8月5日産経正論掲載西尾論文に想う

ゲストエッセイ 
足立誠之(あだちせいじ)
坦々塾会員、元東京銀行北京事務所長 元カナダ東京三菱銀行頭取

   

 やや旧聞に属しますが、産経新聞正論欄は8月に入り「震災下の8月15日」と冠した論文を掲載しました。そこにはこの震災を大東亜戦争、第二次大戦の敗戦とそれに伴う廃墟のイメージに重ねようとする意図が感じられ、そうした文脈で書かれたものもすくなくありませんでした。

 しかし、こうした設定は問い詰めなければならない問題を隠蔽してしまう危険を孕んでいます。重ねていうならば、産経新聞にはそうした隠蔽の意図すら感じられます。

 8月5日に掲載された西尾先生の論文はこの点をピタリと指摘されています。 先生は次のように喝破されました。

 「日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野蛮を問い質すことが必要だった。」と。

 話は私事になりますが、私は、パソコンに私なりの歴史年表を作っています。そのきっかけは、もう大分前になりますが、インターネットで「翼賛選挙」の検索結果を読んだことでした。

 そこには大東亜戦争開戦5か月後に行われた昭和17年4月30日の衆議院議員選挙の結果が掲載されていました。

 その内容は、それまで存在していた多くの政党が無理矢理解散され、翼賛連盟に統一されたこと。翼賛連盟を勝たせるために多くの干渉がなされ、選挙があやつられたこと。選挙結果は、翼賛連盟に推薦された候補者が381名と、非推薦のいわば無所属の85名の合計466名が当選したと書かれていたのです。

 選挙は妨害や干渉などがあったとも記されていますから、よくまあ85人もの非推薦候補が当選したものだと感心したものでした。そればかりか、驚いたことに、昭和15年に陸軍を名指しし批判する「粛軍演説」で問題となり議員を除名された斉藤隆夫までが当選者の中に名前を連ねていたのです。

 戦後の歴史教育では、戦前・戦中を「軍部ファシズム時代」として描き、斉藤隆夫はその被害者の典型例としての「粛軍演説」のみが記述されていました。然し斉藤隆夫が”翼賛選挙”で非推薦の立場で当選したとなると、戦時においてすら、完全には「軍部ファシズム」一色ではなかったのではないかと思えてくるのです。

 第二次大戦の連合国、米、英、ソ、中を民主主義陣営と言いますが、ソ連は共産党一党独裁であり、中華民国も国民党独裁であって、この両国とも民主的な選挙などおこなっていないのですから民主主義とは無縁でしょう。更に言えば米国ですら黒人には選挙権がなかったのですから、日本の方が民主的であったと言えないこともありません。

 要は年表の表記一つとっても一方的な考えのみが記され、事実が隠蔽されることはま まあることであり、そうしたことは占領時の米占領軍による検閲と焚書により歴史年表に深く埋め込まれ今日に至っているということが、1942年4月の”翼賛選挙”の年表表記から分かります。

 そんなことから、私は、自分の理解できる範囲で自分なりに「歴史年表」を作り始めました。作りながら感じたことは正に米国が特に日露戦争以降執拗な「対日挑発政策」を一貫して行ったことです。

 日露戦争終結間もなく、米瀋陽総領事ストレートは満州における日本の権益への干渉を行います。例えば満州銀行を設立の画策ですが失敗しています。1909年には米国務長官ノックスが満鉄中立案を画策しますが、日露の連携でこれも失敗しました。

 満州における我が国の権益は、日露戦争で戦死、戦傷、戦病計40万人の犠牲の上に得たものであり、そんなことにお構いなしに干渉してくる米国には「ナニサマダ」と言う気持ちが湧いてくるのは当然でしょう。

 以下、私の年表にある米国との関係を記します。

1906年:カリフォルニアで日本人移民取締り、移民学童排斥が問題となる
1907年:サンフランシスコ、日本人学童を公立学校から隔離。(シナ人学童は既に20年前に隔離)連邦政府これに反対するも加州政府受け入れず。―― 妥協、①メキシコ、カナダ、ハワイの三地域(これ等の地域からの移民が多かったため)の旅券を持った日本人、朝鮮人の米国本土へ入る事を禁ずる。②日本人、朝鮮人学童の公立学校への復学を認める。
1908年:米艦隊の日本周航。米国の意図は対日威嚇であったと想像されるが、日本側の大歓迎で関係改善へ。この機会にルート・高平協定(日本は移民旅券を発行せず、実質移民を送らないことにした。)
1909年1月:ノックス国務長官による満州鉄道中立案が各国に示されるが、日露の緊密な連携と反対で失敗する。
1911年:日米通商航海条約締結
同年4月15日:米英仏独の対清?借款成立(日露を牽制するもので、日露は反対したが結局参加を余儀なくされる)この年、陸奥条約の期限を迎え、各国との交渉を完了し此処に半世紀に亘る不平等条約は総て失効した。
1913年:カナダ、日本人渡航を制限。カリフォルニア州外国人土地所有禁止法(カリフォルニア州排日土地法――日本人の土地保有を禁止し、企業のマネージメント       になることを禁じ、日本人学童を公立学校から隔離する)
1914年:第一次対戦勃発 パナマ運河開通 
1917年2月13日:英国講和条件に関し、日本の要求を支持する旨言明(山東半島の旧ドイツ領、赤道以北の旧ドイツ領諸島の処分=米は反対)
同年12月2日:石井・ランシング協定――(国境を接する国の利益を容認する)
1918年11月11日:聯合国、ドイツ休戦協定
1919年:パリ講和会議、日本は連盟規約に「人種平等宣言」を提案、穏当な内容であり11対5の賛成多数を得るも議長であったウィルソン大統領が議長職権で、全会一致でなかったことを理由に廃案とした。実現は第二次大戦後。
1920年:今までより更に悪質な排日土地法――(米国臣民権を持った日本人にも土地所有を認めない。日本人が整備した農場を取り上げる。)
1924年:「絶対的排日移民禁止法(ジョンソン・リード法)これにより、連邦全体の排日法が成立した。大統領も署名し発効することになる」この排日法に関連して植原駐米大使の国務長官宛書簡の中の [grave consequence]の文言が問題となった。
1925年:アメリカ、オレゴン州で排日暴動。5月15日、排日移民条項を含む法律案が連邦議会を通過。

 さて、日米戦争は日本の過った選択であったのか、米国の仕掛けた不法な戦争であったのかを開戦の2年前から私の年表で見ていきます。

1939年7月26日:米ハル国務長官、日米通商航海条約の一方的破棄を通告
同年11月:米国の第一回エンバーゴー、航空機、航空機備品、航空機製造危機の対日輸出禁止
1940年1月26日:日米通商航海条約失効
同年3月:衆議院、斉藤隆夫を除名
同年5月:米国防諮問委員会設置。スター区案=海軍大拡張計画
同年7月:米国日本に対する屑鉄輸出の禁止
同年8月:米国日本に対する航空機用ガソリン輸出の制限
同年9月22日:日仏印軍事協定締結。翌23日、日本軍北部仏印に進駐
同年9月27日:ベルリンにおいて、日独伊三国軍事同盟を締結―英国ビルマルート再開。米国在極東米国人退避勧告、米国蒋介石への援助強化)
同年10月:ルーズベルト、デイトンで重慶政府支援を演説
同年10月:大政翼賛会創立
同年11月:汪兆銘南京政府樹立 英、アジア軍司令部を創設、司令部をシンガポールに置く。
同年11月30日:日本、汪兆銘政権と日華基本条約締結
同年同月:米国、蒋介石政権に5千万ドルの借款供与と、5千万ドルの通過案的基金拠出を用意、英国の1千万ポンドを拠出
同年12月:米太平洋艦隊主力をハワイに置く
同年12月:モーゲンソー財務長官、蒋介石政権に武器貸与法適用用意の旨演説
1941年:1月:ルーズヴェルト年頭教書で「四つの自由」
同年1月:ノックス海軍長官蒋介石政府に航空機200機の売却手続き完了を明かす。
同年4月:日ソ中立条約。日仏印経済協定
   マニラで英東アジア軍総司令官、米駐比高等弁務官、米アジア艦隊司令長官、蘭外相が会談
同年5月:米国国家非常事態を宣言。米国重慶政府に武器貸与法を適用
同年5月:オランダ外相、強行発言「挑戦にはいつでも応戦の用意あり
同年6月:シンガポールで英、重慶政府軍事会談
同年6月10日:我が国の蘭印(オランダ領インドネシア)との貿易交渉決裂、17日決裂の事実を公表
同年6月21日:米、日本に対する石油製品輸出に品目別許可制導入
同年6月22日:ドイツ軍、ソ連へ進攻。27日:ハンガリー対ソ参戦
同年7月2日:御前会議で南部仏印進駐を決定
同年7月25日:米国在米日本資産凍結、(その後26日、英、蘭も追随)
同年7月28日:日本軍南部仏印進駐開始
同年8月1日:米国対日石油全面禁輸(英国、オランダも実質追随)
同年8月14日:米英大西洋憲章
同年9月:御前会議において、交渉不首尾の場合の開戦を決意
同年10月18日:東条英機陸軍大将に大命下る。外相東郷茂徳氏
同年11月7日:野村大使甲案を提示
同年11月12日:ハル国務長官、共同宣言案方式?を提案
同年11月15日:来栖大使着任
同年11月26日:ハルノート
同年12月1日:御前会議において対米英蘭に宣戦を決定 
同年12月8日:米英に対し宣戦布告

 こうして見ていくと「日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野蛮を問い質すことが必要だった。」
という西尾先生の言葉こそあの戦争の本質をついていると思わざるを得ないのです。

 我が国の所謂”昭和史家”達の説明は日本の過去を誤りとしますが、それでは米国の行動は全て正しかったのか、例えば、開戦2年以上前に米国が一方的に日米通商航海条約の破棄を通告し、開戦3か月半前一方的に、在米日本資産の凍結をおこなったことをどう見るのでしょうか。因みに日本が南部仏印に進駐したのはその後のことなのです。

「8月5日産経正論掲載西尾論文に想う」への3件のフィードバック

  1. >日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。

    コミンテルンにしてやられた、日米ともども、でしょ?
    日本はまだその反省が足らない、というか(一部を除いて)理解すらしていない段階。
    ここでも米の後塵を拝している、悲しいねぇ。

  2. 個人的な経験としては、中学時代の歴史関係の授業の格別な記憶は無い。高校では、日本史の教師は百姓一揆ばっかりくわしくやりすぎ、明治維新までいかなかった。入試対策で教科書だけは読んだ。盧溝橋のあと停戦したにもかかわらず、次の行では上海に飛び火したとだけの説明。なんじゃこりゃ。そのあと大学時代から就職後も司馬遼太郎を読んでいたが、氏の太平洋戦争観は「20世紀最大の怪事件」。それでおわり。「ノモンハンを調べたが書く気が失せた」。おいおい。維新の群像については確かに面白く紹介していただいた。だがそこまででした。自分は気に入った作家についてはすべての著作を読まないと気が済まないのですが、氏の没後は自然と西尾先生の著作に向かいました。自分なりにもいろいろ考えた時、足立さんのように時系列にそって開戦時いや正確には支邦事変か、その時の年表を自分で作った時があります。張学良!こいつか。その時はっきりと構図が見えたのです。何が日本の侵略戦争だ!
    でもおおかたの日本人は、マスコミに洗脳されている、という結論にもっていくつもりもありません。無関心なのです。徹底的に。もう終わったことだとしているとしか思えません。現在の混乱がそうした無頓着さの結果だとすれば、日本人とはいったい何なのでしょう。またふりだしに戻ってしまった。

  3. 続きです。夏季特休でしかもこの猛暑。部屋に閉じこもって録画した「トラ!トラ!トラ!」とかDVDで「チャイナ・シンドローム」とかを見たりネット・サーフィンをして気をまぎらしています。3のコメントの続き。
    先生に注目したきっかけについては以前のコメントでふれましたが、それ以前司馬遼太郎を読みだした動機が偶然読んだ岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」の中の「日本近代を精神分析する」だったのです。妙に納得できました。それで歴史のディテールを知りたくなり、最初に読んだ「竜馬がゆく」から司馬作品にハマったわけです。その岸田氏と西尾先生の対談が実現されるというのですから不思議なご縁ですね。フランス留学派とドイツ留学派の対決?んなバカな。真の日本人同士の実りある対談を心待ちにしています。
    映画は見るたびに新しい発見があります。少なくとも私はアメリカ映画を見るときは、なべてアメリカ研究のつもりで見ているのですが。

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