日米百五十年戦争と日本再生への道標
坦々塾会員 中村敏幸
コミンテルン工作と日支間を全面戦争に導け
ソ連と支那国民党は1919~20年の第1次、第2次カラハン宣言によって急速に接近し、ワシントン条約(九カ国条約)の枠組みから外れたソ連は外蒙を勢力下に置き、コミンテルンは直ちに工作員マーリンを支那に派遣して支那共産党(コミンテルン支那支部)を設立すると共に国共合作に向けた事前工作を始めた。
続いて1923年(大正12)の「孫文・ヨッフェ共同宣言」により、孫文は「連ソ容共」を唱えて直ちに蒋介石をソ連に派遣し、ソ連資金によって陸軍士官学校たる黄埔軍官学校を広州に、支那人革命家の養成所たる中山大学をモスクワに設立するに至った。コミンテルンから派遣された工作員ボロヂンとガーレンはそれぞれ孫文の政治顧問と軍事顧問になり、国民党を牛耳って第1次国共合作を実現させた。孫文は支那の覚醒と自主独立を切に願って支援を惜しまなかった頭山満、宮崎滔天、犬養毅、梅屋庄吉等の誠意を足蹴にし、完全にソ連の軍門に下ったのである。しかし、孫文没後の共産勢力台頭を恐れた蒋介石による、1927年4月の「上海反共クーデター」によってソ連からの顧問団は追放され国民党内での影響力を失った。ただし、コミンテルンはその直後の5月に開催された中央執行委員会に於いて、予てから国民党に潜入させていた共産党員の残留を指令している。
1935年になると、コミンテルンは第7回大会に於いて「人民戦線戦術の樹立」と、米英仏と提携して日独伊と戦う方針を打ち立て、支那に対しては「抗日民族統一戦線」によって「日支間を全面戦争に導け」との指令を下した。それに応えて、支那共産党の「八一宣言(抗日救国のために全同胞に告ぐる書)」が出されたが、これは支那共産党による事実上の対日宣戦布告であり、翌年12月の西安事件によって第2次国共合作が成立すると、支那は全面的に抗日戦争へと突入するに至ったのである。今日では、1937年7月の盧溝橋事件とそれに続く第2次上海事変は国民党軍に潜入していた共産勢力の陰謀が発端となって起こったことが明らかになっている。また、同年8月21日に締結された「ソ支不可侵条約」の附則にはソ連による国民党軍への武器並びに資金の供与と「国民党はソ連の同意なくして日本との和平又は講和条約を締結せざること」が明記されている。(6)
米英仏ソの急速な接近連携と対支那支援
ソ連は1930年(昭和5)にリトヴィノフが外相に就任すると、米英仏等の資本主義諸国との共存に方針を転換した。また、アメリカは1933年にフランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任すると直ちにソ連を国家として承認し、米英仏ソは急速に接近して「民主主義対ファシズムの戦い」との構図が宣揚され、ソ連は国際連盟加盟を果たした。しかし、領土拡大や植民地支配による搾取と人種差別の激しかった米英仏の民主主義は白人民主主義であり、権力闘争と粛清を繰り返した恐怖政治国家ソ連が民主主義国家の一員であるというのは噴飯ものである。これに異論を唱えない史家には基本的な思想批判力が欠如しており、近現代史を語る資格は無い。また、日本がファシズム国家であるとの説は作意をもった言い掛かりであり、それでもなお当時の日本はファシズム国家であったと強弁する論者に対しては「ファシズムの定義を述べ、当時の我が国の政情と比較せよ」と述べれば反論はそれで足りるであろう。むしろ蒋介石国民党こそがファシズムであった。
1937年に支那事変が起こると、米英仏ソは蒋介石国民党及び支那共産党に対し莫大な資金と軍需物資の支援を行った。日支間には互いに正式な宣戦布告がなされていなかった為に事変と呼ばれて戦争は拡大していったが、互いに宣戦布告がなされていれば、戦時国際法上、交戦相手国への支援は敵対行動であり、日本は事実上背後に有る米英仏ソと戦ったのである。
蒋介石は東洋の敵たる米英仏ソと戦うことなく、逆に手を握って日本と戦った。詩人高村光太郎は東洋の侵略者と結託する蒋介石の否を詩集「大いなる日に」所収の「沈思せよ蒋先生」という一編によって詠っている。(7)
対日包囲網とアメリカの対英仏ソ支支援
1929年(昭和4)のウォール街に於ける株価暴落に端を発して世界は大恐慌に陥ったが、アメリカは翌年「スムート・フォーリー法」によって、また、イギリスは1932年に「オタワ会議」によってブロック経済化を図った。更にドルとポンドの切下げを行い、フランスが「フランブロック」によって、また、オランダが「緊急輸入制限法」によって追随することにより日本は次第に世界貿易の枠組みから締め出されていった。
1937年になると、ルーズヴェルトによる「日独隔離演説」と翌年の「対日武器禁輸」、翌々年のハル国務長官による「日米航海通商条約の一方的な破棄通告」によって、アメリカは我が国の息の根を止めるべく正面から襲い掛かってきたのである。
1941年3月、アメリカは「レンド・リース法」を制定し、ルーズヴェルトは「アメリカは民主主義国家の兵器廠である」と述べて総額500億ドル(現在価値にして約7000億ドル)に及ぶ英仏ソ支への軍需物資支援を開始する一方で、日本に対しては在米日本資産の凍結や対日石油全面禁輸を行った。反日史家の多くは日本の仏印進駐が経済封鎖を招いたと主張するが、それは、アメリカ主導によって行われた既定の長期戦略であり、かつ事実上の対日宣戦布告であった。(8)
1939年にソ連はポーランドに続いてフィンランドに侵攻して国際連盟を追放されたにも拘わらず、翌年8月にはバルト三国を併合し、更に、英ソは1941年8月、「レンド・リース」法に基づく支援物資の輸送ルート(ペルシャ回廊)を確保するため、イランを挟み撃ちにして占領しているのである。英ソのイラン占領に対し、イラン皇帝レザー・シャー(後に退位させられ亡命)はルーズヴェルトに対し「領土不拡大を唱えた大西洋憲章に違反する」と提訴したが、ルーズヴェルトは取り合わず、側近には「大西洋憲章は白人国家のものである」とうそぶいて憚らなかった。
これに先立ち、イギリスは1940年5月に中立国アイスランドに侵攻し、7月にはアメリカ自身がイギリスの肩代わりをしてアイスランドを占領しており、当時のアメリカ外交が二枚舌であったことは明々白々である。我が国の仏印進駐はフランスとの協定(松岡―アンリ協定)に基づいて行われた、援蒋ルート封鎖を目的とした行動であり、同時期に行われた米英ソの他国侵攻に大義はなく、日本の仏印進駐を非難する資格はない。
共産主義勢力のアメリカ潜入
近年ヴェノナ文書の解読と公開により、ルーズヴェルト政権内部に多くのコミンテルン工作員が潜入していたことや、ニューディーラーの大半が共産主義者であったことが明らかになっているが、知識人の共産主義化によって体制内部からの革命を目指したフランクフルト学派の工作も見逃せない。(9)
同派はドイツのフランクフルト大学の「社会研究所」を起点としたが、ナチスの政権獲得により、一斉にアメリカに亡命して拠点をコロンビア大学に移し、開戦後間もない1942年6月に設立されたOSS(戦略情報局、CIAの前身)に大挙して入り込んだ。そこで彼等は、日本占領計画である「日本計画」を策定し、やがてこの計画はGHQの民生局に踏襲されていった。
このように、ルーズヴェルト政権はルーズヴェルト自身が社会主義者であったと言われているが、各方面から共産主義勢力に侵食されていたのであり、この点を直視しなければ、ルーズヴェルトのなりふり構わぬソ連支援は理解出来ない。
アメリカは何故日本を標的にしたのか
欧米列強にとって、日本の存在と日支の協調接近は、彼等の東洋植民地支配を根底から脅かすものであった。特に、アメリカの太平洋での覇権構築にとって、彼等と異なる価値観と民族文化を有し、キリスト教化を受け付けない独立主権国家日本の存在は最大の障害であった。
日米の衝突は、通説では、支那大陸の権益をめぐって起こったと考えられているが、私見によれは、それはアメリカが日本に対する攻撃の口実を得るための手段に過ぎなかったのであり、標的は初めから日本であったと考える。さもなければ、大戦が終結した途端に、手の平を返すようにアメリカが蒋介石に対しあれ程冷淡になり、何故あのようにやすやすと支那大陸を、そして、朝鮮半島北部までをも共産勢力に明け渡してしまったのか理解に苦しむものであり、かかる考えに傾かざるを得ないのである。しかし、この問題については、この視点による専門史家の今後の研究解明に期待したい。註2
(6)第7回大会にはゾルゲも出席した。また、盧溝橋事件直後に支那共産党に対し「あくまで局地戦を避け日支を全面的戦争に導け」、「右の目的を貫徹するために、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩に依って、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい」他の指令を出した。
コミンテルンの支那工作については興亜院政務部資料「コミンテルン並びに蘇連邦の対支政策に関する基本資料・昭和14年10月(国立国会図書館蔵)」に詳しく書かれている。
(7)次の下りがある。「先生は抗日一本槍に民心を導いた。/抗日思想のある限り、東亜に平和は来ない。/先生は東 亜の平和と共栄を好まないか。/今でも彼等異人種の手足となってゐる気か。/わたくしは先生の真意が知りたい」。
(8)東京裁判のローガン弁護人は最終弁論に於いて、「パリ不戦条約」の草案者の一人ケロッグ国務長官による1928年12月の上院外交委員会に於ける発言、「経済封鎖は断然戦争行為である」を引いて反論しており、当時の米国の共通認識によれば「経済封鎖=宣戦布告」であった。
(9)西欧に於いて労働者階級煽動による共産主義革命が行き詰まりを見せる中で、1923年、ルカーチを中心とする共産主義者が起こした学派であり、知識人の共産主義化により体制内部に入り、体制否定の理論(宗教、家族制度、父権、権威、性的節度、伝統、国家、愛国心、畏敬心等、人間の徳目と価値の破壊)による体制の内部崩壊を目指した。1960年~70年代の新左翼全共闘学生は同学派の一人マルクーゼを理論的柱としたが、その後、彼らの多くは政・官・学・財の体制内部に入り込んで行った。最近のジェンダ・フリーと過激な性教育、夫婦別姓、外国人参政権付与、人権侵害救済案等は彼らの残党と公職追放後各界に送り込まれた左翼売国勢力の影響下に育った者の工作である。つづく
文:中村敏幸