日本人の弱さが生む政治の空白

 池田修一郎さんのゲストエッセーをお送りします。池田さんは「あきんど」のHNで以前しばしば投稿して下さった北海道在住の事業家です。私あてのメール形式ですが、時宜に適っているので掲示します。

ゲストエッセイ 
池田修一郎

「日本人の弱さが生む政治の空白」  

 シアターテレビジョンでの討論を拝見させていただきました。日本の政治は戦後吉田茂以降、誰が政治を司とっても国民の期待に沿う結果を生み出せなかった・・・と言われる風潮がありますが、議院内閣制を守りつづける限り、その問題は避けられないと思うわけです。政治家個人の理想とは掛け離れて、国民の要望が政治家を苦しめている実態は、つい忘れてしまいがちな大きな問題だと私は思います。日本の総理は多岐に渡り様々な内政に縛られ、大局に目を向けにくいパターンがあまりにも多すぎると思えます。

 ですから出す政策が常に枝葉末節なものばかり。

 つまりこれが「政治の甘い囁き」ということなんでしょう。結果、子供手当や高校の授業料無料化など、消し去れないパンドラの箱のような政策が居座り、更には政治の改善を頭で理解していながら、国民の多くは危ない囁きに靡いてしまうという実態を生んでしまっています。二年前の選挙で民主党を選ばねばならない状況を生んだ原因は、様々な要因がありますが、一番の原因は、自民党を解体しなければならない国民感情を利用した力(マスコミがそれを誘導したと言われていますが)によるものであり、その力を更に利用したのが民主党だったということです。そんな流れの危険性を囁く一部の正義がようやく出せた最後の抵抗が、小沢氏の金に纏わる問題だったと言えます。しかし、そんなブレーキも一瞬の間は効果がありましたが、加速を続けていた車両の重さは予想以上に重たく、惰性だけでゴールに到着してしまいました。

 私はただこの時の鳩山氏の操縦はなかなかに上手だったと思っています。一度転びそうになった車両を、よく転倒させなかったな・・・と感心したのは事実です。でもよくよく考えてみると、あの頃の麻生総理は既に死に体で、両足は土俵の外に浮いていました。あの頃西尾先生は、麻生氏と小沢氏の人間性を分析され、いかに小沢氏が政治家としての危険性を孕んでいるかを語られていました。
つまり、小沢という人物は今の日本の政治そのものであり、彼がいかに国民心理を利用して、悪魔の囁きを続けて来たかを西尾先生は何度も訴えてきました。

 彼のような寝技が得意なタイプには、立ち技で臨んでも勝ち目はありません。寝技には寝技で応酬するしかないと思います。ところが今日本にはそれを為せる人材がいません。野党時代の管直人なんかはある種その才能がありましたが、彼は左利きですから癖がありすぎます。やはりここは正当に組める人間、多少ダサいイメージはありますが、信頼性は持ち備えている人物が必要です。

 民主党の代表が管直人ではあっても、実は彼が最大の敵ではないのです。本当の敵は小沢氏のような悪魔の囁きに耳を傾けてしまう、我々国民の内面が最大の敵なのです。民主党のような、砂上の楼閣にすぎないような政党を選んでしまう心理が最大の敵なのです。

 そうした背景から、西尾先生が亀井静氏を次の総理に相応しいと発言された事は、正鵠を射る発言だと言えます。彼は確かにその政治姿勢が自分に忠実で、けして洗練された才能を持ち合わせているかは不確実ですが、少なくとも潔白さはかなり持ち合わせています。マスコミに出過ぎた時代もありますが、彼は「ノー」と言える数少ない人間です。少なくとも今はそれが重要な資質であり、とにかく国民の悪魔の囁きに耳を傾ける癖を糾す役割は担えそうです。

 さて問題はもうひとつ・・・討論会で次の総理に相応しい方は誰かという視聴者からの質問に、「安倍氏が最適だ」と応えるパネラーがいました。確かにその流れは未だに強いですし、私の期待のどこかにも、安倍氏は存在しているかもしれません。しかし、よく考えてみると、私たち・・・特に安倍氏に期待する国民は、あまりに過剰評価をしているのではないか、何か一つの理想の総理像を、安倍氏に押し付けしすぎているのではないか、そして不思議な現象として、本来なら期待を裏切られれば、人間は倍になって不満を訴えるはずなのに、何故か安倍神話は根強く、まだ仮想の理想像を追い求めている、それが実態だと思います。こうした心理は今回の原発問題とリンクしていて、同種の心理的問題を孕んでいると思います。期待感だけが先走り、それを安倍氏に無理矢理はめ込もうとするこの日本人の弱さは、どうしても治療不可能なのでしょうか。

 小沢の囁きに靡く弱さと、その反動なのでしょう、アイドルに理想を嵌め込む強引さは、裏で一体化した日本人の一番大きな問題であり、何故かその心理は政治という場に現れやすいのも事実です。
どうやらそうした日本人の資質は今悪い方向にしか向かない傾向にあり、それをどうにかしなければ問題の解決は困難だと言わざるを得ません。

 私は日本人はトータルバランスを欠いているように思います。どこか局所的な才能ばかり長けてきて、多面的な才能を置き忘れてきた、そんなイメージを持っています。財界人と政治家が縦割りだった時代が長すぎたからでしょうか。それもあるでしょう。それが結局二世議員を多く生ませた原因かもしれません。様々な場所でサラブレッドが礼賛され、個人の哲学が育たない社会をもたらした。その弱点が総合的に社会現象化した。

 つまり、今の日本社会には競争の原理が埋没しているのではないでしょうか。特にそれが顕著なのは教育の場にあります。昔はまだ辛うじて教育の場にはそれがありましたが、それすら消滅してしまった。本来なら教育の場から社会の場に移行されるべきだったのですが、教育の場ばかりに負担が強すぎた過去の反省から、いつのまにか競争の原理は抹消の道に向かってしまった。

 この事がトータルバランスを持てない人間の多産をもたらしたと言えると思うのです。しかも多くの社会人は競争からは無縁な時間に浸っていますから、出来そうもない夢ばかり描いて、政治の世界での地道さを無視してきたのかもしれません。理想の総理の不在はそんな現実の影に原因があるのではないでしょうか。

8月5日産経正論掲載西尾論文に想う

ゲストエッセイ 
足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

   

 やや旧聞に属しますが、産経新聞正論欄は8月に入り「震災下の8月15日」と冠した論文を掲載しました。そこにはこの震災を大東亜戦争、第二次大戦の敗戦とそれに伴う廃墟のイメージに重ねようとする意図が感じられ、そうした文脈で書かれたものもすくなくありませんでした。

 しかし、こうした設定は問い詰めなければならない問題を隠蔽してしまう危険を孕んでいます。重ねていうならば、産経新聞にはそうした隠蔽の意図すら感じられます。

 8月5日に掲載された西尾先生の論文はこの点をピタリと指摘されています。 先生は次のように喝破されました。

 「日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野蛮を問い質すことが必要だった。」と。

 話は私事になりますが、私は、パソコンに私なりの歴史年表を作っています。そのきっかけは、もう大分前になりますが、インターネットで「翼賛選挙」の検索結果を読んだことでした。

 そこには大東亜戦争開戦5か月後に行われた昭和17年4月30日の衆議院議員選挙の結果が掲載されていました。

 その内容は、それまで存在していた多くの政党が無理矢理解散され、翼賛連盟に統一されたこと。翼賛連盟を勝たせるために多くの干渉がなされ、選挙があやつられたこと。選挙結果は、翼賛連盟に推薦された候補者が381名と、非推薦のいわば無所属の85名の合計466名が当選したと書かれていたのです。

 選挙は妨害や干渉などがあったとも記されていますから、よくまあ85人もの非推薦候補が当選したものだと感心したものでした。そればかりか、驚いたことに、昭和15年に陸軍を名指しし批判する「粛軍演説」で問題となり議員を除名された斉藤隆夫までが当選者の中に名前を連ねていたのです。

 戦後の歴史教育では、戦前・戦中を「軍部ファシズム時代」として描き、斉藤隆夫はその被害者の典型例としての「粛軍演説」のみが記述されていました。然し斉藤隆夫が”翼賛選挙”で非推薦の立場で当選したとなると、戦時においてすら、完全には「軍部ファシズム」一色ではなかったのではないかと思えてくるのです。

 第二次大戦の連合国、米、英、ソ、中を民主主義陣営と言いますが、ソ連は共産党一党独裁であり、中華民国も国民党独裁であって、この両国とも民主的な選挙などおこなっていないのですから民主主義とは無縁でしょう。更に言えば米国ですら黒人には選挙権がなかったのですから、日本の方が民主的であったと言えないこともありません。

 要は年表の表記一つとっても一方的な考えのみが記され、事実が隠蔽されることはま まあることであり、そうしたことは占領時の米占領軍による検閲と焚書により歴史年表に深く埋め込まれ今日に至っているということが、1942年4月の”翼賛選挙”の年表表記から分かります。

 そんなことから、私は、自分の理解できる範囲で自分なりに「歴史年表」を作り始めました。作りながら感じたことは正に米国が特に日露戦争以降執拗な「対日挑発政策」を一貫して行ったことです。

 日露戦争終結間もなく、米瀋陽総領事ストレートは満州における日本の権益への干渉を行います。例えば満州銀行を設立の画策ですが失敗しています。1909年には米国務長官ノックスが満鉄中立案を画策しますが、日露の連携でこれも失敗しました。

 満州における我が国の権益は、日露戦争で戦死、戦傷、戦病計40万人の犠牲の上に得たものであり、そんなことにお構いなしに干渉してくる米国には「ナニサマダ」と言う気持ちが湧いてくるのは当然でしょう。

 以下、私の年表にある米国との関係を記します。

1906年:カリフォルニアで日本人移民取締り、移民学童排斥が問題となる
1907年:サンフランシスコ、日本人学童を公立学校から隔離。(シナ人学童は既に20年前に隔離)連邦政府これに反対するも加州政府受け入れず。―― 妥協、①メキシコ、カナダ、ハワイの三地域(これ等の地域からの移民が多かったため)の旅券を持った日本人、朝鮮人の米国本土へ入る事を禁ずる。②日本人、朝鮮人学童の公立学校への復学を認める。
1908年:米艦隊の日本周航。米国の意図は対日威嚇であったと想像されるが、日本側の大歓迎で関係改善へ。この機会にルート・高平協定(日本は移民旅券を発行せず、実質移民を送らないことにした。)
1909年1月:ノックス国務長官による満州鉄道中立案が各国に示されるが、日露の緊密な連携と反対で失敗する。
1911年:日米通商航海条約締結
同年4月15日:米英仏独の対清?借款成立(日露を牽制するもので、日露は反対したが結局参加を余儀なくされる)この年、陸奥条約の期限を迎え、各国との交渉を完了し此処に半世紀に亘る不平等条約は総て失効した。
1913年:カナダ、日本人渡航を制限。カリフォルニア州外国人土地所有禁止法(カリフォルニア州排日土地法――日本人の土地保有を禁止し、企業のマネージメント       になることを禁じ、日本人学童を公立学校から隔離する)
1914年:第一次対戦勃発 パナマ運河開通 
1917年2月13日:英国講和条件に関し、日本の要求を支持する旨言明(山東半島の旧ドイツ領、赤道以北の旧ドイツ領諸島の処分=米は反対)
同年12月2日:石井・ランシング協定――(国境を接する国の利益を容認する)
1918年11月11日:聯合国、ドイツ休戦協定
1919年:パリ講和会議、日本は連盟規約に「人種平等宣言」を提案、穏当な内容であり11対5の賛成多数を得るも議長であったウィルソン大統領が議長職権で、全会一致でなかったことを理由に廃案とした。実現は第二次大戦後。
1920年:今までより更に悪質な排日土地法――(米国臣民権を持った日本人にも土地所有を認めない。日本人が整備した農場を取り上げる。)
1924年:「絶対的排日移民禁止法(ジョンソン・リード法)これにより、連邦全体の排日法が成立した。大統領も署名し発効することになる」この排日法に関連して植原駐米大使の国務長官宛書簡の中の [grave consequence]の文言が問題となった。
1925年:アメリカ、オレゴン州で排日暴動。5月15日、排日移民条項を含む法律案が連邦議会を通過。

 さて、日米戦争は日本の過った選択であったのか、米国の仕掛けた不法な戦争であったのかを開戦の2年前から私の年表で見ていきます。

1939年7月26日:米ハル国務長官、日米通商航海条約の一方的破棄を通告
同年11月:米国の第一回エンバーゴー、航空機、航空機備品、航空機製造危機の対日輸出禁止
1940年1月26日:日米通商航海条約失効
同年3月:衆議院、斉藤隆夫を除名
同年5月:米国防諮問委員会設置。スター区案=海軍大拡張計画
同年7月:米国日本に対する屑鉄輸出の禁止
同年8月:米国日本に対する航空機用ガソリン輸出の制限
同年9月22日:日仏印軍事協定締結。翌23日、日本軍北部仏印に進駐
同年9月27日:ベルリンにおいて、日独伊三国軍事同盟を締結―英国ビルマルート再開。米国在極東米国人退避勧告、米国蒋介石への援助強化)
同年10月:ルーズベルト、デイトンで重慶政府支援を演説
同年10月:大政翼賛会創立
同年11月:汪兆銘南京政府樹立 英、アジア軍司令部を創設、司令部をシンガポールに置く。
同年11月30日:日本、汪兆銘政権と日華基本条約締結
同年同月:米国、蒋介石政権に5千万ドルの借款供与と、5千万ドルの通過案的基金拠出を用意、英国の1千万ポンドを拠出
同年12月:米太平洋艦隊主力をハワイに置く
同年12月:モーゲンソー財務長官、蒋介石政権に武器貸与法適用用意の旨演説
1941年:1月:ルーズヴェルト年頭教書で「四つの自由」
同年1月:ノックス海軍長官蒋介石政府に航空機200機の売却手続き完了を明かす。
同年4月:日ソ中立条約。日仏印経済協定
   マニラで英東アジア軍総司令官、米駐比高等弁務官、米アジア艦隊司令長官、蘭外相が会談
同年5月:米国国家非常事態を宣言。米国重慶政府に武器貸与法を適用
同年5月:オランダ外相、強行発言「挑戦にはいつでも応戦の用意あり
同年6月:シンガポールで英、重慶政府軍事会談
同年6月10日:我が国の蘭印(オランダ領インドネシア)との貿易交渉決裂、17日決裂の事実を公表
同年6月21日:米、日本に対する石油製品輸出に品目別許可制導入
同年6月22日:ドイツ軍、ソ連へ進攻。27日:ハンガリー対ソ参戦
同年7月2日:御前会議で南部仏印進駐を決定
同年7月25日:米国在米日本資産凍結、(その後26日、英、蘭も追随)
同年7月28日:日本軍南部仏印進駐開始
同年8月1日:米国対日石油全面禁輸(英国、オランダも実質追随)
同年8月14日:米英大西洋憲章
同年9月:御前会議において、交渉不首尾の場合の開戦を決意
同年10月18日:東条英機陸軍大将に大命下る。外相東郷茂徳氏
同年11月7日:野村大使甲案を提示
同年11月12日:ハル国務長官、共同宣言案方式?を提案
同年11月15日:来栖大使着任
同年11月26日:ハルノート
同年12月1日:御前会議において対米英蘭に宣戦を決定 
同年12月8日:米英に対し宣戦布告

 こうして見ていくと「日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野蛮を問い質すことが必要だった。」
という西尾先生の言葉こそあの戦争の本質をついていると思わざるを得ないのです。

 我が国の所謂”昭和史家”達の説明は日本の過去を誤りとしますが、それでは米国の行動は全て正しかったのか、例えば、開戦2年以上前に米国が一方的に日米通商航海条約の破棄を通告し、開戦3か月半前一方的に、在米日本資産の凍結をおこなったことをどう見るのでしょうか。因みに日本が南部仏印に進駐したのはその後のことなのです。

心の琴線にふれた(る)西尾先生の言葉と私

ゲストエッセイ 

髙石宏典 

 「西尾幹二のインターネット日録」の愛読者の皆様、こんにちは。私は山形県の南部にある南陽市内の小さな街で、会計事務所を営んでいる髙石と申します。何度か「日録」のゲストエッセイ等に文章を掲載していただいたことがあり、もしかしたら覚えて下さっている方もおられるかもしれません。自分でこんな風に申し上げるのはちょっと変ですが、紆余曲折の平坦でない道をいつの間にか半世紀近くも歩いて参りました。西尾先生のご本とのご縁は大学生の頃ですから約30年前に『ニーチェとの対話』を拝読したことから始まり、それ以来今日まで先生のファン状態が続いています。

 いつかお会いして直にお話しできればと念願しておりましたが、先月の7月16日に稀有な幸運に恵まれ西尾先生と90分間懇談させていただく機会を得ることができました。その際に先生から「ゲストエッセイに書いて下さい!」とご依頼があり、まさか「すみません、お断りいたします。」とは口が裂けても言えない感じでしたので、拙い文章を綴らせていただくこととなった次第です。それなら何をどう綴っていくべきなのか少し迷いましたが、西尾全集の刊行が間近に迫りその全巻内容と「私を語る」というエッセイが公表されたことでもあり、私がこれまで先生のご本から感銘を受けた言葉を手掛かりにして話を展開してみようと考えました。そうすることが、「私を語る」で先生がお書きになっている私個人にとっての「自分の体験に基づく自己物語」に通じるとも思えたからです。

 さて、西尾先生のご著書の中から心の琴線にふれた言葉を敢えて一つだけ選ぶとしたら、私にとっては以下の言葉になるでしょうか。この言葉に私は大いに刺激を受け励まされ、大学卒業後5年半経った時点で「遅すぎた春」を何とか迎えることができたのです。

 「他人と同じ存在になろうとして競争し、その挙句、微妙な差別に悩まされるくらいなら、他人と違う存在になろうと最初から決意し、微妙な差別から逃れようとするのではなく、むしろそれを逆手にとって、差別される存在にむしろ進んでなるという強い決意でそれを乗り超えていく生き方だってあり得るのではないだろうか。」(『日本の教育 智恵と矛盾』134頁「教育改革は革命にあらずー臨教審よ、常識に還れー」より)

 この『日本の教育 智恵と矛盾』を私が通読したのは昭和63年の冬で、公認会計士第二次試験に合格する前年に当たっています。当時、私は公認会計士の資格を得ようと実家で家族に守られながら独りで受験勉強を続けておりました。私が就職活動を一切せずに公認会計士の資格取得を目指したのは、上の先生の言葉にあるように大学の序列という「微妙な差別」から少しでも自由になりたかったためです。また、受験専門校に頼らずに独りで勉強しようと考えたのは、大学受験時に高校のカリキュラムや課題に振り回されて結果を出せず結局失意のまま入れる大学へ入ってしまったことへの抵抗と反省があったからです。
こうした動機を胸に秘めながら来年こそはと悲壮な決意でかったるい受験勉強をしていた時に目にした上記の先生の言葉は、私にはまるで自分のために書いて下さった言葉そのもののように思えて深く激しく心を揺さぶられました。「誰かに分かってもらえなくてもいい。自分の考えは間違っていない。ただやり通せばそれでいいんだ!」と前向きな気持ちになれたことが、孤独な闘いをしていた自分にはどんなにありがたく、またどんなに試験突破の精神的支えになったか分かりません。

 私がこうして恥も外聞も捨てて単なる私的な昔物語を正直にお話しするのは、いわゆる学歴コンプレックスなるものがもはや自分にとってどうでも良くなったこともありますが、私が若い頃に悩まされた上記のようなことは今なお一部の例外者を除いて多くの人に当てはまる、結構深刻な問題ではないかと推察するからです。先生がおっしゃる「微妙な差別」をどう克服しあるいは緩和し、自分自身とどう折り合いをつけて社会との関係を築いてゆくのかということは、特に将来ある若者にとって人生上の重い課題の一つなのではないでしょうか。

 さらに、もう一つだけ西尾先生の同じご本の同じ論文の中から心にグッと迫ってくる言葉を挙げさせていただきましょう。

 「それぞれの道で果てしない競争が待っている。ただ他人と同じ存在になろうとする競争ではもはやなく、他人と違う存在に価値を見出す競争である。共存共栄を約束するのは後者の競争だけである。」(『前掲書』135頁)

 この言葉も実に温かく、過去の自分ではない今の私が前向きになれる言葉です。要するに、私は単に人と同じことをすることが嫌いなへそ曲がりに過ぎないのですが、そういう人間でも存在意義や生きる道はあると言われているようで少しだけ力が湧いてきます。実社会に出てからこれまで、監査法人と税務会計事務所(会計士等として約8年勤務)、大学院(一時研究者を目指し3年在籍)及び県立短大(講師として7年勤務)と職場や組織を転々としてきたものの、私は結局どこにも馴染めず今の自営スタイルでの会計士業・税理士業に落ち着きました。仕事は必ずしも順調とは言えませんが、建設的で健康的な競争は回避しないで様々な仕事に取り組んでいこうと思っています。

 ところで、上記で取り上げさせていただいた該当論文を含む西尾全集の目次内容を眺めていると、論じられている内容が余りにも広範囲に亘っていることに改めて吃驚させられます。文学、思想、教育、歴史、外交、防衛、政治、経済、文化そして人生など対象領域の広さを考えれば、西尾先生がお一人で全てお書きになられたとは俄かには信じられない程です。一方で、読者としての私の先生のご著作への関心領域はかなり限定的で、「このままならない人生をどう生きるのか?」という関心の範囲内で先生のご本とも関わりを持たせていただいて来たと一応言えるのかもしれません。そうした意味で先生のご本の中で印象深く私が好きなものは、『ニーチェとの対話』、『人生の価値について』、『人生の深淵について』及び『男子、一生の問題』等です。

 また、私の場合、独断と偏見で先生のご本の都合の良い箇所だけに着目しそのうえ誤読し誤解している可能性を否定はできませんが、一読者に過ぎない私にとってはそういう読み方で良いと思っています。たとえ誤読し誤解していたとしても、先生の言葉や文章が私の心の襞に触れ行動に影響が及んだことがあるというその事実がとても大事なことであるように思えます。これまでの経験上、心を揺さぶられるような言葉や文章に出合うことなど滅多にあるものではありません。西尾先生のご本は、私にとってそうした稀有な機会を提供していただける大切なものの一つであります。間もなく出版される『西尾幹二全集』を手にし拝読して、自己を再発見し生きる糧としていければこれほど有意義なことはないと思っています。

 西荻窪駅近くのお店で昼食をごちそうになって西尾先生と懇談させていただいた90分間は、本当にあっという間でした。ただ懇談と言っても、約1時間は先生から原発問題に関する水島総氏との討論と全集校正作業や『GHQ焚書図書開封5・6』の出版等に関するさわりを放映や「日録」掲載前に生真面目な学生のように拝聴し、残りの30分程で山形県出身の左巻き有名人のこと、大川周明とその全集のこと、著名な保守論客のベストセラー本に共感できないこと、未知だったヴォーヴナルグの古本を求めたこと、そして西尾全集見本の素敵なお写真のこと等をお話しさせていただいた感じだったでしょうか。

 先生が福島第一原発事故に関連して話された「宇宙開発や生体臓器移植など神の領域に挑戦することには理由がなく、後で必ずしっぺ返しを受けることになる。」(以上は髙石個人の回想による要約)というお話に私は瞬時に共鳴いたしましたが、原発問題を含めてこれらの事象に共通して私が感じたのは人間の傲慢さに対する生理的な嫌悪感であったように思います。諸外国人がどうであれ、日本人は本来もっと謙虚な国民であったはずなのではないのでしょうか。そうした日本人としての本性に立ち返ることが、今こそ求められているような気がしてなりません。何者かに糸を引かれ、その何者かに手を差し伸べていただいて、何とか私はこの半世紀を生きてこられたのかもしれないと時折ふと感じる、漠然たる神々への信仰心が私にこう直観させるのです。

 3年ぶりの上京でしたが、西尾先生には大変お世話になりました。ご多忙中にもかかわらずお仕事のご予定を変更されてまでこんな私のために貴重なお時間を割いていただき、恐縮したことこの上もありません。本当にありがとうございました。末筆ながら、猛暑の折、西尾先生、「日録」管理人の長谷川様、そして「日録」愛読者の皆様におかれましては、くれぐれもご自愛願います。また、東日本大震災で被災された皆様におかれましては、一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。それでは皆様お元気で。さようなら。  髙石宏典

脱原発論の決定版

えんだんじのブログより

ゲストエッセイ 
坦々塾会員 鈴木敏明

 月刊誌「WiLL」8月号の西尾幹二氏の論文、「平和主義でない『脱原発』」を読んだ。私は驚愕し、深い感銘を受けた。脱原発論の決定版と言っていい。なぜなら私は、保守の多くの方と同じように、積極的ではないにしろ心情的に原発推進論者だったと言っていい、しかし西尾氏のこの論文を読んで日本は脱原発に向かって歩みを始めなければないことを悟ったからです。西尾氏は、論文の出だしの二頁目にこう書いています。

「原発の存在が日本の軍事力の合理的強化を妨げ、国家の独立自存をむしろ阻害しているという、きわめて深刻なウラの事情を正確に見ていない」

保守の皆さん、この文章は非常な驚きですよ。皆さん、実感できますか。そして次の三頁から最後の十頁までその「きわめて深刻なウラの事情」を的確にわかりやすく説明しながら西尾氏の主張を加えています。簡単に要約すると日本は原発のために原料の天然ウランを輸入しなければなりません。主にカナダやオーストラリアから買っています。そのために日本は両国から天然ウランについて有形、無形の対日規制を受けているのだ。

それだけではありません。輸入した天然ウランは、そのまま燃料として使えないからアメリカやフランスへ運んで高い料金を払って濃縮してもらうのだが、その結果、米仏も濃縮提供国として対日規制権を持つことになるのだ。次に、その濃縮ウランを日本の原子炉で燃やして発電したのちに、使用済み核燃料をフランスと英国に持っていって再処理してもらうと、そこでできたプルトニウム燃料について、今度は英仏の対日規制が加わる。さらにやっかいなことは、最近の原子力協定では、米国で濃縮してもらった核燃料でなくても、例えばアフリカのニジェール産の天然ウランを日本の濃縮工場で濃縮した燃料でも、それを一度米国製の原子炉または米国の技術でできた原子炉で燃やすと、その途端に米国産の核燃料とみなされ、米国の規制権の対象となる仕組みになっているのだ。外務省初代の環境問題担当官で、現エネルギー戦略研究会会長の金子熊夫氏の「日本の核、アジアの核」(朝日新聞社)の中でこう書いていると西尾氏は指摘しています。

「要するに、日本の原子力開発は、過去40年間と同じく現在、将来とも、米、英、仏、加、豪の五カ国、わけても米、加、豪の三カ国は最終的な「生殺与奪」の権利をにぎられているのであり、これら諸国の核不拡散政策を無視して、自分勝手な振る舞いはできないような仕組みになっているのです」

奇しくも上記五カ国は、大東亜戦争の旧敵国です。過去のことはさっさと水に流すのが日本民族、それ以外の民族は、過去のことは忘れません、とくに戦争など絶対に忘れないし、徹底して正義面してきます。特にアメリカは日本の核兵器所持に神経質になっています。ひょっとして広島、長崎の仕返しをされるかもしれないとの思いがあるからです。日本政府が核兵器所持を決定したら、上記五カ国が、ウランは売らない、濃縮もしないと言い出したら、日本の産業は壊滅してしまいます。その結果として日本は核兵器所持をあきらめねばならなくなるのだ。好むと好まざるにかかわらず日本の原発所持が、日本の核兵器所持の足かせになっているとも言えるのです。日本は原料を輸入しているから高い値で買わされ、上記五カ国の原子力の外交政策に翻弄されてきた。旧敵国であることが目に見えない差別と警戒の対象国になっているのです。原料を輸入する弱みから開放されたいとの思いから日本独自で技術開発したのが福井県敦賀市の高速増殖炉“もんじゅ”です。“もんじゅ”がうまく成功すれば、使われた燃料は1.2倍になって返ってくることになっていた。そうなればもう原料の心配はいらない。ぐるぐる同じ燃料をリサイクルしていけばいい夢の機械であった。その“もんじゅ”が度重なる事故で前進も後退もできなくなっているのだ。一キロワットの電力も生産せずこれまですでに一兆円が注がれてきたのだ。私みたいに数字に弱く、庶民感覚だと一兆円の価値がわからないが一億円の一万倍というと凄い実感がでます。また今後五十年間にわたり年間五百億円の無駄な維持費がかかるというのだ。

原発一基一年間運転すると約30トンの使用済燃料が生じ、これをどこかで片付けなければなりません。そこで政府は青森県六ヶ所村に再処理工場が建設した。そこえ全国の原発から使用済燃料が運びこまれます。再処理が順調におこなわれるから問題がないのではないのです。再処理は再処理で深刻な問題があるのです。再処理すると毒性の高いプルトニウムが抽出されるのです。この恐いプルトニウムが日本ではたまりすぎて45トンを超えているのだ。8キロあれば原爆を一個作れるから約5千発程度の原爆材料が貯蔵されていることになる。国際社会から警戒の目でみられるし、特に先にあげた上記五カ国、中でもアメリカは、日本警戒のためでしょう。日本はプルトニウムを60トン以上持ってはならぬ主張しているのだ。日本はたまっていくプルトニウムをどう貯蔵していくつもりなのか。

原発を運転しているかぎりこのプルトニウムは溜まっていくのだ。しかも世界ではこのプルトニウムの溜まりを解決した国はどこもないのです。原発を廃止する国より新規に原発所有する国々や、現在所有している原発数を増やす国々の方が圧倒的に多いのです。世界中で容器にいれられた毒薬プルトニウムが埋められることになります。この容器の耐用年数が何十年だか何百年だか知りませんが、核戦争で地球が滅びるより原発の廃棄物で地球が滅びる可能性が高くなってきたような感じです。

その他にも日本の原発には、プルサーマル、MOX燃料など色々な深刻な問題をかかえています。西尾氏は、その問題の全部さらけだし説明をしています。私は、脱原発論者も原発推進論者もぜひこの西尾氏の論文を読んでもらいたい。なぜなら彼らのほとんどが、現在の原発が抱えているこのような問題を知って脱原発論者になったり原発推進論者になったりしているわけではないからです。脱原発か原発推進か、喧々囂々と語られています。だから私も自分のブログで意見を披露したかった。しかしできなかった。何故か。私は冒頭に触れましたように心情的に原発推進論者で原発産業の実情など何も知らないのです。なにも知らないで心情的な原発推進論者の主張を文章にしたら、低放射線量は、危険どころか健康にいいだとか、飛行機事故でこれまでにどれだけ沢山の人々が死んだかとか、安全をさらに強固にすれば問題ないとか、ただ情緒論にすがって書くことになってしまうからです。ところが日本の知識人と言われている人たちは、平然とこれをやります。だから日本の知識人はダメなのだ。今回の西尾氏の論文を読んでいただければわかりますが、情緒論など一切なし、現状の問題点を赤裸々に語り、自分の主張を展開していく、すべてが論理的です。それだけに積極的原発推進論者には反論が非常にむずかしい。そこで私が心配しているのは、この論文はあまり話題にならず、黙って見過ごされる可能性が高いことです。本来ならこの西尾論文について喧々囂々と語り合われるのが一番いいのですが、特に政界と原発業界はそっとしておきたいのだと思います。

最初に触れましたように私は西尾氏の論文を読んで、日本は脱原発に向かって歩み始めなければならないと悟ったと書きました。そこで私の提案を簡単に披露しましょう。まず原発の撤退作戦開始です。戦場でも撤退作戦が一番難しいと言われています。自軍の損害をできるだけ低く抑えて撤退しなければなりません。自軍の損害をできるだけ低くとは、日本国民の社会生活や経済生活への損害をできるだけ低くすることです。そのためには撤退作戦は急いではいけません。できるだけ時間をかけるのです。しばらくの間これまでどおり原発と共存することになるでしょう。しかし原発撤退の意思を忘れてはいけません。時間をかけて退却しながら援軍を待つのです。援軍とは日本国民の総力をあげて原発に代わる代替エネルギーの開発です。私は絶対にできると思っています。なぜなら実例があるからです。かって石油価格が暴騰し、日本経済は没落かと思われたとき、石油価格暴騰を引き金に日本は省エネ技術で世界を凌駕したではないですか。世界各地にある原発など無用の長物にしてしまおうではないですか。大変むずかしいでしょう。しかしほんの数十年前、パソコンが家庭に出現するなどと考えた人はいないのです。

チャンネル桜の感想  2011年4月25日

 粕谷哲夫氏は私の大学時代の友人で、元住友商事理事。原発事故で考えること多いらしく、いろいろな情報を持ってきてくれるし、電話で長談義も惜しまない。年老いても自分の心で反応しているし、体で受け止めている。イデオロギーからはもっとも遠い。人間としての本源にかえって考えている。私は彼の情報と発見から教えられことが多い。
 
 以下は、4月14日の私も参加したチャンネル桜での討論会に対する彼の感想である。

ゲストエッセイ 

  

粕谷哲夫

 座談会は多様な内容が含まれていてたいへんよかったと思う。そこで議論された個別の問題の感想ではなく、全体的な感想である。

 御用学者の巣としていま東大工学部は評判が悪いが、東大工学部にも立派な人はいる。機械学科を卒業して、国鉄始まって以来の100点満点で入社試験に合格したという伝説的な逸材、山之内秀一郎(JR東日本会長)を思い出したからである。事故の発生を防ぐという強靭な信念の持ち主で、国鉄で事故の撲滅に没頭された。すでに故人となられてしまった。同世代の山之内秀一郎ご自身からお聞きしたお話が、今回の討論を聞いていて浮かんできた。 私はJR に「安全」という文化があるとすれば、この彼のエンジニアリング哲学に負うところ少なくないと思っている。新幹線に開業以来、事故らしい事故が無いのは、偶然ではない。

 山之内秀一郎は、国鉄において事故が如何に発生するかの解明に執念を燃やした。それまでに発生した国鉄の事故のすべてを洗い出し、それらを分析し、分類し徹底的に調査した。彼は改善のために事故を愛したとさえいえるほどに執拗に事故事例を追い求めた。事故を起こした運転手や作業員を処罰するより、まず状況の聴取に努めたのである。その一つ一つに対応してつくられた、的確な対策がこんにちのJR 安全文化の基礎をなしているという。彼にとっては既知の事故の再発は、技術者として許されないという強い信念があったものと思われる。

 山之内は JR の後に、宇宙開発事業団に移籍した。衛星打ち上げの失敗が続いていて、宇宙事業団の体質改善は急務であった。山之内をおいて適任者はないという政治判断があった。宇宙開発そのものは、原発と違っていわば緊急性はない。なくてすぐに困るというものではない。そして、打ち上げに失敗すれば何百億円規模の巨額の資金が吹っ飛んでしまう。「山之内で失敗したら宇宙開発は、国家として断念せざるを得ない」というような最後通牒が突き付けられていたように思われる。とはいえ宇宙事業団内部には既に、衛星に関わる百戦錬磨の専門家が多数おり、いくら優秀であろうと外様の機械学科出身の占領軍のような位置づけの山之内に対する抵抗は根強くあって当然である。またもっと大事なことは、事業団には、山之内から見れば緊張感を欠く雰囲気があったようである。

 「衛星打ち上げの失敗はどこの国にでもある。これだけ努力して失敗したからといっていちいちとがめられてはやっていけない」という雰囲気であろう。この雰囲気を克服して、新しい安全文化を短期間で定着させるなどということは、山之内にしても至難の業であった。

 彼が着任して、初めての衛星打ち上げが行われることになった。その予定時間の天候には若干の不安があった。これで失敗すれば、一巻の終りという差し迫った状況であった。いくべきか立ち止まるべきか、ハムレットの心境である。山之内にはまだ衛星について十分な知見も体験もない。しかし誰かが決断しなければならない。究極の決断は責任者である山之内にある。すべての準備は終わっている。中止して再び立ち上げるには時間もカネもかかる。大多数の技術者は予定通りの打ち上げ発射を主張した。彼らには彼らなりの自身とプライドがあった。山之内は何人かの信頼できる部下をまねいて、個別に耳を傾けた。熟慮の結果、打ち上げの延期を決断した。苦渋の選択である。積極派からはブーイングである。発射の決断をしていたからといって、かならず失敗したということではない。成功していたかもしれない。しかし山之内が決断に至る苦悩のプロセスが全員に感動を呼んだのである。彼の信頼は高まった。以来事故らしい事故はない。

 討論を聞いていてもそうであるが、どうも原発推進の東電や通産省の要人に山之内のような信頼や醸成された良質の企業文化が欠落しているように思われてならない。いまでも東電で褒められるのは、現場の従業員や作業員で、東電の貴族的な幹部や安全工学的な素養を欠くように見える保安院ではない。原発のような巨大なリスクを背負う、超大型の複雑系のマンモス工業運営は、テクノロジーそのものももちろん大事だが、それ以上に大事なのは山之内流の企業文化である。どの優れた企業にも、その文化の創造には節々に、山之内秀一郎のような立派な人物が必ず存在する(入交昭一郎から聞いたホンダの本田宗一郎の詳細な分析も忘れることはできない)。

 山之内秀一郎は、野球の監督の思考パターンで言うと、長嶋茂雄型というより野村克也型である。野村の名言に、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのがある。含蓄のある言葉である。

 この野村的なペシミズムは 避けて通れない。懐疑、不安、おそれ(恐れ ときに 畏れ)があって初めて安全の門が開けるのである。原発推進を唱導する地位ある人々には、こういうものが、ほとんど感じられない。「原子力発電こそが輝ける未来のエネルギーだ」「安全は何重にも保証されている」という安全神話と無謬信仰に浸っている。そしてマニュアルをきちんと書けば、すべてうまくいくという認識のようである。万一事故が起これば計量不能な天文学的、あるいは国家破滅につながりかねない巨大リスクを背負うには、それなりの哲学と技量と人間力が必要であるとおもう。

 山之内秀一郎にせよ、本田宗一郎にせよ、対象である電車も列車も自動車も隅から隅まで熟知している。故障があれば自分で治せるし、現場の諸問題にも精通している。原発に関する意思決定、政策決定をする殿上人にはそういうものはない。

 地震学者や原子炉設計者の警告を殿上人たちは寄せ付けなかった。 山之内秀一郎や本田宗一郎が東電にいたら、どうだったであろうか。たぶん原発反対者の意見や警告を渋々ではなく、積極的に自ら求めて聴いたのではないか。

 注目すべきは、原子炉設計者に原発反対者が多いことである。彼らが気付いた問題点に電力会社は耳を傾けないどころか、彼らを近づけることはなかった。

 さらに無視できないたいへん不幸なことは、日本の原子力の問題には多くの場合、イデオロギーがからむということである。原発反対の勢力は、「アメリカの核は汚い核、中ソの核はきれいな核」と恥もなく言いふらした。これに対抗するために、政府や電力会社は、原発の安全神話をつくりあげた。そして西尾幹二も私もそれを信用した。積極派はイデオロギーから自由な反対論者をもブランドを付けて抹殺していった。抹殺と言えば、福島県知事だった佐藤栄佐久はいみじくも『知事抹殺』という本を書いた。討論で出された前田氏の「プルト君」も推進者側の必死の努力の証しでもあった。

 私は福島第一原発事故発生以来、動画を中心とするネット情報の収集に没頭している。ヒロシマの原爆投下の翌朝の新聞を防空壕の中で読んだ経験もあり、翌年には地方の文化講演会で、日本原子力の父といわれる仁科芳男博士の講演を聞きもした。しかしいま新たに全く新しいことを知るに至り、無知を恥じるばかりである。

 とはいえ原発反対論者の言うことにも若干わからないことがある。「ヒロシマは、これからは50年間は草木も生えず人も住めない」、と言われたものである。これにたいしてヒロシマに使われたウランの総量は、福島第一とはケタが違う、キロとトンの違いと聞いて納得した。また、冷戦時代には大気中の原爆実験が行われて、膨大な量の放射能が観測されたという。しからばその影響はどうであったのか? については説明がない。イギリスのセラフィールドの使用済み核燃料の処理工場ではかなりの期間、汚染された水を海に流していたそうだが、アイルランドは具体的にどのような被害を被ったのか? 被ったとすれば、水俣病と比較するとどうなのか? 解説はない。

 原発を推進するにせよしないにせよ、 原発と放射能被害にはいまでも捏造と隠蔽が跋扈している(こういうことは日本だけでなく、どこにもあるものである)。賛否両陣営がひとつずつ論点を潰していくことが出来ないものだろうか?

 世論の流れは明らかである。この事故は 「社民党を利する」 こと間違いなく、民主党や保守系には大きな打撃となるだろうと、公言してはばからなかった。今朝テレビで ”No more atomic anything.” の 反原発デモが映っていた。案の定、人口80万を超える世田谷区の区長選挙は、原発反対を軸に据えた社民党が勝利した。これは私の「社民党を利する」 の想定境界線をはるかに越えるものであった。選挙の背景には複雑な事情があったものの、「想定外」の大激震であったことは間違いない。

最近の感想

ゲストエッセイ 
坦々塾事務局長 大石朋子

今年は地震の恐怖のせいか、何時もより暑くなるのが早いような気がします。
団扇と扇子が手放せない夏になりそうですね。

私は、日本人が電気を使わなければならないような生活パターンになって行く道を進んできたように思います。
進んできたと言うより、進まされて来たという方が正しいのかもしれません。

この道を進む限りは、資源の無い日本において原発は必要なのでしょうが、江戸時代に戻るのではなく、進む方向を少し変えれば、考え方を少し変えれば、西洋に全て学ばなければならない訳ではないと、今一度考え直す良い機会なのかもしれません。

例えば「はめ殺し窓」。
外の空気を取り入れることなど考えずに設計されているので、常にエアコンを使う以外に空調・温度調節をすることが出来ない。
電気が無くなるということを考えていないからです。
最近のオフィスはこのような窓が多く見受けられます。

最近建てられたマンションも同じように、窓を開放するという考え方をしないので、風通しという発想が起きないのでしょう。
この夏、本当の停電が起きたとき、どうするのでしょう・・・と他人事ですが・・・心配してしまいます。

扉を開けるという動作を省くため、自動ドア、オートロック。
停電の際、扉が開かなくて困ったという話しも聞きました。

嘗て、身体障害者のために作られた「電動歯ブラシ」も些細な量ですが、電気を無駄に使います。
歯磨きしながらボーっと考え事をするのは、私は好きです。

現代の人々は、少しのことを我慢できずに全て電気に頼るのです。

節電の為に【トイレの便座の温度は低めに】とACだったか・・・TVで流れていました。
馬鹿言ってんじゃない!
冷たいのが嫌なら便座カバーを使え!
と、テレビに向かって騒いでいました。

話しが逸れますが、洋式便座のない頃は、多分足腰の弱いご老人は少なかったのではないのかと思います。
何故なら、毎回気付かないうちに、ストレッチ運動をしていたからです。

そんな理由で、少子化問題も起きているかもしれません。
体力が無い、お産が重い。
エレベーターに頼る。足腰が弱る。
こうなると、鶏が先か卵が先かの堂々巡りになります。

全て電気に頼ってきた「つけ」なのだと思います。

今回の震災は貞観津波から千年以上。
歴史を学び、常に備えていれば今回のようなことにはならなかったはず。
山の上には「ここより下に家を建てぬよう」忠告が書かれていたと知りました。

同じ平安時代の清原元輔でさえ、貞観津波は(過去にあった)万が一のような表現として「末の松山波越さじ」という言葉で表しています。高だか百年位前の出来事でさえ、恋の歌の言葉として使われているのが、過去に学ばずにいる例でしょうと思います。

この先、日本という国が続く限りこのまま電気に頼り続ける生活をするということは、原発の増設が続くということなのではないかと、不安になります。

原子爆弾を作るのにプルトニウムが8kg必要だと聞いたことがあります。
現在、どれだけのプルトニウムがあるのでしょうか?

私の記憶では、九段下会議の頃のことですので、現在の正確な数字は知りませんが、英仏の再処理施設には約38tのプルトニウムがあったそうです。その頃の日本には、5.9tあったそうです。
そこで心配していたことが「テロ」でした。
今回、先生も仰っていたことと同じ事を考えていました。
ですから、アメリカはじめ諸外国は、日本が核弾頭を持つことに危機感を持っていた。そんなことだと思います。
日本の再処理施設は常にIAEAの監視下にあったと聞いたことがありました。

2006年。米・ワイオミング州の核ミサイル基地のミニットマンⅢ型ミサイルは分散配置(多分テロを警戒してだと思います)されていると聞きました。
面積は「日本の四国」くらいの面積だそうです。
核、原子力を持つということは、そのくらいのリスクと広大な土地が必要なので、直ぐ傍に民家がある、食料を育てる畑や牧畜業がある、ということ自体がおかしいのではないかと思います。

面積の少ない日本。
冷却するための大河の無い日本は、海岸に水を求めて建設しますが、海岸には大河と異なり津波が起こる可能性がある。
それを考えずに設計したことも今回の震災に繋がったわけで、施設だけを真似しても環境が違えば、それなりの備えが必要になることを考えなかった。そこで大きな事故に繋がった。そんなことだと思います。

私は中学二年の夏休みに「(旧ソビエト連邦の)サターン5型の脅威」という自由研究をしました。
その頃から無防備な日本を憂いていました。
その後80年代に入り、ソ連は中距離弾道ミサイルSS20を西ドイツに向けて、西ドイツのコール首相は国民の反対を押し切って、アメリカの核ミサイル(パーシングⅡGCLM)を配置したそうです。記憶に間違いが無ければですが。

武器としての核を持つことは、私個人は賛成です。
何故なら、周辺に話しをしても無駄な国が、我が国に向けて核ミサイルを設置しているからです。
核を持つということは、核の抑止力になると思うからです。

ただ、楽な生活のみを求めて、増大する消費電力の為だけに原子力を使い、無尽蔵に原発を増設することには絶対反対です。

震災復興のための「国債」のことですが、坦々塾のブログに今年の一月十四日にアップしました「箪笥預金よりも」
http://tantanjuku.seesaa.net/article/180436010.htmlの無記名債券が、特に今の時点では最良ではないかと私は考えています。

歴史に学び、先を読み、常に備えよ。
毎日、そう考えて行動しているつもりです。

蚊取り線香は「ベープ電気蚊取り」だと電気や電池を使うので、
多分ですが・・・今年の夏は「キンチョーの蚊取り線香」(渦巻きのです)が売れるような気がします。(笑)

夏に向けて、「すだれ」の準備と「蔓もの」の種を蒔きました。

大石

  

           

原発をめぐる個人的顛末(三)

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ゲストエッセイ 

川口マーン惠美

(3)ドイツでの憂鬱な日々

先週、二十年来お世話になっている旅行社の女性と電話で話した。日本人が経営している、日本行きチケットが専門の旅行社だ。状況を訊くと、やはりドイツ人のキャンセルが頻発しているらしいが、ただ、そのヒステリックな様子には音をあげているということだった。

キャンセルの確認がすぐに取れないため、あとで連絡すると言うと、「白血病になったらどうするのだ!」と、興奮するお客がいる。「なぜ、原発反対のデモに、数百人しか集まらないのだ」と非難するドイツ人もいたというが、大きなお世話だ。私たちは、今、デモよりも他にすることがある。
シュトゥットガルトのある日本人の話では、郵便配達夫が日本からの手紙を他の雑誌の上に乗せて持ってきて、「触りたくないので、雑誌ごと受け取れ」と言ったらしい。上司にそう指示されたという言い訳が本当かどうかわからないが、無学を証明しているような話だ。いつもは何に対しても懐疑的なくせに、何かの拍子でマイナスの方向に振れると、集団パニックや過激なデモなど、一丸でとんでもなくヒステリックになっていくのがドイツ人だが、今回も例外ではないようだ。そう言えば、チェルノブイリ原発の事故の時も、一番ひどい風評が巻き起こったのがドイツだった。

前述の旅行社の女性は、「在独の日本人のお客さんと話すと、皆、憂鬱そうです。そのうち、日本人差別が起こるのではないかと、心配していらっしゃるお客さんもいますよ」と、かなり落ち込んでいる様子だった。私たち日本人はそのうち、“井戸に毒を投げ込んだ民”にされてしまうのだろうか。
すでにドイツでは日本からの食料品の輸入は規制されており、お寿司屋も客が激減。はっきり言って、ドイツの安い回転寿司屋は、日本人の経営でないものがほとんどだし、日本からの高い輸入魚など元々使っていないのに、それでもドイツ人はもう寿司屋へは行かない。

ニュースでは、港に到着した日本からのコンテナが、被曝検査を受けている様子が報道された。ドイツ国民を安心させるためなのか、危機感を煽るためなのか、そこら辺がよくわからない。昔、狂牛病の疑いのある牛肉の缶詰をドッグフード用として輸出したのは、確かドイツだったが、私たち日本人は、放射能に汚染された品物を売ったりはしない。そういえば、フランクフルト空港では、強制ではないが、人間の被曝検査も行われている。

4月5日から広島国立美術館で予定されていた特別展「印象派の誕生」は、急遽中止。作品の60パーセントを貸し出すはずだったフランスで、日本向けのすべての美術品輸出停止命令が出たためだ。岡山県立美術館も同じで、22日からの「トーベ・ヤンソンとムーミンの世界展」は、フィンランドが原画の貸し出しを取りやめたため、やはり中止だ。他にも、中止になったものは、たくさんある。

日本では何が起こるかわからないということと、作品に同行する人間の安全確保のためだそうだが、そういうことなら、日本はこれからもいつどこで地震があるかわからない不確実な国だから、将来は、著名な音楽家も、高価な美術品も一切やって来なくなるということなのだろうか。この間まで日本にたくさんいた外国人も、ごそっと引き揚げてしまったようだし、いっそのこと、日本は鎖国してしまえば、平和でいいかもしれない。

そんな中、昨日、ダイムラー・ベンツの人と世間話をしていて、少し気が晴れた。「そういえば、お宅の会社は、ハイテク作業車を20台も寄付してくださったんですってね」と私。 新聞で読んだのだが、瓦礫の上でもガンガン走る「ウニモグ」4台、ショベルやクレーンを取り付けられるトラック「ゼトロス」8台など、優れモノがすでに日本に到着しているらしい。「社員の間で寄付も集めているよ。先週、50万ユーロ近くになっていた」ということだが、嬉しい話だ。しっかり集めてほしい。
「いやあ、それにしても、福島原発のおかげでドイツの原子力政策が180度方向転換した。あの事故なしには、こんなに早く原発廃止の方向にはいかなかっただろうね」と彼。3月27日に行われた我が州バーデン・ヴュルテンベルクの州議会選挙では、原発反対を唱えていた緑の党が突然票を伸ばし、50年以上続いていたCDU(キリスト教民主同盟)の政権を覆してしまった。(CDUは得票数は第一位だったが、二位の緑の党と三位のSPD社民党が連立して、CDUから政権を奪った)。そんなわけで、緑の党の支持者である彼は大喜びなのだ。しかも、今年はまだベルリン、ブレーメン、そして、メクレンブルク‐フォーポメルン州(メルケル首相の選挙区)と大事な地方選挙が続くので、この調子でいくと、ドイツの政治地図は、フクシマの負の力で左寄りに塗り替えられる可能性も捨てきれない。

私は原発推進派ではないが、フクシマ後の緑の党のはしゃぎようは、いくら彼らが30年来原発廃止に力を注いできたからと言っても、少々目に余った。それに、私はメルケル首相のファンなので、今回の一連のことで、彼女の力が弱まってしまうのは残念でならない。ドイツ在住の日本人にとって、これからもまだまだ憂鬱の日々は続きそうだ。

原発をめぐる個人的顛末(二)

「急告」

 川口マーン惠美さんのゲストエッセイ連載の途中ですが、ひとこと急いで報告することがあり、この場を借ります。

 かねて5月刊と申し上げていた西尾幹二全集の刊行は大震災の影響で延期され、9月刊が予定されています。

 出版の準備は着々と進められていて、12ページの内容見本がすでに完成しています。全集自体の印刷は一冊目が終わり、いま二冊目の初校が出ているほど先へ進んでいますが、刊行が延びているのは大震災での読書界の沈滞した空気を慮ってのことです。

 大型新刊の企画は各社どこも止まっているはずです。震災の影響はここでも大きいのです。版元の国書刊行会にどうなっているのかとの電話問い合わせが多数寄せられているので、ひとことご報告しておきます。

ゲストエッセイ 

川口マーン惠美

(2)放射能の国からの生還者

腹を立てながら乗った飛行機は、なぜかまた北京経由だという。日本人の客室乗務員に理由を訊いたら、北京で給油と点検、乗務員の交代、機内の清掃をし、そしてケータリングを積むという答えだった。乗客は、一度降りて、空港で待機するのだそうだ。他の飛行機も同じなのかと尋ねると、よくはわからないが、エール・フランスはソウルに寄って同じようなことをしている、という返事だった。
ところが、その彼女が、北京に着く直前に再び私のところへやってきて言った。「すみません。機長の気が変わったらしく、清掃は中止、乗客は機内に留まることになりました」。

敢えて北京に降りたくもなかったので、それもいいかと思いつつ、待たされること一時間。ようやく北京を飛び立つと、すぐに日本語の機内放送があり、引き続き日本人の客室乗務員が乗ってはいるが、ここ北京から目的地コペンハーゲンまでは、非番で同乗しているだけなので、業務できないことをあらかじめ詫びた。こんな変わった内容の機内放送を聞いたのは初めてだった。それから乗客は、東京の危険な放射性機内食ではなく、中国製の安全な機内食を食べた。

隣に座っていた若者はスウェーデン人で、交換留学で東大に行っていたが、親が心配して、とにかく帰って来いとうるさいので、勉学を中断して一旦ストックホルムに戻るのだそうだ。「スウェーデンってどう? いい国?」と訊くと、「いい国だ」と言うので、「何がいいの?」と訊いたら、「政府がいい」と答えたのでびっくりした。私も外国人に向かって、一度そう答えてみたいものだ。
九時間後コペンハーゲンに着いた途端、私たちはデンマークのテレビチームに迎えられた。放射能の国からの生還者だ。しかし、到着が大幅に遅れたので、ほとんどの生還者(もちろん私も)は後続便に乗り遅れ、ホテルで一夜を明かすことになった。

翌日、シュトゥットガルト行きのゲートにいたら、偶然、前日の飛行機で見かけたドイツ人女性がやって来たので、思わず、「あら、あなたもシュトゥットガルトだったの?」と声を掛けた。聞いてみると、地震の時、岩手にいたという。大きな被害のあった場所なので、私は少し驚いて、大変だったかと訊くと、「地震にも驚いたが、なにより大変だったのは、岩手から成田までたどり着くことだった」と、その苦労を語ってくれた。

「ドイツの家の人が心配しているでしょう」と言うと、「ええ。でも、なんだか変なのよ。主人が、一日でも早い飛行機があれば、それに替えろと言ってきたの。冗談じゃないわよね、もったいない」。私はおかしくなって、「そりゃ、そうよ。だって、ドイツでは皆、明日にも再臨界が起こって、日本中が放射能で汚染されてしまうと思っているんだから」と言って、“死の恐怖に包まれた東京”の新聞を見せてあげたら、びっくり仰天していた。そして、「そうだったのね。せっかくこの飛行機があるのに、惜しげもなくもう一枚チケットを買えだなんて、いつもの主人の性格からして何がなんだか訳がわからなかったんだけど、このせいだったのね」と大笑いしながら、至極納得していた。岩手では、日本のニュースさえろくに見られず、ましてや、地球の裏側のドイツで放射線測定器が売れているなどとは、夢にも思っていなかったらしい。

そんなわけで、ようやくドイツに辿り着いたのだが、帰ってきてからが、また大変だった。ここでも私は生還者なのだ。だから、「よかった、よかった」と喜ばれると、心配してもらったことを嬉しくも思うのだが、同時に、「自分だけが助かろうと思ってホクホクと逃げてきたわけではないのに」と、私の感情はどんどん屈折していく。

だから、「安全な水のあるドイツに戻ってこられて、ホッとしたでしょう」と言われると、どうしても、「東京の水も安全だ」と反論してしまう。しかし、東京の住民が危険に晒されながら脱出できずにいる中、一人ドイツに戻って来られた果報者は、反論などしてはいけないのだ。たちまち「赤ちゃんに飲ませるなという水が、安全なわけはない」、「ペットボトルを配っていたのを知らないのか」、「ドイツでも微量ながら放射性物質が計測されたのに、東京が安全なはずがない」、「原発の建屋が爆発で破壊された写真は、日本では発表されていないのか」、「野菜の出荷制限もしているではないか」などなど、東京が安全であってはならないという強い信念を含んだ言葉が、100倍にもなって返ってくる。

それにしても、今まで日本の地名なんて、「トウキョウ」と「ヒロシマ」ぐらいしか知らなかった人たちが、「フクシマ」という難しい単語を「ベルリン」と言うのと同じぐらいすらすら発音しているのは、驚くべきことだ。しかし、なんと言っても一番驚いたのは、普段は世界の時事などに一切興味を示さない友人が、突然、口角飛ばして「テプコ」の話をし出したときだった。「テプコ」が「東電」の略称だと気づくまでに、私は数秒の時間を要したのだが、私の知らない間に、「テプコ」は、ドイツで一番ポピュラーな日本の固有名詞となってしまった。

いずれにしても、フクシマがいかに危険な状態かを、テレビに出てくる有名な原子力学者の解説によってちゃんと知らされているドイツ国民は、日本人よりも事情に詳しいと思い込んでいる。それなのに愚かな日本国民は、報道規制のかかった発表や、改竄された不完全な情報をナイーヴにも鵜呑みにしており、真実を知らないまま、不条理に黙々と耐えているのだ。

「盲目的に原子力を信じていた日本人も、これでやっと危険に気付いただろう」というような言い方をされたときには、柔和な私もさすがに堪忍袋の緒が切れた。そこで、話題を“死の恐怖に包まれた東京”の記事に変え、ドイツのパニック報道を激しく非難したら、相手が黙りこんだので、私の怒りは少し静まった。

そういえば、最初は感嘆の的だった東北の被災者の礼儀正しい態度さえ、今では、どんな不幸にも文句を言わず、抗議の声もあげず、我慢ばかりしているのはちょっと変じゃないかという見方に変わってきている。耐えることに慣らされた従順すぎる国民・・。今や、私たちが北朝鮮の国民を見るような目で、ドイツ人は私たちを見ている。
これについては、http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2404(原発事故でパニックを煽ったドイツのトンデモ報道 芸者、フジヤマ、ハラキリまで復活させて大騒ぎ)に詳しく書いたので、参考にしていただきたい。

つづく

原発をめぐる個人的顛末(一)

 今回はドイツ在住の川口マーン惠美さんのゲストエッセイとなる。今日本人が知りたい国際的な「風評被害」について体験記を連載で書いていたゞくこととする。

 川口さんは好評な最新刊『サービスできないドイツ人、主張できない日本人』(草思社)を本年2月に刊行されたのを機に来日し、3月の地震を体験され、何日か後にドイツに帰国された。夏までにはまた来日されるそうである。

ゲストエッセイ 

川口マーン惠美

(1)地震、原発、そして成田空港

 ドイツへ戻ってきてからも、憂鬱な日が続いている。余震はないし、停電もないが、風評というものがある。

地震のあった時は、ちょうど日本にいた。二日もすると、ドイツから悲痛なメールが入り始めた。「すぐに帰って来い」「チケットが取れないなら、こちらで手配する」云々。私が日本でフォローしていた限りでも、確かにドイツメディアは、日本列島全体がまもなく放射能の雲に包まれてしまうかのような、パニック報道をしていた。その結果、ドイツでは医者の警告にもかかわらずヨードが売れ(ヨードは下手に服用すると、副作用が大きい)、なんと、放射線測定器まで品薄になるという現象が起こっていた。

そんなわけで、私がまだ日本にいたころ、捜索犬を連れて到着した41名ものドイツの大救援隊は、2日足らずで活動を停止し、帰り支度に入っていたし、15日にはルフトハンザは成田就航を見合わせた。そして、多くのドイツ人は、先を争うように日本を離れており、17日にはドイツ大使館も大阪に引っ越しすることに決まっていたのだから、ドイツで私の家族や友人たちが慌てたのは無理もない。
彼らは、「大丈夫よ。私の飛行機はSASだから、たぶん予定通り飛ぶから」と、東京で呑気に構えていた私にイライラし、おそらく正気の沙汰ではないと思っていたはずだ。すでに彼らの頭の中には、数年後、白血病で死の床についている私の姿さえちらついていたのだろう。

しかし、私は実際に東京にいたのだから明言できる。私たちは慣れない節電で右往左往していたのは事実だが、放射能の危険を感じて恐怖におびえていたというのは正しくない。ましてや、放射能の怖さを啓蒙されていない無知な人間でもなかったし、あるいは、情報操作された政府のウソ報告を丸のみにしている愚かな市民というわけでもなかった。そもそも、私たち全員が憂鬱になっていたのは、震災の犠牲者と被災者の不幸を思い、原発の事故にショックを受け、それら二重の悲劇の大きさに、どうしていいかわからないほど打ちのめされていたからであった。

このころZDF(ドイツ第二放送)は、首都圏の住民3800万人がまもなく逃走し始めると、南へ向かう経路は、一本の主要鉄道と数本の幹線道路があるだけなので大混乱が起こるだろうと不吉な予言をしていた。しかし、私の知る限り、東京では、彼らの言うエクソダス(旧約聖書の出エジプト記に出てくるユダヤ人の大量国外脱出)が始まる気配も前兆もなかった。ちなみに、深刻な面持ちで地図まで見せてその報道をしたジャーナリストは、翌日にはすでに大阪のスタジオから生中継(!)していたので、何のことはない、逃走したのは彼だったのだ。

私がドイツに飛んだ日、成田空港は騒然としていた。コペンハーゲンから直行で来るはずだった私の飛行機は、なぜか北京に寄って来たので、出発が大幅に遅れるとのことだった。空港のあちこちの通路には、チェックインできない欧米の若者たちがべったりと座り込んでいた。予定していた飛行機が欠航になったか遅れるかしているのだろう。出国しようとしている中国人の群れを、中国のテレビチームが取材している。出国の旅券審査のホールに入ると、今度は、再入国手続きを待つ中国人の長蛇の列。外国人の間では、確かに、エクソダスがまっ盛りだった。
驚いて腰を抜かしそうになったのは、横に来ておとなしく腰掛けたいかつい欧米人の若者が、二人揃ってマスクをしていたことだ。これまで欧米人は、日本人のマスクをバカにしたり、からかったりすることはあっても、絶対に自分で掛けることはなかったのだ。そこで周りを見回すと、他にも神妙な顔つきでマスクを掛けた欧米人がちらほら。彼らのマスクは、日本人のそれとは目的が違う。もちろん、放射能を遮断するためだ。

搭乗するとき、ドイツの新聞があったので手に取ると、第一面に、背広を着て、マスクを掛けた日本人が、キッと真正面を向いた特大写真が目に飛び込んできた。通勤の途上、横断歩道で信号が青に変わるのを待っているところだ(と私には見える)。しかし、その下の大見出しには、“死の恐怖に包まれた東京”とあったので唖然。「そうか、ドイツでは、このマスクは放射能よけのマスクと解釈されるのだ」。信号を見ている目は、死の恐怖で見開かれた目・・。そう思うと、確かにそう思えてくるから不思議だ。

ただ、この写真を載せ、記事を書いたドイツ人特派員は、真実を知っていたはずだから、これはわざと誤解を招くための仕業に違いない。そう思うと、突然、むかむかと腹が立ってきた。

つづく

西尾幹二日録とチャンネル桜から

ゲストエッセイ 
池田修一郎 

ご無沙汰してます。

 大震災の傷痕がまだまだ現実の世界の中にありますが、心のどこかでそれを素直に受け入れ切れていないもう一人の自分がいるのではないでしょうか。

夢なら早く覚めてほしい・・・そんななさけない自分が、私の中には間違いなくいます。

 私はつくづく弱い人間だと思います。しかし、これまた不思議なことに、そんな自分が恐ろしいほど他人面している時もあります。それはある種自分の図太さなのでしょうが、けして冷静さからくるものではなく、多分被災者ではない現実がまず前提にあり、その枠からいくら飛び出そうとしても、やはり現実に甘える自分だけがそこにいます。被災者ではない私には、今回の災害は、厳密には他人事なんですね。そうした厳しい現実が、 どうやったらもっと自分がこの震災と向き合えるのか、正直なところ戸惑っています。

 以前読んだ先生の本に、トータルウォーとパーシャルウォーの違いを今思い出しています。

 私はその本を読んだ時、日本が経験した太平洋戦争がいかに凄いものだったかを改めて知りました。そこで今回の災害を多くの人が、戦後に准えて語る方が多いのですが、私には少し疑問が残るのです。

 私は戦争未体験者ですから、あの戦争の悲惨さを知りません。いくら映像を見ても、いくら話を聞いても、やはり私には他人事です。実際に私が被害者と言いますか当事者と言いますか、要は関わる何かがあれば少しは痛む自分がいるのでしょうが、そうではない限り、やはり自分には他人事にしかなりません。

 つまり、今回の災害を国難とか先の戦争にだぶらせる考えは、私には素直な自分を表す自信が乏しいです。

 不謹慎だと言われるかもしれませんが、今回の大災害が太平洋戦争とだぶる話には違和感を感じます。現代人が経験した災害の中では最大級であっても、やはり限定的な部分がある以上は、この度の震災は、パーシャルウォー的扱いにならざるを得ません。

 しかし・・・しかしですが、福島第一原発の問題は、それに比例して考えてはいけない大きな問題です。この問題は国民全員が犠牲者です。実は私の女房の実家が福島のいわきにありました。原発の問題はその意味で、私には関連性があります。わけあって女房の家族は今いわきを離れています。親戚が数人いるのですが、運よく今回の災害の犠牲にはならずに生き延びてくれたようです。また福島は仕事でも何度も訪れた場所で、特に相馬あたりは大変お世話になった取引先があり、今回の被災で、どれだけのダメージを得たのか、とても心配です。

  福島の浜通りは、これといって観光に適したものは無く、せいぜいハワイアンセンターがあるくらいで、他には何も人を引き付ける材料はありません。ましてやど田舎ですから、本当に淋しい地域です。そんな土地に生まれた女性を私は嫁に選びました。初めて嫁の実家に訪れたとき、私は嫁の母親とかなり長い時間話し込みまして、初対面だというのに、お互い何故か違和感無く話し込めた記憶があります。嫁の母親は、娘(女房)がとても頑固な性格なんで、親もほとほと参ったよ・・・などと語っていました。

 父親が13歳で他界した嫁は、父親が入院中も熱心にそろばん塾に通い、そうした日課を怠ることなく毎日真面目に生活していたそうです。そのせいか、嫁は人に弱みを見せない性格が身につき、ある種それが他人行儀に映る時があるようです。けして人には強く当たらず、誰から見ても人優しい印象を与えてくれる嫁の本当の良さを、私は一番理解しているつもりですが、やはり実の母親にはその点は敵わないのでしょう。今もあの時の思い出を克明に覚えています。将来自分はこの家を守らなければならない立場になるのだろう・・・と空想しながら一夜を明かした思い出が、ついこの間のように思えてなりません。

 こんなきっかけで、私はいわきが身近になるわけですが、少し気になっていたのが、意外と近くに感じた福島原発の存在でした。相馬に出張の際は、いわきで一泊して出向いたわけですが、その際いやがおうでも目にする福島原発は、私の気持ちの中で、どうか未来永劫この地域の人々に悪さをしないで欲しい・・・と願う気持ちが何度もありました。何故か私にはこの原発が、将来何らかの問題を生むように思えてなりませんでした。

 何故なら国道からもかなり近い場所に建てられていますし、東京にも近いですから、この原発がもし問題を起こした時は、東京にも大きな影響を及ぼす可能性はだいぶ高いと思いましたね。

  正直いいますと、当時はそばを通る事自体が嫌でした。

 原発のムードというのでしょうか、たぶん環境に適さない建物のイメージなんでしょうが、何の知識もない私には、あの原発の威圧感が不快でした。

 そして今回その個人的なイメージが皮肉なことに正しいと認められ、原発に携わる方々はどうすることもできない状態です。

 いわきの住民は、いわば国民の代名詞です。気質はほぼ国民の中間にあり、生活レベルや環境もけして突飛な部分は無く、彼等の言動はそのまま私たち日本人の心の在り方に繋がるでしょう。つまり私たちは彼等を通じて被災の擬似体験をしているようなものです。

彼等がおそらく一番恐れているものは、風評被害でしょう。
彼等が一番怒っているものは、東電の嘘でしょう。
彼等が一番頼りにしているものは家族でしょう。
彼等が一番涙するものは、まさに今の自分の姿でしょう。
彼等が一番欲しいものは、自分を奮い立たせる勇気でしょう。
彼等が一番憎むものは、己の邪心でしょう。

 つまり人間という生き物は、いかに自分を中心にしているかということだと思うのです。

 自分自身に悩み苦しみ笑い慈しむ生き物、それが人間というものなのでしょう。
 その共通項を私たちは持ち合って生きている。そこから信頼というものを育てる「和」が生まれ、人間はそれを管理し、また時には管理される宿命を背負うのでしょう。

 今まさにそれが試されているのです。原発問題は、日本人が抱えた最大級の宿題です。生きるも死ぬもこれに掛かっています。チャンネル桜で現場を任されていた方(西尾先生の隣にいた方)が言った「東電の人間は現場を覗き見る事すらしない。遠くからモニターを見てチェックするのがせいぜいで、あとはただ現場をスルーするだけだ」

 いったい誰があの巨大な物体を、実質的に支えているのか、今回の被災でようやく実態が解明されました。事後処理をみてあまりに幼稚な手法しか残されていないと叫ぶ西尾先生の言葉が、日本人の心を射た思いです。

 そうなんです。高度な技術ほど単純なところで落とし穴が待ち構えている。

 権威ある医者が患者の盲腸を見落とす・・・と、笑い話に例えられるケースがありますが、まさに今の東電はこの立場です。そして我々国民全員も、立場が逆転していれば、東電の運命を背負う運命だったのかもしれません。和を管理したり和に管理されたり、そのお互いの関係性の中で、何をすべきかが問われています。

 汚染レベル「7」が意味するレッテルは、こうした私たち日本人の油断に警鐘を鳴らすもうひとつの側面があり、米国が企む介入を後ろ盾している数字の背後には、米国の思惑の綻びが間違いなくあるはずだし、日本人はそれを見逃すべきではない。大戦後日本はその綻びを見落とししすぎた。その経過の鬱積を今回の津波は洗濯をしに、わざわざ来たのかもしれない。

 どんなに垢を落としたくても、身も心も完全に麻痺してしまった日本人には、あの津波という外科治療なくしては、完治する手段が無かったのかもしれません。

 公共の電波ではどうしても制限されてしまう日本のマスメディアの実情に、今後どう向き合うかが次の大きな課題でしょう。原発問題とマスメディア問題は底辺でリンクしている重要課題だと、私は認識しています。

池田修一郎