携の下に日本に対して行った執拗な挑発と、米英蘭による経済封鎖に続く、事実上のアメリカの対日宣戦布告文書である「ハル・ノート」によって日本を追い詰めた結果起こった戦争であった。しかしその史実に反して、戦後アメリカを中心とする連合国は、戦争を仕掛け、かつ日本各地への無差別爆撃や原爆投下によって100万人近い無辜の民を殺戮した自らの邪悪さを覆い隠すために、東京裁判とGHQ工作によって、逆に日本は残虐非道な侵略国家であり、平和と民主主義はアメリカによってもたらされたとの洗脳工作を行った。
 
 戦前の我が国は、政党政治の未熟さや統帥権干犯問題に見られるように軍部の横暴や二・二六事件のような不幸な出来事はあったものの、五箇条の御誓文によって誓われたように「広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スル」れっきとした議会制民主主義国家であり、「上下心ヲ一ツニシテ盛ニ経綸ヲ行フ」君民一体の比類なき国体を有していたのである。

 かつて、先住民(インディアン)を滅ぼし、奴隷制度を有し、1950年代以降の激しい公民権運動を経た後の1971年まで黒人に参政権を与えなかったアメリカが民主主義をもたらしたなどという物言いは悪い冗談でしかない。

 GHQの強要によってもたらされたものは、「国の為に義務を尽くして権利を主張しない」我が国民の高貴さと精神的基盤の破壊であり、「義務を尽くさずして権利のみを主張する」スペインの思想家オルテガが言うところの「大衆の反逆」であった。

 昭和史家は先の大戦を「満州事変」を発端とする「十五年戦争」と捉えるが、そのような近視眼的な見方では、「先の大戦の真相と世界史的意義」を見極めることは出来ない。日米武力戦争は昭和20年8月15日に終結したが、これはボクシングに例えれば前半戦に於いてワンダウンを受けたに過ぎず、筆者はペリー来航以来、「日米百五十年戦争」として今日もなお姿と形を変え継続しているものと捉える。更に、先の大戦の真相は、遠くはアメリカの建国以来の清教徒的理想主義の仮面を被った覇権主義と欧州列強の東洋侵攻を、また近くはコミンテルンの世界共産化計画を抜きにしては究明出来ないと考える。よって、本稿ではこの視座から大東亜戦争に至る歴史の真相を明らかにすると共に、東京裁判とGHQによる日本弱体化工作とそれに続く日米経済戦争も一貫した日米戦争と捉え、最後に、日本再生への道標を示したい。

 近年、欧州大戦についても、ヒットラーは米英ソとの戦争を望んでおらず、戦争を挑発したのはルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの三者であったとの説が出始めており、満州事変についても、日本の一方的な侵略と傀儡国家の建設であったという従来の定説が覆されつつあるが、この問題については紙幅の制約により本稿では触れない。

アメリカ建国の歴史と覇権主義 

 キリストは身を捨てて律法(旧約聖書の最初の五書)(1)を狂信したパリサイ人の不正を諌めて「愛の宗教」を説いたが、ローマカトリック教会に対する抗議(プロテスト)として起こったプロテスタントは「旧約に帰れ」と説いた。中でも、1620年以降にアメリカに渡り、建国の父と言われた清教徒は旧約の持つ選民意識、残忍性、世界支配欲(2)を色濃く反映したカルヴァン派の流れを汲み、アメリカに入植した清教徒にとって、アメリカ大陸は約束の地であり、自分たちは選ばれた民であった。そして、彼等清教徒は入植直後から、滅ぼされるべき劣等民族として先住民の掃討を始め、それはその後1890年まで250年余りに亘って進められ、500万~1000万人いたと言われていた先住民は絶滅に近い仕打ちを受けた。

 独立宣言直後に制定されたアメリカの国章にはANNUIT COEPTIS(ラテン語で「神は我々の企てにくみせり」の意)及びNOVUS ORDO SECLORUM(同じくラテン語で「新世界秩序」・英語ではNEW WORLD ORDER)(3)の文字が記されており、また、1935年に発行され現在も使用されている1ドル紙幣の裏面にも同様の文字が記されているが、これは「アメリカが神意によって『新世界秩序』を築く使命を有している」ということを国家として表明しているものである。

 アメリカは1783年に東部13州で独立建国を果たしたが、建国後直ちに西へ西へと領土の拡大を開始した。そして、1845年にジョン・オサリバンによって「マニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)」なる標語が提唱されると、アメリカの西進は更に正当化され勢いを増してテキサスを併合し、3年後の1848年には「米墨戦争」によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア等の西部諸地域を強奪して太平洋岸に達した。

 ペリー来航はそれから僅か5年後のことであり、太平洋の制覇に乗り出したアメリカは、1898年(明治31)には「米西戦争」によってフィリピン、グァムを領有すると共にハワイを併合して太平洋の覇権構築への橋頭堡を築くに至ったのである。

 なお余談ながら、「米墨戦争」に先立ちアラモ砦を陥落させて「リメンバー・アラモ砦」を、また、「米西戦争」では老朽艦メイン号を爆沈させて「リメンバー・メイン号」との合言葉を唱えて戦争の正当化と戦意高揚を謀ったが、対戦相手国に先に一発を打たせるのがアメリカの常套手段であった。そのようなアメリカ戦史を知ってか知らずか、山本五十六並びに海軍統帥部は真珠湾先制攻撃を行ってアメリカの仕掛けた罠に進んで嵌り、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉によって、当時のアメリカ国民の反戦気運を一転させ、戦意を一気に高揚させた。更に、彼等は我が国の基本戦略であった「漸減邀撃作戦」を覆し、陸軍をも巻き込んだ南太平洋に於ける消耗戦に陥らせ、我が国将兵の多くが敵の弾に当たるのではなく、補給路を断たれて餓死病死するに至る悲惨極まりない結果を招いたのであり、彼等の罪は万死に値する。昭和史の大家と称せられる輩が、今日でもなお唱える山本五十六名将説や海軍善玉論も打破されなければならない。

アメリカの対日攻勢と排日・日支の離間工作 

 アメリカは早くも、米西戦争の翌年、1899年(明治32)には国務長官ジョン・ヘイによる「門戸開放通牒」によって支那大陸へ触手を伸ばし、日露戦争が終結(明治38)するや、セオドア・ルーズヴェルトは「余は従来日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきではなくなった」と述べると共に対日戦争計画である「オレンジ計画」の策定を開始し、1909年にはホーマー・リー(後に孫文の軍事顧問)の「日米必戦論」が刊行されて脚光を浴び、この著作は日本でもその2年後に翻訳刊行された。

 また一方、1907年(明治40)のカリフォルニアにおける反日暴動に端を発した排日は、1924年(大正13)の「絶対的排日移民法」制定によって、それまでの排日が州単位であったのに対し連邦法となり、アメリカは国家として日本人移民を完全に拒否した。しかし、同時期にヨーロッパから渡ってきた移民は毎年50万人前後に達していたのであり、日本人移民の数はその1パーセントにも満たなかったのである。

 支那に於いては、ジョン・ヘイの提案により、義和団事件の賠償金によって、1911年に支那人クリスチャン留学生の予備校である「清華学院」を北京に設立して多くの留学生を渡米させ、彼等は帰国後反日親米勢力として活動したが、これは日露戦争後に起こった支那から日本への留学ブームに対する対抗措置でもあった。また、当時支那へ渡っていたアメリカ人宣教師もその数は2千人以上に達しており、彼等は支那の排日運動の黒幕として暗躍した。1919年に起こり、排日運動の発端となった「五四運動」に於いても、背後に米公使館と宣教師による煽動工作があったと言われている。

 1921年(大正10)になるとアメリカは第一次世界大戦後、一層国力と存在感を増した日本の封じ込めを謀るために「ワシントン会議」を開いた。先ず、「四か国条約」によって太平洋の島々の領土と権益の相互尊重と非軍事基地化を唱って「日英同盟を破棄」させながら、米英はハワイとシンガポールを除外して軍事基地の増強を進めた。次に、「五カ国条約」によって海軍力の増強を封じ、日支の協調接近を最も恐れた米英仏は「九か国条約」によって日本の支那進出抑制と日支の離間を謀ったのである。

 金融の分野では米英仏は日本に対し、1920年に「新四国借款団」の結成を強要し、日本独自の支那への投資に足枷を加えた。(4) 

 また、言論や文芸の分野に於いても、1931年(昭和6)以降のヘンリー・ルースの「タイム」に代表される徹底した蒋介石と宋美齢夫妻の賞賛と対日悪宣伝が展開され、パールバックの「大地」がピューリッツァー賞に続いてノーベル賞を受賞し、支那に対するアメリカ国民の友好感情を大きく高めたことも無視できない。

阿片戦争とイギリスの支那支配・抗日支援

 英仏蘭欧州列強の本格的な東洋侵攻は17世紀初頭の東インド会社設立に端を発し、それ以降、東洋のほぼ全域を植民地化した。中でもイギリスはインド、マレー、ビルマ,ボルネオ北部を支配下においた後先鞭を切って支那に進出し、1840年に起こした阿片戦争と南京条約によって広州、上海、寧波、厦門、福州を開港させて租借地を確保し香港島の割譲を得た。

 阿片商人の多くは上海に拠点を構え、その後の「アロー号事件」と「天津条約」によって公認された阿片の輸入に拍車をかけ、清へ送り込まれた阿片の量はピーク時年間約5千トンにも達し、清一国を阿片漬けにして恥じるところがなかった。彼等は、阿片貿易で得た利益を英本国へ送金する為に「香港上海銀行(HSBC)」を設立し、その後、「浙江財閥」とも結託して支那の金融と経済を牛耳るに至った。(5)1937年(昭和12)に支那事変が起こると、英国は国家として援蒋ルートを通じて軍需物資を支援したが、上海の英国系金融資本も国民党軍へ莫大な資金援助を行って抗日を支援すると共に、アメリカに対し盛んに英米仏による対日禁輸を呼びかけたのである。

註1
(1)モーゼが神の啓示を受けて著したとされる旧約聖書の最初の五書、即ち「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」。モーゼ五書ともいう。
(2)選民意識、残忍性、世界支配欲は選民意識、残忍性、世界支配欲は律法の随所に見られるが、代表的な例としては下記のような記述があり、旧約聖書を深く信仰する(アメリカのキリスト教原理主義者は旧約の無謬性を信仰の中心に据えている)ことは自ずと選民意識、残忍性、世界支配欲を抱くことにつながる。「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫に凡てこれらの国を与へん、汝の子孫によりて天下皆福祉を得べし」(創世記26章4節)。「汝は汝の神エホバの汝に付し給はん民を尽く滅ぼし尽くすぺし、彼等を憐れみ見るべからず、また彼らの神に事ふべからず」(申命記7章16節)。「我が今日汝等に命ずる一切の誡命を守り行はば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の国人の上に立たしめ給ふべし」(申命記28章1節)。〔日本聖書協会編・文語訳〕
(3)父ブッシュは1991年9月11日の一般教書演説に於いて「国連の下での国際協力による新世界秩序が生まれようとしている」と演説し、更に、翌年1月29日の年頭教書演説で「湾岸戦争は新世界秩序という長く待たれた約束を果たすための機会を提供するもの」と言明したが、これは「新世界秩序」が今日のアメリカに於いても生きた標語であることを示している。
(4)「香港上海銀行」他の英米の銀行と日本の「横浜正金銀行」とによって設立された借款団であり、以後、支那への投資は同借款団を通して行われることになり、支那に対する日本の投資の手足を縛った。
(5)宋嘉樹を中心とした、上海を拠点にして支那経済を支配した浙江・江蘇両省出身者による金融資本団。蒋介石による上海反共クーデターを支援。宋霞齢(孔祥熙夫人)、宋慶齢(孫文夫人)、宋子文(国民党幹部)、宋美齢(蒋介石夫人)は宋家の四兄妹。

平成24年坦々塾忘年会報告・お知らせ

中村敏幸さんの報告です。

 
 12月15日、午後6時より「ホテルグランドヒル市ヶ谷・真珠の間」に於いて、「坦々塾忘年会」が開催され、40名の会員の方が参加されました。

 会は、当日が衆院選投票日の前日ということもあり、西尾先生の「時局展望」に関する御講話から始まりました。

 その中で先生は、中国が福建省に大規模な空軍基地を建設して戦闘機と部隊を移動させたが、今後尖閣をにらんで広範囲な海域で攻撃訓練を展開し、或いは核兵器をちらつかせるかもしれない。そして、習近平がどのような人物かまだよく分かっていないが、胡錦濤ほど抑制が効かず、中国に通じている知人は「冒険主義」に出る可能性があると言っている。わが国は相変わらず核兵器の保持について一切語らないが、石原慎太郎氏は選挙戦で「核武装のせめてシミュレーションでもすぐに始めよう、実行は先の話でもいい」と主張したが、この問題は選挙戦の争点に全くならなかった。彼は国防意識は最も優れている。しかし、とてもその器ではない長男伸晃氏の自民党総裁就任を望む等私心は拭い去れない人物である。それに対し、安倍晋三氏は精神的に弱いところがあり、その点が心配でおるが、一番私心の無い人であると評され、橋下徹氏に対しても「柔軟で実行力に優れた人物である」と評されました。そして、いずれにせよ、この選挙を経て新しい政権による国家運営が始まると結ばれました。

 続いて西尾先生と司会者から、今年文筆出版活動に於いて活躍された会員の紹介が行われました。紹介された方々は以下の通りです。

1.中村敏幸氏:アパグループの第五回「真の近現代史観」懸賞論文に於いて、応募
論文「日米百五十年戦争と我が国再生への道標」が「優秀賞」を受賞
2.渡辺 望氏:著作「国家論・石原慎太郎と江藤淳」を出版、総和社
3.河内隆彌氏:パトリック・ブキャナン著「超大国の自殺」の翻訳を出版、幻冬舎
4.馬渕睦夫氏:著作「感動的な日本の力」を出版、総和社
        著作「国難の正体」を12月末に出版予定、総和社
5,溝口郁夫氏:編著「南京『百人斬り競争』の虚構証明」を出版、朱鳥社
        編著「秘録・ビルマ独立と日本人参謀」を出版、国書刊行会
6.西尾幹二、福地惇、福井雄三、柏原竜一氏の対談「自ら日本を貶める日本人」
        12月中出版予定、徳間書店
7.松木國俊氏:著作「本当は『日韓併合』が韓国を救った」を昨年出版、ワック社
8.伊藤悠可氏:「正論8月号」に論文「田中先生、それを詭弁と言うのです」を投稿
        *女系天皇容認論者の首魁、皇学館大学元学長田中卓氏を論駁
9.佐藤春生氏:総和社の編集者として渡辺、馬渕両氏の著作の編集出版に携わる

 続いて新会員4名の方の紹介があり、また、会員のお一人である林千勝氏が、今回の衆院選に、日本維新の会の公認で千葉7区から立候補されたことも紹介されました。(結果は圧倒的な組織力を誇る自民党の斉藤健氏に当選を譲ることになりましたが、孤軍奮闘、民主、みんな、未来、共産、社民の各候補を押さえて第2位の29,665票を獲得されました)

 続いて島崎隆氏の乾杯の音頭で懇親会に移りましたが、会は大いに盛り上がって談論風発、お開きになった後も、西尾先生を中心に二次会、三次会へと続き、漸く11時過ぎに再度のお開きとなりました。

 西尾先生は、昨年10月から始まった「西尾幹二全集」も予定どおり第五回配本を終えられ、それに伴って合計4回の記念講演を催され、また、各種月刊誌への投稿と単行本の出版をされ会員一同驚嘆するばかりの御健筆を揮っておられますが、多くの会員の皆様も各分野で活躍され、今年は実り多い一年であったのではないでしょうか。

 今回の衆院選では「憲法改正」を選挙公約に掲げる政党が大きく躍進しましたが、これはかつては全く想像も出来なかったことであり、「憲法改正or自主憲法制定」も愈々現実味を帯びてまいりました。来年は、我々会員も更に気合を入れなおし、西尾先生を中心にして、我が国が一日も早く本来の姿を取り戻すべく眦を決して戦う年であると思います。(文責中村敏幸)
 

       西尾幹二全集刊行記念(第5回)講演会のご案内

 西尾幹二先生のご全集の第5回配本「第4巻 ニーチェ」 の刊行を記念して、下記の要領で
講演会が開催されますので、是非ご聴講下さいますようご案内申し上げます。
 
                        記
 
演 題: ニーチェの言葉「神は死せり」 -日本人としてどう考えるかー 

日 時: 平成25年1月19日(土) 開場:午後2時 開演:午後2時15分
            (途中20分の休憩をはさみ、午後5時に終演の予定です。)

会 場: グランドヒル市ヶ谷 3階 「瑠璃の間」 (交通のご案内 別添)

入場料: 1,000円 (事前予約は不要です。)

懇親会: 講演終了後、西尾先生を囲んでの有志懇親会がございます。どなたでもご参加
     いただけます。 (事前予約は不要です。)

     午後5時~午後7時 同 「珊瑚の間」 会費 4,000円 

お問い合わせ 国書刊行会 (営業部)電話 03-5970-7421
FAX 03-5970-7427
E-mail: sales@kokusho.co.jp

坦々塾会員の活躍(三)

 アパグループ主催「第5回真の近現代史観」懸賞論文・優秀賞受賞論文
「日米百五十年戦争と我が国再生への道標」の御紹介(坦々塾会員・中村敏幸)

 

 私は、ある民間会社で40年間一技術屋として勤務してまいりました元会社員ですが、益々国威が低落していく我が国の余りの惨状に、とてもこんなことをしては居られない、自分も日本再生のために何か寄与しなければとの思いにかられ、昨年の3月に自ら職を辞し、「坦々塾」にも入会させて頂き、「余命は日本再生のために微力を尽くす」と決意しました次第です。

 そして、先ず第一に東京裁判史観とGHQによる日本弱体化工作を打破根絶し、その洗脳から脱却しない限り、我が民族が自信と誇りを取り戻し、我が国の真の再生を成し遂げることは出来ないのであり、その為に少しでも寄与出来ればとの思いから、日本を取り巻く近現代史を調べ直して纏めましたのが、今回受賞した論文であり、以下にその要旨を記します。

 昭和史家の多くは先の大戦を満州事変を発端とする「十五年戦争」と捉え、日露戦争の勝利に慢心し、急激に愚かになった昭和の為政者や軍部が、世界の大勢を把握することなく突き進んだ無謀で邪悪な侵略戦争であったと唱えます。しかし、その様な近視眼的でパターン化された見方では「先の大戦の真相と世界史的意義」を明らかにすることは出来ないのであり、日米武力戦争は昭和20年8月15日に終結しましたが、これはボクシングに例えれば、前半戦に於いてワンダウンを受けたに過ぎず、日米戦争はペリー来航以来「日米百五十年戦争」として、今日でもなお、姿と形を変えて継続していることを訴えました。

 アメリカは建国以来、清教徒的理想主義の仮面を被った覇権国家であり、アメリカによる世界一極支配を目指して膨張し続けてきた国ですが、その過程の太平洋に於ける覇権構築にとって最大の障害となったのが、彼等と異なる価値観と民族文化を有し、キリスト教化を受入れない独立主権国家日本でした。また、日本の台頭と日支の協調接近は欧米列強の東洋植民地支配を根底から脅かすものでした。

 そのために、アメリカが長期戦略として英国、ソ連、支那とも巧妙な連携をとって対日包囲網を築き、日本に対する執拗な挑発を続けることによって起こした戦争が先の大戦であったのです。

 所謂親米保守といわれる人達は「日米同盟さえ緊密であれば日本は安泰である」と主張しますが、果たしてそうでしょうか。アメリカは東京裁判史観とGHQによる日本弱体化工作によって日本の精神的基盤を破壊し、サンフランシスコ講和条約発効後も、我が国を自己決定権の持てないアメリカ覇権の手足となる従属国家に仕立てて来ました。更に、1960年代の「日米貿易摩擦」に始まり「プラザ合意」、「日米構造協議」、「日米経済包括協議」、「年次改革要望書」と手を変え品を変えながら、アメリカは日本の金融と経済のしくみや日本的経営の基盤を破壊し続け、日本から富を奪い続けたのであり、日米戦争は姿と形を変え今日も継続しており、連戦連敗の状態が続いているのです。

 アメリカはペリー来航以来、日本に対して真に友好的であったことは一度もありません。そして、アメリカは我が国と周辺諸国との友好を望んでいないのです。領土問題についても、アメリカが真の友好国であるならば、「尖閣も竹島も、北方領土も日本固有の領土である」と主張すべきであり、そうすれば領土問題は一挙にケリがつくのです。しかし、アメリカは「特定の立場はとらない」と言っており、アングロサクソンのdivide and conquer(分割統治)戦略によって、日中、日韓、日露を領土問題で争わせているのです。

 我々真の保守勢力にとって、「親米保守」との決別、更には対決は避けては通れないことであると思います。

 以上のような認識の下に、最後に「日本再生への道標」と題して六つの提言を記しました。
1. 先の大戦で散華された英霊の慰霊と残された遺骨の収拾
2. 正しい歴史教科書の普及
3. 家族家庭の再生(少子化に対する根本対策)
4. グローバリズムとの対決
5. 自主憲法制定
6. 孤独を恐れず、我が国の正しさを正面に掲げて中韓との激論を戦わす

 グローバリズムの波が世界を席巻して居りますが、グローバリズムは「民族国家の個性」を喪失せしめ、世界をボーダレスで無性格な弱肉強食の草刈り場と化し、世界を一極支配しようとする勢力の戦略であり、我が国は押し寄せるグローバリズムの波をうまくかわし、破壊された我が国の精神的な基盤と、社会構造基盤の再生に努めなければなりません。

 我が国は今日なお、GHQによる日本弱体化工作の毒が全身に回っており、全くの虚偽捏造であることが明らかになった「南京大虐殺」についても、それを記載しなければ教科書検定に合格しない自己検閲状態が続き、病膏肓に入っている感があります。

 しかし、潮流は表層が東から西へ流れているようでも、下層では西から東へ流れていることがあるように、底流では我が国再生への流れが次第に勢いを増してきているように思われ、日本が日本を取り戻し、世界に向かって羽ばたくために、孤独を恐れず、宿命としての孤独に耐え、眦を決して戦う秋であると思っております。

 以上が受賞論文の要旨ですが、インターネットで「アパグループ第五回『真の近現代史観』懸賞論文」を検索しますと全文が掲載されておりますので御案内を申し上げます。(文責・中村敏幸) 
                             
 
 
 

坦々塾会員の活躍(二)

 河内さんは私の小石川高校時代の同級生で、精力的に翻訳業に取り組み始めました。同じ著者ブキャナンの二作目が来年上梓される運びとか聞いています。
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パトリック・J・ブキャナン著 幻冬舎刊
「超大国の自殺―アメリカは、二〇二五年まで生き延びるか?」のご紹介 (訳 者 河内隆弥)

著者は、アメリカの保守派重鎮。1938年ワシントンDC生まれ、ジョージタウン大学卒業、コロンビア大学大学院修了、政治評論家、作家、コラムニスト、TVコメンテーター。ニクソン、フォード、レーガン大統領それぞれのシニア・アドバイザーをつとめ、自らも共和党大統領候補として二度ほど予備選に、かつ2000年の大統領選では改革党候補として本選に出馬した政治家でもあります。著書多数ですが、邦訳に「病むアメリカ、滅びゆく西洋」(宮崎哲弥監訳、2002年成甲書房刊、原題「The Death of the West:How Dying Populations and Immigrant Invasions Imperil Our Coountry and Civilization」)があります。

 この「超大国の自殺」は、「病むアメリカ」の系譜を承け継ぐもので、1960年代以降のアメリカの公民権運動の展開、アファーマティブ・アクション(人種差別撤廃運動)及びポリティカル・コレクトネス(政治的公平)の推進、妊娠中絶、同性愛の許容、キリスト教道徳の衰退等々、いわゆるリベラルの主張の高まりによって、いかにアメリカ、そして世界の文明社会が危機に陥っているか、について引き続き警鐘を鳴らす趣旨の著作です。「病むアメリカ」出版以降十年を経て、アメリカはアフリカ系大統領を選び、二つの戦争を深化させ、住宅バブル崩壊、リーマンショックの大金融危機を迎え、いままた「財政の崖」の帰趨に世界の耳目が集まっています。ここ十年、まさに「病むアメリカ」に示された懸念が数倍の規模で展開されているようです。

 ブキャナンは、「超大国の自殺」を、旧ソ連の反体制派、アンドレイ・アマルリクの1970年のエッセイのタイトル、「ソビエトは1984年まで生き延びるだろうか?」を引用した「まえがき」から書きおこしました。アメリカは、あたかもソ連が消滅したごとく自殺の道を歩んでいる、という本書の主張、そして章立てタイトルのそれぞれ、とくに「白い(ホワイト)アメリカの終焉」などの表現は、アメリカのリベラル陣営を刺戟し、ブキャナンは長年つとめていたMSNBCコメンテーターのポストをおろされた、とつたえられています。リベラルが何を言おうと、ブキャナンの人口動態等の分析は、精密な資料、投票行動、世論調査等に裏付けられており、極めて冷徹、客観的なものであり、古今東西にわたる該博な知識に基づくブキャナンのそれらに対する解釈が説得力を高めています。
 
 21世紀なかばにおける人口の多い国十ヶ国を上から予測すると、インド、中国、合衆国、インドネシア、パキスタン、ナイジェリア、ブラジル、バングラデシュ、コンゴ共和国、エチオピアで、五つがアジア、三つがサブサハラのアフリカ、一つがラ米です。現在の先進国では唯一アメリカがベストテン入りをしていますが、そのアメリカも、白人出生率の低下、これに対する有色人種とくにヒスパニックの高出生率と移民の増加で、2050年までには白人人口が46.3%へと、半分を切るものと見られます。それはすでにアメリカが第三世界に属することを意味し、すなわち、そのときの人口大国十ヶ国はすべて第三世界が占めることとなります。アメリカ建国のモットーである、e pluribus unum

(多数でできた一つ)は合衆国の多様性を前提とするものでしたが、あくまでも国家としては一つのものを謳っていました。しかしいつの間にか「多様性こそアメリカの力」という言い方が主流となり、そのこと自体が政治、宗教、道徳、文化に関する価値感の分裂を促進しました。平等思想は「機会の平等」ではなく、「結果の平等」に置き換えられました。一方、正規、不正規の移民が途絶えることもありません。有色人種の伸張と価値感の分裂、そして金融資本主義ないし市場原理主義に基づくグローバリゼーションがもたらす経済格差がこの上もなく複雑に絡み合い、現代アメリカを特有のダイナミズムで動かしています。

 「国家とは何ぞや?」国家とは共通の祖先、文化、言語をいただき、同じ神をうやまい、同じヒーローをあがめ、同じ歴史を大事にし、同じ祝日を祝い、同じ音楽、詩、美術、文学、そしてリンカーンのいう情愛の絆を共有するものではなかったか?それが国家というものならば、われわれはアメリカが依然として国家である、と本当に言えるのだろうか?とブキャナンは問いかけます。

 2012年11月、大統領選挙でオバマ大統領が再選されました。投票直前まで、民主党オバマ、共和党ロムニー両候補は大接戦が予想されていました。ふたを開けてみれば、2008年、オバマ対マケインの、選挙人獲得数365対173、獲得州28+DC対22、得票率52.9%対45.7%にくらべて、2012年オバマ対ロムニーは同じ順番で332対206、26+DC対22、50.5%対47.9%と、ロムニ―は善戦したものの結局敗北を喫しました。ブッシュ二世がホワイトハウスを民主党に明け渡してから失業率は高止まりしており、この高失業率での現職の再選はフランクリン・ルーズベルト以来と言われています。今回、有権者構成比72%の白人は、その59%がロムニーに投票しましたが、0.72×0.59=0.42となって共和党が勝つことは出来ません。

(前回は0.74×0.55=0.40)共和党はもともと白人の党とよばれていますが
ニクソンとレーガンが勝っていた、宗教意識の高い保守的国民、中産階級、ブルーカラーの牙城であるペンシルベニア、ミシガン、オハイオ、イリノイの諸州がブルーステート(民主党勝利の州)に入ってしまっています。このことには共和党自身にも責任があります。共和党政権の時代、その新自由主義的経済運営によって生産現場は大幅に国外移転され、またNAFTA、GATT、WTOを通じる輸入品門戸開放政策とあいまって、国内の大量の雇用が喪失された結果、共和党は頼みの白人中堅層にも見離されることとなりました。選挙結果はそのことの証明にほかならず、加えて、白人層の相対的かつ絶対的減少は今後共和党に致命的な打撃を与えることでしょう。ブキャナンは本書でそのあたりを克明に分析しています。

 グローバリゼーションの進展で、国民の貧富の格差は拡大しつつあり、この辺はウォールストリート占拠運動の報道などで見るとおりですが、その救済のための「大きな政府」の路線でアメリカはいまや勤労税額控除、フードスタンプ(食糧費援助)、医療保険、住宅補助、無料教育などの受給資格社会となっており、社会主義国アメリカの顔も見せています。連邦政府は3ドルの収入に対し5ドルの支出を行うありさまとなりました。この財政状況のなかでのアメリカは、何が与えられるか、よりも何が削られるかをめぐって国内の亀裂が深まるだろう、とブキャナンは予測しています。(このあたり、本訳書の出版元、幻冬舎は本訳書の「帯」に、やや過激な表現を記していますが・・。)

 ブキャナンはソ連を消滅させたものは、民族(エスノ)ナショナリズムないし部族主義(トライバリズム)と見ています。この力が共産党一党支配の警察国家を解体させたと。
ナショナリズム(国家主義)というものより、はるかに泥臭いトライバリズムという、国民国家を超えた概念が、21世紀の多民族国家の成否を占うものとして本書ではとらえられています。アメリカの亀裂の一つの側面である人種問題は、アメリカをどういう方向に持ってゆこうとしているのでしょうか?

もう一つ、そのような財政状況のもとで、アメリカはいまだ経済、軍事超大国ではあるものの、すでに対外政策では事実上緩慢な後退局面に入っており、NATO、日米、日韓同盟などの軍事コミットメントの同時履行をせまられるとすれば、それは不可能である、とブキャナンは断言しています。そのようなアメリカと同盟関係にある日本はそのことをどのように考えればよいのでしょうか?
本書出版にあたり著者にお願いした「日本語版への序文」には、この本のテーマは、そのまま日本のテーマであることが簡潔に述べられています。

昭和64年(1989年)1月、昭和天皇が崩御され、平成の世となりました。同じ年11月、ベルリンの壁が壊され、ソ連崩壊(1991年12月)につながり、冷戦が終わりました。日本では、旧大蔵省の総量規制(1990年3月)をきっかけにバブル経済が弾け、「失われた20年」が始まりました。冷戦後、人々の期待していた「平和の配当」は与えられるどころか、あたかもパンドラの函が開けられたごとく地域紛争、宗教戦争が始まり、加えて世界の金融秩序、諸国の財政制度は金融資本主義の蔓延によって破壊されつつあります。日本人もたとえようもない閉塞感のもと、民主党政権を選んでしまいましたが、いま無残な失敗に終わろうとしています。

2011年の東日本大震災、それに続く原発事故、「3.11」は戦後初めてといってよいショックを日本人に与えましたが、日本人は依然戦後レジームを引きずったまま、これといった危機を認識しないまま今日にいたっているように見受けられました。しかしここへきて、尖閣諸島、竹島、北方領土問題が大方の目を醒ましつつあります。日米安全保障条約(日米同盟)の効力にもいま論議が高まっています。この点前述のとおり、自国の財政状況からもブキャナンは、対外コミットメントからアメリカは手を引くべきである、といういわば「孤立主義」の立場を主張しています。逆にブキャナンは、安保条約における片務的なアメリカの日本防衛義務について疑問を投げかけ、日本の自立を促し、日本の核兵器保有の許容すら暗示しています。孤立主義の主張は、アメリカにおいてつねに一定の支持を得ています。日本はブキャナンのような考え方もアメリカにあることを充分認識し、その国論が変化する可能性について対応策を準備しておかなければなりません。

「ラストチャンス」の章でしめくくられていますが、本書は現下の諸問題すべてを解決するものではありません。描かれる未来は決して明るいものではないとしてもまず認識することが重要です。現在のアメリカで、世界で何が起こっているか、本書は恰好のガイドです。そして待ち構える未来が想像もつかないものとなるかもしれない、という予感が与えられますが、多様な対応を考えておくことも悪いことではないでしょう。  

文章 河内隆弥 (了)

坦々塾会員の活躍(一)

 坦々塾の会員の活躍をご報告します。

 まず最初に、林千勝さんが日本維新の会・千葉七区より立候補しました。ぜひ応援してあげて下さい。

 今年会員の中から二人の著作が世に問われました。渡辺望さんの『国家論』(総和社)です。「石原慎太郎と江藤淳。『敗戦』がもたらしたもの」という長い副題がついています。もう一冊は河内隆彌さんの翻訳書、パトリック・ブキャナン『超大国の自殺――アメリカは2025年までに生き延びるか――』(幻冬舎)です。

 渡辺さんは評論世界へのデビュー作で、来年以後次々と本を出して活躍されることを祈っています。河内さんは私の小石川高校時代の同級生で、精力的に翻訳業に取り組み始めました。同じ著者ブキャナンの二作目が来年上梓される運びとか聞いています。

 ご両名の今後の飛躍を祈りたいと思います。以下にそれぞれの自己解説の文を掲示します。

国家論 国家論
(2012/09/08)
渡辺 望

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 今回、刊行の運びになった『「国家論」石原慎太郎と江藤淳。敗戦がもたらしたものー』(総和社)は、私のはじめての本格的単著です。「あとがき」にも書きましたように、この本は、西尾幹二先生のお力添えと、総和社の佐藤春生さんのご尽力によって世に出ることになりましたものです。

 本の副題にありますように、この本を書く動機は、石原慎太郎と江藤淳という、自分にとって幼少の時から非常に大きな存在であった二人の表現者の存在感を、二人あわせて比較分析してみたいという気持ちでした。それはずっと以前から、漠然とですが、ひたすら感じてきたものです。この二人の大きな存在感は、本物だろうか。本物だとしたら、どんな本物なのだろうか、というふうにです。

 よく知られているように、この二人は高校の同窓以来の莫逆の友であり、文壇や論壇でも常に共闘した間柄でした。お互いを論じている文章もかなりあります。しかし二人の共通点、あるいは共有される思想的土俵というものはほとんどないようにも見える。実際ないと思いこんでいたので、私にとってこの二人の存在は、比較分析したいというひたすらの気持ちにもかかわらず、「親友だった有名な二人」という形で併記されるものにすぎないままでした。

 しかし自分が或る程度の年齢になって、今一度、二人の著作、しかもあまり注目されていないような著作の幾つかを読み見直してみると、ある思想的土俵が二人の間に共有されていることに気づきました。たとえば、石原の場合、通俗的なものとしてあまり批評家からは相手にされなかった弟・裕次郎に関してのルポルタージュめいた本、江藤の場合は死の直前に書かれあまりに生々しい精神の記録が(ゆえにやはり批評家があまり取り上げない)妻への死に物狂いの看病記『妻と私』、こうしたあまり目立たない身辺の記録に、最も強烈に彼らの思想的本質があらわれている。再読して私はそう直観しました。

 その直観に従い、さらに今度は二人の著作全体を再読を拡大してみると、両者には、「国家と性」という風変わりな思想的主題がはっきりと共有されている、という確信にいたったのです。

 石原は国家というものを男性的・父権的に把握し、その上で国家的なるものに「青年」を見出す思想家です。石原自身は一見、非常に明快で曇りのない人物に見えるかもしれないけれども、弟・裕次郎との関係をはじめ、石原家の展開は実に入り組んでおり、その中で、石原本人は実に複雑な「父」として存在を余儀なくされる。その過程が彼の国家観をも形成した。これに対し江藤淳は全く正反対に、女性的・母権的に国家観を把握することにこだわったことが石原との比較探求でわかってくる。幼少時に死別した母や、江藤に男性的なるものを仕込んだ祖母への異様なほどの思い入れは、石原の「父」が異端であるのと同様、きわめて特異な「母性」へのこだわりです。

 やがて現実の石原についてはこんなふうにとらえるようになりました。たとえば石原は三島由紀夫との座談会で皇室について否定的発言をして三島を落胆させたのは有名です。最近では北京オリンピックで中国の青年たちの規律正しい歓迎ぶりに感動して保守派陣営を当惑させ、さらにはナショナリズム的には幾重にも疑問符がつく橋下徹と公然と連携したりする。こうした石原の「危うさ」はつまるところ、石原の国家観が、「父権」とそこから導き出される「青年」に根源をもっており、それを感じたときに、石原は共感と同化をするという特異な国家主義者であるということを意味している。

 江藤の本質については、こう考えるようになりました。たとえば江藤淳の文芸評論を少しでもよく読んだ人ならば、江藤が「母の胎内」とか「国家の父性・母性」という用語をほとんど悪文になるほどに多用することをご存知でしょう。江藤が思想家として最も力を注いだのは自分の血筋へのこだわりであり、そこに交錯する父性と母性の問題だったことが、彼の『一族再会』という代表作を読むと非常に明瞭です。江藤は母性への回帰へ軍配をあげる。この『一族再会』は終わりに「第一部・完」と書かれていますが、第二部はかかれませんでした。しかし実は江藤の最終作であった『妻と私』ということが、第二部であったのであり、江藤は母性なる日本への回帰ということを、自らの自殺によって完結したの
ではないでしょうか。悲劇的自殺による国家観の完成ということは、実は三島由紀夫との比較が可能な事象なのではないか。

 以上の視点から、石原と江藤の国家論の比較を次第に掘り起こしていくことを目指したのが本著執筆の第一歩なのですが、これは「書く」ということに常に付随することなのでしょうけれど、「主題の自己増殖」という事態に私は書き始めてからただちに直面してしまいました。 

 「父性」「男権」あるいは「母性」「女権」の比較ということだけではどうも現在の日本に有効な批評になりえない気がしてきたのです。たとえば目の前の民主党政権は、父性的でもないし母性的でもないではないか?論壇や文壇は、父性的な方へ向かっているのか、母性的な方へ向かっているのか?戦後の日本特に私が育ってきた1970年代以降の日本は、実は父性的でもないし母性的でもない。男性的でもないし女性的でもない何かに戦後日本は進んでしまっている。そこでさらに、「中性」というテーマを石原と江藤の間に挟んで論じなければならない。そう私は考えました。

 日本という国家を「中性化」しようとする営為をおこなった表現者として、山本七平や司馬遼太郎、丸谷才一らをあげることができます。左翼でも保守でもない、しかし左翼といえば左翼のときもあり、保守といえば保守らしきときもある、という彼らの今の日本での読まれた方、好かれた方というのは、石原・江藤より遥かに多数派的といえます。彼らは「ただ存在してゐるだけの国家」(丸谷才一)を目指そうとした。それはなぜなのでしょうか。私はその謎を、彼らが共通して経験した(させられた)、軍隊内での陰惨な私的制裁にあると推論しました。私は本書の中でこれら国家の「中性」化に勤しむ知識人のことを「中間派知識人」と命名しています。

 そしてこの軍隊内の私的制裁の問題こそが、戦後日本の知性の主流を次第に捻じ曲げてしまった原点ではないかと私は本書で断じています。「軍隊で殴られた知識人」=「中間派知識人」の復讐劇としての知的策謀なのです。そして「私的制裁」自体にも、意外に根深い普遍的問題が潜んでいるようです。この私的制裁の問題も、私なりに詳細に論じてみたつもりです。

 このことから、本書は、「石原慎太郎論(父性・男権的)→中間派知識人論(中性的)→
江藤淳論(母性・母権的)」の順序の構成をとりました。

 本書の刊行以後、何人かの識者の方に本の感想を送っていただきました。その中の一つ、文藝春秋の内田博人さんのお手紙を本人のご許可を得て引用掲載させていただきます。周知のように、内田さんは雑誌「諸君!」の編集長を長く勤められました編集者です。

 「 
  過日はご新著「国家論をお送りいただき、誠に有難うございました。ご研鑽がみごとに結実し、たいへん読みごたえのある一冊になっていると感じました。文章は読みやすく、国家というとらえどころのない存在の核心に、真っ向から迫ろうとする渡辺さんの気概を強く感じます。

 とりわけ「中間派知識人」というカテゴリーに新鮮な印象を受けました。左右対立という従来のカテゴリーでは見逃されがちな、昭和後半の知的世界のある一面を鋭く衝いて、西尾先生の言う「戦後思想に毒されていない」精神が躍如している部分と思いました。

 「南洲残影」から「妻と私」をへて自裁へといたる江藤氏の晩年には、死の予感が通奏低音のように響いていて、痛ましさを感じずにはいられません。「一族再会」を中心に据えた渡辺さんの論述によって、悲劇の思想的な意味あいが初めて見えてみたように、感じております。

 渡辺さんの評論活動のまさに出発点になる一冊かと存じます。ますますのご健筆をお祈り申し上げております。

 何卒ご自愛ください。略儀ながら書中にて御礼まで。

                                   文藝春秋     内田博人」
 

 さすがは経験豊富な編集者だけあって、内田さんは、私が「中間派知識人」の問題に精力を割いたのをよく見抜いていらっしゃいます。現在の日本の知的状況というのは、左翼が台頭しているのではない、かといって保守主義的主題を現実化しようとする意欲もない、そのどちらも敵視し消し去るような、「いつまでもだらだらできる日本」が現実化しつつある、ということにあります。

 まさに丸谷才一のいう「ただ存在してゐるだけの国家」の建国がほとんど完全な形で実現してしまっているといえましょう。石原・江藤の比較論というこの本の両輪の副産物ではありますが、しかし現実的問題としては実は本書のテーマの中で一番真摯に考えるべきかと思われるこの「中間派知識人」の問題も、本書を読まれる方に深く考えていただければ幸いと思います。

西尾幹二全集刊行記念講演「戦争史観の転換」要約と感想

ゲストエッセイ 

 中村敏幸氏による感想

 今回の御講演に於いて、先生はペリー来航以来我が国が対峙してきたアメリカに対し、そもそも「アメリカとは一体何者か」という根源的な問題提起をされ、続いて近現代史の定説を覆す画期的な数々の見解を披歴されました。以下に御講演の要点をまとめ些か感想を述べさせて頂きます。尚、「 」内は先生の御講演内容の要約であり、他は投稿者の感想です。

1.アメリカとは一体何者か

 先生は冒頭、「太平洋を隔てた遥か東の大陸に、今からわずか350年程前に、突然異変が起こりました。予想も出来ない異変。把握しがたい別系列の人種、別系統の文化、自然信仰ではない、一神教教徒の集団が出現しました。これがまた厄介な相手で、どんなにはた迷惑でも無視する訳には行かないのであります。この様な隣人の存在は正直言って、我々にとって不運であり、不幸であります。しかし、我々は過たない様にするためにその存在形式を見極めて耐え忍ばねばならないのも現実であります。アメリカとは一体何者か、アメリカ自身は最も代表的な国のような顔をしていますが、アメリカは一つの国家だろうかという疑念を抱くのであり、アメリカは他の国々と全く異質な国なのではないか」という極めて大胆で根源的な問題提起をされ、「我が国が道を過らないためにはその正体を見極めなけれはならない」と訴えられ、数々の見解を提起されました。
  
2.第一命題:「アメリカにとって国際社会は存在しない」 

 先ず、「先の大戦が終わって67年、米ソ冷戦が終わって23年、少しずつ分かってきたことが有ります。米軍がヨーロッパ、ペルシャ湾岸地域、東アジアに駐留していた理由は、長い間ソ連に対する脅威だと思い込まされてきました。しかし、冷戦が終わり、ソ連が崩壊して脅威が消滅しても、米軍は撤兵しない。世界中の基地を維持し続けています。そもそも日本の本土は兵力がほぼ空っぽなのに基地は返還されません。人々はアメリカのこの特権的な地位に対し、おやこれはおかしいぞと思い始めていると思います。第二次大戦の終結により、西欧諸国は植民地の独立を認めざるを得なくなり、冷戦が終わり、世界は『ウェストファリア体制』に立ち戻ったかに思われますが、しかし、どうもそうではない、アメリカはそういう国々の一つと思っていないようであり、アメリカは国際社会の一員ではありません」と説かれました。

 つまり、「アメリカは国際社会の一員ではなく、世界を一極支配する役割を担った国である」と自己認識している国であると結論づけられたように思います。

 確かに冷戦が終わっても、アメリカは一部を除き世界中の基地を維持しているだけではなく、湾岸戦争やイラク戦争、コソボ紛争に続いてテロとの戦いを唱えアフガン戦争を引き起こし、撤兵するどころかサウジアラビアやコソボなどに巨大な軍事基地を増設しています。また、アメリカは「六か国協議」という茶番劇を続けながら北朝鮮の核開発をなし崩し的に容認し、中国の軍拡もアメリカの東アジアに於ける軍事プレゼンスを正当化するために必要としており、フィリピンからの撤退も中国の脅威を助長するためではないかとさえ疑われます。

3.第二命題:アメリカ人の自己認識 

 ここでは、「アメリカは独立当初から、旧大陸ヨーロッパは老成し、頽廃し、病んでいる。新大陸アメリカこそ純粋な救い主であるという観念を基本として長い間持ち続け、『アメリカは一つの国家であると同時に世界である』と常に主張しているかに見えます。」と説かれました。

 続いて「私が最近読んだ、1968年に出版されたアーネストリー・テューブソンという宗教学者の『救済する国家アメリカ』という本の序文には『旧世界の頽廃と新世界アメリカのイノセンス』、と書かれており、ヨーロッパは駄目だアメリカこそ救い主だと言っている訳で、このような観念がアメリカ人の胸中に宿っていると思います。」と説かれました。

 思うに、建国の父といわれた清教徒は、旧約聖書の持つ選民意識、残忍性、世界支配欲を色濃く反映したカルヴァン派の流れを汲んでおり、アメリカに入植した清教徒にとって、アメリカ大陸は約束の地であり、自分たちは選ばれた民であり、その意識が今日でも根強く残っているのではないでしょうか。確かに、今日のアメリカに於いて強い影響力を持つキリスト教原理主義者は、旧約聖書の無謬性を信仰の中心に据えており、旧約聖書に書かれたことをそのまま信仰する者にとっては、世界は選ばれた民の支配するべきものであり、この観念がアメリカ人の心の奥底に脈々と受け継がれているように思います。

4.戦争のたびに劇的に変化し、国家の体質を変えてきた国アメリカ

 「アメリカという国は最初から強い国であった訳ではなく、19世紀の初頭までは実力のない新興国でしたが、独立戦争、南北戦争、米墨戦争、米西戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を戦い、戦争のたびに劇的に変化し、国家の体質を変えてきた国です。第二次世界大戦に於いても、戦争の初期と終わり頃とでは、アメリカの戦争の仕方はガラリと変わりました。戦争の初期はシンガポール陥落に見られる様に、平家物語の世界のように一番乗り、二番乗りを讃え、また、第一次大戦風の意識で戦っていました。しかし、1943年(昭和18年)以降大きな転機を迎え、アメリカの戦い方はガラリと局面を変えて、命中精度を求めた戦いから、大量の弾薬を消費する戦争になりました。集中砲火、火炎放射器の登場、そしてB29が登場して絨毯爆撃が始まり、最後には原爆投下まで行い酷薄で無慈悲になりました。」

 「わずか350年前に生まれ、東アジアには無関係な国が何故そこまでやるのか、あの国の異常さとは何なのかを歴史を遡って考えて見ることが重要です。何故アメリカは繰り返し戦争をする国なのか、戦争の度に国家規模を大きくする国、少なくとも国家体質を大きく変化させる国、戦争が終わってからではなく戦争の真っ只中に変質する国、そして、それが次の時代への適応を果たす国。こんな国はアメリカの他に例がありません。そして、それは戦争が終わった以降の70年近くに及ぶ地球支配の構造を決めています。」
  
 また、「日本はみすみす負けると分かっていた戦争に準備不足のまま不用意に突入したと言われますが、そんなことはありません。開戦当初は勝敗のゆくえは分からなかったのです。ところが、アメリカは1943年以降、突如、巨大で酷薄な軍事国家に変身したのです」と説かれました。
 
 振り返って見ると、アメリカは建国以来戦争を好み、現在に至るまで殆ど絶えることなく戦争を繰り返し、その都度変質を遂げて強大になってきた国です。そして今日に於いても、アメリカは国力が衰え始め、世界一の借金国になりながらも、世界一の軍事費を使用し、更に日本や欧州諸国に支援を強制してまで戦争を続け、アメリカ一極支配によるワンワールドを目指しているように思われます。
   
5.権力をつくる政治と権力がつくられた後の政治

 「権力と政治の関係には、『権力をつくる政治』と、それに対し『つくられた後の権力をめぐる政治』の二通りがあり、『権力を作る政治』はむき出しの暴力を基本としていますが、我々が議論している政治は皆後者です。第一次大戦後、ワシントン会議やロンドン軍縮会議が行われましたが、これも何処かで権力がつくられた後の政治です。
 
 しかし、つくられた権力が行き詰まり、大きな裂け目が生じた時には、権力をつくる政治が行われ、その時にはむき出しの暴力が出現するということを歴史の上で度々経験させられてきました。現代もそうです。500年続いた資本主義の歴史が行き詰まり、金融資本主義が限界まできています。」と説かれ、アメリカによって、「また新たな権力をつくる政治」が行われつつあると警鐘を鳴らされました。
   
6.第三命題:脱領土的他国支配  

 ここで先生は、アメリカの他国支配が脱領土的遠隔支配であることを説かれました。

 「白人文明はスペイン、ポルトガルの覇権時代からは自国の外に掠奪の土地、奴隷的搾取の領土を求めることを通例としてきましたが、アメリカは例外で自国の外に奴隷の地を確保する必要が全くありませんでした。アメリカは領土と資源に恵まれ、人口密度も希薄で、移民を必要としていた位ですから膨張する必要の全くない国でしたが、その国が何故膨張してきたのか、ここに大きなこの国の持つ矛盾と謎があると思います。アメリカの西進は膨張する必要が無いのに『マニフェスト・ディスティニー』という、神がかり的な宗教的信条に基づいて行われてきたことは良く知られています。アメリカは中国大陸で列強が根拠地を求めて戦うことに冷淡でした。必要が無かったからです。そこで、『脱領土的他国支配』の方式を考え出したように思います」

 「大戦前、日本の指導者には利害関係に於いてイギリスを中心とするヨーロッパ的なギブ&テイクの国際関係は理解しやすかった。しかし、アメリカは、ヨーロッパ的なやり方を取らない。最初に私が提起した第一命題のように『アメリカにとって国際社会は存在しない』のです。日本の指導者にはアメリカの心の闇は理解出来なかったのです。イギリス人にも読めませんでした。イギリスにも読めなかったことが日本に理解できる訳がありません」 

 「日露戦争の後1907年頃から日米関係が悪化したことは良く知られています。ワシントン会議からロンドン軍縮会議を経て、正義のきれいごとを唱えるアメリカ、そのじつ武力と金融力によって世界の遠隔操作を目指すアメリカの変質、これは日本には理解出来きず、何とか折り合いをつけ妥協しようとしましたが翻弄され続けることになりますが、ここにもアメリカという国の権力の出現が影響していると思います」
  
 「日本はあの大戦前どうしてよいか分かりませんでした。アジアを解放しようとするより、アジアに仲間が欲しかったのです。そして、恐怖や不安を仲間と分かち合いたかったのです。一緒にやろうと、早い時期に中国にも韓国にも呼びかけているわけですから。しかし、相手が無知迷妄、危機感もないし、危機感を持っていたのは日本だけでしたから、ひたひたと不安が押し寄せていました」と世界の脱領土的な遠隔支配を企てるアメリカの野望に翻弄された日本の戸惑いと苦悩を語られました。
 
 司馬遼太郎は日露戦争までの日本は賢明であったが、それ以降急激に愚かになり、特に昭和は愚かで嫌いだと切り捨て、保守と称する人々の多くも司馬史観なるものに毒されておりますが、司馬氏を地獄の底から連れ戻し、先生のこの見解を下に論戦を挑みたい衝動に駆られます。また、ウクライナ大使等を歴任された元外交官の馬渕睦夫氏は、近著「いま本当に伝えたい感動的な日本の力」の中で、「昭和に入ってから急に大政治家戦略家がいなくなったわけではありません。明治維新以来の課題が先送りされ困難が積み重なってきた結果、昭和に入って進退窮まってしまったのです」と書いておられますが、西尾先生が展開された論にも相通じるように思います。

 司馬氏や昭和史の大家と称せられる輩は、アメリカの理解しがたい「脱領土的他国支配」に翻弄され包囲された当時の為政者の苦悩を憶念することなく、西尾先生の言われるように日本国内のことのみを考察するだけで、当時の世界がどのような意図のもとに動いていたのか、更にその下に隠されていた闇を見ない、先生の言われる「蛸壺史観」の持ち主に過ぎません。
 
7.戦後書かれた歴史書は中立的で日本人の叫びが書かれていない。 

 次に先生は、大東亜戦争調査会から出版されたGHQ焚書図書の一冊である「米英の東亜制圧政策」という昭和16年に出された本を取り上げられ、「戦後書かれた歴史書はまともな本でも、どれを読んでも中立の立場で書く、当時の追い込まれていた日本の声を誰も書いていない。即ち半分はアメリカの立場で書いている。これを読むと当時の日本人の叫びが全部分かります」と語られ、「この本の中にワシントン会議に出席したフランスの海軍大学校長カステックス海軍中将が、『世界大戦中日本は協商側に属した、ところがワシントン会議が始まるとイギリスはたちまち仮面をはいで、海軍
の海上優越権をアメリカに譲りたくないという腹から、20年来の盟邦日本を見捨てることに同意し、日英同盟を廃棄してしまった。・・・・。この時から日本とアングロサクソンとの潜在戦争は重大化した』と述べたことが書いてあります。戦争は始まっていると言っているのです」と説かれ、更に、「この本の中に『アメリカとイギリスによる対支文化工作の具体的内容』という章があり、キリスト教布教を中心とする文化侵略について詳しく書かれております。

 支那大陸では学校等の文化施設がキリスト教組織に支配され、大変巧妙なやり方で牧師や教会が後ろから支那の青年たちに反日を焚き付け、反日運動に対し英米系のキリスト教組織が背後に有ってお金を配って煽動していました。日本は調査を徹底して行い事実を知っていたのです。だとしたら日本は方策を過ったのではないでしょうか。

 知識人は知っていて書いているのに政治家を中心とする要路の人には届かなかったのです。読んでいても動かない、具体的な行動に反映させなかったのです」と説かれました。

 我が国は世界の情勢を把握することなく、やみくもに無謀な戦争に突入したというのが定説になって居りますが、そんなことはなく、少なくとも当時の識者はアングロサクソンの世界支配政策をしっかり調査し把握していたのであって、その事実はGHQによる焚書によって闇に葬られてしまったのです。そして、先生は戦後書かれた歴史書には対日包囲網の中にあって苦悩する日本人の叫びが聞こえてこないと訴えられました。
  
8.アメリカがどうしてパワフルな統一国家になったのか   

 「アメリカは独立戦争が終わると中央政府の力は衰え、主権のある独立したバラバラの州をどうやって一体性のある一つの国にまとめるかというのがワシントン以下の政治家にとって重大な課題でした。それが確立されアメリカがアメリカになった時、それが南北戦争です。大事なことはこの戦争の究極的な目的は、奴隷解放がメインではなく、州権を押さえて統一ある連邦の回復でした。リンカーン自身が大統領就任演説で『私は現在の奴隷州の奴隷制には直接的にも間接的にも干渉するつもりはない』と言っております。長い戦争であり、戦争が進行していく中で、結局奴隷制そのものを無くさないと南部の権力を倒すことが出来ないということが分かってきました。逆に言うと南部を叩き潰すことによってアメリカはアメリカになったのです。これによって、19世紀以降のアメリカの膨張の礎石が築かれ20世紀の運命を大きく変えてしまったとハッキリ申し上げてよいと言えるでしょう。何故なら、南北戦争以降、急速にアメリカの経済は発展し、産業国家としてアメリカの勢いが増し、膨張国家としても激しく大きくなって行き禍を世界中に振りまきました。もし南北が円満に分かれ
て州が独立した国家になっていれば、ヨーロッパのようにアメリカ大陸がいくつかの国に分かれていたら我が国の運命はどんなにか救われたことでしょう。私の今日の話はここに行きつく訳です。」と語られました。

 「南北戦争に於いて奴隷解放は手段であり、統一された連邦国家の実現こそが戦争の目的であり、この戦争によってアメリカがアメリカになり、膨張国家として世界に禍を振りまくスタート地点になった」と南北戦争に対する常識を覆す見解を提示されました。そして次に、それでは南アメリカは統一出来なかったのに、何故北アメリカは統一出来たのかに論題が移ります。

 9.南アメリカは統一出来なかったのに、何故北アメリカは統一出来たのか  
 「南アメリカには16の独立国家が生まれました。統一しようという動きは勿論ありましたがそれが出来ませんでした。それに対しアメリカは何故出来たのか。それはメシア的な思想によるものです。リンカーンは宗教家です。宗教的な信条が強かった人です。アメリカは国家であると同時に世界である。アメリカは常に世界政府を目指す。むきだしの暴力によって権力を作る政治を目指す。つくられた権力による政治は他の民族に任せておけば良い。アメリカが権力をつくるのだ。これは宗教的な情熱なくしては出来ません。その証拠として先程申し上げたテューブソンの思想をいくつか紹介しますと『合衆国は黙示録の指定された代理人として自らを正当化する必要は殆どない。神の摂理のステージ・マネージャーが歴史というステージの両翼からアメリカ国民が立ち上がるよう命じたかの如く思われる』、『千年至福王国理論の考え方はアメリカ植民地に対する独立の考えが誰かの頭に浮かぶ遥か前からあった。それはデモクラシ―の理想から独立して存在した』。即ちアメリカ国民は聖なる国民であると言っているようなもので、こういうことが力と結びついていたことは間違いないと思います。」と説かれました。

 テューブソンは、そもそもアメリカは独立戦争の前から、「千年至福王国を実現するために誕生した国であり、これは神の摂理である」と主張しているのですが、この宗教的信念によって北アメリカは統一を実現したと先生は説かれたのです。

 10.海上覇権国家ポルトガルとアメリカ 

 最後に先生は、アメリカは「脱領土的遠隔支配」をポルトガルの海上支配に学んだのではないかという仮説を披歴されました。
    
 「地球上を最初にかき回したのはスペインとポルトガルでした。つまり500年位前に『トリデシリャス条約』というものによって世界を二分しました。これは私の仮説ですが、スペインとポルトガルが世界へ進出した時のやり方に違いがありました。スペインは陸即ち領土を侵略するやり方でしたが、ポルトガルは海でした。脱領土のやり方でした。スペインは荘園をつくって大土地所有による領地支配をしたのですが、ポルトガルは海上を支配しただけなのです。スペインは大西洋を西へ真っ直ぐに進んだのですが、それに対しポルトガルはバスコ・ダガマがアフリカの西海岸を南下して喜望峰を回って北上しインド洋へ出ました。スペインとポルトガルでは侵略した地域の文化程度がちがっていました。ポルトガルが侵略した印度洋やアジアは豊かな海域であり、侵略した地域と折り合うことができませんでした。そこで、ポルトガルは『ポルトガルの鎖』を海上に張り巡らして、入港してくる交易船を掠奪しました。このやり方をイギリスが真似をします。18世紀位まで海上を封鎖する方法をとります。アメリカは遠隔操作の国と言いましたが、金融と海上と空の支配、ポルトガルとやり方が似ていませんか。アメリカは世界的規模で起こったことをしっかりと意識の中に持っていたと思います。」
   
 「外から地球全体を支配する発想。最初の話に戻りますが、日本列島から遠く離れたところに約350年前に特殊な集団が異常繁殖して巨大な意思を持つ権力を作り上げ、その権力の下に各種の政治学が生まれ、その政治学を一生懸命勉強していますが、しかし、それが行き詰ればまた更地にしてむきだしの暴力が新たな権力を生むということを繰り返すだけ、その様な発想で歴史と言うものを考えました」と御講演を結ばれました。

 今回の御講演に於いて先生は、常にきれいごとを唱え、清教徒的理想主義の仮面を被った覇権主義国家アメリカの歴史と正体を余すところなく説かれました。イギリスの清教徒革命は千年至福王国を夢見た革命であり、それが後にアメリカ建国へとつながったと言われておりますが、このようなアメリカの闇は親米保守主義者たちの目には見えません。世界各地への軍事力の展開と、グローバリズムや金融資本主義による世界の一極支配も限界に近づき、新たな裂け目が生じようとしている今日、アメリカによる「権力をつくる政治の動向」を諦視しつつ、我が国再生への道を模索しなければならないものと思います。

文:中村敏幸

坦々塾夏の納涼会(平成24年)

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 7月28日ホテルグランドヒル市ヶ谷で行なわれた坦々塾夏の納涼会の私のスピーチについて、メンバーの渡辺望さなんが感想を書いて下さいました。この日私はメンバーの皆様から喜寿のお祝いをしていたゞきました。厚くお礼申し上げます。

 7月28日、ホテルグランドヒル市ヶ谷白樺の間で、西尾先生の喜寿のお祝い、そのお祝いに坦々塾の納涼祭を兼ねた会が開かれました。参加された方で、「暑い」という言葉を朝から一度も言わなかった人はもしかして一人もいなかったのではないか、と思えるほど猛暑の一日でした。

 しかし、白樺の間に入り、会席の始まりとしておこなわれた先生の講演を聞いて、どの人も、汗を拭く手を次第次第にやめていくのが私にはよくみてとれました。そのことは別に、建物の中の冷房だとか、部屋の中の冷たい飲み物だとかのせいではありません。
 
 小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫版)の解説文で江藤淳は、「・・・ところで、この本の読者は、どのページを開いてみても、読むほどに、いつの間にかかつてないようなかたちで、精神が躍動しはじめるのを感じておどろくにちがいない。それは、いわば、ダンスの名人といっしょに踊っているような、あるいは一流の指揮者に指揮されてオーケストラの演奏をしているような体験である。これが自分のステップだろうか、自分のヴァイオリンがこんなに鳴るのだろうか、といぶかりつつも、いつになく軽やかに動く脚に快い驚きおどろきを感じ、いつもより深い音色を響かせる学器に耳を澄ませはじめる」と記しました。当日の西尾先生の言葉の流れから、私はその比喩を連想しました。
 
 西尾先生の言葉に耳を傾ける人もまた、知らず知らずのうちに西尾先生の言葉によって、考えさせられはじめている。江藤は音楽を比喩に出しましたが、音楽でなくてもよい、水の流れでも空気の流れでもよい、それに触れる人を思考に知らず知らずに誘うもの、そういうものです。そういう力をもっているものは、涼やかで風通しのよいものに他なりません。
 
 考えが優れて進むことは古来より「冴える」「冴ゆる」と表現されてきました。「冴える」「冴ゆる」とは、頭の中が涼やかになり、そして澄んでいき、さえ(冴え)渡っていくことを意味する。白樺の間に響く西尾先生の言葉は、どんな冷風や冷たい飲み物よりも涼やかなもの、聞いている人間を考えさせていくものでした。冴えさせられることによって、汗を拭く手のことをいつのまにか忘れてしまう。そのことが私には見て取れたのです。

 さて、三十分余りと、それほど長いものでなかった先生の講演は、「戦後から戦後を批判するレベルにとどまってはならない」と題されたものでした。これは刊行が迫っているご自身の著作『GHQ焚書図書開封第七巻』の内容紹介を兼ねてのものでしたが、その内容紹介については今回の報告では割愛させていただきます。

 まず先生は、日本人の戦後におけるアメリカ観の急速な崩壊が進んでいること、しかし崩れ行くアメリカ観の中で、新しいアメリカ観をなかなか確立できない日本人の精神的停滞を指摘されました。西尾先生はこの停滞の根幹に、保守派の守護神的存在である小林秀雄、福田恆存、竹山道雄の諸氏の歴史観の間違いがある、とお話をはじめられました。

 これはどういうことなのでしょうか。従来、保守派と左派の間に一線をおいて、両者を切断する捉え方が絶対的といっていいほど多数派であり、その保守派が依存してきたのが、小林たちの言説でした。たとえば西尾先生が引用されたように、小林秀雄が戦後繰り返し、「自分は(戦争を)反省しない」と言い切り、戦争の反省を強いる革新派知識人を軽蔑したことはよく知られています。そういう言葉を吐く小林の心情は「悲劇は反省できるものではない」ということにありました。先生は福田恆存の親米主義も例にあげられましたが、そのような精神的地点は、『ビルマの竪琴』を書くことによって、「悲劇は反省しえない」ということを宗教的心情に逸脱させた竹山道雄も同じということがいえるのではないかと私は思います。
 
 だからこそ、小林達の戦後保守派の史観と、左派史観には重要な共通点がある、と先生は言われます。つまり大東亜戦争というものを「避けるべきもの」だったというふうに考えていたということです。だから「悲劇」という表現を小林秀雄は使う。小林秀雄は、大東亜戦争に歴史的必然の意味を与えようとした親友・林房雄を揶揄しているというようなこともしていることを、今回の先生のお話ではじめて知りました。
 
 もちろん、小林秀雄たちは、戦後平和主義やマルクス主義派知識人とは本質的にはまったく違う。しかし彼らの歴史観に「何か」が足りないのです。その「何か」の不足のせいで、我々は今や、保守革新を問わず不自由に陥っている。その「何か」を把握することが、崩壊するアメリカ観や世界観に直面する私達に必要なのではないか。西尾先生の戦後保守派知識人への批判はここに始まります。西尾先生の批判を敷衍すれば、悲劇を安易に感受することは、歴史における思考停止を招きかねない、ということになるでしょう。

 では、「大東亜戦争は避けるべき悲劇だった」という戦後保守派と左派に共通するパラダイムから脱するヒントはどこにあるのでしょうか?
 
 西尾先生はそれを、戦時下において政府に積極的な協力を見せた知識人の何人かの言説から探し出そうとします。それがここ数年の西尾先生の思想的営為でもある。彼ら知識人は軽々しいオポチュニズムで政府や軍部の片棒を担いだのではない。世界史の流れにおいて、運命、使命、あるいは必然ということと真剣に格闘することによって、戦争を積極的に受け入れ担おうとしたのです。

 仲小路彰、大川周明、保田與重郎など先生があげられるこの方面の知識人はしかし、戦時下に協力したということによって、表現の世界から追放に等しい評価をされ、戦後の保守派からも傍流の扱いを受けつづけることになり、その仕事の多くは依然として埋もれたままになっています。しかし彼らの知的精神がもっている「自由」の幅は計り知れないものがある。

 この「自由」こそが今必要とされているのではないか、ということです。彼らはたかだか二十世紀の一事件として大東亜戦争を把握するのではなく、時間的・空間的に巨視的にそれを把握し、その意味付けをしていた。ゆえに、戦後世界的なアメリカ把握、ヨーロッパ把握、アジア把握から全く自由であったのです。

 先生のお話を聞かれた人の中には、たとえば、戦時下における西谷啓治や高坂正顕たち京都学派の世界秩序構築論の理論的作業の例がすでにあるではないか、といわれる方もいるかもしれません。これら京都学派の諸氏も、戦後、追放処分の憂き目をみた人物たちです。

 しかし京都学派の理論的作業は、近代やヨーロッパ文明を超克するといいながら、ヘーゲル主義その他、ヨーロッパ文明下の思想教科書を前提にした枠組みの中、それらの範囲でしか考えていないという物足りなさがあるといわねばならないように私には思います。学者的学者の限界、と言ったら酷でしょうか。いずれにしてもやはり京都学派の思想家たちも、「何か」が足りないように思われます。

 仲小路彰に関しては西尾先生の本格的な発堀まで、忘れさられていた存在でした。著作『太平洋侵略史』などに表されているその歴史観は地球全体と、近代以前からの時間を視点においた壮大なものでした。それは学者的学者の史観ではありえない巨視的なものです。

 また西尾先生が言われるように、「東京裁判の狂人」というイメージが戦後日本で一般的である大川周明に『日本二千六百年史』という堂々たる全体的歴史書があることは今の日本人にほとんど知られていない。大川もまた、専門分野にまったく拘束をされない非学者的知識人でした。大川の歴史観には面白い躓きもあり、彼は鎌倉時代の扱い方に苦労して失敗していると先生は指摘されました。優れた思想家には、その知的正直さがゆえに、興味深い躓きをするという逆説があるのです。

 この鎌倉時代こそは、戦後の左翼史観が巧みに悪用してきた時代です。左翼史観にしてみれば、この時代こそが反皇室の萌芽だからですね。平泉澄なども鎌倉時代に焦点をあてた歴史論を考えており、西尾先生にしてみると、大川の躓きをはじめとする、戦前と戦後における鎌倉時代・中世の問題ということに非常な関心がある、ということでした。
 
 「戦後」ということから自由であり、また「専門」ということからも自由であるこれらの知識人の知的精神が、現代の日本人の組み立て直しに資するに違いない、それが当日の西尾先生の講演の結論でした。

 西尾先生のお話が終わったあと、坦々塾会員である足立誠之さんが乾杯の音頭をとってくださいましたが、乾杯の音頭に際しての足立さんのスピーチもまたたいへん歯切れのよい記憶に残るものでした。

 足立さんはかつて北米大陸に長く滞在されお仕事をされいた経歴をお持ちの方です。つまり、アメリカという国の本当のすさまじさというものを、実感として知られている。足立さんがいわれるには、戦時下の特攻隊員の中には、アメリカという国は決して蔑ろにするべき対象でもないし、もちろん甘い幻想を抱く対象でもない、日本という国を根絶やしにするおそろしい国なのだ、だから自分はそのアメリカと戦う、と言い残していった若者もいた。この足立さんの言葉は、実は戦前戦中の日本人の中には、仲小路や大川のように、巨視的な意味で日米戦争をとらえていた人物が知識人以外の層にもきちんといたのだ、ということを意味しています。

 私は、足立さんのお話から、ローマの歴史家タキトウスの「戦争は、悲惨なる平和よりよし」という言葉を思い出しました。あるいは哲学者カントは、自身の平和論の中で、「お墓が一番平和なのだ」と実に見事な皮肉をいいました。戦後日本人の多くは(よほどの共産党系知識人を除いて)ソビエトの衛星国になった東欧諸国の「悲惨な平和」をみて、日本の戦後を「幸福な平和」の国と考えていた。しかし、日本の戦後もまた、見えにくい形で「悲惨な平和」が進行しているのではないか。あるいは「お墓の平和」に近づいているのかもしれない。西尾先生は講演の中で、「ソフト・ファシズム」ということを言われましたが、「ソフト」というのは、見えにくく、見えにくいがゆえに、抵抗がむずかしい分、「ハード・ファシズム」よりも遥かにおそろしいのです。 
 
 アメリカの巧みな、しかも長い時間をかけた戦後の対日解体戦略の中で、先日の大津いじめ事件に見られるような日本人の骨抜きが進んでいると足立さんは当日のスピーチの中で嘆かれました。それで思い出したのですが、私は何年か以前に、足立さんが坦々塾で「ガラスの中の蟻」という題名でされたお話の内容が、たいへん強く印象に残っています。

 北米大陸でも子供の「いじめ」はたくさんある。しかし親はいじめられた自分の子供たちをすぐに手助けするのではなく、「戦いなさい」と返すのだ、と足立さんはそのときに語られました。日本人は、そうした日常レベルから、アメリカ人のそうした生き方にかなわないように腑抜けにされてしまっている。そのことがどれだけ深刻なことなのか日本人はわからない。それが足立さんのお話の主張だったと記憶しております。「戦い」の気持ちを抱く人間はもはや少なく、あるいは「戦い」を決意しても、共感や共闘をしてくれる人間がますます少ない、というのが日本の現状なのでしょう。日常の「いじめ」に対して戦えない人間が、国際政治で戦えるはずはないのです。

 「だからこそ」と足立さんは当日のスピーチで強調されました。「この厳しく、ある意味で情けない日本の現状で、本当のことをいい、真剣に思索と戦いを演じられる知識人は西尾先生以外にいない」ということ、そのためにも、「西尾先生にいつまでも頑張ってもらいたい、心身ともに健康でいていただきたい」足立さんはスピーチをそう締めくくられて、乾杯の音頭をとられました。

 和やかな会の進行の中で、西尾先生の喜寿のお祝いに、日本でただ一つだけの「清酒・西尾幹二」を先生に手渡され、先生もたいへんに喜ばれ寛がれていらっしゃいました。坦々塾にはじめて参加される方も何人かいましたが、二次会に至るまで、先生との会話を楽しまれ、「冴え」の気分と「戦い」の精神の坦々塾の雰囲気を存分に吸収されたように思われました。

文:渡辺 望

育鵬社教科書の盗作事件

ゲストエッセイ 
長谷川真美
「新しい歴史教科書をつくる会」広島県支部長・元廿日市市教育委員・主婦

昨年末の文書作戦

私は自分のブログでも何度か、
育鵬社の教科書が扶桑社のものを盗作していると疑われることを書いてきた。

小山先生も今年に入って引き続き調べられている。
盗作個所は優に40箇所を超えるだろうと言われている。
私はその後調査再開には至っていないが、
こんな風な「不正」と思われることを
どうしても放置できない性格なので、
以下のような文章を年末にかけて封書で投函した。
(私のブログでの調査?内容と小山先生のものも同封した)

育鵬社の支援者25名には少し内容が違うものを出した。
金美齢さんから丁寧な返事と、もう一通差出人不明の返事が来た。
差出人不明のものは、
余計なことをせず、育鵬社に統一しろ・・・・という内容だった。
本当は誰から来たのか分っている。
著名な方なのに、
差出人不明の怪文書?として返事をくれるのは随分卑怯だなと思っている。

平成23年12月 日
            

前略、私は広島の長谷川真美と申します。突然お手紙をさし上げるご無礼をお許しください。私は現在「新しい歴史教科書をつくる会」の広島県支部で支部長という役目を引き受けているものです。今日は支部長という立場ではなく、一個人として、教育再生機構並びに「教科書改善の会」が支援し出来上った育鵬社の歴史教科書について、どうしてもお伝えしたいことがあり一筆申し上げます。

私共「つくる会」が主導した自由社の教科書が惨憺たる結果に終わったこと、育鵬社の公民の教科書に「愛国心」等が書かれていないことなどはとても残念なことでしたが、以下にお知らせいたしますように、育鵬社の歴史教科書が扶桑社版(藤岡信勝代表執筆)を明らかに盗作していると認めざるを得ない事実が徐々に判明してきており、この事の方がもっと重大で残念なことだと思っています。

「つくる会」本部も早くにこのことに気がついていたようですが、採択戦の妨害になることから、採択が終るまで調査、発言を控えてきました。現在、小山常実さんがご自身のブログ(「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書http://tamatsunemi.at.webry.info/)で調査を続けておられます。私も事の重大さに気づき、育鵬社盗作疑惑について調べているところです。調べれば調べるほど、鳥肌が立つほどに酷似している箇所が次々と現れてきています。

八木秀次氏が代表である教育再生機構側は「つくる会」から分派脱退した折に、絶対に今までの教科書の真似をしないということを文書で約束していたはずです。また、屋山太郎氏が代表される「教科書改善の会」も、平成21年9月3日、「中学校教科書採択結果を受けて」という声明の中で、「なお、歴史教科書については全く新しい記述となり、著作権の問題が生じる恐れはありません。」と述べておられます。

しかし、目次の章立て、単元の構成、単元の表記、単元の内容は他社数社の教科書と比べてとてもよく似ていますし、現在調べている限りでも、文化史を除く本文の多数の個所の文章の酷似ぶりが明らかになっています。全く新しいはずが、どうしてこれほどそっくりになってくるのでしょう。

平成21年8月25日の裁判により、教科書の著作に関して、「つくる会」側の主張した教科書は、共同著作物ではなく、結合著作物であるとの判決がありました。つまり約八割に「つくる会」側の著作権が認められたことになります。これは単純に「つくる会」側が敗訴した裁判ではありませんでした。

私の推論ではありますが、扶桑社(藤岡信勝代表執筆)の教科書の著作権侵害とも思えるこれらのことは、おそらく育鵬社の社員が主導して勝手に行ったことではないでしょうか。版権(平成24年3月で消滅)が扶桑社にあったということで、それをリライトしても法律に違反しないと思ったのかもしれません(もちろん著作権者に許可を得てリライトするならばいいのですが)。

皆さまは、保守系の教科書がもう一つ出来たのだから、そんなに目くじらを立てなくてもいいじゃないか、或いは、中味が似ていてもそれはそれでいいことじゃないか、喧嘩せずに仲良くやればいいじゃないかとお考えかもしれません。しかしこれが「盗作」まがいのことをした結果であるとしたら、道義、道徳を重んじるはずの保守系教科書で、そのようなことが許されるのでしょうか。こんなことを見過ごせば、保守言論界が大変なことになるのではないでしょうか。私には、身内でこのようなことを見過ごして甘い顔をすることは、左翼に笑われる保守の自滅そのものになると思うのです。自浄作用の無い世界は滅びていきます。

その点ワック出版は立派でした。『歴史通』11月号では、S.Y.さんが著作権侵害を起こし、ご本人も出版社も著作権者に対し謝罪され、そのことを実名で公表していました。S.Y.さんの書かれた内容は「尊敬される日本人」の中の「佐久間 勉」でした。内容が良いものだとしても、文章を書くときのルールとして著作権があり、引用、参照、など明確にしない「手ぬき」は許されないものです。

そのうえ、自虐偏向の他社の教科書は問題外ですが、育鵬社は「南京虐殺」は「あり」との立場に立ちました。そしてご存知のように、中国語読み、韓国語読みの「ルビ」を振りました。大東亜戦争を括弧の中に閉じ込めてしまいました。近隣諸国に配慮することで、左に擦り寄っています。フジテレビという「韓国」系列に阿るテレビ会社が後ろについていることも心配の種です。

色々書きましたが、育鵬社の教科書は歴史も公民も、今までの教科書運動の成果に逆行するようなものになっています。このことは市販本を読んでいただければ誰にでも分ることです。

私はやっとここまで来た教科書運動が、こんな風になったことが許せません。
子孫が育っていくこれからの日本に、真に立派な教科書を手渡して行きたいと思っています。保守陣営がもっと頑張り、日本を立て直してもらいたいと思っています。

手段を間違えれば、いくら表面を取り繕っても、必ずひずみが出ます。

日本人はそういう意味で、汚い手を使わないことを良しとする国民のはずです。ただ、日本人の弱点は長いものに巻かれること、争いを好まないことなどがあり、私のこういった主張に「保守言論界にとって、あまりさわがない方がいいのでは・・・・」との反応があります。先にも言いましたが、このような不実が黙認されるようなことがあれば、保守言論界は自浄作用がないということになり、いずればジリ貧になっていくでしょう。

私はこの件を育鵬社の支援者25名の方々に告知いたしました。今後はもっと巾を広げて告知していくことをご報告しておきます。自虐史観ではなく、日本の子供たちに、自国への愛を育むための教科書が必要だと考えておられるであろう皆様、どうか、この件を真剣にとらえ、今後どうしたらよいかお考え下さり、対処していただきますようお願い申し上げます。

なお、ご参考までに私のブログでの発表内容の一部、小山先生の文章の一部を同封致します。

最後までお読みくださり、有難うございました。

草々

添付文書

(卑弥呼)

〇扶桑社
第2節「古代国家の形成」の、中国の歴史書に書かれた日本の邪馬台国と卑弥呼

3世紀に入ると、中国では漢がほろび、魏・蜀・呉の3国がたがいに争う時代になった。当時の中国の歴史書には、3世紀前半ごろまでの日本について書かれた「魏志倭人伝」とよばれる記述がある。
 そこには、「倭の国には邪馬台国という強国があり、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた」と記されていた。卑弥呼は神に仕え、まじないによって政治を行う不思議な力をもっていたという。また、卑弥呼が魏の都に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚などの贈り物を授かったことも書かれていた。
 ただし、倭人伝の記述には不正確な内容も多く、邪馬台国の位置についても、近畿説と九州説が対立し、いまだに論争が続いている。(26~27ページ)

〇育鵬社
文明のおこりと中国の古代文明の、「邪馬台国」

3世紀になると、中国では漢がほろんで魏・呉・蜀の3国に分かれました。この時代について書かれた歴史書『三国志』の中の魏書の倭人に関する部分(「魏志倭人伝」)には、当時の日本についての記述があります。
 それによれば、倭(日本)には魏に使者を送る国が30ほどあり、その中の一つが女王卑弥呼が治める邪馬台国でした。倭が乱れたとき、多くの人におされて王となった卑弥呼は、神に仕えて呪術を行い、よく国を治めました。宮殿に住んで1000人の召使いを従え、魏の皇帝からは「親魏倭王」の称号と金印を授けられ、多くの銅鏡を贈られたと倭人伝には記されています。
 しかし、邪馬台国の位置については、倭人伝の記述の不正確さのために近畿説、北九州説など多くの説が唱えられ、いまだに結論が出ていません。(26ページ)

〇帝国書院(17年検定)
「むら」がまとまり「くに」への、むらからくにへ

漢の歴史書(『後漢書』)によれば、1世紀の中ごろに、奴国(現在の福岡市付近)の王が漢に使いを送り、金印をあたえられたとあります。また、魏の歴史書(『魏志』倭人伝)によれば、3世紀に倭(日本)は小さな国に別れ、長い間争いが続いたが、邪馬台国の卑弥呼を倭国の女王にしたところ、争いがおさまったとあります。卑弥呼は、まじない(鬼道)によって、諸国をおさめ、ほかのくによりも優位にたとうとして中国に使者を送り、倭王の称号を得ました。そして、銅鏡など進んだ文化や技術を取り入れました。銅鏡は諸国の王らが権威を高めるためにほしがったものでした。(26ページ)

(聖武天皇)
〇扶桑社
奈良時代の律令国家の、聖武天皇と大仏建立

聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、日本のすみずみにまで仏教の心を行き渡らせることによって、国家の平安をもたらそうとした。都には全国の国分寺の中心として東大寺を建て、大仏の建立を命じた。(45ページ)

〇育鵬社
天平文化の、奈良の都に咲く仏教文化

聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、日本のすみずみに仏教をゆきわたらせることで、政治や社会の不安をしずめ、国家に平安をもたらそうとしました。また、都には全国の国分寺の中心として東大寺を建立し、金銅の巨大な仏像(大仏)をつくりました。(45ページ)

〇帝国書院(17年検定)
中国にならった国づくりの、大仏の造営

聖武天皇の時代、全国で伝染病が流行し、ききんがおこりました。世の中の不安が増すと、古くからの神にかわって、仏教を信仰する人々が増えました。聖武天皇とその后は、仏教の力で国を守り、不安を取り除こうと考え、行基らの協力で都に大仏を本尊とする東大寺をたて、地方には国ごとに国分寺と国分尼寺を建てさせました。(37ページ)

〇清水書院(23年検定)
平城京の建設と仏教

奈良時代のなかごろ、仏教を深く信仰していた聖武天皇と藤原氏出身の光明皇后は、仏の力で国家を守ろうとして、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、都には総国文寺として東大寺を建てた。(37ページ)

〇東京書籍(23年検定)
天平文化の、奈良時代の仏教と社会
聖武天皇と光明皇后は、仏教の力にたよって国家を守ろうと、国ごとに国分寺と国分尼寺を、都には東大寺を建て、東大寺に金銅の大仏をつくらせました。(42ページ)

小山ブログから

平成21年8月25日東京地裁判決から分かること、その5―――単元構成等の類似性も盗作の証拠となること
< < 作成日時 : 2011/11/06 19:11 >>
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  これまで「平成21年8月25日東京地裁判決から分かること」を四回にわたって記してきた。その第一回記事でもふれたように、東京地裁判決は、育鵬社が「つくる会」側著者の著作権を侵害しているかどうかについて判断するためのポイントを示している。

  判決の「第4 当裁判所の判断」の「1 争点1(原告らの有する著作権の対象及び内容)について」には、以下のような記述がある。

 (2)本件記述の著作物性

  著作物とは,「思想又は感情を創作的に表現したものであって,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するもの」をいう(著作権法2条1項1号)。本件記述(本件書籍において,各単元において図版や解説文を除外した本文部分や,各コラムにおいて図版や解説文を除外した部分)は,特定のテーマに関して,史実や学説等に基づき,当該テーマに関する歴史を論じるものであり,思想又は感情を創作的に表現したものであって,学術に属するものであるといえる。

  この点,本件教科書(本件書籍)が,中学校用歴史教科書としての使用を予定して作成されたものであることから,その内容は,史実や学説等の学習に役立つものであり,かつ,学習指導要領や検定基準を充足するものであることが求められており,内容や表現方法の選択の幅が広いとはいえないものの,表現の視点,表現すべき事項の選択,表現の順序(論理構成),具体的表現内容などの点において,創作性が認められるというべきである。

  傍線部は私が付したものであるが、まず、上記第一段落の傍線部に注目されたい。第一段落にあるように、判決は、各単元本文と各コラムにおける図版等を除いた部分(要するにコラム本文)は、歴史を論じた「思想又は感情を創作的に表現したもの」であり、著作権法で保護する著作物と言えるとする(図版やその解説文等が著作物であるかどうかは触れられていない)。

  第二段落では、創作物性を認定する場合のポイントが四点ほど述べられている。すなわち、①表現の視点、②表現すべき事項の選択、③表現の順序(論理構成)、④具体的表現内容などである。

  これまで、私は、教科書という性格上、単元構成や論理構成、取り上げられる事項がそっくりだからと言って必ずしも盗作と認定することは出来ないのかもしれないと考えてきた。つまり、①②③の類似性をもって盗作認定することは難しいのではないかと考えてきた。ただし、④具体的表現内容、すなわち文章がそっくりなものは当然に盗作となるから、文章が似ているものを中心に探してきた。

  しかし、判決をみると、①②③の類似性も盗作の証拠となることが明確に知られる。もちろん、研究書などとは異なり、教科書であり学習指導要領による枠づけもあるから一定程度の類似性は致し方ないものと思われる。だが、余りにも単元構成が似ている場合にはそれだけで盗作と言えるだろうし、取り上げている事項、表現の順序(論理構成)に甚だしい類似性がある場合には、文章表現が類似していなくても盗作と言えるということになると考えられるのである。

 付記しておくならば、前に記したように、判決は、『新しい歴史教科書』の著者と出版社の出版契約を平成23年度までの期間と捉えており、扶桑社-育鵬社の版権は24年3月で消滅する。それゆえ、出版社の主導権を認める共同著作物と捉えたとしても、育鵬社は、扶桑社版を基にして、平成24年4月以降に使用される教科書を作成する権利を持たないのである。ましてや、著者に主導権を認めた結合著作物である以上、なおさら、持たないことを強調しておこう。にもかかわらず、著しく酷似した単元構成の教科書を、今回、育鵬社は作成したのである。

  では、育鵬社版と扶桑社版とはどの程度類似しているのか。前に「『つくる会』側の著作権を侵害した!?育鵬社歴史教科書」であげた第4章(近代日本)では、本当に単元構成がそっくりであった。第5章(二つの世界大戦と日本)、第6章(戦後日本)に関してはどうであろうか。

〇扶桑社(藤岡信勝代表執筆)      〇育鵬社(伊藤隆他)
第5章 世界大戦の時代と日本       第5章  二度の世界大戦と日本
第1節 第一次世界大戦の時代        第1節 第一次世界大戦前後の日本と世界
62第一次世界大戦                60第一次世界大戦
63ロシア革命と大戦の終結           61ロシア革命と第一次世界大戦の終結
64ベルサイユ条約と大戦後の世界       62ベルサイユ条約と国際協調の動き
65政党政治の展開                63大正デモクラシーと政党政治
66日米関係とワシントン会議           64ワシントン会議と日米関係
67大正の文化                   65文化の大衆化・大正の文化
 
第2節 第二次世界大戦の時代        第2節 第二次世界大戦集結までの
                                日本と世界
68共産主義とファシズムの台頭        66世界恐慌と協調外交の行き詰まり
69中国の排日運動と協調外交の挫折    67共産主義とファシズムの台頭
70満州事変                    68中国の排日運動と満州事変
71日中戦争                    69日中戦争(支那事変)
72悪化する日米関係              70緊迫する日米関係
73第二次世界大戦               71第二次世界大戦
74大東亜戦争(太平洋戦争)         72太平洋戦争(大東亜戦争)
75大東亜会議とアジア諸国          73日本軍の進出とアジア諸国
76戦時下の生活                 74戦時下の暮らし
77終戦外交と日本の敗戦           75戦争の終結
                           76戦前・戦中の昭和の文化

第3節 日本の復興と国際社会        第6章現代の日本と世界
                           第1節 第二次世界大戦後の民主化と再建
78占領下の日本と日本国憲法         77占領下の日本と日本国憲法
79占領政策の転換と独立の回復        78朝鮮戦争と日本の独立回復
80米ソ冷戦下の日本と世界           79冷戦と日本
第4節 経済大国・日本の歴史的使命    第2節 経済大国・日本の歴史的使命
81世界の奇跡・高度経済成長          80世界の奇跡・高度経済成長 
82共産主義崩壊後の世界と日本の役割    81冷戦と昭和時代の終わり
                            82 戦後と現代の文化
                            83冷戦の終結と日本の役割  
              
  両社の単元構成はほとんど同一である。時代が6年経過した関係から、政治・経済史について単元2つを増加し、文化史を2単元新設しただけである。その他の点は全て扶桑社を育鵬社は踏襲しているのである。この類似性が如何に甚だしいものであるかを示すために、扶桑社版と同じく平成18~23年度使用年度が同一である帝国書院の目次を掲げておくので比較されたい。

○帝国書院平成18~23年度版(黒田日出男、小和田哲男、成田龍一他)
第6章 二つの世界大戦と日本
 1節 世界情勢と大正デモクラシー
  1第一次世界大戦と総力戦 
  2日本の参戦と戦争の影響
  3平和を求める声と独立を求める声
  4民衆が選ぶ正当による政治
  5都市の発展と社会運動
  6大衆の文化・街頭の文化
 2節 日本がアジアで行った戦争
  1世界恐慌と各国の選択
  2行きづまる日本の選択
  3おしすすむ日本と抵抗する中国
  4戦争の拡大から第二次世界大戦へ
  5植民地の支配と抵抗
  6長引く戦争と苦しい生活
  71945年8月、原子爆弾の投下
  8それぞれの敗戦と「戦後」の出発
第7章 現代の日本と世界
 1節 戦後日本の成長と国際関係
  1、新時代に求められた憲法
  2、冷たい戦争と国際連合
  3、日本の独立と安全保障
  4、高度経済成長とよばれる発展
  5、国際関係の変化と日本
 2節 これからの日本と世界
  1、変化する世界と日本
  2、いまの自分にたちかえって

  帝国書院と扶桑社・育鵬社とは全く単元構成が違うことに気付かれることと思う。ざっと見た感じでは、自虐5社と言われるが、それぞれの単元構成は余り似ていない。扶桑社と育鵬社の類似性は異常なのである。これだけ似ていると、単元構成の点だけで育鵬社を盗作教科書として弾劾することができよう。

西尾幹二全集(全22巻)発刊に思う

ゲストエッセイ 
鈴木敏明 えんだんじのブログ 1938年 神奈川県生まれ
1956年 県立鎌倉高校卒業
外資系五社渡り歩いて定年
定年後著作活動、講演等に専念
これまでの著作
・「ある凡人の自叙伝」1999年 自費出版図書館編集室
・「大東亜戦争は、アメリカが悪い」2004年 碧天社
・「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」2006年 展転社
・「逆境に生きた日本人」2008年 展転社

 私は成人して以来、50年間日本の知識人の言動を見てきました。戦後日本の知識人の印象と言えば、彼らは本当にバカ、アホ丸出しの救いがたい人たちの一言につきます。その理由はなにか?彼らは共産主義、ソ連に惚れ込みまさに悪女に憑かれたという表現がぴったりです。ソ連という悪女の醜さに自らの目と耳を覆い盲信、盲進したのだ。日ソ不可侵条約の突如の破棄、北方四島略奪、60万日本兵の強制収容と強制労働、そのために日本兵が5万から7万人の死者が出た。これらの現実は、まだ戦後日本人の記憶の中にある生々しい史実なのだ。ところが知識人は、この現実を見ようとしないのだ。そしてあの有名な安保騒動。ぞっとする彼らの徹底した親ソ反米。一方我々一般庶民は、ソ連の実態をすでに認識していて、日本はアメリカ占領軍に支配されたが、ソ連軍に支配されなかったのは不幸中の幸いで、心底ソ連軍に占領されなくて良かったというのが認識だったのだ。だからこそあれほどの安保騒動後に自民党政府は解散し、総選挙しても、自民党政府の圧勝に終わったのです。当時著名な知識人であった蝋山政道は、自著「日本の歴史26巻」(よみがえる日本 文芸春秋社)、の中で総選挙敗北の教訓を次ぎのように書いている。

 「第一は、日米安保条約のごとき国際外交問題に対して、日本国民はいまだ平素じゅうぶんな知識や情報をあたえられていない。日常生活に関する地域または職域についての国内問題であるなら、一定の知識・経験によって実感的に判断する能力をもっているが、外交政策になると、その実感は一方的な不満や不安をかきたてる宣伝に動かされやすい」

 「第二は、第一のそれとつながっている。日常生活と国際的地位という大きな距離とギャップを持っている政策問題について、一般の国民にそれを統一する理解を期待し、政策形成に寄与することを求めることはできない」

 どうですか、蝋山政道のこの傲慢ぶり、完全に日本の一般国民をバカにし、自分たちの主張が正しいのだと言わんばかりですし、総選挙での革新派の大敗を国民の無知のせいにしているのだ。このように安保騒動後の総選挙大敗後も一般国民と知識人とのソ連に対する認識ギャップを意識することなく、自分たちの考えが正しいのだとソ連にのめりこんでいったのだ。そしてベトナム戦争で見せた日本の知識人の勝手な幻想、すなわち北ベトナムは天使、南ベトナムとアメリカは悪魔との幻想が北ベトナムによる共産党一党独裁国家の樹立という目的を見抜くことができなかった。どうして戦後日本の知識人は、こうまで愚かなのか。結局彼らは、現実を直視しようとせず、時勢、時流、権力に迎合することに夢中になるからです。すなわち彼らは、日本人のくせにソ連の権力に迎合したのです。

 ここで日本通の一人の外国人が、日本の知識人をどう見ているのかとりあげてみました。その外国人の名は、オランダ人のジャーナリストでカレル・ヴァン・ウォルフレン。ウォルフレン氏は、日本経済絶頂期の1989年に「日本/権力構造の謎」(The Enigma Of Japanese Power)という本を出版した。この本は世界10ヶ国語に翻訳され、1200万部売れたという。私もその頃この本の翻訳本を読みましたが、いまでは何が書いてあったかほとんど忘れてしまっています。私は、このウォルフレン氏がきらいなのです。彼は日本語がペラペラ、その日本語で大東亜戦争日本悪玉論を主張するのです。私は日本語を話せない外国人が外国語で大東亜戦争日本悪玉論を語っているより、日本語堪能の外国人が大東亜戦争日本悪玉論を語っている方が怒りを強く感じるのです。「日本をもっと勉強しろ」といいたくなるのです。第一ウォルフレン氏がオランダ人であることが気にいらない。大東亜戦争の時オランダ軍など当時の日本軍にとってはハエや蚊のような存在だ。オランダはアメリカと同盟を組んでいたからこそ勝利国になれたにすぎない。終戦後は、勝利国面して日本批判を繰り返し、オランダの女王が来日した時、平然と日本を批判した。オランダが植民地、インドネシアに何をしてきたというのだ。オランダに日本を非難する資格など一切ない。こういうことをウォルフレン氏に直接言いたいくらいなのです。それではなぜ、ウォルフレン氏をとりあげたのか。彼が日本の知識人について名言を吐いているからです。

 彼は自著「日本の知識人へ」(窓社)の冒頭のページでこう書いています。
 
 「日本では、知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振舞う知識人がまことに少ないようである。これは痛ましいし、危険なことである。さらに、日本の国民一般にとって悲しむべき事柄である。なぜなら、知識人の機能の一つは、彼ら庶民の利益を守ることにあるからだ」
まさにこれは、名言ですよ。知識人らしい知識人がいないことは、日本国民にとって悲しむべきであり、危険なことであると言っているのは、まさにその通りです。私などそのことを、痛切に感じています。さらに彼は、こう書いています。

 「日本では、権力から独立した知識人がいないどころか、むしろ、権力によっても認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流でした」

 全くその通りです。多くの知識人は、権力に認められることを望むのだ。そのために権力に認められようとあからさまな行動にでる。ここまで知識人としてのあるべき姿について私の意見とウォルフレン氏の意見を紹介してきました。この両者の意見を保守言論界の長老とも言われる西尾幹二氏にあてはめてみました。私は主張しました。日本の知識人は、あまりにも時勢、時流、権力に迎合過ぎる。その例外が西尾幹二氏なのです。西尾氏は、時勢、時流、権力に迎合しないどころか、あらゆる団体、業界などからの支援なども一切受けず、学閥、学会などとは無縁です。従って西尾氏の発言には損得勘定がない。要するに私に言わせれば、西尾氏は、崇高なまでに孤高をつらぬいて現在の学者として地位を築いてきたわけです。この崇高なまでの孤高は、知識人にとって非常に重要で、そのことが、ウォルフレン氏の指摘する知識人としての規格にあてはまるのです。西尾氏は、知識人が一番必要とされている時に、知識人らしく振舞える非常に数少ない知識人の一人なのです。知識人が必要な時に知識人らしく振舞えるとは、どういうことかと言うと、非常に難しい問題が生じ、私たち一般庶民が明快な回答に窮するとき、あの人ならどんな考えを持つのだろうかと、その人の意見に期待を寄せることができる人の意味です。西尾氏は、どう考えているのだろうかと私たち庶民が期待をよせることができる数少ない知識人ではないでしょうか。

 ウォルフレン氏は「日本では、権力から独立した知識人がいない」という。確かにそのとおりだと思います。しかし例外もあります。西尾幹二氏です。権力から独立した、日本では非常に数の少ない、希少価値のある知識人です。これは何十年間にわたって崇高なまでに孤高をつらぬいてできる知識人の技とも言えるのではないでしょうか。

 その西尾幹二氏の全集、全22巻のうち最初の5巻「光と断崖―最晩年のニーチェ」が国書刊行会から先月出版された。今どき全集が出せる文筆家や知識人はいない。西尾氏のすぐれた学問的業績が認められたためでもあり同時に50数年にわたる生き様も認められたのだと思い、素直に西尾先生にお祝いの言葉をささげます。また同時に全集出版は、私のような西尾ファンにとってもとても喜ばしいのです。出版社は慈善事業ではありません。全集を出したところで売れないと判断したら、誰が出版するものですか。全集を出しても売れると判断したからこそ出版するのです。ということは私のような西尾ファンが全国大勢いるということです。そのことは、現在のような情けない状態の日本でも健全保守、健全な愛国者が多いいということを改めて認識させてくれるので非常に嬉しいし、心強い思いをさせてくれるのです。

 西尾先生、おめでとうございます。これからも日本国家のため、長く、長く健筆をふるってくださるよう切にお願い申し上げます。