村上春樹に失望した
人気作家の村上春樹氏が福島第一原発の事故に触れて、スペインでの受賞講演で、唯一の被爆国となった日本としては「核に対する『ノー』を叫び続けるべきであった」と述べたと報じられた。つづけて「私たち日本人自身がみずからの手で過ちを犯し」と重ねたが、事故は過ちだろうか。広島・長崎と福島とをこんな形で簡単につないでよいのだろうか。過ちを犯したのはアメリカではないのか。大江健三郎氏そっくりの言い方ではないだろうか。
作家たる者は他人と同じようなことを言ったりしたりしないのが常道であるのに、またしても大江と同じように欧米人の願望に合わせた日本像を語り、ノーベル賞を狙う日本人作家の講演には失望を禁じえない。ノーベル賞から文学賞と平和賞はなくしてもらったほうが、公正さがより保てるのにと思っているのは私ばかりではないだろう。
それはともかく、いましきりにいわれる「脱原発」という三文字から、これは「核に対する『ノー』を叫び続けるべきあった」という村上氏と同じことだと思い、・原水爆禁止運動・・反核平和運動・を反射的に思い起こし、福島瑞穂氏がにわかにはしゃぎ出すような状況を指していると考える人が、いまでも相変わらず少なくないのかもしれない。
しかし、原発が地震国・日本に不向きだから段階的に止めて欲しい、と願うようになった最近の日本人の多くが彼らと同じ方向を向いているとはかぎらない。それは何でもかんでも「核」と名づけるもの、「核兵器」「核武装」を含むあらゆる原子力に関する危険なものは、世界のどの国がやろうがやるまいが、日本列島から追い払い、いっさい近づけさせない、「ノー」を叫び続けるべきだという村上氏の言うようなこととは決して同じではない。
常識のある人は、「脱原発」と「反核」は必ずしもぴったり一致しない別の事柄だと考えられているはずだが、そこのところをあまり明確に分明できないで迷っている人も多いだろう。
他方、これとは逆に、日本の原発でウランを燃やしてつくられたプルトニウムの量が、すでに長崎原爆の四千─五千発分に達したと聞いてなにやら頼もしいと思ったり、どことなく不安に思ったりするシンプルな情緒のうえに、思想や理論を築き上げている人が多い。原発が原爆と隣り合わせであり、プルトニウムをいつでも軍事転用できることは間違いないが、原発は核武装への階程の第一段階であると考える考え方に固執するのは、事実関係をよく調べてみるとまったく間違っている。
原発を止めてしまったら核武装への道は永遠に絶たれてしまうと心配する保守派の論客も、また反対に、原発を止められない日本の政治はいつの日かの軍事大国への夢を捨て切れないからだと攻撃をしかける平和主義者も、それぞれ手にあまるほど増えすぎて困っているプルトニウムという燃料の山に、別方向から同じ幻像を投げかけているのである。どちらも、原発の存在が日本の軍事力の合理的強化を妨げ、国家の独立自存をむしろ阻害しているという、きわめて深刻なウラの事情を正確に見ていない。
原発に沈黙する保守
いま、原発反対の高まる声に対し、保守系の言論人・知識人の多くは、著名なかたがたも含めて口を閉ざし、沈黙している。なかには、原発を止めたら産業が成り立たない、と叫ぶ人もいるが、慎重な人は様子を見ようとしている。福島第一原発の事故の行方が分からない不安がつづくので、迂闊に口は開かない。しかし、心のなかでは、原発は力であり、力は国家であるという固定観念をいったん白紙にもどそうとはしていない。だから時期がきたら、頭に刷り込まれた原発の「安全神話」が再び台頭し、言論界を覆うであろう。産経新聞は懲りずにすでにそうである。しかし、これは原発が国家の力の源ではすでに必ずしもなく、力の集中を混乱させている──必ずしも事故のことだけではない──明らかな「事実」を見ていない証拠である。
他方、これに対し、私は最近、原発反対派の論文や講演録の秀れたもの──たとえば沢田昭二氏、小出裕章氏、ジョン・トッド氏、ウルリヒ・ベック氏のもの等──を選んで丁寧に見て、学ぶこと多いが、彼らは原発による被害の本質を衝いて正確かつ知的に誠実であるものの、ひとつだけ欠けているものがある。すなわち、加害の観点が欠けている。
彼らは言う──原子力は利用価値があると思っていたが、死と破壊しかもたらさない。その力は人類の手にあまり、最後に残る猛毒の廃棄物は人類の歴史を越えて残存する。いかに制御したとしても、失敗したときには取り返しのつかないような技術は技術とはいえない。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ、リスクは無限大に等しい。それが原子力の事故であり、航空機の事故とは異なる所以である、と。この点を今度われわれもたしかに深刻に体験した。それは私も切実に良く分かった。
しかし、原子力はそれゆえに「死と破壊」を他に向ける機能──兵器という機能によって世界の平和と秩序をぎりぎりのラインで維持している。そのことと切り離して原子力発電は誕生しなかった。すなわち、原発は原爆の歴史のなかから生まれ、それとともに発展生成した。日本の原発は非軍事に限定され、事故はそれゆえに生じる矛盾を直視しない単眼性から発生したのではないか。雑誌『世界』はこのところ、いい論文や座談会をいくつも載せたが、これまた懲りずに平和主義のままである。
所持しても使用できない核兵器は、米ソ核軍縮もあって、兵器としてやや時代遅れともいわれるが、東アジアではいぜんとして唯一の抑止力である。核を持った国同士はもう戦争できない、という意味で、今や純粋な・守り・の武器である。
アメリカの核の傘はすでに幻想であり、今後アメリカの軍事予算の削減とともに威嚇力さえ失う。核武装国家・中国と対峙するために、日本は決して大量でなくてよいが、少数の有効な核ミサイルを持つ原子力潜水艦を太平洋に遊弋させる必要と権利を持つ。それをアメリカその他に納得させなくてはいけない。日本がほんの少数の(数十の)核ミサイルを持つだけで、中国は日本と戦争ができない。沖縄海域を自由航行することなどできなくなる。これを放置すると、やがていつか大きな戦争になるのである。
さて、これほど大切な、日本にとって・守り・のための最小限の手段である核武装を妨げつづけてきたのは、ほかでもない、原発である。四千─五千発の長崎原爆をつくれるプルトニウムを貯蔵している日本の原発が、日本の安全の最大の障害物である。
つづく